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Ⅶ To prince's heart...

【まえがき】

 “あなたの心に触れたい”

 そうすれば自分の心も知ってもらえるから。


 今回は、前回の話が短くなってしまった分、少し長めになりました。

 悪しからず。




 それでは本編です。






 


「なんだ。今日は早いな」

「部活が早く終わったから」

 玄関の巨大な時計の短針が午後の六時の手前にある。お前こそ早いじゃないか、とかは言えない。

 父親との会話はそれだけにして、あたしは部屋に向かった。

 背中に突き刺さる視線が、気持ち悪かった。

 家の中央を貫く長い廊下を行くと、海鮮系のいい匂いがしてくる。

 この時間帯だと、まだご飯は……いや、出来ているわね。

 だいぶ以前の話だけど、母親が料理を作っていた頃はほぼ定時で午後の六時半がディナータイムだった。

 たまに早く帰ると、その頃の癖で厨房を覗いてしまうことがある。

「今日のご飯は何?」と言うと、「ハラスよ」と返ってきて、ぴょんと跳ねて喜んで。その日学校であった下らないことを、下らなくないように話して。

 今となっては郷愁の中にしかないそんな素朴なやり取りが、あたしは好きだった。

 鞄を部屋に置く前に、キッチンを覗いてみる。習慣を思い出しただけの話で、何も期待などはしていない。

 白黒フリルのメイド服を着た四人のメイドが、右に左に忙しなく夕食の準備をしている。ものすごいスピードで料理が出来上がっていく様は、雪が積もるのと少し似ていた。

 あの量の食事があたしの家族三人分のためだけに作られていると考えると、ゾッとする。世界には食べ物にありつけない人も大勢いるのに、あたしはこんなところで一体何をしているの? と疑問になる。

「お帰りなさいませ、アリスお嬢様。盛り付け中ですのでお待ちください」

 あたしが覗いていることに気付いたメイドの一人が、作業の手を止めて頭を下げる。続いて、他の三人も作業の手を止めてお辞儀した。

 あたしはどうしていいかわからなくて、「頑張って」とだけ伝えて、逃げるようにその場を後にした。

 別に、家に家族以外の人間が存在していることには抵抗はない。メイドさんたちは皆、仕事抜きでもいい人だってわかるし、あたし自身ノアの家に半居候状態だから抵抗を抱いていては行動と矛盾してしまう。

 でも、何か違う気がする。この家庭の形には違和感がある。

 なら、違和感は違和感のままでいい。

 正体がわかってしまったら、何か良くないことが起きる気がするから。



 このテーブルの大きさを踏まえて家族の人数を考えると、あたしの家族は巨人族でなければおかしいことになる。

 いや、そんなわけはなくて。あたしたちは当然、ただの人間で。

 ただただ裕福であることを周囲に知らしめるような、そんな顕示欲すら感じるこのテーブルは、あたしにとってはとても居心地の悪い場所だった。

「ああそうだアリス。この間、コーヒー園のあの子……ええと……」

 紙エプロンを装着しながら、父親が何やら聞いてくる。

 あたしは、目を細めないよう努めながら、いつものトーンで返す。

「ルート?」

「そうだそうだ! その子の家にお邪魔したらしいじゃないか。ちゃんとしたお礼がまだだったから、明日それを渡しておいてくれ」

 人差し指で合図してメイドの一人を呼んで、両手に収まらないほど大きな箱をあたしの元に持ってこさせた。

 これを学校まで持っていくのは正直マヌケだ、とか言ったら、散々怒鳴られた挙句、果てには馬を手配されそうだ。

「夏休みに宿泊をさせてもらったお礼も兼ねてある。中身はそんなにいいものじゃないが、一応コーヒー園だからお菓子を選んだ。確か、『マカロン』とかいう奴だ」

「あなた。それだと、流行に乗り遅れないように必死なのが滲み出てる感じがするわよ」

「お、そうか? では別の――」

「これでいい。ルート、甘いもの好きだし。妹も、多分喜ぶ」

 両親は暫くの間、思案顔でいた。

 そして、「そうか。ならそうするといい」と許諾の意を示した。いや、許諾と言う言葉がここで出ること自体おかしいんだけど、どうして悩む必要があったのだろう。

 もしかして捨てる気だった?

