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Ⅱ 振り返った先も、春。

【まえがき】

 今回は少し長めかもしれません。

 眠い方は明日読みましょう。






 


 いつもと違う顔ぶれで、いつもと違う道を通って、いつもと違うところへ行く。

 ありふれた日常が、新しさという非日常に塗り替えられてゆく。そして、その非日常が繰り返されてまた、それがありふれた日常になる。

 痛みを伴うことが普通だとするならば、今の僕は普通ではないということになるのだろうか。

 赤茶色のレンガでもって作られた校門を潜ると、僕はいつも振り返る。

 自然、校門の両サイドを固める二人に視線が吸い込まれる。個々の美しさは華奢にあるのに、二人揃うと大胆で優雅になってしまう謎めいた不思議すら持ち合わせている。仰げば、手を繋ぐように伸びた髪が交わり解けて、風が吹くたびに息の合ったしなやかさを見せる。その背中だけを見て、僕は尊敬の念に似た畏怖の感情を抱く。

 堂々たるその息吹には、何物にも代えられない懐かしさ。目を瞑っても、決して突然いなくなったりはしないような、確かな存在感。その足元で眠りたいとさえ思える。そこでさらに、息吹を感じられたら言うことなしだろう。

 時間が許す限り見ていたい、そう思える先輩が二人もいた。

「ああ、和だ……」

 さらさらと爽やかに梢を揺らす先輩を拝んで、今日も僕は独り言ちる。

 この心地よさがきっと、新しい日常になる。

「あ。予鈴」

 感慨に浸る僕に、命令調子の猛りが水を差す。

 周囲を見渡すと、すっかり人の影が無い。どうやらアリスとノアも、すでに教室へと行ってしまったらしい。無念にもクラスが別になってしまったのだから仕方ないことなのだけれど。

 少しばかり惜しいけれども、入学早々にして『遅刻するほど木が好き』なんてレッテルを張られてもらっては、後々になってアリスに笑われてしまって惨めに違いない。

 僕は踵を返して、自分の教室へと向かう。



 ミドル一年生の時は一階、二年生の時は二階、三年生の時は三階。そして、アカデミー一年生の今は、一階。

 なんだか来年の教室の位置がわかってしまうような気がして、目的地まで廊下を行く足取りに、砂を噛むような味気の無さが混じる。でも、新しい環境が生むぎこちなさが、それを十分にカバーしてくれている。

 教室から聞こえるがやに、ドアが開きっぱなしだったミドル時代(ちょっと前)を思いながら、新鮮な『閉まったドア』を開く。

 遅刻気味だったせいもあってか、視線が一箇所に集まるのを感じる。

 その一箇所とは、僕のこと。

 おそらく、強い意志などのない反射的なものなのだろうけど、人数が人数なだけにかなりのプレッシャーを感じる。目立つことが苦手なおかげで、そんな無意識の重みですら勝手に小さくなってしまう。

 突っ立っていると余計目立つと思ったので、萎縮したまま身を屈めるようにして、こそこそと自分の席に向かうことにする。

 烏合の衆の一部に溶け込むと、ドアの音によって静寂に支配された空気も同時に解けて、元の賑やかさに戻る。僕に集まった視線も散っていって、壁に押し付けられるような圧力も消えた。

 出席番号が名前の五十音順なので、ミドルの入学時とほとんど変わらない窓際の席だった。今は、顔と名前の一致が済んでいない入学直後の時期なので、席替えもまだしていない。

 喧噪の中、一人静かに着席して思う。


 〈どうしてそんなにすぐ会話ができるのか……〉


 学術都市を掲げるこの国は、聞こえが栄華な割にとても平和で緑も豊かだ。大型店舗が二つ、広大な居住区、自然の綺麗な公園の数々……。田舎と言ってしまえばそうだけど、必要なものは全部揃っているのだ。

 そんな環境の中にあるアカデミーで、かつ学費が安いともなれば、人気が出るのは当然なことである。今年の競争率は確か五、六倍ほどだったか。

 しかし、記憶が正しければ、僕やアリスが通っていたミドルの受験生の数では五、六倍にはならない。ということは、他校から――いや、もしかすれば国外の学校から受験している人もいるかもしれない。

