第七章 ちょっと挙動不審
第七章 ちょっと挙動不審
愛理は落ち着いた状態で、回診を受けていた。
いや、放心状態に近かった。
「傷口はだいぶよくなっているよ」
医者は傷口を消毒しながら、話した。
「今日から頭もシャワーしていいよ。シャンプーはまだだめだけど。掻いたり押さえたりするのもだめ。ぬるめのお湯をかけて、なでる程度にね。シャワーが終わったあとはナースコールして、包帯を巻きなおしてもらうんだ。いいね」
愛理は「はい」と短く答えた。消毒してもらってるので、うなずけなかったからだ。
「後は、精神科の綿里先生がいいといえば、退院できるよ」
愛理はそれには黙っていた。
『昨日のことで、退院は先延ばしなんだ』
昨日の出来事の前は、主治医の井上先生が良いといえば退院と言ってたのに、『精神科の先生が』と変わったということは、そういうことなんだと愛理は理解した。
「ふう」
と、ため息に近い息を吐いた。
「ところで、何かを思い出したの?」
井上先生が尋ねる。
「忘れたいです。 ……何もかも」
質問には答えず、そう言った。
「そうか。でも、君は明るくいい子だったそうじゃないか。昨日思い出したことは、まだ思い出してないことで、そのつらいことを君は乗り越えているんじゃないのかな。急がなくてもいいから、ゆっくり自分がどういう風に暮らしてきたのかを、考えてみたらどうだろう」
優しい語り掛けに、愛理は心が少し落ち着くのを感じた。
「精神科の先生みたいだね」
「そうかい?」
「先生。行きたい所があるんです」
「じゃぁ、綿里先生に相談してあげるよ」
愛理の頭に包帯を巻きながら、井上先生は笑った。
翌日、呼ばれたのは、千鶴と里穂だった。
一時外出が認められ、愛理が選んだ二人だった。
「純子さんは呼ばないの?」
「あいつはいい」
千鶴の問いかけに、愛理は背中を見せて言った。
「愛理らしくないよ。それ」
言った里穂の腕を、千鶴が引く。それ以上刺激しないようにするためだ。
「ところで、いつまで待たせる気?」
千鶴が言った。
愛理はパジャマ姿だ。出かけようとしているのに、まだ着替えていないのだ。
今朝母親に届けてもらっていた着替えを前に、愛理は固まっているのだ。
ベッドの上に広げられた着替えは、水色のフレアスカートと、白のブラウスヒラヒラ付き、そして白のブラジャーだ。
「あ、あの、その……」
愛理は恥ずかしそうにもじもじする。
「どうしたの?」
じれったいと感じながらも、千鶴は落ち着いて尋ねる。
「これ、どうするの?」
愛理が恥ずかしそうに指差したのは、ブラジャーだった。
愛理の心は十四歳の男子だ。
それがブラジャーであり、女の子が胸に着けるものだとは理解している。しかし、付け方など知らないどころか、見るのも名前を口にするのも恥ずかしくてたまらない。
でも、付けなければならないという思いだけはあって、その葛藤から固まってしまっていたのだ。
「えっ!」
と二人とも声を上げる。
まさかそんなことを困っていたとは、思いもよらなかった二人だ。
「ブラジャーのこと忘れたの?」
里穂が声を上げる。
その里穂に向かい、千鶴は「しっ」と、口の前に人差し指を立てる。
「まだ思い出せないこといっぱいあるから、仕方ないよね。恥ずかしがることないから、なんでも言っていいからね。じゃあ付けてあげるから、上脱いで」
千鶴は優しく言った。
しかし、愛理は両手でパジャマの両前を強く閉じ合わせ、恥ずかしがった。
二人は愛理が極端な恥ずかしがりやだと分かっていても、これじゃどうしようもないよと思ってしまった。
「それじゃ付けられないでしょ。それとも自分ひとりでするの?」
愛理は自覚のないかわいらしさで、首を横に振る。
ようやく愛理は、背中を向けながらもパジャマを脱いだ。
そしてシャツを脱ぐ。脱いだシャツは胸に当てて隠している。
「それは置いて、両手を前に出して」
言われたとおり、愛理は両手を伸ばす。
「うわっ」
ブラを両腕に通すとき、千鶴は愛理の胸を覗き込む。
それを見て、里穂も覗き込む。
「すごいキレイ」
見られた愛理は、ブラのカップを胸に押し付けて隠す。
「いやだ」
愛理は小声で拒絶する。
「ごめんなさい。でもいつも見せてくれないんだもん。今日は役得ってことで……」
千鶴がうれしそうに言う。
「でもやっぱり、愛理は着やせするほうなのね」
里穂も感想を言う。
愛理は二人の女子を理解できず、胸を隠していた。
「ゴメン、ゴメン。ちゃんとしてあげるから」
千鶴がストラップを肩にかけ、背中のホックを留める。
「胸は、ちゃんとカップに収めるのよ」
言われて愛理は、だいたいの感じで、カップのずれを直す。
ブラジャーに整えられた自分の胸を見て、愛理は恥ずかしさが倍増した。
はっきりと見える谷間を、こんな間近で見たのは今の愛理にとって初めてのことだ。
「ちょっと、自分の胸の谷間で、恥ずかしがらないでよ。ほら、シャツ着て」
千鶴は頭からかぶせる。
愛理はそれに腕を通す。
後は、ブラウスとスカートだ。
着替えが届いてから、たっぷり三時間。愛理はずっと、心の中で「なんでズボンじゃないんだよ」と文句を言い続けていた。同時に、「出かけるにはスカートを穿くしかない。穿くしかないんだ」と覚悟を決めていた。