 過去にもそんなことがあったのを思い出してしまって、邪推せざるを得ない。

 軽蔑が表情に出ないよう、ポーカーフェイスで咀嚼、嚥下を続ける。

「アリス。進学の方はどうなっている? 試験は確か二週間後だろう?」

 父親は昔から間が悪かった。

 あたしが何かしようとすると介入してきて、あたしの行為は未然に終わる。

 結果として、いい方向へ向かっていたから尚更あたしはそれが嫌だった。

 今通っている学校も、実は父親が決めていたりする。

 そのおかげでルートやリズ、部活仲間に出会えた。でも、ノアとは離れてしまった。

 …………。

 あたしが従順だっただけかもしれない。

「一応は、国外で考えてる……」

 そう。

 あたしの今の望みは、ルートやノアと同じ学校に行くこと。

 でも、望みに反することを確定的にするのは怖くて、「一応」なんて言葉を付けてしまう。

「一応? 他に何かあるのか?」

「アリス? 国立はダメよ? あなたはもっと上を目指せるんだから」

 母親は昔から強情だった。

 常日頃振り回されていたわけではないけど、父親と同調した時の強制力には、一度も逆らえたためしがない。

 ここで引き下がったら、あたしの望みなんて軽く潰されてしまいそうだ。

 風邪がどう吹きまわしたかは、あたしには少し計算が難しい。

「でも、友達がみんな国立に行くの……。それに国立だって、立派な仕事に就ける可能性は十分あるわ」


「――!?」「――!!」


 それからは怒号だった。完全に耳を塞ぐことはできないけれど、何を言っているかわからないくらいにはカバーできた。

 どうせ、国外に導く言葉しか吐けないのだ。あたしにとって、そんな言葉は無価値だ。

 昔、あたしが従順だったのは多分、『願い』がなかったから。望みとも言うかな。

 けれど、今は違う。

 あの時ルートに救われて、あたしは願った。いや、願い続けている。

 多分、だから叶った。


『あたしだけの王子様のこと、すべてが知りたい。好きなもの、嫌いなもの、住んでる場所、何でもいい。あたしはそれを知って、王子様にお礼がしたい!』



 まだ幼い頃に、あたしは公園で遊んでいた男の子のサッカーボールをなくしてしまって苛められそうになった。そんなあたしを救ったのはルートだった。

 その時はわけがわからなくて逃げ出してしまった上に、後で邂逅した時、ルート自身も覚えていないようだったから、暫くお礼が言えない状況だったわけだ。

 だから、そんなことを『願い』に、あたしは生き続けた。

 叶ってしまえばそこで終了する願い事だと思っていたら全然違くて、あたしはもっと知りたくなった。醜い人間の底無しの欲望と言われたって良かった。

 それくらい面白いんだ。あたしの王子様は。

 ここで簡単にやめられるわけがない。少しばかり中毒性が強すぎる。

 それでいいのよ。



「友達って、まさかあの――――か?」


 でも、その言葉だけは聞き捨てならなかった。

 耳を塞いでいるはずなのに、その名前だけは透過してきてしっかり音声情報として脳に取り込まれた。

 耳栓――手を耳から外して、

「あんな小汚いところ、二度と行くなと言っていただろう? お前は明日から外出禁止だ!」

 脱力して、両の手がブランとなる。視線も次第に下がって、テーブル下の暗がりで視界がいっぱいになる。

 あたしの大事なものが取り上げられた虚無感にとらわれて、さらに怒りと悲しみを足して二で割ったような感情が頭の中をぐるぐるして吐き気がする。

 処理しきれなくなったあたしは、フォークなんて放り投げて、部屋に走った。

 視界が水分を多分に含んでいるせいで部屋までの道のりが歪んで、いつもと違う風景に見えて不安になった。



 決して嗚咽して泣くほどではなかった。

 けれどそれは、現在の感情に怒りという成分が含まれているからだった。暫くして両親の言い分を理解してしまえばそれはなくなって、悲しみだけが残ってしまう。そうなれば、あたしはもう、ノアに頼ってもらえるような強い女ではなくなってしまう。

