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Ⅱ 春、萌芽とらへて。

【まえがき】

 今回は少し長めです。

 消毒液の匂いを嗅ぎながら読んでいただけると、想像が膨らみます。



 では本編をどうぞ。





 


 消毒臭いというのだろうか。特有の芳香は、どこの学校の保健室も同じだった。

 普通の教室より一回り小さい部屋に、ベッドが二つ並んでいる。ベッドの下手側には診察台の役割をするらしい机と、事務処理用のデスクがあった。診察台横のガラス棚には、よくわからない薬やガーゼ、包帯などなど、手当道具一式が所狭しと置かれていた。足の踏み場はちゃんとあるけれど、足の踏み場しかない感じだ。

 ベッドの一つは、今、僕たちが占拠しているから、尚更部屋は狭く感じる。

「別に、休むほどじゃないんだけど」

「でも、一応は安静にしてた方がいいよ。まだ、痛いんでしょ?」

「まぁ、そうだけど……」

 今にも起き上がりそうなアリスを、何とか食い止める。お節介かもしれないけれど、後で突然倒れたりしたら、僕も本当に困る。ノアは気絶するかもしれない。

「大丈夫……? ノア、何か、する?」

「大丈夫よ。ノアは、そうね……。なるべく無心でいてくれるかしら」

「無心……。ノア、無心、得意だよ……」

「助かるわ」

 ノアはベッドの横にあった椅子に腰かけて、アリスの左手を握っていた。

 あれは絶対、無心になれない気がする。

 何か僕にもできることはないかと、保健室を物色してみることにする。ベッド横の大きな窓からは、校庭がよく見える。授業開始前だから誰もおらず、とても静かだ。繁茂している雑草類の中に薬草があったりするかもしれないけれど、判別不能だ。アリスがいくら完璧超人と言えど、毒草を食べて無事でいられるはずはない。

 壁掛けのカレンダーは真新しく、記入も少なかった。どうやら明後日、脳検査が予定されているようだった。アリスが変な病気じゃないということだけを祈る。

 診察台の上に、たくさんの紙が挟まった分厚いファイルがあった。中には、保健室利用状況が書かれているようだった。『サクラ 頭痛』『サクラ 頭痛』『サクラ 頭痛』以下略……。どうやら、だいたい同じ人が利用しているようで、その理由も決まって頭痛であるようだ。サボる人も、やはりいるのだろうか。最新の情報のところに『アリス 頭痛』と書いてあって、少し面白かった。

 ガラス棚の中を拝見していたら、鎮痛薬の群生を見つけたけれど、デスクにいた保健室の先生に目配せされたので、諦めることにした。

 ベッドのところへ戻ると、腕で顔を覆うようにして寝ていたアリスの口が動いた。

「あなた。ちょっと、落ち着いてなさい」

「え? 僕?」

 目が隠れて視線が伺えないせいで、人称がわからない。

 この場合、内心暴れているであろうノアにも、それは言えるだろうし。ああも強く手を握られていたら、眠れないだろうし。

 でも、まぁ、違うだろうな。

「そうよ。あなたよ。あなたも、無心でいなさい」

「む、無心ね……。ノアさんは、ちゃんと無心なの?」

「違うわね。……き、きっとね」

「だよね……」

「やっぱり、ダメなの……。ノア、無心のつもり、だったのに……」

 無意識状態下である睡眠時ですら、夢を見たりするおかげで、人間は無心ではなくなる。意識がなくとも、無心になることができないということは、無心になるとはもはや人間には不可能なことなのだ。

 もっと言えば、無心であると知覚する自分がいる時点で、それは無心ではなくなると言えるのではないだろうか。つまり、無心が無心として成り立つには、他人の心を知覚できなければならないということにもなり得る。自分の心が無であると判断するのが他人であれば、矛盾しないのだから。

 知ってか知らでか、それを要求するとは、アリスもなかなか意地悪だ。言葉の綾で遊んでいるだけなのかもしれないけれど。

 少し邪推していると、急にトーンの低い声が聞こえて、内心焦る。


「ノア……」


「わぅ! ご、ごめんなさい……」

「いいのよ。でも今度からは気をつけなさいね」

「な、何の話してるの……!?」

「あなたはいいのよ気にしなくて。あとノア、手、少し痛いわ」

「う、うん……。こうやって、繋いじゃ、ダメ……?」

 ノアは一旦パッと手を離したかと思えば、またすぐにアリスの手を追いかけた。そして今度は、アリスの指の間に指を絡ませる。確かに、それらしく優しくて強い繋ぎ方っぽかった。

