Ⅴ 満たせない、必要十分条件。
【まえがき】
早くも五話ですね。
もともとは五話までで一話でしたが、改稿――革命により五話分に伸びました。話の内容自体はほとんど変化しておりませんが、一話分が短くなり読みやすくなりました。私も書きやすくなりました。
以前は、約二万文字(原稿用紙五十枚)ほどの話を五つほど繋げて話を作っておりましたが、今は一万文字以下になり、とても余裕ができました。
小説を書いていると、「作文や感想文の宿題」がかなり楽に思えます。
では、本編です。
リズは、居間にやってくるなり、ソファで寛いでいた僕に告げる。
「ルー、お風呂あいたよー」
「うん」
髪の毛はまだ十分に乾ききっておらず、さらにはパジャマのボタンも掛け違えている。
なんだか、とてもだらしがない――
「も、もっとちゃんと髪の毛拭かないと風邪ひくよ。あと、またパジャマのボタン掛け違えてるよ」
「いいのいいのー。どうせもう寝るんだから」
――というのは、残念ながら建前で、僕は完全に自分の妹に見惚れていた。
いまだ水分を含んだ髪の毛が、いつもの快活さの代わりに大人っぽさを醸して、ドキドキする。ボタンを掛け違えるというあどけなさと対照的に、パジャマの肩口から覗く雪のように白い肌が、これでもかというほど女性らしさを明々白々と知らしめている。
僕はその両方に見入って――いや、魅入ってしまったのだった。
価値云々の話ではないけれど、もし、この光景に価値を付加するのなら、『家族である僕でさえ魅入る価値がある』というと伝わりやすい気がする。
「何してるの?」
「本、読んでる」
「ふーん……。勉強熱心だねっ。隣、座ってもいい?」
「う、うん。いいよ」
ソファの隣に座ってくる無防備な妹に、僕の鼓動はこれでもかというほどに高鳴る。
リズが、ぽすっとソファに腰を下ろすと、振動と共に『女の子の匂い』が伝播してくる。すぐに抜けていった振動と違って、匂いの方は僕の嗅覚を捉えて逃さない。
嗅覚情報はすぐに脳に伝わって、その刺激がまた、逆上せそうになるくらい、僕を高揚させた。
「ルー? お風呂入らないの?」
「入る、入るよ……。入るけど……」
催促するのだけれど、それが逆に遅延効果をもたらしているということを、リズは知る由もない。
「まさか、一緒に入りたいとかー?」
「やややややややや、そそそそそそそっそそ、それはないから大丈夫だよ!」
「あははは! ホントわかりやすいね、ルーは」
熱いお湯に浸かったわけでもなければ、サウナに長時間籠ったわけでもないのに、鉄っぽい芳香に加えて鼻腔の奥が熱くなるのを感じた。
「でも、ルーのそういうところ、私、好きだよ」
「おおおお、お風呂行ってくる!!」
崩落しそうになる理性を保とうと、僕はそそくさとその場を離れて風呂場へと向かった。
この暑さでお湯が沸き立つとか、そして鼻血で湯船が紅に染まるとか、色々な思考を巡らせていると、目が回ってしまいそう。
風呂場の前の洗面所の鏡には、真っ赤になった自分が映った。
事実の許容に恥じて下を向くと、真っ白な洗面所にポタリと一滴。
「あ、鼻血……」
きっとこういうのが、分かりやすいといわれる所以なのだろう。
***
固定式の安いベッドだから、布団を取り外して洗ったりはできないけれど、今日の昼間の日差しのおかげで干したようにふかふかだった。
そんな自然ランドリーサイクルに一躍買った幅広の窓も、夜はさすがに閉める。窓と一緒にカーテンも閉める。開けっ放しはさすがに恥ずかしいし、何より冷えるから。
のそりと布団に潜ってから、秋に備えて母が準備してくれた薄めの毛布に包まる。
今は寒くも熱くもなくちょうどいい温度だけれど、寝ている間に熱くなる気がする。リズだったら、確実に毛布を蹴り飛ばしてしまうだろう。
「はぁ……」
〈リズ……〉
以前は同室で生活していたということを思い出して、無性に寂しくなる。それもそのはず、この僕の部屋には以前、二人の人がいたのだ。
特に理由はなくとも遅くまで会話したり、またある時はトランプをやったりもしていた。
楽しかったし嬉しかったし、なにより、一人じゃないと自覚することで、安心できた。
一人になるということが、どれだけ寂しく、どれだけ心細いことなのか。それは、こうした過ごしやすい夜の空気と体温でもって犇と再認識することになる。
〈僕は……〉
隣の部屋で眠る一人の少女のことをイメージしてみる。
自分自身の気持ちが、本物かどうか確かめたいから。
そして僕の問いに答えて欲しいから。
〈僕はリズのことが好き〉
僕のこの気持ちは、他でもないこの僕が本物であると証明できる。
〈リズは僕のこと、どう思ってる?〉
それが僕の問い。そして……、
〈嫌いじゃない〉
それが僕のイメージの中でのリズが出した、率直な答えだった。
結局は、僕の期待の最低ラインを暗喩しているだけの、下らない妄想に変わりはない。
でも、リズのことを思うだけで僕は、僕自身の気持ちを確かめることができていたのだ。
少し我儘だけど愛らしいその仕草、素直で明朗快活な言葉、未熟だけど頼もしいその純真――純心。
リズのすべてで、僕は僕自身を確かめていた。
しかし、最近は違った。
だから、自分のこの気持ちが本物かどうかさえも、見失いかけていた。
『でも、ルーのそういうところ、私、好きだよ』
ほんの部分を褒めただけの言葉だし、文頭に『家族として』という前提はついているだろう。
僕はその言葉で、見失いかけていた自分の気持ちを再認識することができた。
一つ、思うことがある。
〈本物の気持ちを感じているあなたは本物なの?〉
もしも、その僕が『偽物』だったら?
