Ⅶ 高揚効用、友情を添えて。
【まえがき】
甘酸っぱい演出できていれば幸いです。
ちょっと長めなので、眠い人は明日にでも。
どうぞ。
三日目。
「国語って、漢字以外にやることあるの?」
誰しもが思ったであろう重要項を、公言したのはリズだった。
各々が黙々と漢字の書き取りをするという合宿個人学習に打ち興じていた僕たちにとって、その一声こそ勉強になる。
みんなもなにか吹っ切れたのか、そこから次々と意見が飛び交い始める。
「暗記教科ではないからのう」
「そうだねー。文章題は毎回違うからねー。だからっつって、行間を読む力はテスト期間ごときの短期間でなんかそうそう身に付かないしね。そうなると、勉強は暗記できる漢字とか古語に限られちゃうよね」
「でも、国語、配点高い……」
「そうね。数学は理論と統計、理科は生物と科学、社会は地理と歴史、みたいに二分されているから。国語は配点を倍にしてウェイトをとっているということよ」
「あ。アカデミーはそうなんですよね。聞きました」
「そうそう。二百点満点だよー。一個一個の配点低いと問題多くて辛いし、逆に高いとミスできないから答えを完璧にしないといけない。これがまた、結構きついんだー」
「国語は二百点満点じゃったのか。初耳じゃ」
「サクラさんは知らないとダメなのでは……?」
確かに、ミドル時代は平等な扱いをしていたはずだ。それがアカデミーにきたら、この通りである。
中身に関してはもちろん、難解な小説や論述書など、相応に深くなったと思う。けれど、国語でやる内容はエレメンタリーから変わらないので、特に難しいということはないのも事実。
「だけど、文章をよく読めば、大丈夫だよ」
文才の血が流れているというオカルト染みた評判もいただいているように、僕は少しばかり国語ができた。リズの言う通り、漢字こそ暗記だから間違えることは多々あるけれど、文章問題などの記述で間違えることはそうそうなかった。
得点に換算すれば、文章題は漢字の数倍も重みがある。なので、国語は文章題ができれば追試になることはない。一見、簡単そうではあるがこれがまた難しい所でもある。
理解している側からすれば何のことはない記述問題も、理解していない側からすれば数学の難解な公式よりも遥かに難しいものなのだ。
なぜならば、それは解答を導く方法を教えられないからだ。不可能ではないけれど、それこそコメンテーターのような自己表現力なんかがなければ、到底は無理だ。
僕にそれが備わっているという確証はないけれど、少なくとも、文学者である父の血を引いているということくらいは、僕の説得力を助けてくれるだろう。
そういうわけで、コツではないけど、何というか、言うところの心得のようなものは、何とか教えられる気がしたのだ。
「ゆっくり文章を読んでね、まずは情景をイメージしてみるんだ」
それは、僕がいつもテストの時にやっている方法だった。
ノアとアレンはおもむろに目を閉じて、さっそく実践しているらしい。ルリ会長もうんうん頷いて、僕の話に興味を持ってくれているようだった。アリスはお節介を流すように無表情で僕を見つめ、リズとサクラはペンを回していた。リズには何度か話していたからいいとして、相も変わらないサクラの余裕は、もはや尊敬に値する。
とりあえず、ノアとアレンのために話は続ける。
「情景の次は、登場人物たちの容姿かな。文に書いてある通りに、想像……創造してみるんだ。絵なんかを描いてみてもいいかもね」
教科書にはよく挿絵が挟まれているが、それも文章を読み解くのにはとても有効だ。
しかし、テストにはそれがない。ないのなら、自分で創ってしまえばいい、ということだ。
赤という色一つとってみても、解釈は読み手の数だけあるから、間違いも正解もない。だからこそ、創るというわけなのだ。
絵が上手なノアやサクラであれば、描写を完璧に表現できそうだ。
「そうすると、どこで誰が、なにをしているか……そこまでの整理ができたことになる。次に何が必要か、それを踏まえて文章を見返すと……」
とりあえず開いた教科書の一文に視線を落として、僕も想像しようとすれば、アレンの情報整理は思ったよりも早く終わったようで。
