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Ⅳ Heaven or Paradise

【まえがき】

 “天国は世界(ここ)である”

 幸せを感じている今が存在しているここにしか、楽園はないのです。






 


 さて。


 あたしは、このまま家に帰るわけではない。途中、長めの寄り道をして帰るのだ。

 存分に時間を費やすつもりだ。あの金の亡者とは、できるだけ話をしたくないから。

 寄る場所のあてはあった。あてというか、日課というニュアンスが正しい気がする。妥協で訪れているのではないあたりが、まさにそれっぽかった。

 リズが走っていた道とは逆の道――つまり、自分の家に向かう方の道を途中で右折すると、あたしの安住の地は見えてくる。

 木造、石造、土造……と、沢山の白壁マンションが立ち並ぶ団地の一番奥。他のマンションと比べて一回りも二回りも小さいサイズの黒くてぼろい建物。その一室。そして、そこの四畳半。

 そこがあたしの楽園だった。

 楽園の入り口についているチャイムを押すと、掠れた呼び出し音が外まで聞こえてくる。

 インターホンとかがないから、直で名乗らなくてはならなかった。

「こんばんはー。アリスです」

 団地外れの静寂を、あたしの声の響きが破壊していくようで気分が良くない。その大音声(だいおんじょう)は草臥れた公園の築山に反響して、調べがガラリと変わる。もう少し雪が積もっていたら、極地で叫んでいるみたいでちょっとは幻想的に聞こえたかもしれないのに。

 公園の中央にある時計が午後六時を示しているのを見つける。

 もうこんな時間かと独り言ちていると、扉から何やら聞こえてくる。


「待ってて……。今開けるから……」


 楽園側から聞こえてくるのは、この静けさにすっかり同化した弱々しい声。弱いなりに存在感のあるルートよりも、明らかに儚くてか細い、今にも成仏してしまいそうな声。

 だけど、まだ成仏してもらうわけにはいかない。

 ガチャリという解錠音の後、ゆっくりと開き始めたドアの間から、フットインザドアと言わんばかりに体をねじ込んで、楽園内に侵入する。

 一番初めに視界に入ってくるのは、楽園の住人。

「お母様は今日もいらっしゃらないのかしら?」

「うん……。だから……」

 頷くと、ぼさぼさの黒髪が一緒に揺れる。この国では珍しい黒髪も、ここまで手入れされないと輝きを失ってしまうのだと、少し悔しい。あとで髪を梳かしてあげよう。

 あどけなさの残る声色に見合った小動物のような華奢な体つき。そのまま明るい性格なら国のアイドルにでもなれるかもだけど、度の強い眼鏡が意味する暗い性格が確実にその雰囲気を邪魔している。

 眼鏡で、根暗で、黒髪で。

 楽園なのに死神みたいだ。

 玄関で立ち話もなんだと、あたしは家の中を我が物顔でずかずかと進んで行く。

 自分の家とは比べ物にならないほど、早く目的地に着く。自分の家だと、目的地が遠いと結構かかる。けれど、ここなら一瞬なのだ。

 それが、とても懐かしくて好きだった。

 そして、楽園の住人より先に楽園に辿り着く。

 布団を一枚敷いたら、もう部屋はいっぱいだ。それなのに布団は敷いたままで、今まで一度たりとも収納されたところを見たことがない。部屋よりも大きいんじゃないかってくらいの窓から差し込む光で、毎日自然天日干しされているらしく、ダイヴ一番はいつも太陽の匂いがする。

