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Ⅴ 決意して、羅針盤。

【まえがき】

 優しさの代償は、いつも「誰かの心の中にある空しさ」なのだと思います。

 そんな凸凹な物語も、終わりを迎えます。


 では、どうぞ。




 

 

 いつか会いたいと思うこと。今会いたいと思うこと。

 それは、ずっと一緒に居たかったということ。



     ***



「っは……!! はぁ……、はぁ……っ!」



 息の仕方すら忘れてしまっていたのだろうか、僕は、それを思い出したおかげで、目を覚ませたのかもしれない。

 いや、それは、皆がそうだろう。

 人は、明日を迎えるために昨日を忘れなければならない。昨日覚えていた、『息をする方法』も、明日使えるとは限らないからだ。でも、そこに汎用性を持たせてはいけなくて、昨日と変わらない明日を生き抜くために、それは必要なことだったのだ。

 何故なら、世界は『三分十二秒前に、誕生し続けている』のだから。

 だから、多少の窒息なら大丈夫なように、元々、人間は作られている。

 あなたとキスをする時――『おまじない』を信じる時、僕たちはきっと、どんな世界のどこの誰よりもきっと、死に近くて、無防備だから。

 それは勿論、僕だけではなくて、あなたも。

 誰も彼も一緒だ。

「あ。起きたー。良かったー」

「あっ、リズ……。えっと、おはよう……で、合ってる?」

「外れー。こんばんは、ね。ま、とりあえず、大丈夫そうだし、お母さんに報告してくるから。まだ寝ててね」

「ま、待って!」

 走り去るリズの袖口に、指が届かない。

 リズは僕の声に素早く反応して、「なにー?」と振り向いてくれた。

「僕、さっき、倒れたんだっけ?」

 そんな記憶は一切ないけれど、なるだけ世界に順応できるよう、最大限の洞察を凝らした。それが例え、捏造になったとしても、この場合は厭わない。

 首を傾げる僕に向かって、彼女は言う。

「そうだよー。お風呂で逆上せたって聞いたけど? 詳しくは、本人に聞いてー」

「本人って――」

「それじゃ、私ちょっと行ってくるー。すぐ戻って来るから、わたしのルーに絶対ヘンなことしないでよねっ!」

 リズは何かの忠告をして、そそくさと部屋を出て行ってしまった。

 あの急いでいる様子からすると、僕は今現在も何らかの危険に晒されているらしい。

 そろそろ、周囲を見渡してもいいだろう。

 まず、ここは僕の部屋で間違いない。正しくは、リズと僕の二人部屋か。これは部屋の家具の配置からインテリアまで、何もかも不和がないから間違いないだろう。おまけに、あの壁の染みがお熱いのも、確りとそこにある。