「動き、ですか?」
「そう! アレン君、正解」
ノアも続いて閃いて。
「会話も……?」
「うん! 当たり当たり。そんな感じでね、シーンに動きを足して、実際に登場人物を動かしてみるんだ。頭の中で演じてみてもいいかも」
そうすることで、完全とは言えなくても感情移入をすることができる。そのシーンの情景を思い浮かべれば、次に何が起こるかはある程度予測ができるのだ。いきなり、登場人物の気持ちを答えろと言われてもピンとこないけれど、その予測ができれば気持ちの逆算ができる。
この手法で急に得点が伸びるかと言われたら、それは保証できないけれど。
僕がいつもそう言い添えるのを覚えていたのか、今度はリズが言い放つ。
「で、でもさ。それだと確かに登場人物の気持ちはわかるよ。でも、たまにさ。作者の気持ちを答えろって問題が出るじゃん。そんなのわかるわけなくない? もしかしたら、パスタ食べたいとか思ってるかもだし。登場人物も同じでさぁ」
リズはそう言うだろうなといつも考えていたから、僕の言葉は淀みなく流暢に。それでも視線は散るけれど。
「そういう時は、誰に伝えたいかっていうのを見るんだ。登場人物なら、会話の相手がいるでしょ? 作者なら、相手は読者になるよね」
同意を求めれば、「そしたら?」とリズが急かす。その時、一瞬目が合って、つい逸らしてしまった。
ノアとアレンも、同じように目が物欲しそうだったので、ためを惜しんで続ける。
「何か思ったり話したりするときは、みんな、誰かに伝えようって思ってすると思うんだ。だから、その次の相手のセリフには届いたっていう証拠があると思うんだよね。地の文なら、次の文章かな。そこに、何を伝えたいのかが描いてあるはずだよ」
サクラのように“魔法”が使えない限り、本は作者の気持ちを代弁してくれたりはしない。登場人物になら言葉を与えてあげられるけど、作者はそうもいかない。そうなってくると、作者の気持ちというものは、文にして表されるようになる。
勿論、登場人物と同じで性格とか思考もある。だから、ストレートに表現することもあれば、暗に諭すこともある。
僕たちに求められるのは、それを見つけて精一杯の感想を述べること。作者の気持ちを受けて、今自分は何を思うのかを話すこと。そこに尽きる。
それはつまり、自分も作者も登場人物の一人――読み手として話に交ざると言うことだ。
実はそれは難しそうに見えて簡単で、物語のタイトルを読み上げた時から、すでにできていることだったりする。
そこになにか合点がいったのか、リズも「ふーん」と徐々に息を抜いて静かになった。ノアとアレンも、感心した様子で頷いている。
とうの僕も、教え切った気持ちで一言だけ添える。
「あとはそうだな。慣れかな」
ふうと一息つく頃に、ノアが言葉をくれた。
「ルート、すごい……。すごくわかりやすかった、かも。ノア、国語はあんまりだから、今の聞いてて、少し、できそうって思えたよ」
「そっか。それはよかったよ」
アレンは言葉を選んでいるようだったけれど、成績が良いのだから当然か。
でも、アレンには別の興味があったらしい。
「俺もすごく勉強になりました! それに、ルートさんの考えてることが少しわかった気がするので、ラッキーです」
「そ、そうかな。それはよかった、ははは」
いびられ慣れているアリスならまだしも、ルリ会長やサクラがいるところで、そうも無垢に微笑まれると背中に変な汗をかいてしまいそうだ。
アレンの笑顔が居間を漂おうという時、リズの「キモい」というぼやきがそれを断った。
その瞬間、居間という空間は停止した。
誰もが沈黙を転嫁して、会話という空気を繋ごうとしなかったからだ。真空の圧力を最も感じるリズが何かを発言できるはずもなく、僕もそれについて口を出すことができなかった。
その停止はほとんど一瞬だったのだろうけれど、僕には途轍もなく長く感じられた。
だから、余計にアレンの言葉が明瞭に聞こえたのかもしれない。
「ひ、ひどいよリズー!」
アレンはまた爽やかな笑顔になって、そう言うのだった。
僕はアレンの、リズへの優しさに気付いてしまった。
