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Ⅴ 不変マイヨ・ド・バン

【まえがき】

 さて。

 ノア編のネタバレ最終回になります。

 ノア編は、書いていてすごく面白かったです。読心能力を持っているアリスだと、心理描写が多めになるので、情景中心のノア編はとても新鮮でした。

 今回は、そんな情景描写を利用したいやらしい効果を組み込んでみたので、ネタバレのその時まで、考えてみてください。




 本編です。





 


 不可思議、流転する謎、螺旋する迷宮、エトセトラ……。

 そんな非日常の中で、早朝聞こえてくる囀りだけ、変わらなかった日常だった。

 でも、違和感の発端から一週間弱の時を経ると、非日常が非日常でなくなっていく感じも、なんとなくだけどわかった。そうすると逆に、小鳥たち演ずる目覚まし係の存在の方が、どことなく不自然な気もしてくるのだ。数日前まで寝心地のよかったこのベッドも、蒸れやすくて前言撤回したくなる気もする。

 不思議に包まれた生活を送って、自分の感性がおかしくなっているのではないだろうか。

 今日は、それを確かめたくて、ご主人様の起床を待っていた。従士業務は、急ぎ終わらせた。

 自分の眠っていた場所の窪みに正座して、寝顔をまじまじと見つめていた。

 なんとなく、同じタイミングで呼吸をしてみたりもした。

「…………すぅ」

「…………すぅ」

 アリスの寝相はとても良く、適度なタイミングで寝返りを打つ以外は、微動だにしない。だから、自分に接触してきてしまうような、そんな期待通りのハプニングは起こり得ないのだ。寝相が良いというのも清廉な感じで好きなところだけど、ちょっと残念ではある。

 それでも、相も変わらず、その人は自分の隣で寝ているのだ。

 これほどまでの非日常など、往々にして存在しない。

「アリス……、寝てると、ノアより、子供みたい……」


 [可愛い……]


 少しだけ、少しだけと、理性が殺されて、マシュマロみたいに柔らかそうな頬に指が伸びていく。こんなことをしたところで、結局、罪悪感が残るだけなのだとはわかっていた。わかってはいたけれど、自制は効かなかった。

 頬で済んでいるのだからまだマシな方だと、勝手に自己満足をしている自分も、心の中には確かに潜んでいる。無様である。


 [わぁ。柔らか……]


 自分の想像していた“最高”を遥かに超えていく手触りだということが、実感をもってわかる。そして、昨日の冷血な人格を忘れさせるかのように[あったか……]かった。

 思えば、今まで、自ら直接肌に触れたことはなかった。嬉しい不可抗力のおかげで、唇に振れたことはあったかもしれないが。

 すでに一線を越えている気がするけれど、改めて肌に触れてみて思うこともあった。


 [毎朝、こんなことやってるなぁ……]