 それは、初対面ということに相違ないのではないのだろうか。

「なあお前、何部に入る? ちなみに俺はテニス部かな」「お前、さっき元サッカー部って言わなかったっけ?」「はは、どうせ女子目当てだろー!」

「ねえねえ、学校どこだったのー?」「ワタシは隣の隣の国から来たんだー」「おお! ってことは、今は一人暮らし!?」「ウソ、マジすげぇ!」

 右も左もわからない。いや、多分これは、右にも左にもついていけてない感じか。

 相手のことをよく知ろうという意志があちこちで放たれて、飛んで、跳ねて。教室を舞う大量の情報が視覚から、聴覚から、遂次脳へとダイレクトに応酬する。

 要するに今、この教室は、とても混沌としている。

 でも、さしたる焦りは感じない。

 僕にも一つだけわかることがあったから。

「あ、あの……さ」

 ぶっきら棒を演出しながらも、僕は左右を諦めてきっちりと前を向く。

 しかし、その放言は教室に飛び交う雑言の一つとして処理されてしまったようだ。

 僕は、その人の名前を呼ぶ間柄にはまだ早いと踏んで、肩を軽くつつくことにした……の、だが。


「はむぅぉん!?」


 つつこうと構えていた人差し指に、柔らかさと生温かさと、それから湿潤が訪れる。勢いが良かったせいで、第一関節は確実にその湿り気にやられることになる。

 これまでの学校生活を振り返っても、今ほど、教室の混沌たる喧々諤々に感謝したいと思ったことはなかった。まだ数日しか経っていないけれど、きっとこの先もないと思った。

 何が起こるかわからないカオスの中に、『木好き』のさらに上を行く『変態』というレッテルの存在を危惧して、僕はすぐさま指を引っ込め謝罪する。

「ごごご、ごめん!! ほほ、本当にごめんなさい!!」

 誤って――謝ってばかりの日常に、安心する自分がいる。

 片目を開けて見てみれば、先ほどまで僕の指が挿しこまれていたところが、まだポカンと開いたままになっている。その影響はそこだけではなく、驚愕の表情をぴったり固定するまでに及んでいた。

 教室で、しかもこんな朝早くから変なことをさせてしまったのだから当然か。二人きりで、夜ならいいとか言う意味ではなく。

 入学式の後に教室で行われた、自己紹介を兼ねたレクリエーションで一度話しただけの関係の分際で、一体何をしでかしているのだ、僕は。

 〈うわぁ……! 朝起きるところからやり直したいよ!〉という憂慮を顔に出してしまわないよう、また俯いていると、前方から何やら聞こえてきた。

「むふふ……」

 それは不敵な笑みの効果音か。

「むふふふふ……」

 はたまた、愉悦を露呈する羅列か。

「むふふふふふふ……」

 わからない。

 でも、『俯いていたらわからない。知りたければ(おもて)を上げろ』という明るい意味に受け取っても、あながち間違いではない気がした。『むふふ』という字面には、そういう力があった。単純に『顔を上げて』と解釈できたら、また一つ明るくなれるだろうか。

 僕は引き続き、俯き気味の片目で機嫌を見る。

「ぬはは! そんなに固くなるでない。そんなことでわしは怒らんから、安心せんか!」

 その人は、そう言って僕の肩口にポンポンと、軽く二回叩いてきた。

 大袈裟に、でも、嫌みな仰々しさは感じられない。こんなにも無邪気に笑う人は、生まれて初めて見たと思えてしまう。

 こちらまでつられて笑ってしまいそうになる失礼を堪えて、僕は安堵の声を口にする。

「よ、よかった……」

「よいぞよいぞ。わしの方こそ、急に振り向いたりして悪かったのぅ」

 右手で自分の髪を撫でながら笑う。終始気取ることはない。

 その一挙手一投足が生む『愛くるしさ』が、緻密に計算されたように心を掴んで逃避を許さない。均整の取れた健康的な面持ちと、少しクセのある鼻にかかった声質が普遍のあどけなさを感じさせる。言うなれば『熟練の子供らしさ』だろうか。

 撫でられるのに従って暴れる薄紅を広げたような紅茶色の毛先のいじらしさと、左右でサイドの髪の長さが違うというシンメトリーゆえの不安定さに、また幼さを感じる。ただ、それでいて制服をしっかりと着こなしているというギャップに、得も言われぬ敗北感を味わうことになるのは言を俟たない。子供が好きな人なら、この子を理想形とするかもしれない。