十四歳の男子の心の持ち主にとって、スカートを穿くなんて、想像もできないことだ。
しかし、三時間の覚悟の結果、愛理はスカートを手に取り……
「そんなにじろじろ見るなよ」
二人を振り返って、言った。
「今日はやけにゆっくり着替えるのねと思って」
二人の話だと、愛理はいつもはささっと着替えてしまって、着替えるところをあまり見せたがらないということだ。愛理の着替えシーンには、二人にとってきっと価値があるのだ。ゆっくり着替えるということは、じっくり見られるということになる。
愛理は自分を急かした。
これを着るということは決めたんだ。もたもたして二人に着替えシーンを堪能させてやる必要はない。
愛理は再び意を決すると、パジャマのズボンの上からスカートを穿く。前でホックを止め、ファスナーをあげる。
次にブラウスに取り掛かる。
ワイシャツを着る要領で、袖を通し、ボタンを留めようとするが、すごい違和感を感じて気がついた。
『そっかボタンが反対なんだ』
と分かったからといって、なれないボタンは留めにくい。意識すればするほど、焦ってしまってうまく止まらない。
「どうしたの?」
悪戦苦闘する愛理を見かねて、千鶴が声をかける。
「うまく留めれなくて」
「こっち向いて、留めてあげるから」
愛理は千鶴に任せて、ボタンを留めてもらった。
「あ、ありがとう」
その言葉は、どこか子供っぽくて、千鶴にはかわいく見えた。
「なんか、妹か、いとこにしてあげてるみたい?」
「あれ? 千鶴って妹いたっけ」
里穂が疑問に思う。
「もしもいたらってこと。小学生のいとこはいるけどね」
愛理は自分が小学生扱いされたことには気付いていない。
ブラウスを着終わると、愛理は自分の服装を見下ろした。
見慣れない角度で、女の子の服装を見て、ちゃんと着れているのかは、よく分からない。
「……」
困った表情で愛理を見ている二人。
視線の意味が分からず、愛理は尋ねる。
「どうしたの?」
「それ、わざとじゃないでしょうねぇ」
あきれたという感じで、千鶴が言った。
「なにが?」
「愛理の本性は、やっぱりテンネンなのかな……」
「パジャマ」
里穂が愛理に教える。
愛理は気付いて顔を赤らめる。
下着を見られないように、パジャマの上からスカートを穿いて後で脱ごうとしたのを忘れていたのだ。着終えたと思って確認したときは、スカートのヒラヒラに隠れて気付かなかった。
愛理は慌ててパジャマのズボンを脱いだ。
両方の生脚が触れ合って、下半身が裸のようだ。スカートってすごく頼りないな。愛理はそう感じた。
「それで終わったつもり? もうっ! 服の着方まで忘れてしまったの?」
ほんとにあきれた様子で、千鶴は愛理の服装を直し始める。
「まずスカート。ファスナーが前に来てるじゃない」
言ってファスナーの位置を左に直す。
愛理は、そこが正しい位置だと知って驚く。
「シャツが出てる」
背中の方で、はみ出していたシャツをスカートの中へ突っ込む。
愛理は後ろまで確認してなかった。
「襟がゆがんでる。しっかりしてよ。こんなんじゃ先が思いやられるわよ」
襟を直しながら、千鶴が言った口調は、あきれきっていたのか、ちょっと強いものだった。
「ゴメン」
自分は、二人に迷惑をかけているのだ。これからもきっとかけるだろう。愛理はそう思った。
そう思うと、愛理は二人に申し訳なくなった。
そして視界がにじみ始めたのに気付く。
それが涙のせいだと分かって、愛理自身驚く。どうしてこんなことくらいで涙が出るんだ。涙もろくなったのか?
男だったときは、涙を流すなんて、目にゴミが入ったときくらいだった。
なのに、今は、すぐに涙が出る。
こんななんでもないことなのに、涙を流すなんて、恥ずかしくて、愛理は慌てて涙を拭う。
しかし、もっと慌てたのは千鶴だ。
「泣かしたぁ」
里穂が茶化す。
「あ、その、怒ったわけじゃないのよ。ちょっと心配になったから。ごめんなさい。言い過ぎたみたい。気にしないで。記憶戻るまで、しっかり面倒見てあげるから」
「ありがとう。うれしいよ」
自分では覚えていない人に、優しくしてもらえるのはとてもうれしかった。それと同時に、覚えていないことが申し訳なく感じられた。
看護師に見送られ病院を出た愛理は、恥ずかしさのあまり、とても大人しかった。
そして頭の包帯を隠すため、つばが広い帽子をかぶっていることと、服装と、その大人しさとで、まるで清楚なお嬢様にも見える。
愛理は時々うつむいて、ほほを赤らめる。
「もうおかしなところはない? なんか視線をいっぱい感じるんだけど」
愛理には、自分が女装して外を歩いているという風に思えて仕方がなかった。
だからいっそう、ちょっとした視線でも、ヘンに見られてるのではないかと不安になった。
「あえて言うなら、ちょっと挙動不審よね。きょろきょろしたかと思うと、うつむいてしまって。みんな、愛理がかわいいから視線がいっちゃうのよ。大丈夫だから、心配しないで」
千鶴は愛理の精神状態が不安定になるのが心配で、やさしくそう言った。
「そうそう、かわいいんだから、仕方ないの」
里穂は千鶴の心配をよそに、思ったことを口にする。
愛理はかわいいを連発されて、余計に恥ずかしさを感じてしまった。
そんな調子で歩いて、電車に乗り、再び歩いて、目的の場所へ到着した頃には、一時間近くたっていた。