Ⅱ 子供と大人、遠くて近い。
いつもは並列して歩いていたけれど、朝から色々と敗北感を味わったおかげで、今日の登校道はリズが先導する形となっていた。
学校が近づくと、制服姿の人が目立ってくる。
リズと僕が家族であることは周知の事実なので、超がつくほどモテる妹と歩いていても咎められることは、多くはない……多くはないけど、あることにはあった。
だけど僕は、それをリズのせいにすることはなかった。
そんな図々しさで足元の安定感が消失するのを、このところは俯くことで解消していた。
「ねえ、ルー」
「え!? な、何かな!?」
顔を上げると意外に距離が近くて、焦る。
リズは学校でもどこでも、家にいるプライベートな時と同様「ルー」というあだ名で僕のことを呼ぶ。
それが嬉しくもあり、怖くもある。
「今日って部活ないよね?」
夏休み明けの本日より、ひと月ほど前の記憶を漁る。
…………。
結局、探り当てられたのは『勉強しろ』と口ぐちに言う先生方の熱心な姿だけだった。
「ごめん。わからない。後で顧問の先生に聞いてみるよ。でも、どうして?」
「私、今日部活休みだから、ルーも休みだったら、一緒に……買い物にでも行こうかなって」
いつの間にか、リズは僕の隣を歩いていた。
僕が速く歩いたのか、リズが歩く速さを緩めたのか、どちらにせよ僕たちはまた並んで話をしている。
「もしかして、リズは昨日のことを気にしてるの? それだったら――」
昨日も謝ってくれたし、リズは大会だったのだから仕方のないことだと思った。リズだって、家族の誕生会に参加できなかったのは悲しいだろうに。
その旨を伝えようとするも、少しばかり強引にセリフを奪われてしまう。
「でも、一番気にしてるのはルーだと思うの。だから――」
確かに、味わっていた悲しみを数値化すれば僕もリズといい勝負をしていたと思う。
毎年、僕の誕生日に作ってくれる不器用なリズの手料理が、僕はなにより好きだった。
それが無いというショックと、リズがテーブルにいない喪失感、加えてリズ自身が感じているであろう責任を考えると、涙を堪えずにはいられなかったのだ。
自分の涙の理由を思い起こすと、少しだけ強くなれた気がした。
「その気持ちだけで嬉しいよ、リズ」
こんな恥ずかしいセリフを吐くのはいつぶりだろう。いや、もしかしたら、初めてかもしれない。
ーー『感謝』。
それは、簡単そうに見えて難しい、でも、とても大切な言葉だと思う。
家族という括り以前に、僕たちは一人の人間の集合なのだ。感謝するということは、繋がりを保つ上で、おそらく一番重要なことだと思う。
それが恥ずかしくなってしまうのはどうしてなのだろうと、勝手に疑問に思う。
そんな疑問はちっぽけだと言わんばかりに、リズがぐいぐいと攻めてくる。
「でも、それだと私の気持ちが収まらないの。悪いことしちゃったなぁって、ずっと思ってなきゃいけないの」
リズは言下に首を左右に振って、「でも、それは私の我儘」という自己否定を前提する。
「私が嫌な気持ちでいたくないから、ルーとのいざこざを解消したい、ということじゃないの。私はホントに、ルーにおめでとうを言いたいの。でも、それは周りから見れば、勝手なお願いを押し付けているようにしか見えないと思うんだ」
「リズ……」
記憶を遡れば、リズがエレメンタリーにいたという事実はかなり早い段階で見つかった。掘り起こしたというよりは、少し低い場所にあるのを見つけただけかもしれない。
そんな浅くて近い所にいたはずのリズが、僕より先の未来――遠い方に行ってしまう気がして、立ち止まっている自分に腹が立つ。
対応力――一人で解決する力、自立力の身に着いていない子供の僕は、居ても立っても居られなくて手を伸ばす。
きっとリズは、相手が誰であっても伸ばした手を払うことはないだろう。でも、それはリズの不安定な部分なのだ。不安定の対処の仕方が『助長』しかないから、結果がマイナスであってもすべて抱え込むことになる。
僕はリズのマイナスになるつもりはなかった。むしろ、不安要素をすべて取り除いてあげられるくらいの存在になれたら、とも思っていた。
それは、差し伸べられた彼女の手を握ることじゃなく、彼女が伸ばした手を握ることだ。
難しいのなら、それを自然にやってのけるリズの真似でも良い。
だから僕は、リズの願いに呼応するように密かに思う。
〈僕がいつか、彼女の手を握りたい〉
リズが振り返って、両の手の平を擦り合わせて言う。願わくは、その手を握って囁けるよう。
「だからこれは私の我儘なの。それじゃ……だめ?」
「え、うぅん……」
自分の誕生日のプレゼントとして他人の望みを叶えるというのは、どうにも自虐的な気もしたが、それで相手が喜んでくれるなら、と思う自分もいた。
相手が好きな人や、意中の人なら尚のこと「悪くない」と思えるだろう。
「だ、だめ……かなぁ?」