 きっと、愛が尽きるまで飽きは来ないのだろうけど、毎日やっていると学習能力不足を自覚してしまいそうになる。実際そうだけど。

 だったら今日は別のことを、明日はまた別のことを……なんてことをやっていたら、そのうち行くところまで行ってしまうに違いない。それも、朝っぱらから。

 すごい。イケナイコトだけど。

 それはすごい。でも、イケナイコト。


「なに、してるのよ……」


「わっ。ごめ、ごめんなさい!」


 不意をつかれて驚いて、一気にベッドから飛び退く。

 飛び立つ前に、自分の手がアリスの二の腕をさすっているところをちらっと見てしまった。

 恥ずかしさに、思わず顔を両手で覆う。

 アリスの声だけ聞こえる。

「どんだけびっくりしてるのよ……。別に、怒ったりしないんだから、そんなにびくびくしなくてもいいじゃない。あと、すぐに謝るのも、ダメよ」

「う、ん……」

「あら? 今日は、メイド服着たままなのね」

 手を除けて、自分の身なりを確認してみる。

 アリスの言う通り、自分はまだ白と黒の規律を身に纏っていた。これでは、アリスの目を覚ましたことが“仕事”の一環みたいではないか。

 “恋人の戯れ”であって欲しかった自分にとって、今、この制服は邪魔だった。

「い、今着替える!」

「い、いいわよ! そのままで!」

 アリスが飛び起きて、「待った!」と手を伸ばす。

 腰の蝶結びを解き始める直前で、手が止まる。

「アリス……?」

「い、いや、その、ね。あなたがその服着てるの、新鮮だったのよ」

「し、新鮮?」

 それは、早朝の市場に陳列されている魚介類の、あのピチピチ感とかプリプリ感のことか。

 自分の体を触ってみる。首、肩、バスト、ウエスト、ヒっ……ぷ。

 がっかりするようなシルエットが象られていくだけだった。

「その新鮮じゃないわよ。あと、プロポーションは関係ないわ」

「じゃ、じゃあ、なに……?」

 熱が引いて青ざめていそうな自分の顔を想像しながら、アリスの言葉を待つ。

 アリスの視線は定まらず、そわそわと落ち着かない様子だ。

 そんな反応をされると、こちらまでそわそわしてくる。もしかしたら言いにくいことなのかもしれない……それって追放勧告なのかもしれない……と、不安にもなってくる。

「ああもう! そういうことじゃないわよっ。ただ――」


 セリフを中断すると、アリスは視線を逸らして「ふんっ」と勢いよく鼻息を吹いた。


「や、やっぱりなんでもないわ」

 凄んでいた勢力も鼻息とともに散って、残った焦燥だけがまた目に見えた。

 でも、なんだろう。追放勧告でないとするのならば、アリスが今、自分に言わない理由は。

 まさか。

 まさかだけど。


 [に、似合ってた……?]


 ベッドの方に近づいて、アリスの顔を覗き込んでみる。

 そこにあったのは、真っ赤な……って、「わっ」。

「なんでもないから、もういいからっ。は、早く脱ぎなさいな!」

「自分でやるよぅ……!」

 恥ずかしさから拒否するつもりが、内心では何かを期待して完全に拒むことはできなかった。おかげで、脱がされる羽目になった。でも、文句は言わない。

 ただ、好きな人に(無理やり)衣服を脱がされる気分というのは、あまりに新鮮で気色の良いものではなかった。けれど、いい経験になったとは思う。アリスも楽しそうだったし。

 きっとアリスもこんな新鮮さを自分に感じたのだろうと、勝手に解釈するのが一番幸せな気がする。

「な、なんだか、人の服を脱がすのって……。気持ちいい……わね」

 アリスの解釈は、いざ知らず。

 でもよかった。

 自分の感性はいつも通り変だった。



     ***



「ねぇ、ノア」

「ん、なに?」

 同じ形の制服を着て、同じ色の鞄をもって。鞄の中には、全く同じ教科書とノートが入っている。これほどまでにシンクロしているのに、隣を歩くアリスとの間に隔絶を感じる。

 それは、日直で不在のルートのせいではなく、きっと、ここ最近の寒さのせい。

「四月って、こんなに寒かったかしら」

「うぅん」

 首を横に振る。舞った髪の毛が目に入って痛い。

 そうだ。もう一つ、違和感があった。

 眼鏡をかけていないことだ。

 なら、眼鏡をかけてみよう。

「あら? 急にどうしたのよ。眼鏡なんかかけて。でも、久しぶりに見ると、良いわね、眼鏡も」

「よく、見える……」

 鏡面を通して像を結ぶのは、非日常に埋もれている自分たちの姿。今までの習慣が崩れて、新たな習慣が生まれた光景。言わば、『慣れ』。

 以前の『慣れ』をフィルターに世界を透視すれば、今、どれだけの不信感に苛まれて生きているのか、怖いほどわかった。

 そして、この程度の危機感では足りないことも。


 [アリス……。やっぱり、【一不思議】に取り込まれてる……]


