第二章 目を覚ますまで…
第二章 目を覚ますまで…
純子は背後に急ブレーキの音を聞いた。
そして、ドンという、嫌な音が続いた。
振り返り愛理のいるはずの視界の領域に、点滅する歩行者信号の最後の青色が消えて、赤色に変わるのが見えた。
まるで血の色だ。
アスファルトの上に視線を落とすと、ピクリとも動かない愛理が倒れていた。
「いやーっ!」
頭の周りには、ゆっくりと広がっていくものが見えた。
「いやーっ、いやっ、いやっ、いやぁぁぁぁーっ!」
半狂乱状態だった。
どうしたらいいのか、分からず純子は泣き叫ぶだけだった。
周囲に人だかりができる。
携帯電話で救急車を呼んでくれている声が聞こえる。
愛理に駆け寄り、ハンカチで傷口を押さえ止血をしてくれている人がいる。
運転手を捕まえている男たち。
サイレンが聞こえる。
呆然と立ち尽くす純子の前に、救急隊が到着した。
止血をしていた人から、救急隊が応急処置を引き継いだ。
「君、この子の友達?」
救急隊のひとりが、純子に声をかける。
声がでない純子は、うなずいた。
「他に連れはいるの?」
首を横に振る。
「じゃあ一緒に来て」
いつの間にか担架に載せられた愛理が救急車へと運ばれる。
それに続いて、純子と残りの隊員が乗り込みドアが閉じられる。
「この子の名前は?」
「双海愛理」
続けて連絡先などを聞かれる。
走り出した救急車の中で純子は、意識のない愛理の体をゆすろうとして、救急隊員に止められた。
「ゆすっちゃだめだ。頭を打ってるから」
純子は両手を膝の上で握り締めた。
「助かりますよね?」
震える声で尋ねる。
「精密検査が必要だけど、今のところ瞳孔に異常はないし、呼吸もしてるから、脳震盪だけだと思う。それだったら大丈夫だ」
そうじゃなかったら? だって血がいっぱい出てた。今だって意識がないじゃない。本当に大丈夫なの? ネガティブなイメージが純子の思考を埋め尽くす。
自分が点滅信号に駆け出さなかったらこんなことにならなかったのに。
また自分のせいで人が死ぬ。
今度は自分の体が消えてしまう。
ひとりになってしまう。
恐ろしい考えが純子の頭の中を渦巻いた。
サイレンが止んだ。
病院に到着したようだ。
ドアが開き、愛理が運ばれる。
それを追いかけて、純子も走った。
手術室の前で看護師に「ここで待ってください」と止められ、純子は立ち尽くした。
どうすればいい?
なにができる?
少しは落ち着きを取り戻して、それを考えた。
「そうだ。家族に連絡……」
携帯電話を取り出し病院内だと気付いて電源を切った。
そして病院内の階段付近にある公衆電話に硬貨を入れ、かつての自分の家に電話をしようとして、ダイヤルする指がためらった。
「なんて言えばいい? ちゃんと言える?」
元の家族に元の自分が重体だって、伝えられる?
でも、しなくちゃ。やらなければ、それが自分の責任だ。罪を犯した自分の責任。
純子はまだ覚えている番号へダイヤルをした。
手術室の前の長いすに座り、純子は祈っていた。
命が助かりますように。
もし愛理の体が助からないのなら、自分が死んでこの体に啓太の魂が生き続けますように。
祈れることは何でも祈った。
そうして、ずっと目を瞑っていた。
随分と時間が過ぎたような気がした。
声を掛けられて、目を開ける。
時計を見たら、長いすに座ってからまだ数分しかたっていないことが分かる。
声を掛けてきた相手は警察だった。事故の様子を聞きにきたのだ。
「わたしが、点滅信号を渡ったんです。それで彼女が、愛理が後に続いたんです。わたしが点滅信号なんて渡らなければ、こんなことにはならなかったんです。全部わたしのせいなんです」
「点滅信号を渡るのはあまりよくないことだが、それは事故の直接の原因ではない。いいかい、自分を責めてはだめだよ。確認したいのは事故がおきたとき、信号はどういう状態だったかだ」
「事故が起きた後、振り返ったとき、点滅から赤に変わるのが見えました。だから事故のときはまだ点滅信号だったんです。振り返った正面に信号が見えたから間違いありません」
その他にも、いくつか状況を尋ねられた。
それが終わったとき、愛理の母親が駆けつけた。
「……」
お母さんといいかけて、純子は口を噤んだ。純子としては愛理の母親とは面識がないのだ。
「愛理は? 愛理は助かるんですか?」
「愛理さんのお母さんで?」
警察手帳を見せて尋ねる。
母親はうなずいて応えた。
「今はまだ処置中のようです。車にはねられたというよりは、ぶつかった拍子に転倒して、頭を打ったというほうが正確です。救急隊の話では、頭部に出血はあるものの、神経の反射には問題がなかったということですから」
母親は少しは安心したようだ。
「あなたが、純子さん。ありがとう連絡をしてくれて」
「お礼を言われることは何もしてません。できませんでした。ただ呆然と救急車が来るのを待ってただけで」
「仕方がないわ、突然目の前で事故が起きたら誰だってそうなるわ」
そのとき、手術中を示す赤いランプが消えた。
「あっ」
誰ともなしに声が漏れる。
少しして、手術着を着た医者が出てきた。
「愛理は助かりますか?」
「命に危険はありません。脳内の出血はないので、おそらく後遺症もないでしょう。ただ強い脳震盪を受けてるので、精密検査をしてみないと分かりませんが」
医者の後ろから、頭に包帯を巻かれ点滴を打たれている愛理が眠ったまま、運び出されてきた。
そのまま、集中治療室へと運ばれる。
純子と母親は、愛理が集中治療室へ運ばれるのに付き添う。
集中治療室に運ばれた愛理には、いろいろな機械が接続されていく。
純子は、その様子を部屋の外から眺めていた。
そこへ、仕事を抜けだしてきたのだろう、愛理の父親がやってきた。
服装は乱れ、息が上がっている。表情は、泣き出しそうなほどにゆがんでいる。
「あ、愛理の様子は?」
純子は、愛理だった時、自分をこんなに心配してくれる父親を見たことがなかった。いつもそっけない態度で自分に関心がない。そう感じているうちに、父親のことが嫌いになっていた。しかし、それは昔のことだ。
母親の話をきいて、父親は少し安心し、落ち着きを取り戻したようだ。
母親自身も、夫がそばにいることで、安心感が増したようだ。
処置を終えた医師が、説明のために出てきた。
母親はそこで、思い出したように純子に向き直った。
「あなたはもう帰って、あなたのご両親も心配してるでしょう」
自分の本当の母親に言われるのは、疎外感を感じるのは仕方ないことだとしても、ヘンな気持ちだった。
命の無事を聞き少しは安心したが、目を覚ます愛理を見るまでは心配は消えない。
「目を覚ますまでは残ります」
純子は訴えた。
「麻酔が効いてるから、少なくとも深夜までは目は覚めないよ」
医者が告げる。
もちろんそんな遅くまで、家族でもないのに付き添えるわけはない。
「分かりました。明日の朝また来ます」
仕方なく、純子は病院を後にした。
その夜は、純子にとって眠れない不安な夜となった。