あんな人だと思わなかった
「意図せぬ復讐」番外編第四弾はリーシアの父、カトルディ侯爵視点です。
カトルディ侯爵は自分のことを幸運だと思ってきた。
侯爵という、貴族の中でも高位の身分に生まれ、政略結婚ではあるが美人の妻をもらい、三人の子宝に恵まれ、そしてそのうちの一人が王太子の婚約者に選ばれたことで王家とも縁続きになることができる。
なるほど、順風満帆である。
だが、突然の嵐というものはいつの世にもどこの世にも存在する。
まず、娘が王太子との婚約を破棄された。暴風ですべてが抵抗空しく飛ばされてしまうように、娘が王太子の婚約者として積み上げたあらゆるものが呆気なく意味を成さなくなった。
それから、その娘が敵国へ嫁ぐことになった。豪雨がすべてを洗い流してしまうように、娘のこれまでの人生とこれからの人生、そしてその存在そのものが、カトルディ侯爵家から、シグルム国から失われた。
嵐をもたらしたのは、シグルム王家であった。
たとえ高位貴族であっても、貴族である以上王家に逆らうことなどできない。少なくともカトルディ侯爵はそう考えている。
当代のカトルディ侯爵は小心者なのである。ゆえに、たとえそれがどれほど理不尽であれ、王家の命令には絶対忠実なのである。
婚約破棄された娘、次女のリーシアは少し変わった娘であった。
普段は物静かで読書を好むおとなしい子であったが、時として小心者である父よりも度胸が据わっていた。
たとえば、リーシアの弟が寝台に蛙を放り込むという悪戯をしでかした時、長女が半狂乱で騒ぎ立てたのに対し、リーシアは泣くでも喚くでもなく、ただ弟の顔をまじまじと見つめて言ったのである。
「どうしてお布団に蛙をいれようと思ったの?」
ただの悪戯にもしっかりとした動機を求める、そんな娘であった。ほんの出来心であった弟はまさか悪戯の理由を訊ねられるとは思わず、驚かせたかったと言えば驚かせてどうするのかと聞かれ、長女のような反応が見たかったと言えばなぜ見たかったのかと更に質問が飛び、そもそもなぜ蛙だったのか、自分ならば蛾の方が嫌いである、と自己申告までされて、ついに彼が泣き出すまで質問攻めは続いた。ちなみに、「僕だって蛾は嫌いだ」と言う弟に「お姉さまは蛙が大嫌いなのよ」と伝えて反省までさせてくれたおかげで親の出る幕はなかった。
リーシアにしてみれば、純粋に弟の悪戯の発想が不思議であっただけ、とのことである。
やがて王妃様主導でリーシアへの王妃教育が始まった。十にも満たぬ子どもに施すには少々行き過ぎではないかと思うこともあったが、他ならぬリーシアが嫌がるでもなく受け入れていた。実に旺盛な知識欲であった。
それゆえ、疑問を持たなかった。娘が「なぜ?」と言わなくなったことが、単なる経年変化であり、知識量の増加と共に聞く必要がなくなったのだろうと。
聞くことを止めたのだ、とは考えなかった。
元々物静かな娘であった。自発的な発言がほとんどなくなったことも、それほどおかしいとは思わなかった。妻とは時々会話が弾んでいるようであったし。発言のほとんどが妻によるものだとしても。
長女は十八歳で嫁いだ。そう遠からず次女も、と考えていた矢先の婚約破棄であった。
正直なところ侯爵家側としては納得しかねる事態であったが、王家の意向であり、また当事者であるリーシア自身が承諾しているようなので、是が非でも復縁を、と粘る状況にはならなかった。
王家に望まれるような娘、しかし王家に婚約破棄されるような娘。
複雑な立場ゆえに、リーシアの新たな婚約者探しは難航した。
一方的に婚約破棄される、という年頃の令嬢には手痛い仕打ちを受けたリーシアに対してカトルディ侯爵も侯爵夫人も同情的であり、最大限リーシアの意思を尊重し、多少時間がかかったとしても最良の相手を見つけてやりたい、と考えていた。
さて、リーシアと三歳違いの弟は多感な時期であり、悪ぶってみたい年頃であった。侯爵家の跡継ぎとしてやることが一杯である自分に比べ、生家でのんびりしている姉はいいご身分に見えた。長女が嫁いだ年齢をあっさり過ぎてもまだ婚約者すらいない彼女に「行き遅れ」「穀潰し」という言葉をかけたのは、別に心底姉を嫌って、というわけではなかった。彼が幼少期の悪戯の果てに姉から質問攻めに遭って泣いたことを覚えているかは分からないが、それでも恐らくは何らかの反応を期待してかけた言葉であったのだろう。
真に受けたリーシアは結婚相手の条件を更に下げようとした。相変わらず反応の読めない、悪戯のし甲斐がない姉であった。
とにかく、カトルディ侯爵家の本音においてはリーシアに結婚を急がせる意図はなかったのである。
そんな折に王城からの呼び出しがあった。
「いきなりファラングへ嫁げとは、それはあまりにも……いえ、陛下のご命令に不服があるわけではないのですが……」