 この万年床が、あたしの楽園だ。

「ちょっと、ノア? 早くしなさいな。今日は何して遊ぶのよ」

「むぅ……ちょっと待ってよ……。ここは、ノアの部屋なんだから……」

 死神ことノアは、のそのそと部屋に入ってくる。そして、あたしの隣、布団の上に座る。

 この布団はクッション兼、部屋の大部分兼、ノアの寝床だ。

 けれど、あたしが居すぎたせいで、ノア曰く「布団からアリスの匂いがする……」らしい。

 あたし自身がそれを認識できないレベルに、あたしはここに入り浸っている。頻度で言えば、ほぼ毎日。

 ここで何をするのか。それは来る前からは予測できない。

 ただノアと話をすることだけでも楽しいけれど、たまにやるゲームがあたしのお気に入りだ。

 ノアにとっては普通のことなのかもしれないけれど、ゲームとは一切無縁の生活を送ってきたあたしにとれば、それは特別なことだった。

 たまに外れのゲームもあるけど、それはそれで当たりを引き立てるから好きだった。

 というか、あたしはこの空間が好き過ぎた。

 この空間にはあたしとノアの二人以外は入れない、と強い確信を伴って思う。

 物理的には絶対的に不可能だし、何となくだけどそれ以外でも無理な気がした。この楽園にノア以外が存在しているところが全く想像できない。

「今日は人生ゲームを作ってみたよ」

 鼻高々に手作りの装置を見せびらかしてくる。

 その装置はところどころ木だったり紙だったりで、マスと思しき部分にはびっしりと文字が書かれている。

 今日は、というところが引っかかるけど、

「賽の目に操られた人生を呪うゲームね! 受けて立つわ、その勝負」

 笑っていたから、あたしは安心した。

 苦笑いだったけれど、作り笑いじゃない気がした。苦笑でも笑っていることに変わりはない。

 笑うことすらできなかったこの子が、今、あたしの目の前で笑ってくれている。

 それが、何より嬉しくて、心地が良かった。



     ***



 ノアとの出会いはルートよりも早くて、ちょうどエレメンタリーの一年生の時だった。

 その頃、「黴菌ごっこ」という遊びが流行っていた。

 それぞれが黴菌を所有して、それを擦り付け合って遊ぶらしかったが、遊びと言うにはルールなんか皆無で、的になった人を苛めるというだけなのが実態だった。

 その的になっていたのがノアだった。

 金銭面に難があって、一週間の内に同じ服を何度も着ていた彼女は、「黴菌」を所有するには適役だったらしい。

 ありもしない「黴菌」の存在に彼女は悩み、来る日も来る日も泣いていた。

 初め、あたしに彼女を救うという目的はなく、女子を苛めている男子が許せないだけで行動を起こしていた。

「やめた方がいいよ」より強く、「やめろ」よりは弱い。そのくらいの強制力であたしは男子たちに働きかけた。その力が、その時のあたしの気分を比喩していると言っても過言ではなかったと思う。

 けれど、涙目で「ありがとう」と訴えてくる彼女を見ていて、あたしは不憫でならなかった。

 だから、友人関係になった。

 同情で友達になって、そのうちに普通の友達に、今じゃ親友を通り越して、あたしの楽園の主だ。

 彼女はあたしやルートとは違う中学に通っているのだが、そういった過去があるせいで心配でならなかった。

 でも、あたしが相談に乗ろうと話を切り出しても、すぐに話題を変えられてしまって、本題にありつけない。あたしくらいには話してくれてもいいんじゃないかとは思うけど、むやみな詮索で傷つけたくないというのも本音だった。

 あたし以外に彼女と話をしてくれそうな人物はと言えば、彼女が寝ている間にしか家に帰っていなかったりする。まあ、ご飯が食べられなくなっても困るから、母親が忙しくなるのは仕方ないのだけど、彼女の心身があたしは心配なのだ。