 そうなる前に、何かプラスの成分を探さなくてはならないのだが、あたしはその成分のありかを知っていた。

 いつでも、どこでも、何をしていても、あたしはそれを手に入れることができる。

 そういう能力だと豪語してもいい。

 それを使うのに、特別の配慮はいらない。代償も何も無しに、使いたいと思ったとき、使える。

 けれど、今日は自分と言う存在が抱く余計な感情が邪魔だ。

 少し自分の意識から離れなければいけないだろう。

 卵が先か鶏が先かと言う話があるけれど、あたしの場合、自意識のコントロール技術と特殊能力が同時だった。

 そういうわけで、あたしは目を閉じて、少し精神を落ち着ける。当然、悲しみは消えたりしないけれど、悲しみを感じている自分と、自分という存在を知覚している自意識の乖離を試みることはできる。

 説明が難しいのは、感覚質というものが他人に伝播しない性質を持つことから証明できる……って、わけがわからないわね。

 とにかく、あたしは心の安寧を求めて、自分の意識に旅を強要する。

 出航したあたしの意識は、目的地「王子様」まで障害なく突き進む。

 ヨーソロー。



     *****



「あ。もう七時か……。寒すぎて部活が無いせいで、最近勉強ばっかりしてる気がするな」

「私も。アイスリンクに雪が積もり過ぎると、雪かきでほとんど部活が終わっちゃうよ」

 居間の机で、妹のリズと学校の宿題をやっていると、時間が過ぎるのは結構早い。

 食事休憩を挟んではいるが、勉強を始めてから約三時間経つ。

 リズのノートを覗いてみると、数式よりも落書きの方が多い。リズはとても移り気が激しかった。その割に飲み込みが速いから、見かけ上は『遊んでばかりいる割に勉強ができる天才少女』の様に映らなくもない。

 対する僕のノートは、宿題の範囲を遥かに超えてしまっている。暇だと、結構こういうことをやってしまう。

 僕は中三だから、一応はミドルの学習範囲を全て終えたことになっている。だから、まだ中二のリズに勉強を教えることができるわけだが、どうも話を逸らされて時間を稼がれてしまう。

 リズはとても頭がいいから勉強の必要がないのかもしれないけれど、宿題は義務だからそういうわけにもいかないだろう。

「ほらリズ。あと四問だよ」

「うぅぅぅぅ……」

 テーブルの向かい側に座るリズは、開いたノートに顔を埋めて唸っている。

 部屋が散らかっていたり、宿題が大嫌いだったり。完璧なリズに時たま見つかる欠陥も、僕にとってはチャームポイントに思える。

 だから正せない、と。

「お風呂に入ってからにしたら? 眠気がさめるよ」

「うむぅ……。そうするー」

 眠そうに口を動かしたのち、のそりと立ち上がってバスルームへ向かっていった。

 確かに、入浴は目が冴えるけれど、しばらくすると体温が下がって眠くなってしまう。僕はそれを知りながら提案した。

 すべては妹の寝顔を見るため……!

 なんて。



「あらルート。まだ起きてたの?」

 いまだ眠らずに蛍雪の功を積む僕の所へ、母がやってきた。ちなみにリズは宿題を終わらせて(八割方僕がやった)、すぐに部屋に戻って寝た。

「最近眠れなくて……」

「あら? 乙女チックな悩みね」

 母は冗談交じりに、自分の唇を指でなぞった。

 右手に持つコーヒーカップに変な薬でも入っているような気がして、なんだか艶めかしい魔女の様な――魔性というのだろうか?――そんな雰囲気を感じる。

「お母さんは大丈夫なの? もう夜なのに、コーヒーなんか飲んで」

「あら? 知らないの? 適量のコーヒーを毎日飲むとね、それが習慣になってよく眠れるのよ。どう、やってみる?」

 僕はカフェインという不眠成分に非常に弱いので、首を横に振った。

 母は飲み干されて空になったコーヒーカップを流しに片付けて、僕の向かいの席に座った。

「悩み、当ててあげようか恋でしょ?」

「早いよっ。考える時間が少なすぎるよ! というか、まだ何も言ってない」

 間髪入れずに答えられて、シンキングタイムがコンマ単位だった。適当にも程がある。

 母は、はははと無邪気に笑ったかと思うと、今度は真剣な面持ちになった。どうやら大人のアドバイスをくれるようだ。

 母の溌剌とした性格のせいで、あまり期待はできないのだけれど。

「きっとルートの抱えてる悩みって、とても難しいことでしょ? ならいいのよ、恋で。今、抱えている一番の悩みを恋にしちゃいなさい。恋ならいくらしても減るもんじゃないし、いい経験にもなるしで一石二鳥よ」