僕は否定するけれど、本物と証明する術がない。僕がいくら自分を本物だと熱弁したところで、周囲が認めてくれなければ『偽物』に成り下がることになるのだ。
そればかりは自分自身の知覚で決定できるものではない。
だからこそ、僕はリズをイメージする。
でも、その答えは変わらない。
ということは、答えはそこには無いのだ。いくら鈍感な僕でも、流石に気付く。
では、答えはどこにあるのか。
アリスの情報網に頼れば、もしかしたら何かわかるかもしれない。
でも、もっと確かなものを僕は知っていた。
それは今、『本物』か『偽物』かを問われている、自分自身意外に無かった。
正しい道を歩いていることを知っているのは、他ならぬ自分。『本物』だろうと『偽物』だろうと、歩いている道は、同じなのだから。
堂々巡り……ではない。
僕自身が、無限に続く円道を歩こうと願わない限り、確実に到達点は存在していなければいけない、という真理に基づいているのだから。
「きっと、これでいいんだよね……」
答えはすぐに返ってきた。
〈あなたが良いと思えるのなら〉
僕が良いと思えるかどうか?
〈『遠い方』で死んでしまった二十二人たちと、私とアリスの二人。どちらに生きていて欲しいか。……どちらに死んで欲しいか〉
死んで欲しいなんて思ってない。
でも、二人に生きて欲しいと願えば、結局は同じことなのだ。
表があるなら裏があって当然なのだ。ならば裏返しになっている物を裏返しにしても、本質的には同じことになる。裏表のある事実というのはそういうものだ。
だから、最初から「死んで欲しい方」を選んでも同じことなのかもしれない。
つまり、僕は大勢の人の死を願った、というわけか。
そして、その選択が良かったと思えるか、と。
「わからない……。わからないよ……。誰か……助けて……」
余計な情報の少ない闇の中、脳は逡巡のためのみに稼働していると言っても過言ではない。
考えることを止めたら、すぐにでも深い眠りに落ちることができそうだ。
でも、それだとリズのことまで忘れてしまうようで、僕にはできなかった。
「リズ……」
僕はもはや、リズに対するこの気持ちだけでこの世界に存在している。
正体も分からない――きっと不安定で、きっと儚くて、きっと脆い。
このとてつもなく大きな気持ちだけで。
×××
「んん……!」
眠気覚ましのルーティンで、一つ背伸びをする。
窓を閉めたせいで、カーテンは靡かない。代わりに、隙間から部屋へと差し込む暖かい光が、静かに僕の部屋を照らしていた。
「…………」
昨日考えていたことが都合よく頭から抜けているということはやはりなくて、僕の一抹の期待も、月とともにどこかへ消えてしまうのだった。
けれど、僕の一日は続いていく。
だから。
せめて。
「今日も楽しい一日になりますように!」
カーテンを勢いよく開いて、大きく深呼吸する。
そして、窓から降り注ぐ日光の暖かさを直接体全身で浴びて、感じたことのない夏の終わりを――今日を感じるのだ。
秋用の制服姿を鏡に映して、朝の慌ただしさに焦って、登校道の高揚と緊張を愛して。
クラスメイトとの諧謔を楽しんで、昼休みに友達と相好を崩して。
一人で家に帰って責務を済ませて、家族団欒を心から悦んで。
今日の始まりと同じ明日を願って。
新しい道を探す苦痛に耐えながら、僕はいつも通りを装って進むべき道を――求める答えを俟つ。
「これからも毎日楽しいと、いいなあ……」
〈そうだね。でも……〉
その返答はあまりにも早く。
〈一度目ならね〉
【あとがき】
ここで一部は終了となります。
主人公についての謎を増やすのはあまり得意ではありませんでしたが、少し挑戦してみました。
二部から少しづつわかっていくと思います。
次回からは二部をお楽しみください。
短くなる、と最初に明言したのですが、どうやら長くなりそうです。
結局、詐欺になりました。ごめんなさい。