「ええ、いいわよ。というか、もう、隣で寝てもいいわよ。そっちの方が、余計なこと考えないでよさそうだし」

「だ、大胆だね、アリス」

「何よ。冗談よ。ただ、色々と情報網が錯綜してて、物事を考えるのがものすごく億劫なのは、確かだけどね」

 冗談を言う元気は残っているようだけれど、どことなく口調に覇気がない。人の心理を取り込むような独特のプレッシャーも、いつになく弱い気がする。

 それは、そうしてベッドに横たわっているせいなのだろうか。いつもの鋭い眼光が、腕で塞がれているからなのだろうか。

 どちらにせよ、何か別の対抗策を講じなければ、アリスが――アリスの情報網が破けてしまうかもしれない。

 別の、別の、別の。

 一つ提案してみる。

「じゃ、じゃあさ、無心は無理だからさ、他のことについて話そうよ。アリスの情報網の負担を軽くすれば、きっと頭痛も収まると思うんだ。楽しい話したら、痛いのも忘れちゃうかもだし」

 ノアは一度首を傾げると、アリスの方に向き直って小さく確認した。

「アリス。いい……?」

「ええ、いいわよ」

 興味が感じられない返事だと思ったけれど、口は許可しているようだったのでよかった。

 それでは。全く関係ない話をしよう。

「えぇと……」

「うんうん」「…………」

 少しばかり調子付いて起立してみれば、一席打つ余裕すらありはしなかった。流行や世間話に疎い僕には、これというネタがなかったのだった。

 隗より始めよと言われてしまえば辱めを受けるだけだ。何かネタを捻り出さなければ。

「そ、そうそう! 今年収穫したコーヒー豆、今までで一番香りが良いんだぁ……! あーははは……はぁ……。ごめんなさい…………」

 空元気である。

「そ、そうなんだ……! ノ、ノアも、飲みたいなっ。あ、甘くすれば飲めるんだよっ」

「うっ、フォ、フォローが痛いっ。いいんだ、僕が悪かったんだよ! 無理してフォローさせてごめんノアさん! 本当にごめんなさいノアさん……。僕はもうダメみたいだ……」

「そ、そんなことない! お、面白かったよ!」

「や、やめてぇ……」


「保健室ではお静かに!!」


「「ご、ごめんなさい!」」



     ***



「ルート……、そんなに落ち込まないで……。気を取り直して、もう一回、しようよ」

「もう一回やるんだ……。あ、ありがとうノアさん……。じゃあ、ノアさんから、どうぞ」

 保健室の先生に一喝されてしまったそばから、またお喋りを再開するのもどうかと思うけれど、ノアが何か言いたげなおかげで、やっぱりやめようとも言いにくい。

 もしかしたら、ノアはお喋りするのが好きなのかもしれない。いつになく目が輝いている気がする。

「【一不思議】って、知ってる?」

 ノアは目をキラキラさせたまま僕の方を見上げて、そう尋ねてくる。アリスには聞かないあたり、アリスにはもう話したことなのだろうか。もしくは結んでいる手から情報を伝達、共有しているように見えなくもない。

『保健室のベッドで手を繋ぐ』という規律違反グレーゾーン行為が、目の前で行われていることに、僕は今更ながら気づく。……まぁ、先生も何も言わなかったし、いいか。

 とりあえず、ノアの瞳の煌めきに答えたい。

「【一不思議】って、学校に伝わる怪談とか、そういうこと?」

「似てるけど、ちょっと、違うの……。【一不思議】は、【一不思議】なの……」

「ごめん。知らないや」

 流行りに追いつけない自分に喝を入れつつ、「アリスは知ってる?」と質問を病人に丸投げする。

「はぁ」と溜息を一つしたかと思えば、重たそうな口がのっそりと動いた。

「こんだけ噂になってるのに、あなた本当に知らないの?」

「し、知らない」

「それもなかなかすごいわね」

 アリスが言った下から「ねー」と、ノアが語尾をなぞる。遊ばれている感じがするのは、気のせいだろうか。

 それがただの杞憂であるということは、次に口を開いたのがノアだったので、すぐにわかった。本来なら、こういう時は、アリスからの追撃が来るものだから。別に待っていたわけではない。

