Ⅱ 四つ折り、恋文を添えて。
【まえがき】
お待たせしました。新章続きです。
ちょっと青春します。
どうぞ。
「ただいま」
玄関の扉を閉めると、外気との温度の差に秋の深け込みを改めて感じさせられる。文芸家の父が性に合わない薪割りに悪戦苦闘していたのは、ついこの間の休日のことだったか。
学校の噂の渦中でもみくちゃにされてホットなのは確かだが、気温とそれはまた別の話だろう。
「おかえりー」
靴棚に靴をしまおうとしていると、奥の居間から体操着姿の妹が出てきた。
「うん。ただいま、リズ」
大きくて丸い瞳、白くて柔らかそうな頬、それ以上に柔らかそうな唇、サラサラのセミロング、背丈は僕より低いがそこまで変わらない。可憐にも凛麗にも受け取れる細い輪郭と、包み込むような温かくて優しい声。勉学も、スポーツも、芸術的センスも、才色兼備たらしめるに必要なものは大体持っていた。
足りないものを先に述べるならば、「今日も体操着だ」ということくらいか。
「いいじゃん。動きやすいんだよ、だって」
ハタハタと襟を靡かせて、体操着の機動力をアピールしてくる。
僕は、色々な意味でドキドキしながらも、「知ってるよ」と流すに留める。
自慢の妹であることは確かであるが、このようにずぼらなので、時たまひやひやさせられる。階段の下に僕がいても、全く気にしてくれないという事例もあった。
幾度となくしている注意は、真に受けてもらえず、からかわれて終わるというくだりが常習化しつつあった。
小突いたりして警告できるほどの度胸が無い僕にも、それなりに問題はあるのだろうけど。
「今日はトマトスープだよ」
「うん。じゃ、手洗ってくるよ」
廊下の途中でリズと別れて、僕は洗面所に入る。
手提げを床に置いて、手を洗う。外と同じ温度を肌に感じながら、丁寧に、爪の隙間まで洗い流す。指と指の間を洗っている時、ふと顔を上げて、目の前の鏡を覗いた。
何を反射しているのか、あるいはただの虚像なのか、それは誰にも証明できないけれど、そこにいた僕の顔は仄かに赤く火照っていた。僕は外気を顔にもう一度浴びることで、平常心でいられた。心拍数が落ちないのは、水を浴びた副作用だと思いたい。
やっぱり隠せないな、と独り言ちた僕は、背後を気にしながらも一旦自室に向かった。
荷物を置いて、部屋着に着替え、ベッドに飛び込んで深呼吸をした。半身を起こして、顔を両手で覆った。ベッドが冷くて、頭が冴えた。電気をつけていない窓越しの夜空には、高等級の星が幾つか瞬いていて、僕の心はすっかり僕から乖離しそうだった。
近頃、僕はこうして放心状態になることが多かった。特に家では。
急に痴呆がやってきたということは無いにしても、この状態下にある時は、本当に何も手につかないのだから、それ相応に近しいものなのかもしれない。
病気と言えば病気だし、そうでないと言えばそうでない。
“恋は四百四病の外”だとは、よく言ったものだ。
自分の中にある気持ちを抑え込もうとするとストレスになるし、隠そうとすると今のように気が散る。吐き出すには勇気がいるし、その勇気を求めるとまたストレスをため込んでしまう。
そう言ったやり場のない想いが、僕の心の中をぐるぐると蜷局を巻くように、いや、竜巻でも起きそうなほどに渦巻いているのだ。
誰のせいなどという議論は後を絶たないけれど、今はそれ以上に“逃げられない関係”にあることが最大の悩みの種だった。物理的にも、精神的にも。
一切の気抜きをしなければ、僕はどうなってしまうだろうか。全く想像がつかない。
平穏無事な気もするが、その逆に修羅場になるような気もする。
煮え切らない。
こういう悩みというものは、往々にして負の輪廻を引き起こすものだと、去年の冬辺りに思い知った気がするのだが。一人では解決できないのだということも、その時に。
であるから、“家”という環境は難しい。距離感が把握しにくい。
「リズ……」などと申し訳程度に気を緩めれば、すぐ――。
「ん? 呼んだ?」
「わっ」
「あ、ごめん。入っちゃダメだった? ノックしたんだけどなぁ。……まさか、夕食前になんかしようと――」
「し、してないよっ」
モノローグの世界に飛び込んできたのは、ちょうどよくもちょうど悪くもリズだった。なかなか来ないのを心配して見に来てくれたのだろう。
勿論これは嬉しいことだけれど、でも、一人になれるタイミングを自分で作り出すことは、やはり、家という環境においては困難極まることが如実に証明されたわけだ。