 エレメンタリーの時散々彼女を苦しめた、「金銭面」を担うはずの人物は、彼女の家にはいなかった。いや、いなくなった。

 その理由を聞くことは無力なあたしには到底できないけれど、彼女の方から打ち明けてきた時は受け入れようと思っている。

 ということで、あたしは彼女を守ろうとしているのだ。もちろん、あたしのできる範囲で。

 そこに特別な感情はないけれど、思うところはあった。

 でも、以前感じていた同情とは確実に違う、もっと温かくて大切な感情。

 あたしはそれを「保護欲」と呼んでいる。



     ***



 秘密の抜け道とか裏ルートとか、人生のすべてを知り尽くした彼女に勝てるはずもなく、人生ゲームは惨敗に終わった。創造主に勝てるわけがなかったのだ。

 負けても勝ってもこの場所は、あたしの楽園に変わりはない。

 だから全力でゲームできる。

 だから好き。

「ねえアリス知ってる?」

「何かしら」

 敗北を喫してゲームが終了すると、今度はガールズトークに移行していた。

「寝てる時、夢を見るでしょ? ここじゃない国にはね、現実世界から意識だけを切り離して、その夢の世界に飛んだっていう人がいるらしいよ。その夢の世界では、望むものが手に入るらしいんだけど、色々制約も――」


「ねえ」


「……え。な、なに、かな……」

 あたしはノアの言葉を遮った。

 あたしの方が意見力は強いから、口を挟めば自然、ノアは黙ってしまう。

 話題を変えたりするには都合がいいけれど、きっぱり中止されてしまうとそれは確かな罪悪感になる。

 でも、彼女を守るためなら仕方ないとも思う。

 この家には暖房がない。あったとしても、燃料を安定して購入できるほど余裕はない。

 それくらいはわかるほどに、あたしは長い間この子といる。

 だから、あたしが何かをしてあげられるかも、なんとなくだけどわかった。

「寒いでしょ。布団に入りなさいよ。あなたの部屋であなたの布団なんだから、あたしだけ布団に入っているのも変でしょ?」

 誠に図々しいことを承知で掛布団の片側を開け、手招きする。

 両手を左右に振られて拒まれてしまったので、手を伸ばして追撃を試みた。

「だだ、大丈夫! ここはノアの家だから! アリスはお客さんだから!」

 全く。こいつは子供か。

 あたしは振り払われた手でまた追いかけて、手を握って、引っ張って、体温三十六度五分によってすっかり温まった布団に引きずり込む。

 あたしは親鳥か……。

「ひゃっ。冷た」

「ごごごご、ごめん……!」

 というか、温まったところに入ったのに、なんでさっきより震えてるのよ。

 親鳥よろしく羽毛があれば、心行くまで温めてあげられるけれど、それは無理で。抱きついてあたしの恒温を伝えるくらいならできるかもだけど、それも流石に無理で。

 でも、このぐらいの距離感が、あたしとノアにとってちょうどいいのかもしれないなと、そうも思えてくる。

「ち、近くない?」

「そうかしら? 別にいいじゃない。あたしは女なんだし、何をするわけでもないんだから」

 互いに相好を崩して布団を揺らすたび、布団の隙間から空気が抜けてちょっと寒い。

 もっとくっついて隙間を埋めればそれは解消されそうだけど、あたしとノアの香りが程よく混じった隙間風が何だか心地良くて、ずっとこのままでもいいかなと――このままここで眠ってしまいたいなと、そう思えた。

 ノアがあたしの楽園であるように、あたしはノアの楽園になりたかったのだろうか。



     ***



「それでね? ルートがまたおかしいのよ」

「ふうん……そうなんだ……」

「どうしたのよ」

 居間の時計が午後の七時を指しているのを確認してから、かれこれ二十分はたっただろうか。ノアの家に来てからで言えば、軽く一時間強はお邪魔していることになる。

 もしかしたら迷惑、だなんてことは長い付き合いからは想像がつきにくい。

 今もこうやって髪を梳かしてあげているし、おさがりだけどたまに服もあげている。

 じゃあどうして、そんなに楽しくなそうな表情なの?

 あれ?

 あたし、今、すごく勝手?