***
三日目。
夜。
午前午後夕方と、かなり学習に集中できた一日だったと、浴室の鏡を見ながら振り返る。気分は疲れていないように感じるけれど、どこか体は重くて、何か背負っているような気もしないでもない。
自分の肩に手を当てて、ぐるりぐるりと二周半。
脇の間に小さく映ったのは、湯船に浸かるアリスの姿だった。
いつの間にか風呂は順番で誰かと入るシステムになったようで、今日は僕はアリスとだったのだ。後のメンバーはみんな一緒に入るらしい。
腕がもう二周したあたりで、鏡越しにアリスの圧を感じた。
「腕なんか回して、なにをしているのかしら」
アリスは木製の縁に凭れかかるようにしながら、僕に問うてくる。
苦言ではないけど、ガードの硬い親友が衣服を着ていないと、なかなかやり辛くはあった。
僕はとりあえず、シャンプーを泡立てながら肩の調子を見る。
「ちょっと肩が凝ってて。勉強疲れかも」
アリスは、「そう」とだけ反応して、その後は僕が体を洗い終わるまで何も言わなかった。
静かな浴場は、水の流れる音や揺れる音が良く聞こえた。
沈黙も、それなりに痛かった。
僕はひたひたと水面に近づいて、アリスから遠くも近くもない中間くらいの位置から、足を浸けた。僕の嵩の分だけ、お湯が浴槽を出て行く。わざとらしく音を立てる様子は、どこか不満そうに感じる。
その不満を肌に擦りこめば、見事に復讐が浸透した。
「うっ。今日、透明なのか……」
リズがうちから持って来たらしい入浴剤は、どうやらまだ入っていないらしく、お湯はガラスの如く澄んで透明だった。裸であるということが、水上からでも容易にわかるほどに。
少し距離をとっておいてよかったなと、一人で安心していると、早速アリスに嗅ぎつけられる。
「どうしてそんなに離れるのかしら。あたしのことは嫌い?」
独特の苦みというか渋みのある言い回しは、好き嫌いの問題ではないとすぐにわかる。
しかし、本心など隠したところで直ぐに見透かされてしまうから、素直に申告することにした。そっちの方が、痛くないことは、長年の付き合いでわかってきたことだ。
「ちょっと緊張してるんだ。裸だから。僕も、アリスも」
「女同士なのに?」
それでも、アリスの言葉は痛い。
距離を詰められないだけ、まだマシかもしれないけれど。
「そ、そうだけど……うん。やっぱり、ちょっと恥ずかしいよ。見られるのも、見るのも」
「おかしいわね。普通じゃない」
さすがの僕も、今夜はそう言う話をするのだと悟る。
アリスと話をすること――それはつまり、逃げられないのだと言う事。今のこの距離が、僕を縛り付けると言う事。
僕は、屈折した自分の体を見るしかない。
「そう、だよね……。変なんだ、僕」
何がとは言わなくとも、アリスには伝わる。伝わるというか、バレる。
「そうよね。あんな公の場で、妹とキス、したりするしね」
「あ、あれは演技だから……」
「そうね。昨日、リズもそんなことを言っていたわ」
「そ、そうなんだ」
何だろう。少し残念に感じる。
「そうよね。残念よね」
「ち、違っ――」
「くないわよね? キスなんて、台本に無かったもの」
「そ、それはっ……し、してないからっ」
アリス相手に言い訳などできるはずもなかった。
確かにあれは劇であり、二人の関係は演技で作り上げられたものだ。だからこそ台本通りの感動があるわけだし、だからこそ台本外の衝撃もあるわけだ。
あのキスは、紛れもなく台本外の衝撃。フリという演技ではなく、事実という衝撃だ。
一応、あれはフリだと言うことで鎮静化したけれど、台本を所有している一年生の間では、未だに話題になることもあるらしい。
傍から見ていたということで終わればいいが、舞台袖で僕たちを見ていた者もいるのだ。
そう。アリスやノア、サクラからすれば、事実は事実のままということ。つまり、同意は得られないと言う事。
「してない……? そうだったのね。あたしはてっきり、本当にしたのかと思ったわ」
「ははは……」
「でも、疑問ね。顔を上げた後のあの晴れやかな笑顔とか、ちょっと荒い息遣いとか、劇が終わった後の上の空感とか、家までずっと手を繋いで帰るとか……。あれは一体何だったのかしら」