しかし、そうやって一人になっていてはいけない……という堂々巡りがいけないのは重々承知なのだけれど。如何にもこうにも、である。
「どうしたの電気消して。具合、悪いの?」
「あ。うん。大丈夫。ただの考え事」
「ホントにー? あのさー……。なんか最近多くない? 帰って来てすぐ横になっちゃうの。やっぱり、こそこそなんかしてたり――」
「し、してないって!」
病気だと言えば即刻心配されるだろうし、本当のことを言う勇気もすぐには用意できそうもない。そのおかげで、四百四病の外に侵されているわけなのだ。
だから、誰が悪いということも無いし、病原があるわけでもない。
要するに、僕だけが色々と“怪しい”ということになる。
「ふーん。じゃあ私、熱無いか診てあげるー」
「えっ……」
民間療法というかオカルトというか、とにかくその検温に信憑性は無いのだろうけれど、それ以前に、僕が正確な体温を保てるかが危ぶまれる。
リズがベッドに腰を下ろすと、ぼふっと僕にまで反発が返って来た。視界が瞬間的に上下したと思えば、目の前にはリズがいて、距離も近かった。
僕は思わず、無言で後ずさった。
「ちょっと、なんで逃げるのー。もしかして、私のこと嫌いになっちゃった?」
「い、いや、そんなはずないよ……! 本当に熱があったら移しちゃうしさ……!」
僕の全力がそれだった。
ここでリズを抱きしめて、耳元で本心を呟いたりすれば、とりあえず僕は色々と楽になれるのだろうとは知っていた。リズの答えが何であろうと、きっと。
でも、できなかった。小さい頃から互いを知っているからなのか、形容しがたい気恥ずかしさというベールが何枚も折り重なって、僕の言葉は停止した。
結局、その程度の度胸なのである。
せめて、リズの一挙手一投足各々から、リズの本心を掴めはしないかと、短絡的にそう思ってしまっていた。
「大丈夫だってー。ん、ほら、おでこ」
「いやいや、うん、大丈夫! 元気だから、僕は!」
「そ。やっぱり、私のこと嫌いに……」
「違っ、それはずるいよ、もう……わかったよ。やる、やるから……」
「はい、よくできましたー」
僕は渋々、前髪を分けてリズと向かい合う。合わせられる器量も無いと存じているので、とりあえず目は閉じて肩には力を入れ、それから待機した。
カチカチ、という時計の事務的な音にできる限り耳を傾けて、布の擦れる音や息遣いなどを聞いてしまわないよう努めた。
カチカチより、ドキドキの方が五月蠅くなり始める頃。
ぺたっ。
何かが額に触れた。
熱いと冷たいの中間、湿潤と乾燥の中間、そんな独特な特性で、柔らかいの奥に少し硬い感触もある。まさしく、おでこのそれだった。
何かを悟られそうな気がして、思わず動けなくなる。息も止まる。
それは、まるでサクラに瞬間移動をさせられた時のような浮遊感だった。
どこか危なげで、でもそれでいて何かを期待させるような大きな違和感。それを柔らかく包み込むかのような安心感と、決して拒めない儚さもある。
そんな、至妙な心地だった。
「熱、無いね」
「あ、うん。ならよかった。ありがとう」
「ってことは、やっぱりなにか……」
「し、してないってば!」
終始顔は熱かったはずだけれど、どうやらオカルトだったようだ。もしくは、リズの鼓動もまた、僕と同じだけ高鳴っていたのだろうか。
リズの笑顔を見れば、そんな些事な逡巡は、さっきまでの葛藤と一緒に吹き飛んでしまう。僕はこの人が好きなんだという、整然とした気持ちだけが吹き飛ばずに残るのだ。
そうやって落ち着きを取り戻した偶然を、利用しない手はない。
「それじゃ、お腹も空いてきたし、そろそろ下に行こっか」
僕が勇んでベッドから立ち上がると、不意に右手を掴まれた。
「あ。ねえ。ちょっと待って」
「な、何かな?」
齷齪しつつも、リズに手を引っ張られて再び、自分のベッドに腰を下ろすこととなった。また舞い上がってしまわぬうちに、ケリをつけたい。
「気になって見に来たのもあったけど、そのほかに用事もあったんだ」
「用事?」と訝ると、リズは何やら懐からごそごそと取り出して、それを「んっ」と、ぶっきらぼうに突き出してきた。
「えっと……」
「クラスの男子から手紙預かったの」
「僕宛てに?」
「そう」
言われてみれば、それは丁寧に折り目のついたダイヤ貼りの手紙封筒で、良質な紙でできているらしかった。白くて飾り気のない、無機質なものだと思った。
リズから受け取って全貌を窺うと、それには差出人の名前も無く、僕へという宛ても記載されていなかった。