「【一不思議】はね、一年生の間で流行ってる、変な噂だよ。不思議な夢を見るんだ、って噂だよ。同じ日を繰り返したり、魔法を使える世界だったり、みんな水着で登校したり、階段を上ってたらいつの間にか朝になってたり、不思議な夢。(いち)って付いてるけど、たくさんあるの。おかしいよね」

「へ、へぇ。そ、そうなんだ……」

 話が突飛すぎてついていけない。

 今の話を要約すると、【一不思議】というのは夢の話を盛り上げた噂話だということなのか。

 処理の追いついていない頭に、また、アリスが情報を突っ込んでくる。

「とてつもなく胡散臭い話だけどね、一つだけ、現実的でおかしいところがあるのよ」

「そ、それは?」

「【一不思議】を噂する人間が、限定的だということよ。あたしが聞いた話によれば、『保健室が消失する』という噂話は、陸上部の一年生だけで伝播しているらしいわ」

「それって、部員同士で話を合わせて、皆の反応を楽しんでるってだけじゃないのかな」

「それだったら単純で良かったんだけどね」

 少しだけ解決に近づいたと思えば、また遠ざかってしまうのか。

 普通に考えれば、数名の人間が話を合わせているとしか思えない。アリスの言う通り、単純なおふざけで話は収束したはずだ。でも、それほど噂になっているのなら、何か興味を引くような信憑性が隠れている気がする。

 そう。例えば。

「もしかして、特定の人だけ噂話を知らないとか……?」

「話が早いわね」「ルート、すごい!」

 褒められた。なんだか、生まれて以来初めて褒められた気がする。さすがに気のせいか。

 よくわからないけれど、恥ずかしかったので、話を進める方向に仕向けることにする。

 かなり大事であろう事実を、僕は告げる。

「というか、噂話、僕も知らないんだけど……」

「周囲に【一不思議】の渦の中心がないから、多分、関係ないと思うわ。ただの時代遅れね」

「それは酷すぎるよ……。アリス、何かおかしなこと起きてない?」

「あたし? 強いて言うなら、この頭痛かしら。噂が耳に入ったあたりから、痛いのよね」

「それは、確かに変だね」

 脈絡のない噂に眩んで、情報網が決壊してしまったのかもしれない。人間の脳に記憶量の超過はあり得ないけれど、何となくイメージはできる。情報がたくさん入り込んできて、脳がパンクしそうになる、あの感じ。

 それで熱を出す人もいるのだから、倒れそうになるほどの頭痛があってもおかしくはない。

「噂って、いつから流れてたんだろう」

「さあ。入学式の放課後には、もう聞いていた気がするわ」

「かなり早い段階だよね、それ」

「そうね」

 自然、首が傾いてきてしまう。手がかりが少なすぎて、推理しようにも、その序説すら思い浮かばない。というか、何を解いていいのかも、よくわかっていない。ただ、事件が難航しているということだけはわかる。

 目隠しアリスが「面倒ね」と溜息をついて諦めようとしている。アリスがお手上げなら、僕になす術などありはしない。三人寄ればなんとやらと言うし、一人諦めたら

 それをよしとせずに、一人、唸っている人物がいた。

 アリスの手を握りながら険しい表情になっている彼女は、アリスの恋人のノアだった。

「もしかしたら、【一不思議】の犯人、一年生、かも……」

 自信なさげに、そんなことを口ずさんでいるようだった。

 手を繋いでいるから、何となくアリスには意味が伝わっている気がするけれど、僕は別だ。尋ねる役割は、僕が担うことにする。

「ノアさん、それってどういうこと?」

「噂って、広まらないと、意味がないの。なのに、この噂、放課後から始まってるんだよ……。広めたいなら、もっと、目立つように、すると思う……。朝、来るとき、校門のとこで、何か呼びかけたりとか……。なのに、全然なの」

 なるほど確かに。

 噂を流すというのはつまり、その噂を聞いた人間の反応を見下ろして、愉悦を探すものだ。自分が流した噂で誰かを困らせたり、時には喜ばせたりする、というのが噂を流すという行為そのものの大義なのだと思う。

 流行らせたいがために噂を流すのなら、もっと早い段階で流しておくべきなのだ。

 頷いて肯定すると、自信がついたのか、今度ははきはきした口調で、論じた。ノアの閃きの表情たるや、推理小説に登場する名探偵の得意満面を彷彿とさせた。

「だから、犯人は、入学式に出て、その時間いない、一年生……!」

「そう見せかけるために、二三年生が仕組んだとか……」

 それなら、二三年生の間に噂が広まっていないことも、説明がつく。

 ノアは、言われることを予測していたのか、言下に言い添えた。尚も自信ありげに。

「二年生と三年生、噂話を知らないんだよ。知ってるけど、知らないふりをしてるのじゃないの。本当に、何も知らないの。存在を認識してない、みたいな……? ということは、その逆……。一年生が、流した……ってこと……」

