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Ⅶ そして僕は、夏を詠む。

【まえがき】

 今章ラストになりました。

 結構屈指の長さなので、お話をもう一度整理してから読んでみましょう。



 どうぞ。




 

 

 

「失礼します」



 中に誰がいるかはわかっていたけれど、とりあえずの礼儀を持ってその扉を開く。

 スライド式のドアが開いていくにつれて、視界に非日常が広がっていく。

「ア、アリス……な、なにやってるの……?」

「あら、遅かったじゃない。見てわかるでしょ」

 そこにいた策士は、まるで「そんなのもわからないの?」と卑下するかのように、僕に理解を求めた。理解はできるが、納得はいかなかった。

 策士の右手には太めの手綱が握らている。その縄の先は、椅子に座らされた華奢な少女の胴回りをこれでもかと言うほどに何周も回って、終いにはか細い腕を左右一緒くたに束縛していた。

 誰が見ても、『監禁』か『拷問』の真っ最中である。

 だから、卑下されるべきなのは僕ではなくて、策士らしからぬ強引な手段を用いているアリスなのだ。

「こんなのダメだよ! アリス、すぐ解放して!」

 そう言っている頃には、僕はもう少女の手枷を外そうとしていた。言うより先に、考えるより先に、行動してしまった。

「あれ……。解けない……。アリス、頑丈に縛り過ぎだよ……。あの、大丈夫ですか……って――


 ぐいぐいと食い込んでいた太い縄を外しながら、少女の顔を覗けば、僕は僕が冷静さを欠いていたことに気付かされることになる。


「サクラ!?」

 だから、「どうして縛られているの?」とか「なんでこんなところに幽閉されているの?」とか、そういう言葉は出てこなかった。

 僕は、そのサクラの表情を見て、少しだけ立ち退いた。

「なんじゃ、るーとも来たのか」

 両手を封じられて、かつ椅子に縛られて足も封じられているにもかかわらず、サクラは笑っていた。まるで、この状況を楽しんでいるかのように。

「の、呑気だね、サクラさん」

 試合前もそうだったね、とは言えなかった。

 あの余裕の意味と、今の余裕の意味を比べるのは少しばかり怖すぎるから。

「気長に待っておれば、解いてくれるんじゃろ?」

「う、うん。多分……」

「いえ。悪いのだけれど、この縄は解かないわよ」

 アリスはそう言って、サクラに繋いだ縄をグイッと引っ張った。

 特殊な結び方をしているのか、縄の締まりがきつくなって皮膚に食い込んでいった。

「たたっ……。ちと、痛い、のじゃ……。もう少し、優しくするのじゃ……」

「手加減してるわよ?」「優しければいいんだ……」

「ちょっとアリス! やりすぎだよ! 放してあげて! ノアさんも、冷静にツッコまないで!」

 アリスが鋭い目でこちらを一瞥してから、向き直って、またサクラを脅かした。

「あなた。どうしてこうなったかわかる?」

「さぁ? わしはお主のことすら知らん。お主もわしのことを知らんじゃろ」

「嘘はいらないわ」

 アリスがまた、縄をグイッと締め上げる。

 キリキリという痛々しい音が、静寂の生徒会準備室に響いた。誰かにこの場を見られたら、完全に誤解を生むだろう。ああ、誤解ではないのか。

「一体何のことじゃ。わしが何かしたのかっ」

 終始笑顔だったサクラの表情も、理不尽な痛みのせいで少し曇り始める。

 アリスは変わらぬ誇った表情で、さらに責める。

「【一不思議】って言葉、当然知ってるわよね」

「【一不思議】? なんじゃそれ」

「この学校の一年生だけで流行ってる、しょうもない都市伝説のようなものよ。知らない方がおかしいくらいに流行ってるわ」

「知らんもんは知らんのじゃ。わしはよく出歩くからの」

「じゃ、これは知ってるかしら?」

 アリスは縄を肩に絡ませて、自分の方へグイッと強引に引っ張った。力が絶妙にコントロールされていて、アリスの口元にちょうどサクラの耳が引き寄せられた。

 外の表彰式も終わったのか、やけに部屋が静かだった。まるで、世界に存在しているのがこの部屋だけ――この部屋が世界そのものになったかのように。

 静まり返った生徒会準備室に、アリスの囁く声が淡々と吸い込まれていった。

「ループする一週間。水着で登校。魔法のある世界。そして――」


『インタビューは一年生代表者さんでしたー! お疲れ様でーす! それではみなさん、楽しかった球技大会も、そろそろ終わりが近づいてまいりましたー!』


 唐突に聞き慣れた演説調子と組み合わない聞き慣れないない声がかなり近くから聞こえて、心臓が心臓に良くない動きをしているのがわかる。

 どうにかして落ち着けようと深呼吸をしていると、ノアが閃く。

「そか……。隣、放送室……」

 なるほど確かに。それなら、聞き慣れない声だと言うのも説明がつく。……と同時に、この現場がいつ発見されてもおかしくはないという説明もしっかりなされることになる。

 僕は一層焦って、アリスを諭そうと努めた。

「ア、アリス……。そろそろ離してあげよう……?」

 決して逃がしてあげるつもりはないけれど、この場面を誰かに見られでもしたら、停学処分は免れないだろう。ましてや、相手が生徒会の人間なら、強行権限で退学もあり得る。それに、一番この場にいてはいけないはずの人間、ノアもいる。