「や、何でもない……」

 言いながら俯くのはどうして。

 隠せもしないのに隠そうとするのは昔からだけど、こんな表情は初めてだ。

 あたしはこの子のことなら誰よりも知っている自信がある。だから、分からないのは悔しい。

「何でもなくない顔してるわよ? 言いなさいよ。言って楽になりなさい」

「大したことじゃないから、脅迫しないで……」

 もしかして、家族のことだろうか。

 それならば、あたしが介入するのは迷惑至極なお節介かもしれない。けれど、家族に問題が生じるという事態は、ノアにとっては大きな事件になるのは確かだ。

 あたしが介入してこの家庭が壊れても、あたしは少なくともノアだけは守ろうと思う。

 そういう心意気でいるあたしは、少し強く言えた。

「いいから言いなさいよ」

 幼い頃、あたしはノアに同情して友達になった。そして今、あたしは親友以上くらいの立ち位置からノアに同情している。

 これ以上の同情はするまいと思っても、あたしとノアの環境が違い過ぎるせいで、家柄という制限が大人しくしていてくれないのだ。『これ以上自分を貶めるな』と。

 脅迫にならないように、あたしはノアの自発的な解答を促す。髪を梳かす手も、自然と優しくなる。

「本当に大したことじゃないよ……。…………にとってはね……」

「ん? 聞こえないわよ」

 小さな部屋で隣り合って話しているが、蚊の鳴くような声ではやはり聞こえない。

 髪を梳く手の通りがよくなってくる。

 撫でると、今度はちゃんと聞こえるように言ってくる。

「もう少しで二月でしょ? 特別な日があるから、ちょっと……」

「二月? 結構先な気もするけど……。特別な日って何かしら……、デートでもするの? もしかして好きな子でもできた?」

 冗談で言ってみる。

 陽気に、滑稽に。ちょっと口調も考えた。

「ノ、ノアはね…………アリスが、好き……」

「あはは。嬉しいわ。ありがと」

 冗談で返ってくる。恥ずかしいなら言わなければいいのに……枕に顔を突っ伏してしまった。

 でも、バレンタインで悩んでいるわけではないようだ。

 他に何かイベントがあっただろうか?


 〈――そうだよ。もう少しで卒業なんだよ。僕は一体どうすればいいんだ……〉


 ああそうか。卒業式が再来月に控えていたのだった。

 ということはつまり、悩みは勉強か。

「ねえノア。卒業したら進学するんでしょ?」

 さりげなく話題を変える。変えた話題が核心を突き過ぎているかもしれない。

「うん、するつもりだけど……。国の学校じゃないと学費が払えないから……。でも、ノアはそんなに頭良くないし……」

「勉強なら手伝うわよ。どうせこの辺で国立って言ったら一つしかないから、あたしと同じでしょ? 過去問とかも貸すから、一緒に勉強しましょ」

 便宜上嘘をついてしまったけれど、あたしはそれが本当であって欲しいと思っていた。

 この子を一人にさせたくないから。

 ノアは、壁のシミあたりを一瞥してから、


「うん。ありがとう、アリス。ノア、頑張る」


 と、三回頷いた。

 あたしが来た時よりは幾分かサラサラになった黒髪が同じく三度、月光に衒ってふわりと揺れた。

 父に決められた制限を破ってまでノアに合わせようとしたはずだったが、その表情にはイマイチ手応えを感じない。

 あたしが息を吹きかければ、すぐに泣いてしまいそうな儚さを含んだ、その嬉々とした笑顔の中には、確かな悲壮が潜めいていた。


 あたしの憶測、外れたかしら。


 

【あとがき】

 気の置けない親友が、そのまま恋人になってしまうというパターン。

 現実において、ありそうでなかなかないシチュエーションですね。


 相手のことを深く知っていくうちに、良い所だけでなく悪い所まで見えてきてしまうのは、仕方のないことだと思います。

 それでも、たまに見せる良い所を好きになってしまって――そうなると悪い所も好きになれて……、みたいなことがあるらしいんですよ、それが。



 恋愛に発展することはなくとも、アリスとノアの関係性はそういうカップルに似ていると思うのです。

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