さすがのリズもここまで来ると意固地になる。
思えば、リズは僕のためにやってくれているのだ。断る理由などどこにも見当たらないではないか。手を握るのとは意味が違うけれど、これはこれで良い……気がする。
「うん。いいよ」
心配そうな表情で僕の答えを待っていたリズから、一気に緊張が解けていくのが分かる。
ぴょん、と一度ジャンプしてからガッツポーズ。さらに、顔は太陽のように眩い笑顔。
『あざとい』という雑な一言で片づけてもいいのだけれど、僕はその後に一言『ほどに可愛い』と言い添えたい気分だった。
「じゃあ、場所決めなくちゃだね! ……って言っても、この国でお買い物と言えば二か所しかないんだよね」
さっそく段取りを始めたしっかり者の妹に、今度は進んで主導権を引き渡す。
「そういえば、今日は仕事が忙しくてご飯が遅れるってお母さん言ってたから、ご飯食べに行くのもアリかな」
今朝、家を出る前に母に告げられたのを思い出して、頷く。
「そ、そういえば、美味しいパスタの店があるんだけど……。…………なんだよね」
リズの声は綺麗で澄んでいるので良く通る。聞き取れないのは、意図してボリュームを下げられたかららしい。
美味しいパスタというのが気になったので、確認してみる。
「パスタ?」
「いや、その……、前に部活の子と行ったんだけど、そのパスタの店、『遠い方』にあるんだよね……」
「へ、へぇ。そうなんだ……」
国内に二つあるショッピングのうち、学校から近い方を『近い方』、遠い方を『遠い方』と呼んでいた。
『遠い方』はカップルの聖地として有名なので、特に印象深い。
聖地と言われる所以は、『遠い方』を少し進んだところにある『いかがわしい宿泊施設』の密集地帯にあった。この国のそういう施設はそこにしかないから、若いアベックの行きつく先はそこになってしまうのだ。さらに言えば、『遠い方』にある飲食店でご飯を食べてから……という流れが王道中の王道らしい。
「いや、『遠い方』の話題を出したのには深いイミはないからね! ただ、美味しいパスタがあるってだけだからっ」
取り乱すリズという珍しい光景を目の当たりにすると、僕は一瞬だけ冷静になった。
「うん。わかってるよ。でも、リズは僕の妹なんだし、そんなに気にすることでもないんじゃないかな。勿論、他意はないよ」
家族という周知の事実を利用して、『遠い方』に行くのも悪くないと思った。
僕はそういうのとは無縁なので、無論、そこへは行ったことがなかった。なので、冒険心が優勢に働いてしまうのも無理はない。
「私はルーの誕生日を祝うのが目的だから、どこに行くかはルーが決めていいからね!」
決定権を委ねられてしまうと、悩むのと同時にプレッシャーも感じる。
そして、違和感も。
〈ん? 違和感?〉
「うぅん……」
これは、どっちに行って何をしたいと言う迷いとは質を異にする感情だ。感情という定義をしていいかもかなり怪しい。
そもそも違和感というには、感じている心の容積のようなものが大きすぎるし、後悔を恐れる不安や心配が、その周囲を圧倒的な厚みでカバーしていた。
でもそれは、『少しくらい期待が含まれていてもいいのではないか』と異議を申し立てたくなるほどしっかりとした、深いマイナスイメージに染まった冷たい違和感だった。
そんな曖昧模糊としたイメージは、僕の言葉をも曇らせてしまう。
「どうしようかな……。『近い方』にも美味しいお店はあるし……。でも『遠い方』にも行ってみたいし……」
せっかくリズが提案してくれたのだから、『遠い方』に行ってみたい気もした。
確かに家族関係にある二人がそういう雰囲気のある場所に行っても問題はないけれど、それは周りの人から見たとなると訳が違う。
もし、運悪く同じ学校の人に見つかって噂を流されたら、僕もリズも普通の学校生活を送れなくってしまう。制服を着て行くことになるだろうから、なおさらだ。
〈でも、リズは妹だよ?〉
魔が差したのか、僕はそんなことを考えていた。
好き嫌い云々の前にただの妹だぞ、と。
でも、それは裏を返せば『妹だから構わない』という自己暗示にもなり得た。
だけど、そんな葛藤すら、違和感の前では小さく見える。
「ま、まぁゆっくり考えればいいよ。それにまだ部活が休みかもわからないしね」
そう諭されて、自分がどれだけ冷静さを欠いていたか初めて理解する。対照的にリズは自若とした態度だった。
ただご飯を食べに行く場所を決めるだけなのに、僕は腰を据えて話すことができない。
それほどに、妹のことを愛してしまっているのか、それとも『違和感』の仕業なのか。
どちらにしても、今日は授業に集中できなそうだった。
【あとがき】
好きな人が学校にいると、毎日学校へ行くのが楽しくなりますよね。
一つ気になるのですが、それって大人でも適応されるのでしょうか?
「職場」を代入しても……それは違うか。
次回はクールなあの子が登場ですよ。