 あれはどうだろう。

 風呂場で逆上せたと言っていたから、十時半を刻んでいるあの時計針は信用してもいいか。それならば、最近捲った覚えのある、あのカレンダーも差異ないと言っていいはずだ。

 壁のフックにかけられた制服は、僕のものもリズのものも、覚えのある冬服だ。よく見ると厚手のフォーマル制服であるので、何か学校で式でもやっていたのであろう。

 ああ。

 リズの方もフォーマルだということは、イベントが重なりやすいシーズンだ。

 冬で、尚且つ、三月。

 アカデミー生もミドル生も、フォーマル制服をタンスから引っ張り出してくる日。

 時間を信じるのなら、それはもう、今日は終わっている。

 それでいて、僕が湯船で逆上せてしまうような事件が、今日――。

「あれ……? 今日って確か……」



「卒業式」



「うわっ!?」

 どこからともなく声がしたので、非常に驚いたと思う。心臓がどこかの壁に当たって、ずきずきと痛みすらするし。

 聞いたことのある声だったから、まさかと思って、薄眼で壁の染みを確認する。

 けれど、嘗ての不気味な笑みはそこになく、ただ小さくて黒っぽいハートの影が鎮座していただけだった。

 では何者であろうと、僕は手探りで身の回りを漁る。

 もしかすれば、それは僕にしか聞こえない一種の“声”のようなものかもしれなかったから。

 せめてもう一度それが聞こえたら、などと念じつつ暗闇を探検していると、布団でない何かに当たった。

「あっ……」

「あっ……?」

 それは、途轍もない弾力と衝撃吸収力を兼ね備えた、極上のクッション素材のような感触をしていて、尚且つ肌触りがいい。解せば、それは柔軟に形を変えて、僕の指と指の間に絡んで、すごく心地が良い。ずっと触っていたくなる気持ちと、欲に感けてしまいそうになる罪悪感が、拙い心を支配していく。

 少しだけ熱を持っていて、多少湿ってもいた。

 それはそうか。

 僕たちは入浴していたのだ。

 入浴……?

「んっ……」

「んんっ……!?」

 そうか。そういうことか。

 リズの言っていた『ヘンなことしないでよ』というのは、この展開への布石だったと言うわけか。いや、まさか、僕がそれをしでかすとは、全く思いもしないだろうけど。

 段々と夜目も利き始めるあたり、嫌な汗が全身からぶわっと噴き出すのがわかる。

 折角、風呂に入って今日一日の汗も洗い流したと言うのに、これは本末転倒というか……、もはやこれが大義名分というか。

 一度、強烈な勢いでもってそうしてしまった手前、急に手を引くと、『僕が気付いて冷静になった』と思われかねない。それでは、僕がヘンなことを我慢できずに、やってしまったことになってしまう。

 だから、ここは気付いていないフリをして、このまま惰性で慣れさせて、いつの間にか終わっているという流れが、無難なのではないだろうか。僕がそれに気付いてしまっているのだから、もうアウトなのには変わりないのだけれど。

 いや、真実を申し上げるならば、嫌われてもいいからもっと触っていたい、なのである。

 再会がこんな形になってしまうとは予想だにしないけれど、こうしてまた、彼女に会うことができたのだから。

 ああ。そうだ。

 願わくは、彼女が熟睡などしていますように。

「や、やめっ……んっ……!」

「…………」

 全然、起きていた。

 今、僕が彼女に尋ねたら、僕と同期した過去の彼女と、目の前に居る現在の彼女は同期するだろうか。同期という表現は正しくないか。僕のことを覚えているルートに、この世界は軌道修正されるだろうか、か。

 もう、認めよう。

 僕は、無意識にせよ、女の子の胸を徒に撫でまわしてしまっていた。

 それから離脱するように、僕はゆっくりと背中の方に手を回して、そのまま彼女を包み込むように抱き寄せた。優しく、そして強く。

 覚えているはずもない乳幼児だった頃の記憶の残滓が、走馬灯のように脳裏を駆けた。灯火は仄かに僕たちを照らして、肌と肌が触れ合った時のように温かかった。

 事実、僕たちは裸であった。

「よかった、無事で……」

「るー、と……?」

 一瞬、サクラの体が強張ったように感じたけれど、それからすぐに弛緩した。

 以前にサクラが言っていたことは、なるほどこういうことか。

 自分に気を許してくれた、信頼して受け入れてくれた――そうわかることが、こんなにも嬉しい。サクラが誰かとの繋がりを第一に考えていた意味が、少しだけわかった気がする。

 誰かと通じ合うことは、こんなにも気持ちが良いのだ。

「ねぇ、サクラ」

「…………」

 サクラは珍しく何も言わなかった。

 僕の問いかけにサクラが無言になることは、今までに一度も無かったと思う。

 それなのに、僕はサクラが何を感じているのか、分かったような気がした。

 だって、こんなにも近くに居るのだ。微かに揺れ動く脈動すら、僕の耳には聞こえてくる。

 それが、決して完全な予測や未来予知ではないとしても、『悲しい』だとか『嬉しい』だとか『好き』だとか……そんな簡単なことに帰結する未来とは、確かに、僕のこの碧緑(ひとみ)には煌々と輝いて像を結んだ。