「そうね。そうかも、しれないわ」

 伝播した自分の心情を読み解いたようで、アリスは真剣な顔つきになる。

「あなた、ルートのこと、疑っているのね」

「…………うん」

 疑っていると言っても、何か悪事の犯人を捜査しているわけではない。だから、もし仮に、犯人というものがルートだとしたら、自分の気が済むまで話をしようと思う。

 皆を不安にさせたということ、どうして【一不思議】を引き起こしたのかということ、どうすればこの騒動は収束するのかということ。その他いろいろ。

 そんな話ができるのは、【一不思議】の外側にいる自分と、ルートだけなのだから。

「なにか、あたしにできることはあるかしら」

「…………」

 ルートと旧知の仲のアリスなら、できることはたくさんあるだろう。けれど、今、アリスは蚊帳の内側にいる。非日常に取り込まれてしまっている。

 この不思議を不思議と思える自分の心の縷々を、ずべてくまなく知っているアリスなら、外側に引きずり出すこともできると思う。ただ、それはアリスには相当な負担なはず。異世界に連れていくようなものなのだから。

 だとすれば、願うことは一つ。

「あなた、一人で大丈――」

「ア、アリス……」

「…………」

 この素晴らしい非日常(にちじょう)が終わっても、自分と一緒にいて欲しい。再び流れ始めるであろういつも通りの日常の中でも、自分と繋がっていて欲しい。

「わかったわ……」

 アリスは、少し赤面しながら、自分の手に指を絡めてきた。

 願わくは、この手が離れぬよう。

「じゃ、じゃあ……。学校、行こ……」

「そう、ね……」

 昇降口に行くまでの十五分、当たり前の視線に安心した。



     ***



 さて。

 教室がそこまで離れているわけでもないけれど、この迷宮のような空間を一人で出歩くのは少々危険な気がする。そうすると、自然な時間経過で言えば、ルートに会えるのは昼休みになる。

 アリスが教室に迎えに来てくれる昼休みまで、自分は飲み込まれずに入れるのか少し不安だ。

 その不安を殺そうと、アリスのぬくもりを追いかけるよう、自分で自分の手を握っていた。その光景は傍から見れば、まるで教室の一席で神に祈りを捧げているかのよう。

 祈って自意識を保てるのなら、今は神でもなんでも信じていようと思う。

 目を閉じて、教室の話声に聞き耳を立てる。

 聞こえてくるのは、いつも通りの【一不思議】。一部の人間だけが知覚できる、世界から隔絶された謎。

 今日は、『同じ日を繰り返している』という声が多い。

 ルートにそんなことを引き起こす能力があるとは思えないけれど、事実、このクラス以外で【一不思議】を知らないのは、ルートだけだと思う。他の学年の生徒の情報は知らないけれど、何となく、【一不思議】は一年生限定な気がする。だってほら。一、不思議だし。適当である。

 ただ、部活選択というイベントが、ルートにとる『違和感』であることに違いはない。

 もしそうだとしても、一体どうやって、ルートは【一不思議】を引き起こしたのかが、謎になる。

 悪く言うつもりはないけれど、ルートだって初対面の人間と軽々しくコミュニケーションをとったりはできないはずだ。自分に接触をとってきたのだって、仲介にアリスがいたからだ。

 仲介人がいたとして、一年生全体を巻き込むほどの事件【一不思議】を、起こす必要はない気がするのだ。部活決定を阻止したいのなら、それこそ生徒会にでも乗り込んで抗議しなければ、論題の帰結へは近づけない。

 ルートはこのクラスの生徒ではないから、『何故か知らない』とか『【一不思議】について無知』とか、そういうことはあってはならないはずなのだ。このクラスにいない限り、知らないことが、所謂『ふつうでない』ということなのだから。

 つまり、行きつく答えは――


 [ルートが、【一不思議】の中心……]