「一年生の誰が犯人なんだろう」

「ノア、そこまでは、まだ……」

「あ、そうなんだ。でも、ノアさん、すごいね!」

「考えるのは、好き……」

 ノアはそう言って、アリスの方を向いてしまった。どうやら電池切れなようだ。アリスは変わらず表情を隠しているし、語勢の無さからも伺えるように、本当に元気がないようだ。

 すると、ここで探偵の足役として動けるのは僕だけということになる。

 今のノアの推理を元に、一年生およそ百五十人の中から、犯人を炙り出さなければならない。アリスのためにも。それを思うノアのためにも。もちろん、僕自身のためにも。

 アリスのような観察力も無ければ、ノアのような洞察・推理力も無い僕に何ができるわけでもない。けれど、今、僕は、心底楽しかった。臥せっているアリスには不謹慎かもしれないけれど、『事件解決に向けて何かしたい』と足が疼いてしまう。

 これはきっとあれだと思う。自分の中に、今使うべき標語があったはずだ。


 ――誰かのために、何かできる。


 ――僕が、僕にしかできないことを。


「あ。そろそろ時間だ。アリスはまだ休んでる?」

「ええ……。そうするわ……」

 授業開始前五分、アリスのこの感じだと授業は受けられなさそうだ。

 ここは、保健室の先生に任せることにして、立ち去ろう。

「また休み時間になったら()にくるよ」

「来なくていいわよ、別に……」

「いや、来るよ! そこは来させてよ!」

「はいはい。わかったから、さっさと行きなさい……」

「良かった。元気そうで」

「……マゾヒストなのかしら」

 押しの強い妹との折り合いもあるので、きっぱり否定はできないけれど、他人に気質を言われるとなんだか癪である。

 今回は、アリスの衰弱に免じて突っ込まないでおく。

「じゃ、行くね」

 そう言い残して、ベッドから離れようとした時だった。

 やっぱり、アリスはアリスだった。


「逃げるのね、やっぱり……」


 僕はすぐさま振り向いて、でも何も言わなかった。アリスも、目を隠しているだけで、何も言わなかった。

 聞かなかったことにして、忘れものを拾っていこう。

「それじゃ、ノアさん。行こう」

「…………」

「あれ? ノアさん?」

「…………すぅ」

「ね、寝てる……?」

「…………すぅ」

「寝てる!?」

「…………すぅ」

「寝てるよ!!」


「保健室ではお静かに!!」


「ごめんなさいぃ!!」


 (いき)り立った保健室の先生の激昂にびっくりして、僕はダッシュで保健室を飛び出した。

 これを『逃げた』というのだろう。

 それは一瞬の判断で、必ずしも最善の選択とは言えないのかもしれないけれど、間違ってもいないと思う。“生きる”という欲以外何も無い、完全なる直感だけが働いた結果が、その行動なのだから。

 廊下をゆっくり歩いていたら、アリスに(なじ)られる気がして、何度か後ろを振り返った。誰もいないのを確認するたびに、少しずつ早足になって、最後の方はほぼ走っていた。


 ――僕は一体、何から逃げているんだろう?



 ***



 西校舎の一階に僕の教室はあった。西校舎とは、体育館の隣の建物で、通称を「旧校舎」と言うらしい。掃除を徹底する校風のおかげで、古めかしさはあまり感じないけれど。

 校庭とは真逆に位置するため、窓側の僕の席からは、学校の周りに張り巡らされた柵がよく見える。色々な蔦植物が柵に絡まっているので、緑の壁に見えなくもない。

 ミドル三年生の時が三階だったから、天地の高低差に若干の抵抗はあるけれど、地の方も悪くないと思った。

 でもきっと、慣れてしまうのだろう。

 僕は縮こまって教室のガヤの中を抜けて、自分の席まで急いだ。話せる人が自分の席の近くにしかいないからだ。席が近いという理由で入学式の時に少し話したぐらいの分際で、おこがましい気の持ちようだけど。