「…………」
ちりちりと、アリス側の半身が熱くなっていく感じがした。
「そう言えば、劇が始まると思ったらすぐにいなくなったわね。同じくらいにリズもどこかへ消えたし。と、思えば今度は二人一緒に戻って来て。その時も確か、手を繋いでいたわね。顔もなんかすごいスッキリで――」
「ごめんなさいしました……っ! も、もう勘弁してくださいっ」
そこで初めて、僕はアリスの方を向く。顔は下を向いていたけれど。
このまま頭を水の中に押し込められてしまうかもしれないと心配ではあったけれど、顔は上げられない。
暫くそのままでいると、アリスのため息が聞こえた。
「はぁ。手間のかかる……」
「ごめんなさい……」
「まあ、よく謝るものね。あんたらも」
「えっ?」
僕の狐疑はちょうど水面に反射して、そのまま浴場に木霊した。
何度目かの残響の後、満を持してアリスが嗤う。
「ふふっ。なんでもないわよ。そんなことより、もっとこっちに来なさいよ。声が響いて聞き取りづらいでしょう?」
「ぼ、僕は大丈夫かな」
「え? なんて言ったのかしら。よく聞こえないわ」
反射して聞き取りづらいのは間違いではないけれど、聞こえないということはないだろう。
それなのに、アリスはその残響のどれにも耳を貸してくれない。
「もう、アリスっ。……わかったよ」
僕は堪忍して、距離を詰めることにする。
ゆっくりゆっくりと、水上を漂うようにしてアリスの方へと近づいていく。近づくのに比例して、ちりちり感じる熱さも増してきているように思える。視線を逸らしながらの移動だから、どのタイミングで止まればいいかは、勘に頼る以外なかった。
僕の勘は、思ったよりも鈍かった。
気付けば、勘よりも先に感覚が、僕の脳をいっぱいいっぱいにしていた。
「あっ。ごめっ……」
「何よ。手が触れただけじゃない。そんなことで謝られてもね」
アリスの声が、耳のすぐ近くで聞こえる。
そしてまた、ちりちりと体が熱くなりだす。今度は、心臓が脈打つのと同じリズムになっていて、それは自分の耳でも聞き取れそうなほどだった。
「それだけ緊張するって、どうなのかしら? あたしは喜んでいいのか悪いのか。反応に困るんだけど」
「そ、それは僕悪くないよ?」
「まぁ、いいわ。昔はよく一緒に入っていたのに、あなたも変わったわね」
「い、いや、それはっ……そうかも、だけど……」
「ええ、本当に。まさかあなたが、あたしのことをそういう目で見ているなんてね。ちょっと引くわ」
「ち、違うって! そんな邪な目でなんか見てないよっ!」
思わずアリスの方を向きそうになったけれど、どうにか抑え込んだ。
それが邪なのだと気付いた時には、すでに遅く、仰々しいアリスの言葉が僕の心に刺さった。
「あら? 邪なんて言ってないのだけど。ルートさんったら、やっぱり邪な目で見ていたのね。いやだわ」
「うくっ……。もう、それでいいよ……」
口ごたえは無意味に感じたので、大人しく引き下がることにする。目も合わせられない現状、余計な事は控えるべきだと思ったまでだ。
すると、どうだろう。
いつもなら追撃をしてくるところなのに、今日、アリスはそうしなかった。
「冗談よ。真に受けないで。それに……」
「それに……?」
何だろう。逆上せているのだろうか。
アリスが、いつになく丸い。
「あたしも、あなたのことあまり直視できないから」
「えっ?」
その言葉を受けた衝撃で、ぴしゃりと波が立つ。
僕はそれを隠そうと、少しアリス側に揺れる。
「じゃ、じゃあ、もしかしてさっきの、『あなたも変わった』って言うのは、アリスのこと?」
「そうね。昨日、リズに言われたのよ。変わった、って。自覚はないのだけどね」
アリスの言葉の切れ味が鈍ったのは、研ぎ澄ます余裕が無かったからだったようだ。
「へぇ。リズがそんなことを……」
「ふふっ」とアリスは不敵に笑う。
続く言葉は、どこか、子供の成長を喜ぶ親の声色に重なる。リズの言う通り、アリスはやはり変わったのだと思った。
「そうなのよ。他人に変わったって言われるのって、複雑ね。一体、いつから変わったのかしら、あたしは」