「僕が一番初めに好きになったのは、サクラだったんだね……」

「……っ」

 サクラが息を飲むと、また、鼓動が一段と早く鳴る。

 それから、サクラは僕の胸の中で、声を殺して静かに泣いていた。

 僕も特に何も言わず、ただ打ち震える彼女の髪を、できる限り優しく梳いた。

 今までサクラが失ってきた時間を、そうやって掬えればいいのにと、僕の瞳も潤んでしまった。でも、堪えた。

 今、泣いていいのは、サクラだけだ。

 なぜなら、今ここに居る僕は、この世界に“僕一人”しか存在しないのだから。

「一つ、聞いてもいい?」

 サクラは「うん」と頷くと僕に抱きついてきて、ぎゅっと小さくなった。

 なんだか、生れたばかりの赤ちゃんみたいだ。

「どうして、リズの『願い』を僕に……?」

「それは……」

 ずずっと、鼻を啜る音がする。

 まるで、自分の気持ちを落ち着けるために、間を取っているかのように。

 それならば、僕はいくらでも待つつもりだ。

 冷えてはいけないと、僕はサクラのお腹を摩る。

「まっ……! おっ、お姉ちゃんっ。き、急には、やめてね? びっくりして変な声でちゃうってば。好きな人に、そんなことされたら……」

「あっ、ごっ、ごめんっ。……けど、寒くない? 大丈夫? 服、持ってこよ……って、今、僕も裸なんだった……。リズとかお父さんに見られたら、さすがに、正気を疑われる……!」

「んーん。大丈夫だよ。お姉ちゃんが温かいから。心配してくれてありがとね、お姉ちゃん。ね……いいよ? お腹触っても。お姉ちゃんもそうした方が温かくない?」

「そう、かな……」

 確かに、触れていないところは布団に雪崩れ込む外気で冷えるけれど、そうではない、肌が触れているところは、少しも寒くなかった。

 やはり、人間の営みとはこういうものだろうか。

 肌と肌を直接触れ合わせる方が温かいとはよく聞くが、これは確かに。互いに好き同士がやれば、気恥ずかしさも助けて、一冬弱くらいは越せてしまうかもしれない。

 しかし、僕は――。



「やっぱり、まだ一番になりたいから……かな?」



 サクラは何かを恐れるように、ぼそりと呟いた。

「え……?」

「あの子の『願い』を見せた理由だよ」

 もしかしなくても、それは聞かなくてもいいことだとわかる。

 それでも、知らなくてはいけないのだ。

 サクラの気持ちに、ちゃんと答えるために。

「わたしが選ばれることって、あの子が選ばれないのと一緒でしょ? だから、あの子のこと、少し嫌いになったりしないかなって……そう、思った……。それって、ちょっとずるいんだけどね。でも、それでも――」

「それでも、僕のことを……」

 サクラは何も言わず頷かず、そのまま僕に体を預けて来た。

 それは「わかってよ」という意味だろうか。

 いや、さすがに、僕の気持ちだって少しはわかっているのではないか。それにしては、少しばかり精がない気がする。しおらしいというか。

 数多の世界を旅して、現実から逃げ出して、理想を追い求めて、たった一つのゴールに向かって、そして今日、こうして巡り会えたのにも関わらず、その態度はなんともサクラらしからぬものだ。