宛名も差出人も無いということは、その部分をリズに伝えてもらおうと頼み込める立ち位置にいる可能性が高いということ。察するに、手紙の差出人はリズと親しい人だろうか。
リズと親しい男子生徒に、僕は文化祭で出会った覚えがあった。
「もしかして、あのアレン君から?」
「おー、すご。え、なんでわかったの?」
感心した様子ではあったけれど、一瞬顔を顰めたような気もした。僕の察しの良いことが、何か不服だったのだろうか。
そう言えばリズはあの男の子のことを煙たがっていたな、と追憶しながら推理を披露する。
「宛名無いから、リズに「伝えて」って頼んだのかなと思って。そんなことが言えそうな男子っていうと、こないだのアレン君くらいしか出てこなかったから。思い当たる節」
それに、自分に興味の無いリズに手紙を渡せれば、途中で中身を覗き見られることも無いだろうし。
「なるほど。それで、開けるの?」
「え? あ、うん。開けるよ」
せっかく僕宛てに書いてくれたのだから、開けないわけにはいかない。マナーというか道徳というか、僕のために割いてくれた時間が少しでも有意義に昇華されたら嬉しいから。
依然としてリズは仏頂面だったけれど、そんなに何が嫌なのだろうか。
まさか。
本当はリズ、アレンを好きなのでは。それでやきもちを焼いているとか。
だとすれば、僕がこのダイヤ貼りを解くというのは、もしかすれば複雑な三角関係の火蓋を切って落とすのと同義なのではないだろうか。
そんなことになれば、僕に勝ち目はない。物理的にも、精神的にも、勿論“社会的”にも。
そう思うと、急にこの手紙の質感が鉄のように冷たく重く感じられた。リズの確認作業には、そういう意味合いが込められているとかも十分あり得る。
当然、すぐには開けることができなくなる。
封筒の口に手をかけて数秒静止したのち、やはり確認するしかないだろうと心を決めた。
「えっと……。アレン君って確か、リズのこと好きなんだよね」
これも僕の精一杯だった。
婉曲に婉曲を重ねたような表現に、リズの頭上にもクエスチョンマークが浮かんでいた。タイミングという要素もあっただろうか。
「んー。そうなのかな。わかんない。私、モテるから、それでじゃないの。目立ちたがり屋だし、あいつ。ちなみに私は嫌いなの」
「そっか」
自意識十分なことの再確認もできたし、嫌いだという事実も偶然聞き出すことができた。
これだけあれば、封を切るのには万々ではないだろうか。
「それじゃ開けるね」
破くのには忍びなかったので、糊付けされている部分を慎重に剥がした。
そして、中から出てきたのは一枚の紙。これまた丁寧に二つ折りになっていて、うまい具合に中身が透けない。
肝心の中身は文章だろうか、絵だろうか。一体、何が書かれていることだろう。
僕の部屋全体に妙な緊張が走る。
「もったいぶらないでいいのに。そんな価値無いって絶対」
「そ、そんなことはないと思うけどな。じゃあ、見るよ」
恐る恐る、ゆっくりと紙を開いていく。開くにつれてリズが密着してきて気が狂いそうだったけれど、途中でそれが絵ではないことはわかった。
遂に開ききって、そこにあったのは、綺麗な字で綴られた短い文章だった。
『明日土曜日の正午。ルートさんの学校の正門で待っています。 Alien W.』
文章の意味を読み解くのにか、状況を把握するのにか、十秒ほどの間があって、その間僕はどこを見ていたか記憶が定かではない。
空ろな意識が回復してくると、いつの間にかリズは僕から少し離れたところに座っていた。その表情はどこかやるせないように弱々しく、乗じて僕は悪寒を感じた。
「よかったじゃん。ラブレターだよ」
ぶっきら棒に放たれた言葉は、その視線と同じで正しく的を射ない。無機質で、何か思っているようで思っていない。そんな投げ槍の昏迷を、その語調に感じた。
数分前の僕を、思い出してしまった。
だから、もし今、素直な心中を晒すのなら、これしかないのだと思った。
「リズ、もしかして気付いてたの? 中身」
答えは、思ったよりも早く返って来た。
尚も素っ気なく、リズは言う。
「何となくねー。いつも私につきっきりだったのが急にそうじゃなくなって、そこで封筒を渡してって頼まれらさすがにね、気付くよ」
勘の鋭いリズであれば、それは自然な事だと思えた。
その上での素っ気無さとは、一体何を意味するのか。「よかったじゃん」というリズらしからぬ不躾な語調は、一体何を寓するのか。