リーシアを伴って登城したカトルディ侯爵は、そこで告げられた「リーシアにはファラングへ嫁いでもらいたい」という王の言葉に、そのあまりの身勝手さについ反論しかけたが、そこでいつもの小心者が顔を覗かせた。謁見の間で王命への反感を露わにすることなどできるはずもなかった。
カトルディ侯爵は貴族である。カトルディ侯爵領を、その地に住まう領民の命を預かっている。家族への情はもちろんあるが、まず第一に国と所領のことを考えるべき立場である。リーシアの責任感の強さは父親譲りでもあった。
口ごもったカトルディ侯爵に代わり、リーシアが承諾の意を返した。思わず見遣った娘の顔には何の感情も浮かんでいない。その目は、ただまっすぐに、そして無感動に王を見ていた。
帰宅した夫からリーシアがファラングへ嫁ぐ、と聞かされた侯爵夫人の顔からはいつもの朗らかさが抜け落ちた。無表情になると、子どもたちの中ではリーシアが一番妻と似ているのかもしれないな、といささか現実逃避のようなことを考える。
いかにリーシアが優秀であろうと、まだ十九歳の娘である。今にもシグルムを呑み込もうとしている敵国へその身一つで嫁いでいけ、などと、とても親の口からは言うことができない。
それでも、王命は絶対であり、預かる命と家族を天秤にかけたならば軽んじるべきは家族である。それが貴族というものである。
「リーシアがうまく立ち回れば、滅ぼされることもない」
「うまくいかなかったら……?」
「……どちらにしても、私たちの命運はリーシアと共にあるのだ」
その無事を祈りながら、王命に逆らうという決断を下すことのできない哀れな父親は、そうしてついに無表情のまま旅立った娘を見送るしかなかったのである。
ファラングが進軍を再開したとの一報を聞いた時、カトルディ侯爵は娘の生存を絶望視した。無理もないことである。
ファラング軍の勢いは凄まじかった。カトルディ侯爵には娘の死を悼む余裕すらなかった。目立った役職に就いているわけではないが、戦時ともなれば皆駆り出されるのが世の常である。
カトルディ侯爵はその日も登城していた。文官よりであったため、戦場へ向かわされなかっただけましと言わねばなるまい。
城内の一室で書類整理に追われていた彼のところへ、一人の青年が現われた。
「はじめまして、義父上」
開口一番、青年はカトルディ侯爵を混乱に陥れることに成功した。
――はて、物理的にも年齢的にもこれほど大きな息子がいただろうか。
いるわけもないが、カトルディ侯爵は一応考えてみた。見るからに異国風の「美」が付きそうな青年は、当然ながら血を分けた息子ではないし、それらしい知り合いもいない。
「我が名はレザリオ・ウルム・ファラング」
それは今シグルムが戦っているファラングの国王の名前ではなかったか。敵国のど真ん中で名乗るとは豪胆にも程がある。
「そして我が妃の名はリーシア。カトルディ侯爵家に生まれたリーシアです」
青年がもたらした情報は、カトルディ侯爵の混乱に拍車をかけた。
「せっかくここまで来たのですから、里帰りさせてあげたいのです」
そもそも敵国の王がこの場にいることが何を意味しているか、それを考えなければならないような気がしたが、絶賛大混乱中のカトルディ侯爵にその余裕はなかった。
小心者のカトルディ侯爵である。たとえ敵であろうと、一枚も二枚も格が違う相手に噛み付けるはずもない。謁見の間にいなかった彼はなし崩しにシグルム国の終わりを受け入れることになったのであった。
レザリオから「義父上」と呼ばれることを固辞したカトルディ侯爵だが、最終的な落ち着き先である「お義父さん」もなかなかである。実の息子からも呼ばれたことがないその呼び方はまるで平民のようだが、砕けているだけに距離が近いようにも思えた。
再会した娘は、どこか顔付きが違っていた。
少なくとも旅立った時のように無表情ではない。大国の王を前に臆することなく話し、時に笑い、時に呆れている。控えめではあるが、その表情は豊かと言ってよかった。
幼かった娘が、帰ってきたような気がした。
カトルディ侯爵は自分のことを幸運だと思っている。
侯爵という、貴族の中でも高位の身分に生まれ、政略結婚ではあるが美人の妻をもらい、三人の子宝に恵まれ、そしてそのうちの一人が大国の王妃となった。
なるほど、順風満帆である。
時には予期せぬ事態に見舞われることもあるが、突然の嵐というものはいつの世にもどこの世にも存在する。そして、永続する嵐など存在しないのである。
リーシアの外見は母親似、中身は父親似です。
生意気言って義兄にお仕置きされる弟くんも書いてみたかったけど、いいネタが浮かばなかった...
「あんな人」はシグルム王、レザリオ、リーシアあたりを指して、良い意味も悪い意味も含みます。
他者視点の番外編は一段落、ということでリーシア視点の後日談に移りたいと思います。