 子供と違う要素を一つ挙げるとするのなら、訛った口調が生む『精神年齢』に限る。

「ううん。僕は大丈夫だよ。それより、く、口の中とか怪我しなかった……かな?」

 試しに子供をあやすよう言ってみるけれど、違和感が激しい。

 でも、誰のためにもならないその試みすらも包み込むように、言葉を返してくれる。その受け答えはまるで、経験を語る先輩や一日の長で弁を振るうお姉さんのよう。

「うむ、大丈夫じゃ。お主も、わしの(ナカ)は温かかったかのぅ……?」

「ま、まぁ……うん、温かかった……かな」

「んはは! そうかそうかー!」

 心の中で〈やっぱりノリの軽いおばさんかも〉と訂正して、僕は制服の裾で指の先を拭いた。



     ***



 クラスに馴染むのが若干困難に感じられるのは、どうも僕だけの話ではないようで。

 僕とアリスとノアの三人は友人関係の(よしみ)で、慣れるまでの昼休みは、ここ――開放屋上庭園に集合して昼食をとることに決めていた。

「それで? あなたはどうなのかしら?」

 三階建ての頂上というそれなりの高さがもたらす展望を楽しむ暇もなく、回答を請われる。

 この場合、納得のいく答えというのは、おそらく世界のどこを探しても見つからないだろうと思われる。そういう不利な問いには、被害を最小限に抑える答えを返すのが無難だ。

「僕も、二人と大体同じ」

「まぁ、分かってたわ」

 やれやれと大袈裟に両手を広げるアリスの隣で、ノアが発言する。

 視界の奥に、歓談しながら昼食をとる男女各二名を捉える。学校生活を楽しんでいるように見えるか見えないかで言えばおそらく劣ってしまうであろうノアも、アリスの影で真価を発揮する黒の存在感でアイデンティティを確立させているように見える。

 クラスで馴染めないと言うのはつまり、そういうアイデンティティを入手するという意味にもとれる。ノアは特に、アリスにくっついている大人しいキャラとして定着しそうだ。

 何にもなれない僕は少し焦りながらも羨んで、耳を貸すのだった。

「ルートは、部活……やるの?」

「部活か……」

 タイムリーな話題が、胸に深く突き刺さって痛い。

 実は、『部活動ガイダンス』と銘打たれた部活紹介が、三時限目と四時限目の二時間を使って行われていたのだ。

 人気のある部活は新入部員の獲得が安定しているからまだしも、そうではない部活の紹介たるや、もう必死そのものだったということがとても印象に残っている。良い結果を収めた部活には高い部費を支給するというシステムは、どうやらミドルの時とそこまで差異は無いらしい。

「どうしようかな……」

 僕が胸を痛めてまで悩んでいる理由は、とても簡単。

「残念ながら、バトン部は無かったわね」

 購買部で一番売れているらしい『塩パン』なるものを頬張りながら、アリスは片手間に僕の傷口へ塩を塗りつける。屋上に渦巻く春の荒風がまた、ヒリヒリと沁みる。

 国技であるカーリングの部活動が無いわけもなく、アリスは引き続きカーリング部に入部するようだった。それ以外の部活からの勧誘もあったらしいし。何より、迷う必要が無いのが大変羨ましい。

 でも、僕自身部活に対して、迷いや葛藤があるかと言ったら、それも何か違う気がした。

 確実にあるのは、一種の“引け目”だろうか。

 ミドル時代にバトン部に所属していたのも、部活動への所属が強制されていたため仕方なく、だったのだ。それは、やりたいことが無かったというよりは、やりたくなかったというニュアンスが近いかもしれない。

 どちらにしても、僕は逃避するために選んでいたのだ。帰宅部同然の部活、バトン部を。

『部活動所属』という名目は同じでも、アリスと僕とでは意味が全く違った。

 僕が足早に家に帰って無下に時間を削いでいる間も、アリスは目標達成に向けて辛い練習に汗を流しているのだから。部活で手に入れられる何かを、僕は確実に持っていないのだから。