僕は、僕という立場を利用して尋ねてみることにする。
「リズ……やきもち焼いてる?」
仰々しく壮語するも、恥ずかしいという感情は大いにあったと思う。
リズはもともと大きい瞳を一段と大きく見開いて、僕の肩辺りをボンボンと叩きながら切り返してきた。
「んなっ、なんでだし……っ!!」
「痛たたたっ、痛い痛い! 結構痛いっ。じ、冗談冗談、冗談だよっ。あ、ごめん……。いや、えっと、そうだったらな……って思ったり、思ってなかったり……ってこと、です……。うん。あはは……」
自分の発言の方が痛かったと気付いて、途中から僕の口調は曇った。
でも、率直に、リズの返しも切れが無いなとは思ってしまった。それで、リズの本心をすべて掴めたことには、到底なるはずもないけれど。
これ以上掘り下げれば、それは互いの傷を広げ合うのと同義であると推測した僕は、再度視線を文面に戻して、その意味を考察した。
「これ、本当にラブレターなのかな」
「絶対そうだよ」
単純に疑問だった。
確かに、僕はリズに絶対の信頼を置いている。
だから、信じようと思えば、それはもうなんでも信じられるだろう。けれど、それがそのまま物的証拠になるかと言えば、それはまた話が違うのだ。物的ですらないし、論拠がリズの記憶頼みなのも、証明力としては脆弱と言っても過言ではない。
結論として、この手紙をそうだと決めつけるのには、現時点では不十分なのだ。
「だって、僕にだよ?」
「うん?」
リズは気にも留めていない様子だったが、僕は何よりそこが気がかりでならなかった。
リズという存在が傍に居ながら、一度顔を合わせただけの僕に、どうしてラブレターなどを書けようか。そんなに特殊なおもてなしをした覚えもないし、ラブレターをくれと自演を強要した覚えもない。
つまり、本当に僕のことが好きか、何かの間違いだということになるわけだ。しかし、ミドルにしてはかなりしっかりした印象だったあの子が、そんな大事なことを間違うとも思えない。
要するに、この手紙がラブレターでない可能性は十分にあるということ。
第一、リズのことが好きだと言っていたのではなかったか。
なるほど、そうか。そういうことか。
僕を利用して、リズとの交流を深めようという算段か。視点を変えれば、リズにを経由するという手法を使うことで、リズに下心を気取られずに済むとも考えられるではないか。
するとどうだろう。
僕は、複雑な感情で応対しなければならないのではないだろうか。
「うーん……」とわざとらしく唸ってそれを演出してみれば、それを断つかのように、リズが音吐朗々と言い放った。
「行ってみたらいいじゃん」
相も変わらない無愛想な口振りであることが気になったけれど、一理ある。
結局のところ推論は推論で、答えは行ってみなければわからないのだ。行くべきか行くべきでないかの議論をするならば、それはきっと“行くべき”なのだと納得もできる。
それに、土曜日は一日空いている。
「うん。そうするよ」
「そー」
部屋に入ってきた時よりもかなり落ち込んでいるように見えるけれど、もしかしたら気分でも悪いのではないだろうか。暗い話題でもないはずだし、少し心配だ。
こういう時は、楽しい話で釣るに限る。釣れれば、大丈夫だ。
「そういえばさ」と切り出すと、すぐにリズがこちらを見た。好感触だ。勿体ぶる方が食いつきはいいのだろうけど、相手がリズの場合、焦らしというものは意味をなさない。
「今度のシルバーウィーク、みんなで勉強合宿をするんだけど、一緒に――」
「合宿っ!? どこにーっ!?」
僕の言葉を遮って、前のめりに詰めてきた。特に瞳は輝いていて、暗い部屋にぽうっと明かりでも灯りそうだった。おまけに背筋までピンと伸ばしていて、とても威勢がいい。
どうやら、上手くいったようだった。
大人げないような姑息なような勝負に負けたようなで、色々と悔しい部分はあるけれど、とりあえずはひと段落だろう。
ただ、一つ気がかりがあるとするならば、僕が待ち合わせ場所に行かないと言っていたら、リズの表情は晴れていただろうかということ。
どうしようもない“たられば”ほど、空腹を紛らわせるものはない。
早く夕食を食べて、明日に備えて早く寝よう。
そう思った。
【あとがき】
さらっとした青春感でした。
酸っぱいですね。みかんみたい。
さて、恋文が届いたわけですが、ルートの動向やいかに。
リズの心情も少し気になる今日のこの頃。
次回へ続きます。