 そればかりか、何かを躊躇しているのか、いじけたリズムで僕の脇腹辺りを突いてくる。

 リズがよく似たことをするから、そういう遺伝なのかもしれない。

 であれば、その行為の意味とは。



「ねぇ……?」



 脳が処理を急いでいるところに話しかけられてしまって、多少極まりが悪い。

 しかし、これほどまでに距離が近いと、そんな伝送のロスすらも度外視できそうだ。

「うん?」

「わたしに会ったってことはさ……。わかってるでしょ? 今日、何が起きるか……。わたしと……、世界と……」

 サクラが突いてくる皮膚の辺りが、何らかの情報端子にでもなっているのだろうか。

 ふにふにと摘まれる度に、僕のした体験が鮮明に蘇ってくる。とは言っても、その時の情景が見えるわけではないから、これは洞察の一種だと言ってもいい。

 あの“一度目の世界”での僕たちの在り方、“白の世界”でのサクラの発言、エトセトラ……。そこからわかる真実が、多からず存在する。

 まず、その理由をはっきりさせなければならない。

「わかる、けど……。ねぇ、サクラ……。どうして、無理やりなの? 僕なら多分……」

「うん。あの時はね、りずが入ってきちゃったんだ。その……わたしとお姉ちゃんが、らぶらぶー……って、してるときにね……」

「あ、あぁ……」

 とりあえず、誰に謝ればいいかわからない。

 皮肉にも、それは未来の出来事だから、取り返しはつかない。

「でも、それはもう、この世界では起こり得ない」

 それは、そうか。

 この戯れにも似た邂逅の時間は、決して永遠ではない。

 そして、それは彼女にとっては、須臾の時のようにも感じ得る。



「ちょっとぉーっ!! こるぅぁっ!! 何してんのっ!!」



 リズのドロップキックが、僕たちが横になっていたベッドに突き刺さる。誰を目がけたかは、すぐに分かったけれど、それはおおよそ僕に当たった。

 リズも本気のトーンではなかったから、多少の接触は容認するところなのだろう。

「あ痛てて……」

「あ。ごめん。ルーに当たった」

「う、うん。いいけど……。寝てる人にドロップキックしたら危ないよ?」

「だ、だって、その女が……あっ?」

 リズの飛び込んできた扉の隙間から注ぐ電灯が、僕たちをピンポイントで照らし出す。

 まるで、世界から二人だけ隔離されたようになっている。

 それを別の人が覗き込んだら、誰しもがこう言うだろう。

 一枚の絵画のようだ、と。

 母譲りの美貌と角の取れた輪郭。父から受け継いだ知識と経験は、僕たちの共通の趣味嗜好にそのまま反映されている。互いが互いを真似し、互いが互いを比較し続け、し続けられた。考えることも似るし、顰に倣えば容姿も似てくる。

 そして、両親から片方ずつ授かった碧緑の瞳で、引き寄せ合う。

 一糸纏わぬ僕たちを見たら、誰もがきっと、鏡の絵画を思い出すだろう。

 僕とサクラは、双子なのだから。

「あ、えっと……これって、偶然とかじゃ……ない、よね?」

 幸か不幸か、リズは往々にして状況の把握が早い。

 けれど、おそらく、リズがサクラを苦手に思っていたのは、その存在を覚えていたからではないだろう。

「うん。偶然じゃないよ。サクラはね――」

 つまりそれは、思い出すかどうかではなく。

 今までを――いや、これからを、信じるかどうかということ。



「僕の双子の妹で、リズのお姉さん」



     **



「あのー、リズさん……?」

「なによぅ!」

「何も、リズまで脱がなくてもいいと思うんだけど……。というか、この状況は、さすがにまずい……」

「あははっ。お姉ちゃん、もてもてだねー」

「そ、そういうことじゃないんだけど……」

 口調や面持ちが違っていても、やっぱりサクラはサクラで、リズとは反りが合わなかった。サクラとしてではなくて、ルカとしての態度なのかもしれないけれど、サクラにとってそれはもう、どちらでもいいのだろう。

 リズが僕を信じているか信じていないかは、リズの言葉を僕が信じるということで解決させたとしても、サクラとどう折り合いをつけるかは別の話らしかった。

 軽い口喧嘩のようになってしまった挙句の果てに、リズが来ていたパジャマを脱ぎだして、僕と添い寝を始めたのだった。それで、サクラと同じように僕の腕に絡まったなら、それはそれはよくわからない。