 そして、汗の片鱗すらも感じさせない余裕を見せられて、僕はいつも引け目を感じてしまうのだ。

「この学校は強制じゃないわけだし、普通に帰宅部でもいいと思うのだけど」

 気を遣ってくれたのか、アリスは僕と目を合わせずに話していて障りが無い。

「そうだよね……」

 確かに、この学校には部活動への所属が自由なために、帰宅部の存在が認可されている。だから、僕には迷いが無いのだと思う。

 引け目という柵だって、勝ち負けを気にするような性格ではない僕にとってみれば、それはただ引け目としてそこにあるだけなのだ。

 では、一体何に悩んでいるのか。

 僕はその答えを、ミドル時代に同じ部活動に所属して……いや、所属していなかった仲間に尋ねるべく、アリスの影を見る。

「ノアさんは帰宅部?」

「んとね……、ノアはカーリング部……だよ」

 予想だにしない回答に目が開いて、僕の表情は「えっ」で固定される。平然と食事を続ける様子からして、アリスはノアからすでに聞いていたのだろうか。

 処理を急いでいると、言い放った下から「でもでもっ」と訂正が入った。

「マネージャー……だよ」

「そ、そっか。すごいね、ノアさん……」

 そんなことはないと両手をバタバタ左右して謙るノアも、「帰宅部の僕なんかより」と言葉尻に付け足していたら、自分に自信を持ってくれていただろうか。

 やりたいことを見つけて、やりたいことをやれるだけやるということが、どれだけ素晴らしいことなのか、僕にはわからない。一度は理解したはずだったのに、今は、忘れてしまって、失ってしまってわからない。

 だけど……。


 〈僕はノアにも引け目を感じてしまうのだろうか……〉


 確かに怖かった。

 少なくとも僕の近くを歩いていた人が、急に遠くへ行ってしまうような気がして。

 追いかけても追いかけても僕は周回遅れだから意味がないけれど、隣を歩くことはできるのに。それすらも叶わなくなってしまうようで。

 でも、きっとそれは、僕が一位になっても最下位になっても同じことなのかもしれない。

 辿り着くための資格が無かったら、何も始まりはしないのだから。

「ルート」

 食べ終わった塩パンの袋を畳みながら、アリスが僕の名を呼ぶ。尚も、視線は合わせずに。

 視界の奥で弁当を食べるノアの視線も、展望に赴いている。

 何となく向かい合うのが億劫に感じられて、僕もアリスに耳を向けて、目は逸らすことにする。強いられることはなくとも、呼名に返事した。

「昔、サッカーやってたわよね、確か」

 目を逸らしていてよかったと思った。

 表情から何かを読まれることも、こちらが読んでしまうこともない。僕は何も答えずに、ただ黙るだけでいい。

「サッカー、やってみたらどうかしら」

「…………」

「前にリズから聞いたんだけど、あなた全国大会で――」

「ごめん。今日は、ちょっと気分が悪いから、先に教室に戻るね」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ」「ルート、行っちゃうの……?」

 アリス情報網に何が引っかかっているのか、それを僕が見れば部活に関連する引け目云々の悩みが晴れるかもしれないと、そう思った。

 第三者の話を聞くということも、時には重要なことだと思うから。

 ただ、それを知るということは、やり直そうとも変えられないどうしようもない現実を、再び身に刻むということにもなる。それまで望んでいたすべてを忘れて、自分のやりたいことを失った“あの時”の気持ちを思い出してしまう。