 それを知ってか知らでか、どうやらアリスは従う気はないらしい。

「はぁ……全く。あたしが何のためにこの子を捕まえたと思ってるのよ。大変だったのよ? 足は速いし、廊下は散らかすし……って、そうじゃないわよっ。あなたねぇーー」

「わかってる」

 また溜息をつきそうだったアリスを遮るように、僕は頷く。

 わかっているのは、アリスに問われた内容だけではない。

 僕がここに呼ばれた理由。それは、僕にしかできないことがあるからだ。アリスにはできないことだからこそ、僕がここにいるのだ。

 それが、保健室でアリスに頼まれた『【一不思議】の原因究明』なのだ。『何の変哲もない日常』という【一不思議】に巻き込まれている僕にしかできないこと。

 だから僕は、サクラに問う。問うことができる。一歩、サクラに近づいて。中腰で、目線を合わせて。サクラと歩調を合わせることを約束したことを、思い出しながら。


「サクラがこの事件を起こしているんだよね?」


 それでも、サクラは端的に吐き捨てる。

「わしは何も知らん」

 サクラは、面白いことなら何でも知っている。野球、バスケ、バレー、居合道、文芸部だってそうだった。サクラは、そのすべてを楽しんで、輝かしいばかりの笑顔をしていた。苦手なスポーツも体験したけれど、僕もそれが不思議と楽しくなって、いつの間にか声を出して笑っていた。最後に体験したサッカーの時だって、同じだった。

 球技大会の前日に泣いていたサクラはまだ、楽しいことを求めていた。

 だとすれば、「何回やっても無駄だった」なんて事はあり得ない。

 僕が変えて見せたのだから。

「楽しかったよ。僕は」

 それは、僕の、すべてに対する答えだった。

 これが否定されたら、僕にはもう手は残っていない。

 それでも、僕は伝えたかった。アリスに、ノアに、サクラに、自分に。

 三人の視線が僕に集中する。アリスは少し目を見開いて、ノアは少し俯きながら、サクラは能面のように美しい無表情で。

 僕を取り巻く無秩序な沈黙は、隣の部屋で声を張る生徒会放送係の人の勢いまでも飲み込んでしまいそうだった。

 サクラが口を開くのと、固まった表情が解れていくのは、ほぼ同時だったと思う。


「わしも楽しかったのじゃ」


「よかった……」

「全然よくないのじゃ。せっかく優勝できたと思えば、SMぷれいに連れていかれたわけじゃからな!」

「違うって、さっきから言ってるのがわからないのかしら?」

「アリス……。言葉が、えす、だよ……」

 少し顔を赤らめながら控えめにツッコむノアに、アリスは「違うっての!」と言い返す。アリスの動作につられて縄が引っ張られる。

「痛いのじゃー……」

「あら、ごめんなさい、つい……。というのはさておいて」

 さておいたアリスは、サクラの紐を少し緩めた。逃げられるレベルの締め具合ではないことに変わりはないけれど。

 続けるアリスの語調は、心なしか、先ほどまでよりもテンションが低い。

「どうしてこんなことしたのよ」

「こんなことって、何のことじゃ?」

「はぁ……。まだとぼけるつもり?」

「さっきの話じゃろ? わしは何も知らんと言っておるじゃろ」

「いいわ。それなら、試してあげる」

 アリスは、僕の隣にいたノアに近づくと、手を引いてサクラの前へと連れて行った。

 されるがままに目を回すノアは、その華奢な体躯も相俟って、小さくて可愛らしい人形のようだった。サクラの目の前に立たされて、キョロキョロと挙動不審である。

「あなた。この子、知ってるわよね?」

「知らん。のあと言ったか。さっきお主が連れてきた時に初めて見たぞ」

「それはおかしいわね」

「な、なにがじゃ?」

 また締め上げられると思ったのか、サクラの声にも少し警戒が混じる。

 アリスはわざとらしく笑って、責めの語調で不敵に脅す。

「ふふふっ。全く、おかしいわ。あなたは、知っていなければならないのよ。この子のことを」

「どういう意味じゃ」

「ものすごく簡単なことよ。あなたの有意志無意志関係なく、この子があなたに会っているっていう、至極簡単なね」

「知らんと言っておるじゃろっ」

「だとしても、あたしがどっちを信じると思うかしら?」

 言い終わったアリスは、一度「ふふんっ」と鼻を鳴らして、余裕の表情をしてみせる。

 まだ何か隠していそうで、末恐ろしい。そう思わせるような黒い笑みを浮かべながら、アリスはサクラの髪の毛をくるくると指に巻いたり、結ってみたり、弄ぶように遊び始めた。

 予想だにしない行為に呆気にとられたのか、サクラにあったさっきまでの余裕は、少なからず減退したのがわかる。蹂躙というか服従というか、サクラの赤らんだ顔を見るに、どちらともいえない気もするけど、ニュアンスとしてはそのような感じだろう。

「く、口裏合わせてるだけじゃろ!?」

「残念ながら、それはないわね。あたしとは別クラスだし、休み時間忙しくて、会ってる暇もないわ」

「しし、知らんもんは知らんのじゃ……。や、やめんかっ……くすぐったいっ」

「あら、そう。じゃ、この子(ノエル)にも確認してみましょうか?」

 アリスは淡々とした口調でそう言うと、ノエルと呼ばれた少女の方へと近づいていく。

 僕の目がおかしくなければ、この世界が正しければ、その少女は紛れもなくノアのはず。ましてや、アリスが間違えるはずはないのに。

 アリスは、背後からノエルの両肩に優しく触れて、「ほら」と押す。

「え、あ、うん……。サクラ、本当に覚えてないの……?」

 ノエルは心底悲しそうな表情で、サクラに言い迫る。きっと、忘れていることが本当に悲しいのだろう。

 その純粋な悲しみは、本当にサクラの心に傷をつけるのだろうか。

 サクラはぱちりと目に力を入れ、ノエルを凝視する。

 アリスのため息が聞こえるまで、十数秒ほどそうしていただろうか。

「はぁ。もういいわよ。行きましょ、ノエル(・・・)」

「う、うん……」

 そうしてアリスは、ノエルを連れて僕の横を通り過ぎていった。その時のアリスの表情は、次に何かが起こることを自然と推測させる、企み顔だった。


「ま、待つのじゃ!」


 アリスが出口のスライドドアに手をかけるかかけないかくらいのタイミングで、サクラが叫んだ。縄で縛られているからその場から動くことはできないけれど、相当勢いよく叫んだせいか、少しだけ椅子がこちらの方へずれ動いていた。