 両手に花なのかとは思うけれど、女子同士での取り合いが発展するとこういうことになるとは、誰も想像だにしない。

 僕は左右の視界を封じられて、天井や壁のあの染みと対話するしかなくなる。

「ホント、ルーと居ると、不思議なことばっか起きるよね」

「そ、そうかな」

 リズがしみじみと語る回顧の念の情景には、サクラはきっといないだろう。

 例えば、僕がそこに橋を架けるとして。

 サクラとリズが対等の立場になれる拠り所とは、この僕の胸以外にはないのだろうと思う。

「それ、わたしのせいかも」

「ふーん……」

「最初にお姉ちゃんと『おまじない』をしたのって、わたしだったから」

「何それ。キスしたって言いたいの?」

「違うよ。『おまじない』は『おまじない』なの」

 リズはどちらかと言えば現実的で、あまり夢見がちな発言はしない性格だ。恋だろうと勉強だろうと、持ち前のセンスと勝負運で真っ向から勝負する感じだろうか。

 それに対して、サクラはどちらかと言えば内向的でメルヘンチックなイメージがある。勝てない勝負とわかったら、確実に何かを置土産にしてから散るタイプだと思う。

 陰と陽、夏と冬、月と太陽……。

 そんな字面を見ると、二人は本当は仲が良いのではと思ってしまったり。

 でも、姉妹だ。

 どこまで認め合えば、確かめ合えば、“愛”を通り過ぎるだろうか。

 僕には、それを知る素質が欠けている。

「ねぇ、りず……ちゃん。一ついい?」

「桜さんにちゃん付けされるのはなんかキモいから、リズでいい」

「うん。じゃあ。わたしも、さんなんていらないから。むしろ、お姉ちゃんって呼んでくれてもいいんだよ……? りず……?」

 そこまで詳しく思い出せないけれど、サクラは以前、リズのことを「リズちゃん」と、そう呼んでいた気がする。目下の相手のはずなのに、何故か敬語を使ってしまうような、あの劣等感をサクラも感じていたのだろう。

 リズは、わりと結構グイグイ来るからな。

「おね……やっぱいい。桜さんは桜さんで」

「そっか……」

 サクラの声には、少しばかり覇気がなかった。

 リズの中から、ルカという一人の少女がすっかり消滅してしまったのだから、当然だろう。

 でも、僕はまだ覚えている。

 だから、選択することができる。

「それで? なに?」

「あ、うん。大したことじゃないかもだけど……りず、大きくなったなぁって。これ、ずっと言いたくて……」

「え、何それ。おばあちゃんみたい」

 そっと、僕の肩に寄り添い縋るように、サクラは喋る。

 その口調に、淀みはない。

「まぁ、確かに、精神年齢的にはそうかも。えへへ……っ。あ、でもね? 本当にそう思ったから。大きくなったなって。それに、すごく可愛くなった。胸もなんか、これからーって感じだったし。意地っ張りだけど本当はすごく優しいのも、わたし、知ってる」