「どういうこと?」

 子供っぽい大人なアドバイスを母はくれる。でも、子供の方が的を射ていたりする。

 興味が湧いたので、ペンを置いて少し色気を出してみる。

「簡単な話よ。例えば、幽霊になっちゃって悩んでいたとするでしょ? それを、幽霊になってもまだ好きな人がいて悩んでいます、にするとどう?」

「うーん……。明るくなった?」

 幽霊か……。僕も、世界をやり直している意味では似ているかもしれない。一度目と同じように生きられないところが特に。

 それでもいいのだろうか?

「そうよ。恋って言葉が入るだけで、話は一気に明るくなるの。ライバルとかもいるかもしれないから一概には言えないんだけどね。でも、好きでいることは自由なわけだから、仕方のないことではあるのよ?」

「そういう時はどうすればいいの?」

「一番は、その思いを寄せられている子に決めてもらうのがいいけど……。だから、最悪譲ることも覚えなきゃだめよ?」

 でも、それは同じ土俵にいることが大前提だ。

 仮に、片方が幽霊でもう片方が人間なら、好意を持たれた方は自分と同じ種族である人間の方を選ぶに決まっている。

 母は、唐突に首を横に振った。

「違うわ。幽霊でも、好きになってくれる子は必ずいるの。どれだけ、学校で人気が無くても、一度死んでいても、好きになる時は好きになるものなのよ」

 心を読まれた。

 平静を装おうと作り笑いすると、表情筋がつらい。

 引き攣る表情筋を我慢して、必死に脳内の引き出しを漁る。リズの部屋のようにてんでんばらばらではないので、言葉は割とすぐに見つかった。

「それって運命みたいな?」

 どれだけ恵まれない環境にあっても結ばれる人もいる。

 そういうものを説明づけるには『運命』という言葉以外では難しい。逆に、『運命』とはそういうものなのかもしれない、とも言い換えられる。

 ルールという最大最強の障壁があるこの国では、僕の置かれた状況は恵まれているとは言えない。

 そういう意味では信じたい。『運命』を。

「運命か……。そうね、運命みたいなものかもね。意外と乙女なのねルート」

「意外とって何……よ」

 乙女と言う単語に肖って申し訳程度に語尾を変えてみたが、違和感が凄まじい。

 笑うことないのに、母も笑っている。別に可笑しいことはしていないのだが、僕自身がこの違和感をおかしく思っているのだから、然もありなんである。

「ふふふっ。いいのよ何だって。『運命』ってのは、意外ともう始まっていたりする――そういうものなの。もしかしたら、昔助けてあげた子が……なんてことはよくあったりするわ」

 暗くなるまで外で遊んでいた頃のことを思い出して、複雑な感情になる。複雑の中には、微かな恋情もあると思う。

 それはきっと、昔、公園で虐められている女の子を助けたことがあったからだろう。

 確かに、恋や愛などといった緻密で繊細な感情を感情として判別できるほど大人ではなかった。

 それに、虐めていた人たちがいつも遊んでいたメンバー(友達と言えるのか怪しい)だったのだから、その勇気を買われて『少しくらいモテてもいいだろう』という期待が多く含まれているが。

 今は違うけれど、僕は昔、サッカーをやっていて、かなり良い所まで行った……のだと思う。だから公園でサッカーをしていた子達に歓迎されたわけだ。

 サッカー技術の方はといえば、遊びの延長として勧めてくれた両親を喜ばせたいと言う、偽善にも似た自己満足を維持し続けているうちに、僕は周囲からも認められるようになっていたほどだった。