 サクラは肩で息をしながら、もう一度口ずさんだ。

「待つ、のじゃ……」

 僕の位置からはアリスの表情は見えないけれど、おそらくは笑っているだろう。それはもう、誇りに満ち満ちた、満面のしたり顔で。

 サクラの自制心を弄ぶかのように、アリスの目の前のスライドドアが開く。ノエルはちらりとこちらを一瞥したけれど、アリスは聞き入れていないらしかった。

 そして、そのまま生徒会準備室を出て行ってしまった。ご丁寧にドアまで閉めて。

「い、行ってしもうた……!」

 サクラの焦燥が、生徒会準備室に木霊する。書類の山に吸収されて、空しくも、直ちに響かなくなったけれど。

 さて。

 僕はサクラの方へ向き直って、改めて考える。

 アリスは、僕をここへ残して立ち去った。僕を必要としてここに呼んだ。サクラに、ノアをノエルだと錯覚させて、記憶に揺さぶりをかけた。

 そうか。

 もしかしたらこれは、アリスの言うように簡単なことなのかもしれない。



 ――僕は、ここにいるだけでいい?



【一不思議】の蔓延るこの学園で、おそらく唯一、『何もない日常』という【一不思議】に巻き込まれている僕だからこそ、僕はここに呼ばれたのではないだろうか。

 ここにいて、【一不思議】という非日常を――『ふつうでない』ところを、観測しろと。そういうことなのではないだろうか。

 ならば、僕のすることは一つ。

 サクラを見ているだけ。

 そうすればきっと、ボロがでる。ボロが出れば、必ず修正が入る。ループする一週間や水着で登校する光景が、夢や噂として昇華されたように。

 だから僕は、楽しいことを求める人が必ず持っている、『運の尽き』という運命の間隙から、サクラを覗いてやろう。そうして見えた本当のサクラが、僕が――僕たちが今一番会いたいサクラだ。

「…………」

「…………」

 誰も来ないであろう部屋で、クラスメイトの女の子と二人きり。相手はとびきり可愛らしくて、好奇心旺盛で明朗快活。彼女をどう隠そうとも、彼女の才能がそれを許してはくれないだろう。

 どんな問いかけにも元気に応じてくれて、こちらまで元気になってくるようだった。その際限のない原動力は一体どこから来るのだろう、とかなり疑問だ。

 落ち着きがないかと思えば、休み時間に木の上で眠っていたり。授業に出てみれば、綺麗な紙飛行機を折っていたり。音楽の授業では、鍵盤ハーモニカという名前の珍しい楽器を持ち込んでみたり。とても面白くて、一言で表せない存在だ。

「…………」

 サクラがきょろきょろと部屋の中を見渡しているおかげで、僕と目が合うことはない。しっかりと観察している感じがする。

 けれど、手持ち無沙汰ではあった。

 禁止されているわけではないと、僕はサクラに一歩歩み寄った。

「なんじゃ。助けてくれるのか?」

「うん。でも、ごめん。もう少しだけ我慢できる?」

「焦らしか。それなら仕方あるまい」

「あはは……」

 苦笑いしたあと、僕はサクラの隣に腰かけた。椅子が無かったので、普通に床に座る。サクラが縛られている椅子は他のところから持ってきたのだろうか。

 サクラは僕が隣に座る様を見届けると、また、部屋の中の観察を再開した。

「抜け出す方法でも探してるの?」

「そんなところじゃ」

「サクラ」

「なんじゃ」

「なんだか焦ってるみたいだけど、大丈夫?」

「大丈夫なはずあるか! 手足を封じられて、誰も来んところに閉じ込められとるんじゃぞ、全く! わしは先生に言ったりはせんが、このままここにいるのは退屈なんじゃ!」

 厳重に縛られた手足の先をバタバタしながら、威嚇する子犬のように唸る。

 今手を出したら、噛みつかれそうだ。

「お、落ち着いてサクラ!」

「うぅー。全く解けん。適当に結びよってあの娘っ。“えすえむぷれい”の“え”の字も分っとらんな!」

「はは……」

 えすえむぷれいのすべてがわかっていて、わざと乱雑に結んだ気がしてならないのは僕だけか。

 そういう光景が容易にイメージできてしまうから怖い。

「ほれ、るーと! 早う解かんか!」

「ごめん。それはできないんだ。もう少しだけ我慢して」

「もう少しって……一体いつまでじゃ! のう、誰か来たらどうするんじゃ? ただではすまんと思うぞ、わしは」

 この状況を逆手に取った脅しをかけてくる。

 でも、目は大きく見開かれていて、耳も赤い。焦りは隠せていない。

「それなら、“えすえむぷれい”をしてるって言うよ」

「なっ!? なんじゃとっ!? お主はやられる側じゃろ! 性格的に! って、違う! そんな話はしとらん!」

 アリスの施した拘束が効果を発揮しているのか、必死にセルフツッコミをするサクラの息が、徐々に荒く、点々と細切れになってくる。

 一人愉快にしていたサクラは、深呼吸して改めて口を開いた。

「そうか。この世界のお主は、ちょっと意地悪なんじゃな。やはり、勝利には代償がつきものなのかもしれんのう」

 実際、そうかもしれない。

 僕の掲げた『逃避による勝利』という理想の先にあったものは、確かな『断片的達成感』だったのだから。

 その瞬間、勝ってしまったという結果だけが釈然と心に残存して、非常に胸糞が悪かった。逃げては辿り着けない結末だと知っていたからこその、情動だと思う。

 でも同時に、クラスメイトや周囲の人間が、笑顔になっていた。それだけで、『やっていてよかった』と思えた。それは、僕が“あの時”、涙とともにフィールドに置いてきた感情だった。