「あ。もしかして、私のこと狙ってるの? いいよ……。桜さんなら。愛人くらいには、してあげても」

 褒められ慣れているリズは、照れる様子もなく軽く受け流す。

 半分ジョークなのではないかと思うが、いやきっと、まさに半分ジョークだろう。

 サクラがリズの言葉に微笑まないのは、何となくわかってはいた。

「お姉ちゃんが好きになるのも、わかるなぁ……」

 それまで、仄かに温かかった空気が、一瞬、ポタリと雫が落ちたように冷たくなる。

 その波紋は静かに漸進していって、それから、入り組んだ心の澪に反射して、歪な造形を成した。

 シルエットでしかわからないその影にすら、意味を見出す人は多からず居る。

「ね、ねぇ……」

 リズが半身を起こして、それからまた僕に確りと捕まった。何かに揺さぶられ手摺に頼るかのように、その手は何かを耐えていた。

 その言葉には息が混じる。

「どこにも、いかないでよ……? 桜……お姉ちゃん……」

「…………」

 その言葉に対しての返事は、無かった。

 しかし、僕にはちゃんと伝わってきている。

 その気持ちを隠すか、事実を伝えるかは、僕に委ねると言うことだろう。

 いや、そうさせない。

 それが、僕がこの世界でとるべき選択だ。



「ねぇ。サクラ。教えて欲しいんだ」



 ぎゅっと、掴まれた両腕に明白な力を感じる。

 僕はそれを鼓舞と受け取って、言葉を続ける。核心に、迫る。

「さっき、サクラが言ってた『世界と――』って、それって、世界にどんなことが起きるの?」



「無くなるの」



 その『世界』がどれだけの範囲を指すのか、そして、『無くなる』とはどういう経緯でそうなるのか、予想などできるはずもない。そのはずなのに、僕には何となくそのヴィジョンが見えた。

 これは、記憶があったからというよりかは、記録があったからだろうか。

 とは言え、まだ予測の段階であることには変わりない。ここでは、まだ実測されていないのだから。

 しかし、それが夢世界の延長であったりとか、物語の中だけの妄想であったりとかは決してないのだとわかる。

 リズにもそれほど驚いた様子はない。

「無くなるって……何? どうやって?」

「方法のこと? 多分、戦争……かな」

「せ、戦争っ……!? い、いやだよ、私……っ」

 戦争という単語から連想されるに、世界の範囲はおそらく『僕が認識できる範囲』になる。それは、人を伝ってもそうだし、場所を伝ってもそうだ。僕が関係した物事を『世界』とするならば、その戦争はそれをすべて破滅させてしまうことになる。そして、その火種はおそらく、隣国の内部紛争になるだろう。

 戦争の規模はまだわからないけれど、一国が滅んでしまってもおかしくはない。

 そして、僕のすべてが――。



「でもね、りず。あなたは助かる。それと、お姉ちゃんも」



 ぴくっと、リズの指が反応した。

 それからすぐに、鼓動が早くなった。

「えっ……。どうして……?」

 そうか。

 そういうことか。

 僕の知る世界が消えてなくなるのは、他でもない。



「『世界に二人以外必要ない』って、あなたたちが願うから」



 でも、今度は条件が違う。

 だとすれば、僕はどうすればいいだろう。

「じゃあ、僕がそれを願わなければ……」

「ダメだよ、お姉ちゃん。それでも、りずが願うから」

「……っ」

 また、リズの指がピクリと動いた。

 同じことに驚くとは、リズらしくない。

 いや、それは違うのか、あるいは。



「りずはね、多分、世界を一度やり直してる」



 僕は、はっとした。

 それはサクラにも、勿論、リズの方にも勘付かれたことだろう。

「『願い』の力……『おまじない』の力を失わないように願ってからね。だから、りずは、もう一度『願い』を――」

「ま、待って、サクラ!」

 思わず、言葉を遮ってしまった。

 それが偽物などではなく、『本物』であると、分かってはいるはずなのに。

 憔悴して乱高下する胸を優しく撫でながら、サクラが僕を諭す。

「大丈夫だよ。りずのは、わたしたちと同じ、お母さんから教えてもらった『おまじない』だから。規則違反(ぺなるてぃ)なんてない」

「そ、そうだけど……っ!」

 そうだ。

 僕は止めて良かったのだ。

 何なら、サクラのことを軽蔑してもいい。

 そこまで貶める必要はないのではないか、と。

 でも、それはリズ自身が決めることであって、僕の選択どうこうではない。

 ともするならば、僕はサクラを嫌いになれるだろうか。

 そんなことは、もう、無理だった。

 僕はサクラのことを、リズと同じくらいに愛しているのだから。

「いいよ、ルー……。私のこと、庇わないで……。桜さんの言ってること、本当だから……」

「リ、ズ……」

 腕に絡みつく圧力が減退していくので、その後ろめたさは伝わってきた。

 いや、そうでなくても、理解していたつもりだった。僕の中にあるこの、リズへの気持ちの正体が、『おまじない』の力から来たものであったとしたら、それはとてもショックだろうなと思ってはいたのだ。