しみじみと語る口調こそ印象的で、いつのまにか僕も、アリスにつられて記憶を探ってしまっていた。
深みのある言葉とともに、僕の視線は水面に沈んでゆく。脚、それから浴槽の底、その手前に像を結ぶ自分の顔は、記憶の中のそれとは確かに変わっていて、たった今も留まることなく揺れ、そして歪曲を繰り返していた。
その、いつ、を見つける前にアリスが言う。
「あなたを知りたいと思った時かしら」
「えっ?」
「冗談よ」
「そう、だよね。びっくりした」
アリスはいつも先手を仕掛けるから、ズルい。
「でも、昔はそうだったわ」
「んっ?」
毒味の無さすぎるセリフに、肩透かしを食らう。
事実確認の術がないのだと心中右往左往していると、アリスが言葉を続けた。
「エレメンタリーくらいの頃かしら。あたしは、あなたのことを半分男だと思っていたわ」
「ま、まぁ、今より髪短かったし……」
「そして、ある事件があって、それ以来は好きだったわ」
「すっ……!?」
腰のあたりが、一気に熱くなってくる。でも、湯温のせいにしては、一過性が過ぎる気がした。
熱を帯びたところを冷ますかのように、アリスの口ぶりは淡白に、且つ、冷たく尖る。
「小さい頃、あたしは自分のことをお姫様だと思っていたから。突然現れたあなたは王子様に見えたのね。観察してみれば、頭が良くて、サッカーが上手くて、顔も女の子みたいで、馬鹿みたいに優しくて」
「あ、あははは」と頭をかいて照れを表現してみれば、「そして、妹が好きで」と刺すような一言を浴びせられる。思わず、「うっ」と腹から声が出た。
気にも留めずに口調を戻して、アリスは続けるのだった。
「そんな王子様の正体が女だって知ってからも、あたしはしばらくの間好きだったわ」
「そう、なんだ……」
アリスに似合わず、接する温度は僕に適している気がした。これが、裸の付き合いの力というものなのだろうか。
僕はアリスの言葉と、水音に、耳を貸すだけでいい。、
「でも、あなたは変わった。あたしと同じようにね。瞳は円くなって、肩はなだらかになって、腕は細長くなって、当たり前に胸が出てきて、声は涼風みたいに綺麗になって。あなたは、あたしの想い描く王子様から、どんどんかけ離れていった。そして、漸く気付いた。あたしはあなたのお姫様じゃないってね」
アリスが身体を言及する度、その箇所がじんと痛むように返事をした。きっとこれは、アリスが変わった時に感じた痛みの追憶だろう。
その痛みを今も感じているかどうかは、僕にはわかる由もない。けれど、その痛みを拭うことができるとすれば、それは僕だ。
「アリスは、ノアさんのこと――」
その矢先だった。
「ねぇ。ルート」
アリスは僕の言葉を妨げるように言う。
そのリズムはどこか、事を急くように感じた。
結果として僕の言葉は、すべてが出切る前に浴場を乱反射することになる。
「えっと……なに?」
「あたしを見てドキドキする?」
「う、うん……。する、よ……」
僕の口舌は、すぐに跳ね返っては来ない。
アリスの問いかけの方が、遥かに夙く。
「それはどうして? あたしは女よ?」
「そうだけど……。アリスは、僕から見てもすごくかわっ、可愛いから……。アリスも、ノアさんとお風呂入る時、ドキドキしたりしないの?」
「そうね。わからないわ。どうして可愛いとドキドキするのよ」
「どうしてって……。えぇと……。す、好きになっちゃいそう、だから……?」
「好きになったら、どうなのよ」
「どうって……それは……」
「言って。あなたなら、別に嫌じゃないから」
連なる問答に口ごもる僕を、アリスは鋭く、尚も円く睨む。
毒気など無いはずなのに、それがどうにも心に染みた。
意志がふやけてしまう前に、僕は感じたことをそのまま吐き出す。決して、アリスには手向けずに。
「えと……。触れてみたいとか、キスをしてみたいとか、手を繋ぎたいとか……。もっと知りたいって、そう思っちゃう……と、思う……のでは、ないかな……って……」
「そう。じゃあ、はい。手」
そうして僕の視界の右端に、肌色の指が飛び込んでくる。
「えっと……?」
「繋いでいいわよ」
アリスはそう言うけれど、いまいち飲み込めない。