 最後のPKを決めた時は、本当に泣きそうだった。

 だから僕は、「そうかもね」と代償を肯定した。

「サクラ。最後、泣いてたよね」

「な、泣いとらんっ。砂埃が目に入ったのじゃ!」

「はははっ。じゃ、それがサクラの代償だね」


 ――泣いてもいいんだ。


 この球技大会を通して、本当にそう思えた。

 逃げたって立ち向かったって、その先にある目的地へと辿り着ければ、人は笑顔になれる。

 結果論だと言われるかもしれない。それでもいいと、僕は思う。大切な人が死んだことをやり直した『願い』を、正当化しているだけだと言われてもいい。

 それでも僕は、皆が幸せな方が良い。僕を僕として見てくれる、周りの人たちが、笑ってくれているだけで。



「急に怒鳴ったり急に笑ったり、なんなんじゃ一体……。ほんに、変な世……あ」



「変、か」

 それは、僕の知るサクラが決して口にしなかった言葉。そして、部屋の外で聞き耳でも立てているであろうアリスたちも、きっと耳にしたことがないはず。

『何も起こらない』はずのこの世界で、非日常を観測できるはずもない。

 ただし、例外はある。

 そう、真犯人だ。『ふつうでない』という事象を『ふつうでない』と認識できる人間こそ、この一連の騒動の犯人なのだ。

 さあ。

 現行犯のとる行動と言えば、二通りしかない。

「気付かれてしまっては仕方があるまい。優勝したのはもったいないんじゃが、優勝する可能性が世界に存在することが分かっただけで十分な収穫じゃ」

 一つは、目撃者への奇襲。所謂、口封じ。

 でも、体操着は半袖半ズボンで、仕込み武器を忍ばすことができるほど複雑な作りをしていない。ポケットも横に二つ付いているけれど、この状況を打開できるようなアイテムを入れたりはできないサイズだと思う。

 僕は身構えて、もう一通りの対処に努める。


「【解除】じゃ!!」


 サクラがそう叫んだ瞬間、聞いたことのない響きも一緒に聞こえた。何かの単語や言葉だと言い表すには少しばかり世俗離れした混沌とした発音だった。

 けれど、縄はサクラの指示通りに、しなっと解けてしまった。

 床に落ちた縄は、さっきまでの厳格堅牢な様相から打って変わって、だらしなくうねっていた。サクラがそれと対称的に元気になったせいで、縄が活力を吸い上げられたように見えなくもない。

 吸うものもなさそうなものから、何かを吸収できるかと言えば、そういうわけではない。ましてや、縄を解いてしまうほどの力が漲ってきたりもしない。

 それはつまり、そういう力を隠し持っているということ。

 僕はサクラの想う『面白い』を信じて、問うてみる。

「サクラ。今の、何……?」

「気にするでない」

 よっこらせと年寄り臭く立ち上がったサクラは、アリスに遊ばれて乱れた髪の毛を元に戻すと、手首をくるくると回して、何かに備えているようだった。

「のう、るーと」

「何かな」

「もし、おぬしの考えが正しかったら、わしの手にした勝利は本物じゃろうか?」

 サクラはどこか物悲しい表情でそう言った。変わらず手首の運動しているけれど、なんとなく、手持無沙汰だからしているような気もする。

 心の隙間を隠すために僕から目を逸らしてまで、サクラは疑問をぶつけてきたのだ。

 答える以外の選択は、できない。

「サクラがそれを勝利だと思えば、それは勝利だよ。だって、サクラは楽しかったでしょ? 優勝できて、嬉しかったでしょ?」

 サクラは素直に頷いていた。

 安心して続く言葉を紡げる。

「僕も、嬉しかったよ。楽しかったよ」

「そうかの……。それはよかった、のじゃ……。じゃが……」

 そう呟くと、サクラは俯いてしまった。

 どんな表情をしているのか気になってくる。僕について何か考えているのか、あるいはこの世界のことについて考えているのか。表情を見れば、何かわかる気がしたからだ。

 隠し武器は持っていないだろうと信じて、一歩一歩近づいてみる。

 丁度顔を覗き込める距離感になった、その瞬間だった。

「じゃが、少し気になることもあるのじゃ」

 サクラの姿が一瞬にして消え、声が背後から聞こえた。そんなはずはないと目を擦ってみても、そこにサクラの影はない。

 この世界を疑り深く探るようにゆっくり、ゆっくりと後ろを振り返る。



「え?」



 空きっぱなしのスライドドアの敷居の上に、その姿はあった。

 僕の認識できる時間の流れを超えて、一瞬でそこへ移動したのである。

 物体の移動には、その重量と速度に応じたエネルギーが必要なはずだ。でも今、光や熱は感じなかった。あるべくしてそこにあるように――まるで最初からそこにいたかのように、サクラはそこに仁王立ちしていた。おかげで表情は臨めたけれど。

 今の僕にとっては、瞬間移動の存在よりも、そっちの方が確実に優先的に意識された。

「どこに行くの?」

「さっきのノエルとやらのところじゃ」

「あれは、ノアさんだよ」

「やはりそうか。じゃが、さっきの物憂げな表情は確かに本物じゃった。あやつは、本当にノエルとしてわしのことを見ておった」

「それってどういうこと?」

「要は、のあが自分の潜在意識れべるから、自分自身をのえるだと確信しておる、ということじゃ」

 難しいことを言っているようではあるが、整理するととても簡単な話。ニュアンスで理解できると思ったのか、サクラは補足説明しなかった。

 僕は、サクラの考えと答え合わせをするために、改めて口に出す。

「それってつまり、『ノアがノアじゃない』ってこと……だよね……?」

「ほぅ! さすがるーとじゃ。そういうことじゃ。自分が考えていることは、自分以外にはわかるはずがない、ということじゃな!」

「じゃあ、さっきのノアは一体誰なんだろう」

「考え得るのは、わしが作り出した並行世界ののあじゃろうか。もしくは……」

「そういうこと、さらっと言っちゃうんだね……」

 ついさっき、目の前で瞬間移動をされたら、信じざるを得ないけれど。

 その魔法のような力の原動力――もとい、因果がどこにあるのかは、後でアリスと協力してじっくり聞き出すとして、今はサクラの動向に留意しなくてはならない。

 そんなことを考えている間に、サクラは僕に手を振って何やら言っていた。

「そいじゃ。わしは、あの二人を探す。また後でな」

 そうしてまた、目の前から消えようと――っ!?