 ――若しくは、『自分が無意識のうちに引き起こしてしまっている』か。

 後者だとすれば何か。

 無意識化で働く、“チカラ”のようなもの。周囲へと無故意に伝播し、自分をイレギュラーたるものへと位置付けていく不定のエネルギー。

 あ。

 ああ。そうだ。

『願い』の力、なんてどうだろうか。

 自分の身に起こった大きな異変と言えば、『願い』を除いては語れない。

 ある日突然、『願いを叶えるという願いを叶える』という夢を見る。これだけで言えば、そこまで条件は難しくないのではないだろうか。

 この都市伝説のもとになった昔話は、この国に生まれ育った者なら誰だって知っているはずなのだから。

 だとすれば、【一不思議】を引き起こすことだって簡単なはずだ。

 簡単なはずだと思う。

 簡単な、はずなのだ……。

「…………むぅ」

 この煮え切らない気持ちを説明するのに、特別な配慮は要らない。こんなに非現実的な、非日常的な『ふつう』は、日常的『ふつう』からしてあり得ない。

 だから、教室に充満する種々様々な笑い声も、【一不思議】という種から咲いた噂話による非日常なのだ。こうして目を瞑って祈っている間にも、非日常の日常は動いているのだ。

 非日常に飲み込まれてしまわぬよう、早く答えを出さなくてはいけない。“気付いている”ということを断言できる答えを。

 それはつまり、真犯人を見つけ出すということなのだけれど。


 [どうしよう……。ルートの教室、どこだっけ……]


 一人で出歩くことが危険だと思っていたけれど、教室で待機するのとさほど変わらない気がする。それなら、耳を塞ぎながら廊下を漂っていた方が安全な気もする。

 そうだ。

 その方法を使って、この煩わしさから解放された人間を、一人知っている。

 彼女も一緒に連れて行ったら、もしかしたら心強いかもしれない。

 ゆっくりと目を開けて、固く結んでいた手も解く。視界には、いつもと変わらない孤独の世界が広がる。温もりは、確りと脳裏に刻んだ。これならきっと、大丈夫だ。

 一度、深呼吸をしておこう。

「……っ、すぅ……。はぁ…………」

 ね、念のためもう一度。

「すぅ…………」


「祈祷はもう終わったのかの?」


「すぅ!? はぁ! げほっ、げほっ……!」

 唐突に、非日常が訪れたせいで呼吸の仕方が飛ぶ。そして、噎せる。

「おお!? 深呼吸じゃ、深呼吸……」

 自分の隣の席に座る非日常代表のサクラが、背中をさすってくれる。

 さすって治るのかは知らないけれど、自分と似た境遇の人間とコンタクトをとれている結果には、大変満足だ。このまま、一緒にここを抜け出す手筈を整えたい。

「けほっ、けほっ」

「それ、ゆっくりじゃ、ゆっくり」

 まずは、自分の乱れた呼吸を整えるのが先か。

 サクラに言われる通り、「すぅ……、はぁ……」と二度三度深呼吸をすると、それなりに落ち着いた。

「あ、ありがと……」

「よいのじゃー」

 さぁ、本題に入ろう。

 本題に入りたい。

 本題に……。

「も、もうだいじょぶ、だよ……?」

「むふふぅ! よいのじゃー」

 ぞぞぞっと、悪寒が背筋を伝って爪先まで、再三走り抜ける。そのうちの一回は、腰回りから太ももにかけて大胆に撫でているサクラの手のひらに、見事に堰き止められる。そうして腰回りに残った寒気を撹拌するかのように、また、サクラの指の腹が太ももの内側の方へと這っていくのだ。

 もはや、介抱レベルを超え始めた。

「や、やめて……よ」

「よいじゃろよいじゃろー。せっかく、こんなにふにふにですべすべなのじゃ。触らぬのは損じゃ。あぁ、(やわ)いのぅ」

 背後に立たれているから、その表情を見ることはできないけれど、きっと相当楽しそうにしているに違いない。それと同じく、自分の表情も見ることはできないけれど、きっと、相当嫌らしい顔をしているに違いない。