 僕は“あの時”すでに、リズから話を聞いて、現実を知っていた。

 そしてその結果、僕は泣いた。

 失敗してやり直し、悩み苦しみ悶えて、納得のいく結論に辿り着いて……。様々なことを経験して、確かに僕は変わったと思う。

 でも“あの時”、僕は僕になったのだ。そしてそれはきっと、何度やり直したとしても同じ結末(ルート)になるだろう。僕が僕として生きる道を、僕は選んだのだから。

 だから、僕は逃げる。

 間違ってもいいと信じて、逃げるしかない。

「部活ですべてが決まるわけじゃないんだ……、これでいいんだ……」

 春風が吹くたび傷口が沁みる、そんな空しい痛みに耐えきれず、僕は屋上庭園のドアを閉める。

 校門の先輩二人の目にはきっと、酷くだらしがなくて意気地なしに映るだろう。反対に、僕の目にその姿を映せば、劣等感を感じてしまうに違いない。


 〈もう、教室の机で眠ろう〉


 僕は、できるだけ人目につかないルートを通って、逃げるように教室へと駆け込んだ。

 忘れもしない。忘れられない。


 ――逃げる。


 それは“あの時”に覚えたことなのだから。



     ***



「来週末にはクラス対抗の球技大会も控えていますので、この後部活を見学に行く人はあまり身を入れないように注意してくださいね。あくまでクラス対抗ですから?」

 担任の先生はベテランらしく、丁寧ながらも絶妙な口ぶりで、緊張を解くようクラスに笑いを生む様は、手慣れたものを思わせる。

 そんな先生が、僕の顔を見たら、多分悲しむだろう。

 だから、先生の「さよなら」の合図が聞こえるまで僕は、机の上に敷いたカバンに突っ伏していた。

 なんだか、昼休みの終わり辺りからずっと、目の前が暗い気がする。

 そして、部活に入らないとこれからもずっと、目の前が暗くなる気がする。

 仕方ないと思い始めるのを断ち切るように、頭に違和感を覚える。

「ちょいっ、ちょいっ」

 どうやら、髪の毛で遊ばれているようだ。

 擽ったくなって、遂に顔を上げると、そこにいた少女はにっこりと柔らかく微笑んだ。

「具合悪いのかと思ったのじゃ」

「えと……、ごめん」

「何がかの?」

「心配かけちゃったなと思って」

「なんと! ……優しいのぅ」

「そ、そんなことはないけど」

「それじゃ、優しさのお返しをしなければいかんのぅ」

 そう言って、少女は椅子から立ち上がると軽そうなリュックを背負い、僕に帰り支度をするよう催促した。

 言葉に寓された意味を理解するよりも、荷物をまとめる方が断然速かった。

 だから。

「部活、一緒に見に行くのじゃ!」

「え?」

 正直、ショックを受けた。

「まだ、何も決めてないのじゃろ?」

 部活ではなくて『何も』という言葉を選ばれて、さっきまで突っ伏していた理由が露呈してしまうような恥ずかしさを感じる。

 でも、確かに僕は、その言葉の通りだった。

 何もかもが初めてのこの環境に戸惑って、自分の在り方すらわからなくなって。

 僕はこの新しさの中で、何を日常にすればいいのか、どんな日常がこれからを輝かせるのか、見失ってしまったのだ。

 人生の岐路に立たされたわけでもなければ、世界をやり直すような大事変に遭遇したわけでもない。

 それなのに、僕は今、迷っている。

 それなのに、僕は今、楽しくない。

「え、えぇと……」

「なんじゃ? だめなのかのぅ?」

 鮮やかな花を思わせる彼女の手に引かれていけば、いつかは、花の園のような楽しいところに辿りつける気もしてくる。

 でも、自分で選択していなければ、進んでいる道の正しさすらもわからないのだ。いくら楽しくても、いつかは偽物だと気付いてしまうだろう。それは、アリスと一緒に悩んで考えて、気付けた。

「ダメ、ではないけど僕、部活には……」

 辿り着いた先に何があるか知っている道――既に通って知っている道が、僕にはあった。

 そして僕は、そこにはなるべく近づきたくはなかった。

 間違っていると、確かに経験して、知っているから。

 僕は自然と俯いて、彼女の威勢を少しだけ拒んでいた。

 でも、彼女は僕の手をとって歩き出し、

「んんー! いいのじゃいいのじゃ! 今はわしが見に行きたいだけなのじゃ!」

 振り返り、

「いや、お主にはこう言わんとダメか」

 視線を交えて、

「わしは、ルートと見に行きたいぞ」

 僕に願う。

 その言葉で、見失った日常の明るさが見つかったわけではない。

 だけど、それを見つける方法が――光を遮る煤を払う方法が、分かった気がする。

 大きく頷きながら、僕は歩みを少し速めて、彼女の隣に並ぶ。

「わかった。見に行くよ」

 何かを求められることが、こんなにも嬉しい。感謝されるべきなのに、感謝したくなってしまう。優しさのお返しをしたくなってしまう。そうして次々に連鎖すれば、世界はきっと優しさで満たされる。

 そんな簡単なことを、今までずっと忘れていた。忘れてしまうほどに深く、淡い記憶だった。

 それは、幼い頃に誰かと誓った、世界が明るくなる方法。


『世界が優しさで溢れますように!』


 温かく包み込むように懐かしい、優しさの始まり――彼女の表情が、そんな記憶を掘り起こしていた。



【あとがき】

 春って、なんだか不思議な季節ですよね。

 何もかもが初めてになる『始まりの季節』なのに、どうしてか懐かしい。新しい何かが胎動する『芽吹きの季節』なのに、どうしてか空しい、寂しい。

 心が聞き耳を立てて、風の音を聴いてしまう感じ、しませんか?


 新キャラは、そんなワビサビを形にしたような、儚いけれど深い人生を見ているような、そんな女の子にしていきたいです。

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