 消え方が、さっきと明らかに違った。

 さっきは、音も無く光も無く、本当に瞬くよりも速く消えていたのに、今のは視界の右下へとフェードアウトしていくのがわかった。何かにぶつかった音もきっちりと聞こえた。

 スピードはものすごかったけれど、瞬間的かと言われたらそれは少し違う気がする。

 準備室を飛び出して、駆け足で追いかけると、そこにはサクラの上に覆いかぶさるようにのしかかっているアリスの姿があった。

 アリスはそのまま首を絞めるように胸倉をつかむと、妖しく尋ねた。

「へぇ。あなた、おかしなこと、するのね」

「な、なんのことじゃ」

「誤魔化さなくてもいいわよ。全部見てたから」

「扉は締まっておったんじゃ。そんなはずはあるまい……!」

 アリスはぐいぐいと襟を引っ張って、サクラの感情の高ぶりを削いでいく。次第に表情も苦いものになって、見ているこっちまで苦しくなってくる。

 それに耐えかねたのか、アリスの影に隠れていたノエルが、一歩前に出てきた。アリスの袖口を撮んで小声で訴えた。

「ア、アリスぅ……。もう、止めてよぅ……」

「これぐらいが丁度いいのよ。じゃないと、また逃げられるわ。確か、あなたの【テレポーテーション】は接触しているもの全てを移動させるのよね?」

 ノエルの制止に対するアリスの答えは、あまりにも非現実的過ぎていた。けれど、アリスが口から出まかせを言っているようにも見えない。もとよりそんな性格はしていなかったはずだし、何より、アリスの憤怒の表情を久しぶりに見た気がする。もしかしたら、初めてかもしれない。

 気道を狭められてか、凄まれてか、サクラは涙ぐんだ声で苦言を呈した。

「い、痛いのじゃぁ……」

「ア、アリス、お願い……。サクラ、悪い人じゃないの、ノア(・・)、知ってるから……」

「…………」

 ノア(・・)に懇願されると、アリスは少し不満そうな顔をしてから、「……ったく」と毒を吐いてロックを解いた。憤怒のベクトルが悪い所へ昇華されなければいいのだけれど。

 持ち上げられていた半身分、サクラは落下して、その衝撃で背中を打っていた。少しの間、けほけほと息苦しい咳をしてから、ふぅと二度ため息をついてとりあえず落ち着いたようだった。相も変わらず、アリスはまたがったままだったけれど。

 これは、“えすえむぷれい”と言い訳するにはかなり苦しい。

 サクラの荒い呼吸が落ち着くのを待つように、暫くの間沈黙が続いた。

「結構痛かったのじゃ……」

「あらそう。加減はしていたのだけれど」

「お主、えすの才能があるのう」

「聞こえなかったことにしてあげるわ」

 アリスは絶対敵に回さないようにしよう。心の底から、そう思った瞬間だった。

 不敵な笑みのプレッシャーに押しつぶされて――もとい、腹部に乗っかられて、少し苦しそうに、サクラがまた尋ねる。

「のう、のあよ」

「な、なに?」

「やっぱり。お主はのあか」

「あ、うん。そうだよ」

 ノアは忌憚なく、さらりと告白してしまった。

 ノエルという呼称について、何らかの作戦だと思っていた僕は内心ひやっとした。

 しかし、恐る恐るアリスの顔を覗き込んでみれば、そこにあったのは僕が危惧するような形相ではなく、いつも通りの作られた笑みだったのであった。その笑みが意味するものは、僕だって知っている。

 僕は再びサクラの方へ向き直って、踏まれている友達と、それを踏んでいる友達と、それを見ている友達の、不思議な話の展開を追う。

「さっき言ってたことは、本当かの?」

「え? ノア、なんか言った?」

「とぼけるのはやめるのじゃ。こんがらがる」

「誰のせいでそうなってると思ってるのよ」

 アリスの手が、がサクラのほっぺを両側から挟み込む。柔らかく歪んだ顔は、白さも相俟って、どこぞのパン生地みたいで、食べたらなんとなく美味しそうだった。

 喋りづらそうにサクラが返す。

「しょれは、もうみちょめるわいっ」

「あら。存外早いのね。でもそれだと、色々と聞くことがあるのだけれど、いいのかしら?」

「しゅきにせぇ!」

 凄んでそっぽを向こうとするも、頬を抑えられて動けないようだった。加えて、話し方がおかしくなっているせいで、イマイチ迫力に欠ける。

 何かに目覚めたのか、頬を撮むアリスの表情がものすごく楽しそうに見える。

「じゃあ聞くわ。あなたのその力、一体なんなのよ」

「あれは、そうじゃな……。魔法かのう……」

「魔法? 残念ながら、この世界に魔法は存在しないのよ」

 友達が友達の上に乗って、しかも非現実的が過ぎるおかしな話をしている。

 今、この現場に部外者がいたらきっと、知らない世界に一人取り残されたような感覚に陥るのだろう。

「じゃて、あれは魔法以外には何とも言い表しようがないのじゃ」

「そう。まぁ、いいわ。それなら、聞かせてもらえるかしら。あなたの言う魔法の原動力」

 アリスの言う原動力は、魔法を使うために必要なエネルギーのことではなく、いかにして使えるようになったのかだろう。

 現実思考のアリスがそれを問いただすのは甚だ不思議ではあるけれど、今はそんなことよりも、サクラという人物について知りたい。もっと、何の食べ物が好きかとか、どこに住んでいるのかとか、家族はどんな人なのかとか。