 それは後になって間違いだったと気付かされるのだけれど。

 結局、一人の女の子を救ったせいで、僕はいつものメンバーからは外されることになってしまった。

 今思えば、『正しかったのだろうな』と後悔の念に悩まされることはほぼない。けれど、その時は悔しくて仕方がなかったのだと思う。当然のように見返りも欲していただろう。

 だけど、それが好意だったのかという記憶は流石に掘り起こす気にはなれない。

 口にしようものなら鞭を振るわれそうだし、そうでなくともキツイお仕置きを課されそうだから。

 だから、少し『運命』の人が違う人だったらなぁ、と思ってしまうこともある。できれば、そう、もっと僕が……。

「あら? 腑に落ちないみたいね。それなら、もっとわかりやすく、リズでもいいのよ」

 今まさに『運命』の人にならないだろうかと考えていた人物の名前が聞こえて、驚く。

「い、妹なんですけど……?」

 多分、恥ずかしい内心を隠しきれなくて、目が見開かれている事だろう。

「だからこそよ。二人とも生みの親が同じなんて、これ以上の『運命』はないでしょう? リズと喧嘩することはあったって、本当に嫌いになることはないでしょう?」

 黙って頷くけれど、躊躇いはあった。

 だって、僕がリズを嫌いにならないのは、『もう好きだから』なのだと、そう思ってしまったから。

「う、うん。そうだね……」

 僕が口ごもったことで話は途切れてしまう。絶妙な空気を保つのが上手である母は、何故か、今ばかりは静かに僕の顔を見つめて微笑んでいるだけだった。


 〈うっ。バレる……!〉


 情動をカモフラージュすべく、僕はまたペンを手に取る。

「うふふっ。勉強もいいけど、あんまり無理はしないのよ?」

 その言葉を最後に、母は居間を去った。「答えは与えたぞ?」的な表情をしていたから、これ以上は何も言ってこないだろう。

 自己解決を催促されたことによる焦燥感のせいで、ノートを走るペン先がぶれる。内容も全く頭に入ってこない。

 僕の抱えた「世界」の問題に対して、母からもらった答えは「恋」だった。

 多分、母に答えを求めれば、すべて恋という言葉で返ってくる。それは母が適当であるからというより、母が恋は万能なものであることを知っているからな気がする。

 本能に支配された動物では多分、恋とか愛とか足して恋愛とか、そういった感情はまず芽生えないのだと思う。そういったものはすべて、十分条件としてリビドーにカテゴライズされてしまうのだ。動物にとって、愛と生殖は切っても切り離せないのだから。

 人間もそれらと同じ動物だから、根底には子孫繁栄というのがあるかもしれない。

 でも、人間はそうでなくても恋愛をすることができる。食べ物を好きになるとは別の、失いたくないとか一緒にいたいとか、そういう精緻なステートを含んだ「好き」が人間にはあるのだ。

 僕が恋と呼んでいるものは、本当は恋ではないのかもしれないが、それでも普通の恋愛と質を異にしていないように感じる。誰かを好きになる感情に、僕は闇を感じないから。

 けれど、「恋か……それはいい!」とすぐに切り替えられないのも、恋愛と生殖を結びつけない人間の性だ。

 母が提示した解決法通り、僕はこの世界で――この国で「恋」を目的に生きられるのだろうか?

 でも、そうでなくても、僕は生きていたい。リズやアリスと、いつまでも楽しく笑いあって毎日を過ごしたい。

 僕はノートを閉じて、窓のそばに立ってみた。いつも変わらずそこにある外の景色を、夜の深い黒を、目に焼き付けたくなったから。

 一度目がダメだったから、と言う理由では僕は済まさない。

 一度目でも二度目でも何度目でも、僕は同じことを願っているのだから、やり直されたこの世界は夢であり、現実である一度目の世界の続きなのだ。

 いや、逆かもしれない。

 それでなくても、僕は何かを変えたくてここに存在しているのだ。それだけは揺らぐことのない事実として、僕の心の中にある。それだけでも、僕の心は一度目とは――現実とは、明らかに違っている。