 そうわかっていたからこそ、できるだけの心構えはしていたし、気持ちを確認するためのリズとの一夜をイメージしてもいた。

「で、でもっ! ルーのこと好きなのは、絶対だからっ!! キスしたいし、手繋ぎたいし、夜は一緒に寝たいし、結婚したいし、子供も欲しい……。だから、ルーが言ってた遺伝子の研究、すっごく応援してる! 私のこと、どんなに滅茶苦茶にしてもいい……っ! 心も体も、もう、全部あげるからぁ……っ! だから、お願いっ……お願い、だからぁ……」

 それなのに。

 僕は悲しいのよりも少し、怒りの方が強かった。

 そんなことをしなくても、僕はちゃんと、リズのことを好きになるのにな、と。

「私のこと、嫌いにならないでください……」

 僕の興味と無垢とを、また一から掴み直すように、リズは僕の腕をぎゅっと抱きしめてくる。痛いくらいの柔らかさが、逆に、憐れに感じた。

 僕は、まだ、リズのことをちゃんと好きだ。

 それから、僕は選ばなくてはいけない。

「なるわけないよ。嫌いになんか」

「ルー……っ」

「だからこそ、世界を救わなくちゃいけない。ううん。そんな大それたこと、しなくていいんだ。ただ、僕の――僕たちの『しあわせ』を、世界におすそ分けしてあげれば、それで」

 それは簡単なことではないと、いつか知った。

 けれど、その時同時に、不可能ではないと夢を見た。

 僕たちが勇気を出す理由は、それくらいで十分だ。

 その希望の灯火は、サクラが着火する。

「止める方法は、一つしかないし、簡単でいてすごく難しい。けど、努力してどうにかできる問題でもない。そんな理不尽でも、大丈夫?」

「うん。大丈夫だよ」

 その灯火を、僕に渡す。

 その方法は「心を通わせること」、ただそれだけでいい。

「わたしの『三分十二秒を辿る力』は、お姉ちゃんたちのあやふやな時間遡行じゃないの。だから、記憶とか記録、全部が『なかったことになる』。んーん、違うね。そういう出来事が起きる前の『はじめの世界』になる。時間を巻き戻すんじゃなくて、予定調和を辿って、そこからまた再開できるの。ちょうど復元ぽいんとから、復元するみたいにね」

 サクラは淡々と、解説を始める。

 掌握が容易に感じるのは、そこに矛盾がないからではないだろう。

 僕が頷くのは、リズとの総意だ。

「それで、お姉ちゃんを過去の状態に戻すから」

「過去……」

「うん。りずも、分かるよね」

「……ん」

「戻るのは、りずの『願い』が始まった、あの夏の日。そこから、世界は始まるよ」

「わかった」

 そうか。

 思えば、あの『願い』がすべての始まりなのか。

 それは、何とも至妙な展開だと言えよう。

 すべての元凶が僕で、それを回収しようとしているのも僕なのだから。

「じゃあ、僕はそこで、リズを止めればいいんだね」

「うん。そう」

「ま、待ってよ! それって、私の気持ちはどうなるの……?」

「それは、わたしやお姉ちゃんも含め、全部その時に戻るから……」

 あの時、自分がどう思っていたかなんて、直ぐに想起できるものでもないはずなのに。

 今は、どうしてか、光のように早く、そして鮮明に思い浮かぶ。

 だから、リズが激昂するのもわかった。

「忘れちゃうって事じゃん! い、いやだよっ! そんなの、絶対イヤっ! なんで……なんで、そうなるの? せっかく、二人でやってこうってっ、色々話してっ、お母さんたちにも打ち明けてっ、部屋も同じに戻せてっ……!! これからだって、思ったのに……。なのに……なのに……っ! どうしてっ!? どこにもいかないでよ……っ。ルー……、ルーお姉ちゃん……っ!!」