 だから、僕は大人しく質疑応答の順番を待つことにする。

「原動力か。それは、わしも聞こうと思っておったところじゃ」

「あら。あなたに聞くことなんてあったのね」

「お主にじゃないわい」

 サクラの視線の先には、注目を浴びて委縮するノアの姿があった。

「え? え? ノア、なの……?」

「そうじゃ。ちょい、見づらいから、こっちへ来んか」

「う、うん……」

 ノアはどこかぎこちなく、サクラの方へ歩いていく。踏まれている人に呼ばれることはなかなかあることではない。ぎこちないのは当然だろうか。

「ありすで塞がってよく見えん。もう少し寄るのじゃ」

「あ、うん……」

「もうちょいじゃ」

「こ、こう……?」

 サクラの指示通り、徐々に距離は詰められていく。ついには、ノアがサクラの髪の毛を踏むギリギリまで、接近することになった。

 そして、踏まれそうになったサクラはニヤニヤしながら一言二言添えるのであった。

「のあよ」

「な、なに? も、もう寄れないよ」

「可愛いの履いとるのぅ」

「ん? え?」

「ピンクピンクのフリフリじゃ」


「きゃっ」という純粋で素直な叫びが、僕たちの左右に伸びる静かな廊下に、ひっそりと木霊した。その音が反響して耳に返ってくる頃には、確かな羞恥がその表情に顕著に表れていた。

 けれど、その当たり前の光景に、僕は驚いていた。


 その瞬間、飛び退いたのはノアだけではなく、アリスもだったから。


 地面に寝そべっていたサクラが、束縛から解放されてゆっくりと立ち上がる。そして、肩をくるくると回す体操をしながら、飛び退いたアリスの方へと歩み寄っていく。

 近づいてきたサクラを、鋭くきっと睨みつけるアリスの顔と耳は、今まで見たことがないくらい、赤かった。

 その反応はまるで、『ノアの反応を鏡に映したかのよう』だった。

「そうかそうか。なるほどのう」

「な、なによっ。この、変態っ」

 アリスは真っ赤になった部分をすっかり覆い隠すように、両側から頬を手で挟み込んでいた。その指の隙間あたりを舐めるように見つめて、サクラは嫌らしく笑う。

「わしも聞きたいのう。お主が今、飛び退いた原動力」

「そ、そんなの、あなたが急に動くからでしょっ」

「わしの上に乗っておった奴が何を言うか。わしは動いとらんはずじゃ。それに、女同士じゃぞ。なにも、驚くことなんてあるまい」

「だ、だからそれは、あなたがおかしな力を使うからで――」

 過去を顧みても、こんなにも流暢に言い訳を重ねるアリスは見たことがない。中身のない空虚な御託を並べて、身振り手振りまで添えている。

 そんなことに呆気に取られていると、次の展開を処理しきれない。

「じゃ、じゃさ……。ノア言うから、サクラも……っていうのは……、だめかな……」

「ノ、ノア、あなた……!」

「だ、大丈夫。ルール違反はしてないし、サクラ、悪い人じゃないもん。それに、サクラなら何か知ってるかも……だし……」

 頭をフル回転させていると、ルールという耳慣れない単語が飛び出し、また回転が狂わされる。

 手がかりの掴めない不条理なことが多すぎて、頭がこんがらがってくる。もっとゆっくり喋って欲しいけど、そうもいかないようで。

「わかったわよ……。ノアが良いなら、それでいいわ」

 何かに観念したのか、アリスは小さく深呼吸をして、もう一度ノアの方を見た。

 ノアはアリスと目を合わせて、一度頷いた。そんな二人の間に割り込むように、サクラが横槍を入れる。

「よいのかのう。仮にお主が本当のことを喋っても、わしは本当のことを喋らないかもしれんぞ」

「大丈夫。サクラ、そんな人じゃないって、知ってるから。それに、ノア、嘘つけないって、知ってるよね……?」

「う、ぐ……」

「じゃ、言うね……」

 綺麗に反論されて、サクラは二の句が継げずに焦っていた。焦っているのは、サクラだけの話ではなかった。

 これほどまでに不思議な事が僕の身近で起きている、という事実を受け止めるので精一杯だった。そうして一つ一つ処理していけば、また新しい不思議が現れて、際限なく僕を悩ませるのだ。

 この一週間で最大の不思議は、ノアの口から飛び出した。



「ノアの全部は、アリスに伝わってるの」



 漠然とし過ぎていて、逆に理解がしやすかった。今現在、この廊下に流れる空気が、不可思議に満ちているせいなのだろうか。処理に追われていた脳の負荷も、合点がいったようで、一斉に軽くなる感じがした。

 ノアは補足するように続けた。

「ちょっと前にね、ノア、夢を見たの。アリスと喧嘩した夜だよ……あ、喧嘩じゃなかったんだけどねっ」

 とある単語に反応して、ノアの話は宙を舞い始める。

 そう感じるのは僕だけだろうか。

 今度は身振り手振りも交えながら、徐々に話の核心へと迫っていく。その表情は、明るくも暗くもなかったけれど、どこか割り切ったような、透き通った清々しさがあった。

「夢の中で言われたの。『私の願いを叶えて』って……。ノア、思ったの。これは、おとぎ話と同じだって。そして、『ノアの夢が叶うんだ』って。だから、すぐに願ったの……。ノアの誕生日、忘れて欲しくない。また、ノアの部屋に来てほしい。一緒に遊んで、ずっと傍にいて、もう離れたくない――」



 ――『アリスにノアのすべてを知って欲しい』。



「あ、ありがと……。嬉しかったわ」

 離し切った後、どうしていいかわからなくなったのか、ノアは泣き出してしまった。それを慰めようと、アリスが頭を撫でてあげていた。学校という公共の場で、また、おかしな噂が流れないように努めながら、微かに。

