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第三章 頭痛いです

     第三章 頭痛いです


 朝まだ早い時間から、純子は病院を訪れた。面会時間前だったが、無理を言って入れてもらった。

 愛理は容態が落ち着いていることもあり、昨日の深夜に集中治療室から、一般の病室に移されていた。年頃の女の子ということもあり、個室だった。

 病室では昨日の服装のままの母親が愛理に寄り添っていた。父親の姿はない。仕事なのだろう。

 「おはようございます」

 「あ、来てくれたのね。ありがとう」

 疲れた表情で、純子を振り返った。

 「ひょっとして寝てないんじゃないんですか?」

 「いいえ、少しは寝たんだけど、すぐ目が覚めてしまって」

 純子と同じだ。

 「もしよろしかったら、わたしが愛理のことを見てますから、一度お家に戻られて、休まれては? それに入院の準備とかも必要でしょ?」

 少し考えて、母親はその提案を受け入れたようだ。

 「分かったわ。お言葉に甘えて、お願いしようかしら。やさしい娘がもう一人できたみたいでうれしいわ」

 ホントにうれしそうに、優しい笑顔を見せた。

 しかし、純子は“やさしい娘がもう一人”という言葉が心に留まった。

 愛理は、一人っ子だ。

 純子は元愛理という点では、娘といえなくもない。

 だが、純子が愛理だったころ、今の愛理のように優しい娘ではなかった。

 “やさしい娘がもう一人”と喜んでくれるのは、今の愛理が“優しい娘”をしてくれているからなのだろう。うれしかった。

 「じゃあ少しの間、お願いね」

 母親はそう言って、病室を後にした。

 

 純子は眠っている愛理の手を取り、両手で包み込んだ。

 自分の手より少しひんやりとしているのを、純子は感じた。

 どれくらいそうしてただろうか。

 愛理の手のひんやり感がなくなっていた。

 「うっ、うぅっ」

 愛理が呻いた。

 「あっ! 愛理。愛理。分かる?」

 「うっ…… はぁ……」

 ため息のような息が漏れた後、愛理は目を覚ました。

 「良かったぁ」

 うれしさのあまり、純子は涙がこぼれた。

 「純子…… ボク、どうしたんだ?」

 上体を起こそうとした愛理を、純子は制した。

 「動いちゃだめ。事故にあったのよ。頭を強く打ってるんだから、安静にするの」

 「そうなんだ…… なぁ、純子…… あー、あー。ボク声がおかしくないか? まるで女みたいだ」

 「えっ! 今なんて?」

 「だから、声が女みたいだ」

 「わたしのこと、わかる?」

 「純子。幼馴染の。でもちょっと大人っぽくなった?」

 「ホントに…… 心配してたのよ。こんなときに冗談は言わないでよ」

 しばらくの間、愛理は純子の顔を見つめた。

 「純子じゃないのか? それになんか手も自分の手じゃないみたいだ」

 顔の前に手をかざして愛理が言った。

 その手は掛け布団の上に下ろされた。

 胸の上だ。

 「何かあるみたいだ……」

 純子は混乱して、どうしていいのか分からず、見ているだけだった。

 愛理は掛け布団を少しめくりあげる。

 寝間着の左右の重ね合わせの間に、きっと谷間が見えているはずだ。

 「おい! 純子、これは一体どういうことなんだよ。胸が膨らんでるよ。声もだし、ボク、女にされたのか?」

 一気に上体を飛び起こして、純子に詰め寄る。

 「ホ、ホントに覚えてないの?」

 「なんだよ、ボクに何があったんだ?」

 「啓太君は、二年前の出来事で体が入れ替わって、双海愛理になったのよ」

 「双海さんに? 二年前……」

 純子はカバンから小さな鏡を取り出し、愛理に見せた。

 愛理は自分の顔が、啓太ではないのを確認する。その顔が記憶にある二年前の双海愛理とは雰囲気が少し違うことを感じながらも、双海愛理の顔であることを確認していた。

 「ホントだ。でもどうして。こんなことありえないよ」

 「ありえなくても、実際に愛理になってるじゃない」

 「そうだけど…… 戻れないのか?」

 「戻れないのよ。もう」

 「じゃあ、双海さんは、大丈夫なの? ボクになってるんだろ?」

 こんなときなのに、愛理は、本当の愛理のことを心配する。

 「それは…… 愛理は元気よ」

 自分が愛理だとは言えなかった。言うとややこしくなる。ホントとの純子が死んだことまで話さなければならなくなる。

 「話せば長くなるし、今の状態の啓太君では話せないわ。落ち着いてから詳しく話すから。だから、そうねぇ、それまでは双海愛理として記憶喪失のフリをしていて。間違っても、自分が啓太君だとか、男だとかは言わないでね。何も覚えていない。自分が誰かも分からない。いい? 入れ替わっていることを知っているのはわたしだけなんだから、絶対誰にも言っちゃダメよ。それからあなたは女なんだから、『ボク』って言わず、『わたし』って言って。お願い」