 ものすごく、恥ずかしい。

 アリスなら話は別だけど……。

「んー……。も、もう、いいよ……」

「何!? 足りんじゃと!? 仕方のない奴じゃのぅ! ぬはっ!」

「言って、ない……」

 きっぱり言えばよかったのかもしれないけど、それで機嫌を損ねてしまったら怖い。でも今、こうやって二人で戯れていれば、『ふつうでない』日常に飲み込まれる心配はないはず。

 だったら今は、大人しく体を預けてもいいのかもしれない。

「ほれほれー。ここかー、ここが良いのかー」

「にゃんっ!?」

 いや、良くはない。

 これ以上は、ちょっと道徳的に危ないかもしれない……、じゃなくて。いや、それもだけど。

 今は、ルートのところへ、同行をお願いしなければならない。

 さっきから絶えず大腿部の辺りを流離っていたサクラの右手を、はしっと捕まえてみる。自分では、かなりの決断だったと思う。

()っ」

「ご、ごめんなさい!」

 素早い動きを捉えるのに、少しばかり力みすぎてしまった。

 痛くするつもりはなかったのに、なんだか少し罪悪感を抱いてしまう。

「……む? そんなに嫌じゃったか?」

「ち、違うのっ。本当に、ごめん、なさい……」

「いや、いいのじゃ。わしが、おさわりしとったからじゃもんな。悪かったのぅ。今度は、もっと気持ちよ――」

「ち、違うの!」

「うぉう。なんじゃ?」

 いきなり大声を出したせいで、息が上がる。息が上がるほどに大きな声だったわけではない。羞恥心を処理するのに脳が弱音を吐いている。ただ、それだけのことで。

 だから、次の言葉は、蚊の鳴く如く小さく。

「……に、来て……か?」

「ん?」

 背後から、サクラの顔が近づいてきたのがわかる。

 きっと、自分の頭の横に今、サクラの耳があるのだろう。

「一緒……来て…………」

「着て?」

 サクラは、首を傾げつつ、自分の椅子の隣で中腰になる。

 今日初めて、サクラの顔を見た。思ったよりも嫌らしくない、優しい顔つきをしていた。

 その和やかな微笑みに導かれるように、自分の中の思いは形になった。

「一緒に、来て、くれません……かっ!」

「んー? もう授業始ま……はっ。なるほど、わかったのじゃ。トイレか、体育用具室じゃな?」

「違う、けど……。いい。とりあえず、一緒に、行きたいの……」

 やっぱり、この嫌らしい顔つきじゃないと、サクラらしくない。

 おかげで、変な所に連れていかれそうだけれど、いざとなったらアリスを呼ぼう。きっと、それは【一不思議】と関係のない危なさだから。

 でもとりあえず、サクラは同行してくれるようだ。

「じゃ、行こ……」

「お? 連れて行ってくれるのかのぅ?」

 生まれて初めて、授業をサボった。生まれて初めて、他人の手を引いて歩けた。

 でも、誰もいない廊下はすごく寒かった。

「どこへ、向かっとるんじゃ? トイレはあっちじゃぞ?」

「トイレじゃ、ない……よ」

 教室を抜け出してすぐに、授業開始の予鈴が鳴った。予鈴が鳴り終わるころには、廊下を出歩いてる生徒は、自分とサクラの二人だけになる。

「むむ? そうか、保健室か。お主もなかなか、良い場所を知っとるのぅ。むふふ……」

 そうだ。もし先生に止められたら、保健室にでも隠れよう。確かに、サクラが喜びそうなシチュエーションではあるけれど、致し方ない。

 三階にあるルートの教室までは、まだ少しかかる。

「のあよ、一つ聞いてもよいか?」

「……うん。いいよ」

 後ろから問われて、改めて気付く。

 自分は今、サクラと手を繋いでいるのだ、と。

「手、震えとるぞ」

「……うん。知ってる」

 なんだか、アリスに申し訳ない気持ちになるけれど、今すぐ離してしまうのは怖い。離した瞬間、世界すべてが敵になって、自分に襲い掛かってくるような、そんな気がして。