 聞いてしまった者は、この話を受けての答えを出さなければならない。当然、僕も。ノアの『願い』の内容を聞いて大きなため息をついてから、ずっと虚空を見つめているサクラも。

 目の焦点が合うまで、十数秒あっただろうか。

「ふぅ……。そうか、のあはそんな『願い』を叶えたんじゃな……」

「ノ、ノア、アリスのこと、好きだから……」

 決して望む意味でなくとも。

 そんな物言いの落ち着いた表情で、ノアはそう語った。

 視線を散らすアリスの耳が、少しだけ赤らんでいるような気がした。いつの間にか暮れていた日のせいとも言い切れないと、僕は確かに思う。

 涼んだ表情そのままで、ノアが続けて問う。

「サクラ。やっぱり、サクラのその力も、そうなの……?」

「そうじゃ。わしも同じ。『願いの夢』の力で手に入れたものじゃ」

 淀みの無い、忌憚も無い、そんな口調で、サクラは言った。

 僕は、完全に思考停止した。

 決して、ノアの言葉では信じられなかったのではない。非現実を具現化したような存在であるサクラが、その言葉を口にしたからである。

 僕の中にあった、非現実――『夢』と現実との境界線が、一気に掠れて見えなくなっていくのがわかる。確実に、『夢』は夢でなくなっていく。

 それに乗じて感じたのは、恐怖でも不安でもなく、果ての驚愕でもない。

 無だった。

 僕は無知を装って、必死にその無を隠そうと努めた。

「ノア、自分だけかと思ってた……。ちょっと、安心……した、かも……?」

「ぬはっ。そうじゃな。わしは仲間じゃったんじゃな。さっきまで踏まれておったがのう」

「うるっさいわねっ」

「そ、それで……。サクラ、何を願ったの?」

「わしか……。わしは、そうじゃな……。『魔法が使いたい』かのう……」

「適当ね」「忘れちゃったの?」

「わ、忘れとらんわい」

 目の前に存在していた非現実が、どんどん現実へと変貌していく。それは、アリスの言葉のせいであったり、ノアの言葉のせいであったり、サクラの言葉のせいであったりする。

 僕が見ていた景色は、大きくは変わらなかったけれど、その中身は大きく変わったのだと思う。断面を見ることは人間にはできないけれど、触れていれば何となくわかる気がする。温度とか、感触とかそういう感覚的なもので。

 こうして三人が話しているけれど、もしかしたら、三人は僕の知っている三人ではないかもしれなかったのだ。

 それが、今、唐突に、一つの解答に向かって収束させられたということ。


 ――この世界はサクラの作り出した偽物だと言うこと。


 ――不思議の抜けきったこの世界で、ただ一つ残ること。


 ――サクラの望む通りに、勝利を掴んだということ。


 僕は、思案の外、絶望していた。

 アリスに調査を依頼されて少し思考を巡らせてから、この世界の行く末は消滅なのかもしれないと、僕は心のどこかで推測していたからだ。核心めいたものも感じていた。

 それでも、僕は真実を探した。

 逃げ惑い、立ち向かい、辿り着いた。

 願いを求められて、それに応えて、そして満たされた。


 ――僕は、願われれば、人も殺してしまうかもしれない。


 一抹の不安は、急に開いた扉のせいで吹き飛んで行った。

 それでも、心の奥底にしっかり根付いたそれは、拭いきれなかったけれど。



「あー!! あなたは!! ル、ル、ル、ルーティ……? あ、そう、ルートさんだ!! 今球技大会のMVPのルートさんじゃないですかー!! どこ行ってたんですか全くー!! ……はっ!? まさか、『名乗るほどの者じゃないぜ……』的なアレですか!? やだ、カッコいいっ!! どうしようワタシっ。じゃ、せっかくなんで、ここでMVPの表彰状を渡しまっすー!! 特別に、放送室に入れてあげますから、どうぞ入ってくださいー!! うっはぁすごい! サイン貰っていいですか!?」