「あの、えっと、待って。どういうこと?」
「空気読みなさいよ。さっさとしなさい」
「ななな、なにっ? どういうこと? って、……ぁわっ」
はぁ、とアリスがため息をついたと思えば、次の瞬間には僕の右手はすっかり固められてしまっていた。
でも、思いの外それは優しくて柔らかくて、僕の勘違いかもしれないけれど温かかった。
アリスと手を繋ぐのは、きっとこれが初めてで、そして最後になる。
そんなことを、アリスの言霊に感じた。
「あたしはノアが好きで、あなたはリズが好き。そういうことになっているの。確かに、あたしは昔、あなたのことが好きだった。リズは、あたしのことを好きだった。でも、今は違うでしょう? あたしとあなたの関係は、そういうものじゃないでしょう?」
そう。これは、僕がアリスをフるという行為に値する儀式なのだ。でもそれがただの関係性の破綻ではないのも確かで、友人という関係の始まりも意味するはず。
それはつまり、繋いだ手の意味が変わると言う事。
僕にとって。
「うん。アリスは僕の、一番の親友だよ」
それから、アリスにとって。
「そう。よかったわ。なら、あたしはあなたを見るわ。だから、あなたもあたしを見なさい。得られるものなんて無いだろうけど」
得ることだけが大切なわけではないのだから。
「僕も自慢できるほど無いから、それはお互いさまかもね」
「も、だなんて、言うわね」
そして、失うことでも、人は成長できるものだ。
「アリスにそう言われるなんて、僕も成長したんだなあ」
「黙ってなさい。ああ、そうよ。先に手を離したら罰ゲームだから」
「わかった。いいよ。僕も考えとくから。罰ゲーム」
「あっそう」
それから、自然な流れでもって対面することに合意した僕たちは、ひと時の間に肖って、わざとらしくも不可抗力を装って向かい合う。
覚悟があったおかげで制御されてはいるものの、心拍が加速しなかったと言ったらそれは嘘になる。それは勿論、他でもないアリスだからだろうとも思う。
制服の上からでも際立つ体の横のラインは、そのままの対比を保ちながらも、さらに細く縁取られ美しい。部活動で鍛えられているからか、二の腕周りや腰回りは、すっかり理想の範疇に収められている。そうして、出る必要のないポイントがおさえられているおかげで、結果として出るところは出るという、なんとも均衡のとれた体躯に仕上がっている。
ただ、スレンダーで引き締まっているゆえ、僕よりほんの少し陰影が薄く見えはした。
「悪かったわね。あなたより小さくて」
「いや、別にそんなつもりは……っ。僕も小さいし。鍛えてるから、アリスは。すごく綺麗だと思う!」
少なくとも、昨日の三人よりは。
「ええ、ええ。わかったわ。もう止めましょ。こんな空しい争い」
「あはは、そうだね……」
少し間があって。
僕が、アリスと手を繋いでいるということを思い出して、勝手に熱くなる頃。
「ふふっ。できてよかったわ。普通の会話」
「うん。そうだね」
「…………」
「…………」
「いつまで、こうしているつもりかしら」
「アリスが離すまで、かな?」
「そう。それは普通じゃない、わね」
「そう、かも」
何がそうさせたのか、今日に限っては僕も強情で、その後も着替えをするところまでずっと手は繋いだままだった。蒸し蒸しと熱かったけれど、最後と思うと恋しくて、正直、少し勿体なくも感じたのだ。それに、離してと言われなかったというのも、密かに嬉しかった。
結局、Tシャツに袖を通すところで離れてしまって勝敗を決めることはかなわなかっただけれど。
そうなると、僕は――僕たちは罰ゲームを受けなければいけないことになる。
でも、それももう、決めていた。
「僕はルート。よろしくね」
「あたしはアリス。ノアの恋人よ。アリスでいいわ」
そう。
少し汗臭くなった手を、僕らは今夜、洗えないのだ。
【あとがき】
姉妹ってやっぱり似ますね。
でも、リズの時よりも、ちょっと大人な会話が目立ちます。
アリスも露出が増えて大変です。乗じて、身体の特徴の表現が増えましたが、大事な部分です。
整理しつつ、見逃さず。
大人に近づくってそういうことかも。
次回に続く。