 迸るマグマの如くリズが熱くなるのに対して、サクラの言葉は水の礫の様に鋭く。

 でも、それも、泣きたくなるほど、僕は美しいと思ってしまった。

「それじゃ、二人が愛し合ってるところ、わたしに見てろって言うの?」

「ち、違――」

「くないよね。それじゃあ、りず。りずは、わたしとお姉ちゃんが……してるところ、隣で見ていられるの?」

「そ、そんな……。い、嫌ぁ……っ!! なんで、そんなことっ……」

「わたしも、同じ気持ちだよ?」

 サクラの手がぶるぶると震えを刻んでいる。

 希望を抱くことだったり、可能性を信じることだったり、心の持ちようはある。

 けれど、その気持ちは代わりが利かない。

 サクラも、リズも、勿論僕も。

 だからこそ、選ばなくてはいけないし、魘される程悩まなくてはいけない。

 それは、みんなわかっているはずだ。

「ごめん、なさい……」

「ううん。いいよ。わたしだって嫌だし、怖いから……。存在ごと消えちゃうって、寂しいから……すごくっ……すっごく、ねっ……? でもっ……、仕方ないんだっ」

「待って! サクラ……っ。存在ごと……って?」

「そ、そんなの、ダメっ、やめてよ……! 桜さん……っ!」

 ああ。

 だから、二度目の世界でサクラは、僕と強引に結びついたのか。

 それが最後だと、これが最後になるとわかっていたから。

「その世界にっ、わたしはっ……、いないんだ……っ」

 ダメだ。

 これ以上、涙を我慢することはできない。



「きっと……、また、覚えていてね……?」



 こうして歪んでゆく世界を、他の何かに形容することができたなら。

 僕は、今よりもう少し、明るく振る舞えたのかもしれない。

 わんわんと部屋に響く涙の音は、一頻り壁や天井を濡らす。嗚咽して漏れる呼吸も、僕の耳には拡がって聞こえた。暗闇に流れ込んだ一筋の光が、僕たちを照らした。

 そのうち、いつの間にか世界は微睡みを覚える。このまま何事も無く今日が終わればいいのにと、二人の涙は温かく僕を包み込むように。それでいて結びつこうとしたり、沁み込もうとしたり、ぐるぐると廻りながら一つに混ざっていった。

 それでも、世界は微睡まない。永遠に休まない。

 リズの手を握って鼓動が早くなるのは、その証拠。サクラの肌に触れて胸が高鳴るのは、その証拠。二人の心を知って涙が溢れるのは、その証拠。

 それは決して、悲しいのではない。

 終わってしまう今日と、新しく始める明日に、不安を覚えるから。また、あなたを忘れてしまうのではないかと、怖くなるからだ。

 でも、きっと、僕は思い出す。

 いや、思い出せなくても、僕はまた、もう一度、あなたを好きになる。

 長い、長い、長い時間の中で恋をして、また愛に気付く。好きだと言う気持ちが本物であると、知る。そして、また、涙する。積み重ねた、想いの数だけキスをする。

 その願いは、再び巡り会えた時笑い合えるように。

 あの時の僕も、今の僕も、これからの僕も、それはきっと同じ“僕”なのだから。

 だから、これは忘れるのではない。明日、思い出すのでもない。無論、記録に残すのでもない。ただ、ずっと、ずっと、大好きなあなたのことを覚えている。



 ――そうだ。『おまじない』をしよう?



 ――世界からいなくなってしまっても、きっとまた、会えるように。



 ――手を繋いで、目を瞑って、あなたの頬にキスをして。



 ――ねぇ。わたし。



 ――僕、覚えているよ。




「お姉ちゃん、ありがとう。ずっと、大好き……!」




【あとがき】

 次回、まとめ、です。

 賛否あるんじゃないかと思いますので、これでスッキリという方は、ここでエンディングでもいいかなと思います。ちなみに、否の感情は心に留めておくのが、世界に溶け込むコツです。

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