「ふぅ」と一息ついて気持ちを切り替えて、僕は前の席に座るサクラという少女の肩をつついてみる。

「あ、あれ?」

 反応がない。突っ伏しているし、寝ているのかもしれない。

 起こしてしまうのも悪いので、自粛しよう。

 と、思ったけれど、寝ているわけではないようだ。鼻を啜っているのが聞こえる。

 もしかしたら、具合が悪いのかもしれない。最近、流行っているのかな。頭痛。

 僕は席を立ってサクラの席の横で中腰になった。何となく、サクラをクラスメイトから隠すように立ってから、背中を摩ってあげることにした。

 肌に触れたりするわけではないから、特に緊張はしなかった。

「サ、サクラさん……だ、大丈夫? 具合悪いの?」

「んん!」

 首が激しく左右に振れ、紅茶色のセミショートヘアが一緒になって舞う。行きと帰りでおでこが机にぶつかっていて痛そうだった。表情は見えなかったけれど、首の振り方然り唸り具合然り、怒っている気がする。

 鼻を啜りながら怒る。

 これは知っている。家族に同じようなことをしていた人物がいた。

「サクラさん、もしかして花粉症?」

 この時期になると、リズの機嫌は総じて悪かった。重度の花粉症のせいで、鼻は詰まり、目は痒くなり、ひどい時は頭痛もするらしい。

 それで、この時期になるとリズは、花粉に対してよく怒りを露わにしていた。「なんなのもう!」とか「もうやだ」とか、鼻声がまた可愛らし――ではなくて。

「窓、閉めた方がいいかな?」

「んん」

 また、首を左右に振られる。

 でも、何だろう。さっきよりも威勢がないような。

「サクラ……さん?」

「…………」

「だ、大丈夫?」

 また背中を摩ろうかと手を伸ばした時だった。


「わっ」


 物凄い瞬発力で、サクラが起立した。反動で椅子が後ろに跳ね飛ばされ、僕の席に勢いよくぶつかった。

 甲高くて抜けの良い金属音は、これでもかと教室中に鳴り響いて、ガヤをかき消した。代わりに沈黙を持ってきたけれど。おまけに、注目も浴びる。

 額から変な汗が噴き出てくる。そろそろ頭痛もしてくるかもしれない。保健室に行きたくなってきた。

 でも、今振り返ったら、緊張死してしまうに決まっている。

 だから、こうしてサクラを見ているしかない。

 見れば見る程に、均整の取れた体つきだとわかる。出るところは出ていて、出なくていい所は出ていない。制服スカートもきちんとしたプリーツがついていて、礼儀正しさが伺える。何かスポーツをやっているのだろうか。日焼けしていないところを見るに、屋内の運動部だと考えられる。髪の長さからして、ジャンプしない競技な気がする。


 …………。


 数秒経っただろうか。

 僕から見えるサクラは、横から見えるほんの一部だけ。改めて見ても、怒っているのか、笑っているのか、陰っていてそれすらわからない。

 この沈黙の中後ずされるほど、僕は強くはなかった。

 だからなのかなんなのか、僕はサクラの方に一歩踏み出していた。

「ど、どうしたの?」

 少しだけ首を傾けて、尋ねてみる。

 僕がその表情に気付いた時には、もう、サクラの顔は僕の胸の中にあった。


「うわぁぁぁぁ!!」


「え、ちょっ!?」

 お腹周りが湿っぽく、さらに熱くもなってきた。背中を締め付ける程に強く、サクラは僕のことを抱きしめていた。顔が押し付けられて、少しだけ胸が痛かった。ただ、何より沈黙が沁みた。

 何がどうなっているのか知らないけれど、求められたら答えると決めたのだ。

 僕は咽び泣くサクラの背中をまた摩って、今度は頭も撫でてみる。落ち着いてくれることを願って、髪の毛を優しく梳くくらいにした。何故か懐かしい、桜の香りがした。

「よ、よしよーし……?」

「うぇぇぇ……! うう…………」

 入学二日目の朝。

 僕は、三年間背負っていく『女の子を泣かせる不良生徒』という汚名を心に刻んで、すでにこれからの過ごし方の設計を見直していた。贖罪で三年間の青春がすべて消えそうだった。


「あははは……。どうしたらいいんだろ、これ……」

 だけど、髪を撫でる手は止めずにいた。



【あとがき】

 これは言うまでもなく、そそる系エンディングだったので、あとがきは早々に退散します。

 



 ただ、次回は『ノア編サブエピ』を挟む予定なので、結論だけ読みたいと言う方は、ぶっ飛ばして次の次くらいまでいっちゃってください。

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