 だから、もう少しだけこうしていたい。

 自分の身勝手を、サクラが許してくれるのなら。

「怖いのかの?」

「ち、ちょっとだけ……」

 本当は、目を瞑って、おかしな世界の変な流れに身を投じてしまいたいくらい。

 溺れ沈んでゆくことが、きっと楽なのだと思うから。

「大丈夫じゃよ。痛いのは最初だけじゃ。それに、わしがついておるのじゃからな」

「あ、ありが、と……サクラ……」

 頼もしさに応えられるように、自分はサクラの手を握る力を少しだけ強めた。

 少し急ぐ。

 この後、授業中の教室に乗り込むという、とんでも行動を起こさなければいけないのだから。

「のぅのあよ」

「どうしたの……?」

「そんなに怖いのかの? まぁ、最初は仕方ないとは思うがの。わしに任せておけば、全部大丈夫じゃから、本当に安心してよいぞ」

「う、うん。でも、そんなに、怖いとかは、ないよ……?」

 そう。

 自分でも意外なほど、緊張はしていなかった。それ自体が非日常という不安要素ではあるけれど、同時に、自分たり得ない蛮行を取り締まる都合のいい心理状態でもあった。

 つまりこの手の震えは、

「寒いのかの?」

「……うん。少し」

 確かに、ここ最近気温が落ち込んでいるという話を、先輩のメイドたちからよく聞く。だから、意外と温かい仕事着を着ている間は、至福なのだとも言っていた気がする。

 この制服のように、薄くて肌に張り付くような素材だと、外気温の影響というのはかなり大きなものとなる。

 ただ、幼少期からずっと暖房の無いところで育った自分にとってみれば、我慢できないレベルでもない。

「……けど、全然、平気だから。だいじょぶ、だよ」

「一旦教室に戻れば、わしの服、貸せるんじゃが……」

制服(コレ)の上から、着るの? 変だよ……」

「変かのぅ? 普通(ふつう)の気がするんじゃが」

 今、サクラの『ふつう』って何だろう?

 そんな疑問を考える暇があったら、体を動かして温まった方が早そうだ。昔は、冬が来るとよく体を擦っていた記憶がある。

 さすがに、学校で乾布摩擦の真似事をするのも気が引ける。おじいちゃんみたいだし。

 まぁ、三階に向かうこの階段のとてつもない長さを利用することにしよう。それなら教室に戻らなくて済むし、服を着ることもない。ゴールへ向かうこともできて、一石三鳥だ。

「服は、いい……」

「そうかのぅ……。普通(ふつう)に服を着れば早いのにのぅ」


 [普通に……?]


 再び表れたサクラの『ふつう』は、何となく自分の中にある『ふつう』とは逸れている気がした。

 どういうことだろう。

 もしかして、サクラも……。

 階段の踊り場らしき広がりで足を止めて、振り返ってみる。

「ん? どうしたんじゃ?」

「ど、どうもしてない!」

 最近見飽きる程に見ているサクラの姿を目に映して、自分と比べてみる。

 (あか)みがかった明るい茶髪が、さらりさらり、サクラの動作に合わせて右往左往している。その忙しさを、自然とあどけなさに変換させてしまうような愛くるしい童顔は、一度見たらきっと忘れられない。碧緑の瞳も、羨ましいくらいに澄んでいて宝石のように奇麗。

「んー? ここかの? ここで始めるのかの?」

 何を始めるのかは知らないけれど、とりあえず「始めないほうがいい」ような気がする。

 疲れたという言い訳をして、もう少しだけ、サクラを観察してみよう。

 視線を下へ下と持っていく。

 自分との差異にがっかりしそうな部位は飛ばすとして、その下も非の打ちどころはなかった。ふわふわした性格からして、鍛えているというわけじゃなさそうだけれど、なぜか括れて引き締まっている。痩せ過ぎかと言うとそうでもなく、[触ったらきっと柔らかい]と思えるほどには、グラマラス。