 そう思うと、必要なものが手に入る気がするのだ。


 まだ一度目の世界は終わってない。しかし、まだ「恋」に到達していない。

 僕が二度目の世界を認識する時、いや、二度目の世界が僕を認識する時――



 ――おそらく僕は「恋」を通り過ぎる。



     *****



 郷愁を感じる漆黒の画面が、一瞬で、退屈な天井の白に切り替わる。時計を見れば、すっかり眠るのに適した時間になってしまっている。

 あたしが意識を離れている間の体感時間は、あたしと全く異なる。でも、あたしの意識が全くないかと言ったらそれもなくて、あたしの意識はあたしの意識として時間感覚を所有し続ける。

「意識の往復の機序はどうなっているんだ?」と言われると答えることはできない。時間感覚のずれとか、空間認識のずれとか、そういうものを言葉で説明するのはとても難しい。

 多分、相対性理論とかが絡んでくると思う。あたしはそれを知らないし、知っている人自体もそうはいないだろう。

 郷愁を感じていたというのは、正しくはあたしの感覚ではない。実は、時間感覚だけでなく、他の全てを、あたしは知覚認識することができる。

 全て、というのはつまり…………全てだ。

 知る方法は簡単で、少し集中して相手のことを知りたいと考えると、無意識的に意識の中に相手の意識が生まれてくるのだ。

 先ほどのように、自意識の乖離に集中すれば相手の感覚全てを知覚することも可能だ。タイミングも任意で変更できるので、喜びや快感を感じている時だけ同調して、不満や苦痛を感じている時は同調を解除するということも当然可能だ。

 感覚の積み重ねと言っても過言ではない記憶も、相手が思い出そうとしなくとも感じ取ることができる。

 ちなみに、意識を同調させている相手からは、あたしが同調しているとはわからない。相手の感じたことに対して、あたしがいくら感想を詳述しようと、相手には一文字たりとも届かない。

 飽くまで、あたしの方からのみ相手を知ることができる能力なのだ。

 不可逆的にしか発動しないことを始め、この能力には制限がいくつかある。まぁ、その制限を作ったのはあたし自身なんだけど。

 制限というより、道理と言った方が表現としては正しいかもしれない。

 一つは、この能力は一生消えないこと。

 何でも、叶えてしまったものを取り消すことは出来ないらしい。例え時間を巻き戻しても、その時間遡行を自意識で知覚できなければ、全くの無意味だと言うのだ。

 仮に、あたしが同調している相手が時間遡行しても、それは自意識ではないから、さっき言った相対性理論がどうにかなって、結局のところ未来を変えるのは無理らしい。それ以外にも、知覚情報の齟齬が生じるらしいけれど、詳しくは知らない。

 さらにもう一つは、相手が感じていないことを知ることは出来ないこと。

 相手のことを知る能力だから、自然、相手の知らないものを知覚することは不可能だ。ど忘れした記憶は、その瞬間だけ知ることができなくなる。それ以外にも、記憶から完全に消去されたものは、ショック療法的な何かで思い出されなければ知覚不可能だ。

 最後に、この能力の対象となる人物が限られているということ。それも一人。

 空想世界の住人とかじゃなくて同じ世界に住んでいて、ファンタジーみたいな特別な存在でもないごくありふれた人。

 世界で特別じゃなくても、あたしの中では確かに特別、確かに運命。

 その人は、あたしを救った王子様。でも同じクラス、とか言うと親近感が湧きすぎてギャップに酔うかもしれない。



 ――あたしはルートのすべてを知ってる。



 何が好きかとか何が嫌いかとか、そんな単純なことももちろん、何がどれくらい好きかとか何がどれくらい嫌いかとか、その大きさも正確無比に知っている。

 ルートが今聞いている音、見ている景色、全部。あたしはそれらすべてをリアルタイムで、ルートが感じているのと全く同じように感じることができる。あたしとの感じ方の違いを感じられるから、その感覚がルートのものだと知覚できるのだ。

 いつからそうなってしまったのか、それはあたしの十五歳の誕生日、四月の九日まで話を遡ることになる。



  


【あとがき】

 色々なことが起きた第七話でしたね。

 一つ一つ整理して、次回をお楽しみに。



 次回はアリスの誕生日について、ですかね。

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