     □■□■



 一週間後。あるいは、一週間前。



「これっ、押すでない」

「お、押してない、けど……ごめんなさいっ!」

「この人だかりじゃ、仕方ないわね。ノア、いるかしら?」

「い、いるよー……」

 今日は、入学式後のクラス分けの発表日だった。

 流石の人気国立校だけあって、一学年の規模でさえ凄まじい。校門前の掲示板に張り出された一枚の紙を拝もうと、何百人という学生が犇いて校門を塞いでいる。

 上の学年の人たちが驚いたりしないところをみるに、毎年恒例の光景なのかもしれなかった。

 これが毎年行われていると考えると、正直、人の波に抗うことに疑問を覚えてくる。そこまで急いでいるわけでもないのだ。

 でも、何となく早く見たい。そう思う人がたくさんいると、こうなるのだろう。

 掲示板のもとへたどり着く頃には、元気が無くなっていた。

「ふぅ……。疲れた……」

「そうね。あたしも疲れたわ。この後また催し物があると思うと、本当に憂鬱ね」

「ノア、酔ったかも……ううぇ」

「ははは……。それじゃ、ささっと見て、教室に行こう」

 張り紙に顔を寄せると、小さな文字がびっしりと並んで、配属クラスについての詳細を示していた。

 自分の名字の頭文字をあてにして、視線を流していく。

 自分の名前をの所在を確認した後は、自然と、二人の名前も確認したくなる。そういう余計なことを考える人がたくさんいると、また、こうなる。

「あ。僕、ノアさんと一緒だ」

「え、ほんとっ? ノア、アリスと同じだよ?」

「何よその芋づる式。まぁ、一緒なら色々と安心ね。一人を除いて」

「ア、アリスが僕を見ているのは気のせいだよね……!?」

「あら。気のせいじゃないわよ。別に、あなたを仲間外れにしようって訳じゃないわ。隣の張り紙、見てみたらどうかしら?」

「ま、まさか……! 視線を逸らしている間に、人込みの中に消えるつもり!?」

「ち、違うよー……。ルート、生徒会副会長に任命されてるんだよ……」

 ノアの言うことを信用して、ちらりと一瞬、そちらと思しき方へ顔を向けて、すぐ戻る。

 よくは見えなかったけれど、何やら、自分のフルネームがでかでかと書かれているようだった。

「えっ? あれー……。おかしいなー……」

 向き直ってもまだアリスたちがいたので、今度こそ信用して拝んでみる。


『Loote Q ueer 以上の生徒は、一学年代表として生徒会副会長に任命する。学校長』


 何らかの手違いも起きていないことを証明するかのように、校内放送が校門前に響き渡る。「何事だ」と、周囲からガヤの賑わいが消える。


『生徒会長兼放送部長、ルリよりご連絡いたします。次期生徒会副会長のルーティ・キュー・ヴェールさんは、大至急生徒会室まで来てください。……え? これルーティじゃない? ルート? うわぁ。なんかそんな気はしてた! し、失礼いたしました、訂正します。新一年生のルートさん、生徒会室まで来てください。生徒会長ルリがお待ちしております』


 放送終了の合図が空しく鳴って、また、ガヤが戻ってくる。けれど、そのガヤの内容はさっきまでの期待や不安とは違って、「お気の毒に……ルートさん」「可哀想……」というお悔やみの声だった。

 終始、目の前でにやけていたアリスも、お悔やみの言葉をかけてくれれば、僕は少しくらい救われたのかもしれなかったのに。

「……ですって。ふふっ。これは、傑作ね」

「が、頑張って。ルートならできるよ、生徒会副会長……」

「ふふふ……。そうね。頑張って。あたしたちは先に教室に行ってるわ。お先に、副会長」

 きっと、この先三カ月はあのあだ名で呼ばれるのだろうと、僕は勝手に覚悟して、生徒会室へと駆ける。

 人込みを掻き分けて、昇降口前までやってくる。さっきよりも人は断然少ないけれど、ミドル時代と比べれば、人口密度は大幅に増加していると思う。

 履き替えた靴を下駄箱に入れようとした、その時だった。


「痛(た)っ」


「あ! ご、ごめんなさい!」

「大丈夫じゃ」

「よかった……ん? じゃ?」

「お主、るーとか」

 そこには、聞き慣れた語尾と、見慣れた紅茶色のセミショートが存在した。いつとも変わらぬ明るさで、それでいて愁いを帯びた矛盾性を含んだ不思議な面持ちで、そこにいたのだ。

 僕は一瞬戸惑いながらも、しっかりと一段上がる。

「そうだよ。僕の名前はルート。初めまして」

「わしはサクラ。初めましてなのじゃ」

「サクラ、消してくれなかったんだね。ルリさんの記憶」

「そうじゃ。そっちの方が面白そうじゃと思ってのう。にしても、いきなり呼び捨てか。嬉しいぞ」

「あ。ごめん。でも、いきなりはサクラもでしょ」

「なんじゃ? 副会長は嫌じゃったか?」

 そう言って、紅茶色の少女は笑う。

 僕は、大きく首を横に振る。そうしてブレた景色の中に、いつの日か僕が繰り広げた逃避行が走馬灯のように流れた。瞬きをすれば、それらはすべて慌ただしく駆け回る生徒へと変貌していった。

「そんなことないよ。少し、楽しそうかもって思ってる。僕でも何か役に立てるんじゃないかって、勝手に期待してるよ」

「お主らしいのう」

「はははっ! ありがとう。……あ、僕、呼ばれてるから、そろそろ行かないと」

「ぬははっ! 全く。都合がいいのう」

「お互いさま」なのだと、僕は目で言った。

 自分の都合で世界を捻じ曲げて、そうして【一不思議】という快楽の中に逃げたサクラ。生徒会の副会長という立場を手に入れて、一週間後に控えた球技大会から【生徒会(にげる)】という口実を得た僕。

 本当に似ているのだと思う。

 だからこそ、こうして一度だけの世界を共に体験することができているわけだけれど。運命という言葉の意味を、少しだけ見直そうと思えたわけだけれど。

 いつもと少しだけ違う空気の中で、ただ一つ変わらない桜の匂いを感じながら、僕は息を吸う。真新しさの中にある不安だけを切り取って、僕たちはそれを『非日常』だとみなす。それが新しい環境という概念を生み出す。

 そう。これでいい。

 サクラも同じ思いを抱いているだろうか。もし違うのなら、僕が何度でも教えよう。

 始まりとは、こんなにも楽しいものなのだと。新しいとは、こんなにも美しいものなのだと。緊張とは、こんなにもおもしろいものなのだと。終わりとは、こんなにも愛おしいものなのだと。

 『願いの夢』が現実のものとなって、ほんの少しだけ変わった日常を思いながら、僕は歩みを進める。前へ前へ、健やかに、にこやかに。

 そして、僕は言う。

 右手を振りながら。



「それじゃ、またね。サクラ」


 

【あとがき】

 ということで、今章終了となります。

 新キャラ「サクラ」の登場から、レギュラーメンバー入りまでの波乱万丈な物語でした。

 私はもともとパラレルワールドとかそういう話が好きだったので、ちょっと入れてみました。多分、皆好きだと思うけれど。ただ、今回は完成度重視というよりかは、サクラの感情と登場という意味合いが強かったので、ストーリーは重くなり過ぎないようにしました。


 さて、今回でサクラが仲間に加わり、なんだか最後にはルートに一悶着ありそうな感じでした。

 吉と出るか凶と出るか。

 吉を吉のまま過ごせるか、凶を吉に変えられるか。

 私もわかりませんが、楽しみですね。


 もう少し、見守っていきたいと思います。

 では次回。

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