 感想を述べるなら「全体的にバランスが良くて、とても健康そう」だろう。

 その均衡を崩すことなく、すらりとした手足が肩と腰から伸びていて、それはまさに美しい樹木の一枝のようだった。柔軟で丈夫そうという意味を兼ねて。

 自分がサクラと対抗できるのは、なんとなく肌の白さぐらいのものだと思う。

「お主、見つめ合うのが好きな(タチ)かの? やっぱり最初は、そこからなのかの?」

「見つめ合うのは、好き、かも……」

 ふと、アリスのことを思い出す。

 そう言えば、自分の左手は学校に来るまでアリスの手に繋がれていた。今は、サクラが握っているけれど。

 そう考えると、今現在自分が置かれた立ち位置というものが、急にあやふやになってくる。サクラの背後に(かぶ)いている階段が、恐ろしく長く見える。

 自信が無くなりそうだったので、振り返るのはよそう。

「なんじゃ。もっと見ててもよいのじゃぞー。まぁ、場所替えには賛成じゃが。さすがに階段では、落ち着いてできん」

「…………」

 立ち止まって、目的地を見据えてみる。

 後ろ髪を引くように、サクラが声をかけてくる。

「なんじゃなんじゃ、そんな辛気臭い顔してー。お主、結構良い体つきしとるんじゃから、自信もって良いと思うぞー。欲を言えば、もう少しふっくらしてもいいかもしれんのぅ。……あとは、やってーー」

「ね、サクラ……」

 もう一度振り返るのは怖くて、できなかった。

「どうしたんじゃ?」

「ノアの、制服って、変……?」

「なんじゃ急に。全然変じゃないのじゃ。わしだって、教師だって、クラスのものどもだって、みんな同じやつを着とるではないか。……ああ、もしかして、(がら)が――」

「ほんとう……? ノアだけ、変に見えてたり、しない……?」

「むぅ……。それは、わしはのあ(おぬし)ではないからの。なんともいえん。お主の目に、お主自信はどういう風に映っておるのじゃ?」

「制服、だと思う……」

「わしも、同じに見えるぞ」

 これは、もう、最後のチャンスだ。

 ここまで階段を昇れば、何となくわかる。目的地に、辿り着けるかどうか。

 今振り返って、目の前に映し出された『ふつう』を知覚することで、自分がどこにいるのか飲み込めるのだと、そう確信できる。

 だから、最後。

「ね、サクラ……」

「なんじゃ?」

「もう一回……。み、見ても……いい…………?」

「うむ。よいのじゃ。ポーズは要らんかの?」

「うん。いい……」

「もう、脱いでた方がよいかのぅ?」

「ううん。いい……」

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「「………………」」

 二人の沈黙が交わるその瞬間、自分は意を決して振り返る。

『ふつう』でないものに溢れた今の世界に、『ふつう』の安心は求めない。

 だから、願うのは『アリスが一緒にいてくれる毎日』や『友達として接してくれる人がいる日常』、『日々を楽しくしてくれる隣人の笑顔』みたいな、少しおかしな安心(コト)。もしかしたら、これから『隣人と愛を深め合う展開』なんてこともあるかもしれない。

 とてもおかしい。

 とても『ふつう』とは言えない。

 言えないけれど、それが『ふつう』。

「残念じゃったの。脱ぐなと言われたから、脱いどらんぞ」

「ん……全然。着たままでいい……」

「そうじゃの。脱がす方が、興奮するのは、道理じゃからの」

「そういじゃなくてっ。サクラの、すごく、似合ってる……」

「そうかの? それは嬉しいのぅ!」

 相当自分に自信があるか、はたまた天然か。そんな常套句など、即座に吹き飛ばしてしまいそうなコーディネート。サクラの場合、自信も天然もどちらもあり得そうだけど。

 肌の色には特に際立つ黒を基調にした、黒い蝶のような上下でばっちり決めている。そのバランスを提言するかのように、スタイルもまた均整がとれているのであった。胸元には、灰色の水玉模様が入った大きなリボンが付いている。行動的なサクラの動作すべてに合わせて羽ばたくその黒リボンが、また、一際目を引いた。腰回りの小さなリボン二つは、蝶の(つがい)みたいで、とても幼くて可愛らしい。それはもう、それとないズルさを感じてしまうくらい。