 「わ、わたしって…… そんな言葉使えるか」

 「頼むから。わたしを信じて。だから言ってみて」

 「わ、わ、わ、わた、わたし」

 言えと言われて言うのは、すごく抵抗のある言葉だ。愛理は顔がほてるのを感じた。

 「じゃぁ先生呼んでくるから。入れ替わったなんて信じるわけないし、おかしいと思われたら困ったことになるんだから。記憶喪失のフリをするのよ」

 「お、おい。ちょっと待てよ」

 愛理の制止もかまわず、純子は出て行く。

 ひとり病室に残された愛理は、上体を起こし改めて自分の体を確認した。

 「あー、あー、わ・た・し……」

 もう一度声を出してみる。

 聞きなれない女の子の声だ。

 両手の平を何度もひっくり返し、確かめる。

 ひ弱できれいな女の子の手だ。

 その手を寝間着の上から胸に当てる。柔らかな感覚が手から伝わる。同時に胸から、感じた記憶のない触られたという感覚が伝わる。

 何らかの細工で付けられた胸じゃない本物の胸だ。

 明らかに自分は女になっている。

 後は股間を確認するだけだが、調べなくてもこれまでの状況から、ついてないのは明らかだ。今は触るのが怖かった。

 少しして、純子が主治医の井上先生を連れてきた。

 「痛いところや、苦しいところはない?」

 「頭が痛いです」

 「十針も縫ったからね。そろそろ麻酔も切れるころだろうから、後で痛み止めを処方するよ。他には?」

 「特にないです」

 井上先生は聴診器を耳に入れる。

 「胸を出して」

 「えっ!」

 恥ずかしかった。男である自分の胸に膨らみがあり、それを知らない人に見せろといわれてる。愛理はそのことがとても恥ずかしかった。

 しかし、周囲からは思春期の女の子が胸を見せるのをはずかしがってるようにしか見えない。

 「わたしは医者だから」

 抵抗しても仕方がない。愛理は恥ずかしがりながら、ゆっくりした動作で寝間着の胸を開いた。

 井上先生は聴診器を胸に当て、脈や呼吸を診る。

 「まぶしいけど我慢して」

 今度はライトペンを取り出し、愛理の瞳を照らす。

 「両手を出して。触ってるの分かる? 右手を上げて。左手を上げて。右ひざ曲げて、伸ばして、左ひざ曲げて、伸ばして」

 医者の言うように愛理は体を動かした。

 「問題ないようだね」

 「問題あります!」

 医者の言葉に異を唱えたのは純子だ。

 「あ、あの、愛理は自分のことがわからないみたいなんです」

 「えっ、本当に?」

 「そ、そうみたいで」

 愛想笑いで、愛理は応えた。

 「自分の名前は?」

 「愛理……って聞きました」

 「それは、自分の名前だと分かった?」

 「いいえ、実感ないです」

 「年齢は?」

 「十四歳かな」

 それは二年前の啓太の年齢だ。愛理は今十七歳だ。

 「うん……」

 井上先生は少し考える。

 ばれる? 純子はそう思った。

 「最近したことで覚えてることは?」

 「えーと、えー……わかりません」

 医者の後ろにいる純子に目をやったら、首を激しく横に振っていたのでそう答えた。

 「まずは精神科の受診を手配しよう。それと精密検査も繰上げでしてもらえるよう頼んでみよう。とにかく安静にしてるんだよ」

 医者はそういうと、病室を出て行った。

 純子はひとまず胸をなでおろした。

 「なんで年齢答えるのよ」

 「だって年齢くらいいいかなって」

 「これじゃ、二年前に何かあったって思われるじゃない」

 「二年前?」

 「さっき言ったでしょ。二年前あなたはある出来事で愛理になったって。そして、二年間愛理として暮らしてたの。もうすっかり女の子の暮らしに慣れたって感じになってたわ」

 「ボクが、女の子らしくなったって? うぇ、気持ち悪ぅ」

 「でももう戻れないんだから」

 「いや、絶対に戻る」

 「啓太君には戻れないんだって」

 「なんで? さっき詳しく話すって言ったじゃないか」

 「身体が治ってからよ。それまで記憶喪失のフリをするのよ。もう少ししたらお母さんが戻ってくるんだし」

 「ボクの?」

 「愛理のよ。ちゃんとごまかしてよ。啓太君だとはばれないと思うけど、男みたいと思われても困るんだから」

 「なぁ、どうしてボクのこと『君』付けで呼ぶんだ?」

 「えっ」

 純子と啓太は幼馴染。互いに呼び捨てで呼び合っていた。そのことは知ってはいたが、純子はそこまで気が回っていなかった。

 「そういう関係になったからよ。知りたかったら、ばれないように記憶喪失のフリをして、早くケガを直すのよ」

 純子はそれから少しの間考えて、思い出したように突然言った。

 「おしっこは女子トイレで座ってして、紙で拭くって、わかってる?」

 「な、な、な、なんだよぉ。急に」

 女の子のトイレの話に、愛理は顔を赤らめる。言った純子も恥ずかしさに耐えている。

 「こういう話は二人きりのときでないとできないでしょ。わたしはずっとはついてられないのよ。一緒にいるときでも人がいたら話せないことだってあるんだし、問題は自分で対処するの。まず一番最初に問題になるのがトイレでしょ。二年前はお漏らし直前まで我慢してたんだから、あなたは。次がお風呂とか着替え。その体はもうあなたのもの、自由に見ても触ってもいいの、誰に気兼ねしなくても。ただずっとあなたのものなんだから、将来女の子として困るようなことはしちゃだめよ。他に質問は?」