「……うん。可愛い……」

 なんにせよ、とても魅力的だった。

 目だけでなく心すら奪っていきそうな括れが、視線を誘引する空間を生みさえしなければ。その隙間から、今一番見たくなかった背景が見えさえしなければ。

「のあのも、似合っておるぞ! 胸元のひらひらしたやつとか、すごくいいのじゃ! 舐め回したいくらいじゃ!」

「ありがと……。でも、舐めるのは、ダメ……」

「比喩じゃよ比喩。そんぐらいかわいらしいということじゃ――


 そうか。

 もしかしたら、学校自体が【一不思議】に覆われているのかもしれないのか。学年とか、クラスとか、そんなやわな括りじゃなくて、もはやこの建造物全体にまで及んでいるのかもしれないと。そして、その中心にルートがいる、と。

 その中で唯一、『おかしい』を『おかしい』と感じることができる人物が、他でもない自分であると、そう考えた。もしくは、サクラもまた、それに近しい存在であると考えた。

 そんな思想を掲げでもしなければ、授業中である今、階段の踊り場で互いのファッションセンスについて語っているはずもない。それも、これほどまでに『ふつう』に。

 そこまでは『ふつう』に『おかしい』でよかった。

 だから今、わかってしまった。



 ――かわいらしいということじゃ。お主の水着(せいふく)はのぅ。ぬははっ」



「ありがと……。大人みたいで、奇麗だと思う。サクラの水着も……」

 きっと、サクラの言う『はじまり』みたいなものは、サクラが始めようと思えば、いつだって始められるのだと思う。それこそ、自分が許しさえすれば、今すぐにだって。

 でも、それと違って、自分の中にある『ふつう』の『おかしさ』は、もう始まらない。そして多分、終わりもしない。だって、この日常(ふつう)の中にある非日常(おかしさ)が、これ一つも見つけられないのだから。

 そんな『おかしさ』は、もうすでに『はじまり』を迎えてしまっているのだから。

 だから。

「ね、サクラ……」

「なんじゃ?」


 だからきっと――


「ここって何階?」

「まだ二階のはずじゃよ?」


 ――この階段はとてつもなく低く、恐ろしいほど長いのだろう。

 それはまさに、【昇っても昇っても昇れない】ほどに長い、普通(おかし)な階段で。

 もう少し昇れば、そこは今朝だろうか。



【あとがき】

 さあ。

 と、言うわけで。ノア編に仕組まれていたトリックは、『ノアも一不思議に巻き込まれている』でした。【一不思議】の内容は『全員水着が制服』です。

 よく見ると、NoahⅠ-1から「服を着る」という表現が省かれているのがわかります。逆に「服を着ていない」という表現が、多くあったのもわかると思います。

 【一不思議】は、学校で流行る話題そのものをモチーフにしています。例えば、「芸人Aが面白い」とか「BさんとCさんが付き合ってる」とか、そういう一過性のものです。

 ノアのような立ち位置にいると意外にたくさんの情報を知れたりするということにも、留意して書いてみました。昼休み外でサッカーをしたりしている人は知らなかったりとかですね。



 ーー何が普通か?


 みたいな、大きな哲学的テーマは、小説一つ一つとしてではなく、私の生き方自体に深く介入しているので、常に忘れないようにしています。

 私の話を読む際、哲学の知識があると、また面白いかもしれません。

 そういう人にだけ引っかかるトリックも入っているので、学があるからと言って、読み解けるとは限らないのが深いところです。



次回はサブエピを挟んでアリス編に行こうかと。

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