 「わからないよ……」

 女の子のトイレ、お風呂、着替えと、男の子としては妄想してしまうようなことに、愛理はただ恥ずかしくてうつむいて答えた。

 しばらくして女性の看護師が、検温と鎮痛剤の投薬にやってきた。

 その処置が終わったころ、愛理の母親が戻ってきた。

 「意識が戻ったのね。よかった」

 入り口に立った母親が、目を覚ましている愛理を見て、喜びの声を上げた。

 駆け寄ろうとしたときだった。

 その喜びは、にわかに悲劇に変わる。

 「誰?」

 「えっ!」

 愛理の言葉に、母親の足が止まる。

 「愛理。記憶がないんです」

 「そんな…… 愛理、母さんが分からないの?」

 ゆっくりと、ふらつく足取りで、母親は愛理へ向かって歩んだ。

 「わからない」

 そう応えた愛理を、母親は抱きしめる。

 「かわいそうに……」

 「く、くるしい。やめてくれよ。おばさん」

 慣れない香水のにおいを強く吸い込んだせいもあって、愛理は母親を思いきり突き放した。

 「そんな言葉遣いなんて…… まるで、二年前みたい」

 母親は床に崩れて涙をこぼした。

 純子は二年前の入れ替わりの前の自分を思い出した。

 親の存在がうざったく、いつも乱暴な態度で接していた。まるで今の愛理のように。

 「大丈夫ですか?」

 純子は母親に手を差し伸べる。しかし、ショックのあまり立てないようだった。

 「最近は優しい女の子になってくれてたんだけど、まるで中学生のときのよう」

 やさしい理想の娘となった愛理が、記憶喪失で再び乱暴な性格になってしまったなんて、かなりの心痛に違いない。

 「中学生?」

 今の愛理が覚えている範囲では中学三年の夏休み直前までは、自分は啓太だった。母親が言った中学生の時の愛理とは、入れ替わる前のことなのかと、入れ替わる前も愛理は男みたいに荒れた性格だったのかと不思議に思った。

 「中学のときあなたのお友達が亡くなって、そのとき以来、人が変わったようにやさしくなってくれたのに。またこんなことになるなんて」

 優しくなったのが自分のことだとは思わず、愛理は聞き流していた。

 純子は、死んだのが啓太だという話が出ないか心配したが、幸い話がそこまで及ぶこともなかったし、愛理が追求することもなかった。

 ぎこちない空気の中、愛理の母親は入院中に使う愛理の身の回り品を整理していく。

 愛理は所在なげにベッドの上でじっとしている。

 純子は、今日のところは帰ることにした。母親がいるのにこれ以上身内のようにずっと付き添ってるわけにもいかないだろうと思ったからだ。

 「わたしのケータイと家の番号渡しておくから、何かあったら、すぐに必ず連絡するのよ。それから、お母さんには優しくしてね。お父さんにも」

 純子は小声で愛理に告げてメモを渡した。

 愛理はうなずくだけで、黙っていた。

 「それじゃ、わたし今日は帰ります。また時々来ます」

 純子は母親に言うと、心残りでたまらなかったが病室を後にした。

 エレベーターに乗り込むと、急に涙があふれてきた。

 止まらなかった。

 もしすぐにでも記憶が戻らなければ、二年前の出来事で自分の本当の身体と本当の純子を失ったそのことを、話さなければならない。その苦しみをもう一度、愛理は受けなければならない。

 そしてそんな残酷な宣告を自分がしなければならない。

 二年前自分が誘わなければと思うと、申し訳なくて、自分が許せなくてたまらなかった。

 

 その日の午後、愛理は急遽精密検査を受けることとなった。

 精神科の専門医の診断には、「分からない」を連発して、記憶喪失の診断を無事ゲットした。

 その後、MRIの検査を受ける。

 「痛くもなんともないから怖がらなくていいよ」

 緊張している愛理を見て、MRIの技師が声を掛ける。

 かなりの時間をかけて、頭部の精密な断層写真を撮った

 「お疲れ様」

 やさしく声を掛ける技師に、愛理は涙目になっていた。

 「あ、あの、頭痛いです」

 その愛理の一言で、その場は騒然となった。

 痛くなるはずのないMRIで、かわいい少女が涙を浮かべて痛いと訴えたから、みんな慌ててしまったのだ。

 実際はただ、鎮痛剤が切れてきたところで、検査技師に「動かないで」って言われたため、検査の間中、ずっと痛いのを堪えていたのだ。

 我慢するのは啓太の性格だったが、愛理の体が痛さに耐え切れず涙を流してしまったのだ。

 愛理は鎮痛剤を再び処方してもらった。


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