Ⅱ 探してみて、境界線。
【まえがき】
そして、気付く。
ルーモス、パラレルワールド展開中。
どうぞ。
誰かを愛するということ。誰かを憎むということ。
どちらも、同じだけ相手を思う。
***
僕が会いたかった少女は、ある日突然、僕の中から消えた。
けれど、僕はまた思い出した。
ただ、もう彼女に会うことはできない。
彼女は現実と夢と境界を超え、ここではないどこかに存在を確立させてしまったから。
その方法は知る術もないが、僕は『願い』の始まりがそこにあったのではないかと思っている。『願い』の始まりは『おまじない』の意志の力であり、アリスやノアが信じたものは、僕たち(正確には彼女)から派生した『呪い』なのではないかと。
幼い頃、誰もが憧れた王子様やお姫様になるための原動力。現実と夢の境を決めるのは、紛れもなく自分。不安を打ち消すためのそれは、母に教わったものだった。
それを信じ、目を閉じれば、僕は万能だった。
でも、もしかしたら、彼女は僕に会いたいと思っていないかもしれない。
それなら、そう告げてほしい。
それは、彼女にとっては酷なことだろうけれど、必要なことでもあると思うのだ。彼女が新しい世界に旅立つために、あるいは、もう一度選択するために。そうして再び僕を選んでくれたら、その時は、僕もきっと精一杯悩む。
結果に涙を流すこともあると思う。
そうなってしまっても、最後には「良かった」と思えるように。
今は、彼女に会いに行こう。
真っ白で真っ暗な、この夢世界――いや、現実のシミュレート空間に。
「久しぶり、って言ったらいいのかな」
まずは、自分自身の知覚から、世界は開始される。一番初めに、それが出来上がったと認識できるのは、視覚が安定してからのこと。距離感、明暗、位置、と順に体にインプットしていく。これには、個人差がある。
心で文字の読み書きもできるし、発音もできるから、基本的に言葉は二の次だ。
ここまでは、決して難しくない。
僕はさらに、歩き出さなければならない。ここへ待っていても、彼女が迎えに来てくれるわけはないのだ。
でも、今の僕には、なにも難しいことではない。
彼女が今どう思っていたとしても、僕は彼女に会いたい。会って、また話をしたい。彼女が望むなら、何時間でも抱きしめてあげたい。僕にできること全部で、彼女に返してあげたい。
そうしたら、もう一度笑ってくれるだろうか。
僕がもう一度微笑みかけたら、また笑ってくれるだろうか。
きっと、大丈夫。
彼女が泣いているなら、僕がまた『おまじない』をしてあげるから。
だから、さぁ、目を閉じて。
そうしたら、僕は君の手を取るから。君は僕の手を取って、息を吸う。
ゆっくりと、ぶつからないように、君との距離を記憶して。
思い出しながら、君の頬に触れる。
そうしたら、もう、何も怖いものなんてないのだから。
「お姉ちゃん、会いたかった……!」
「うん。僕も会いたかったよ。サクラ」
目を開くと、そこには僕の想い描いた少女が、僕の手を握って泣いていた。
そう言えば、この『おまじない』で涙が止まった試しがなかった。
「その名前……、覚えててくれたんだ……」
「忘れるわけないよ。僕の大切な人のこと。勿論、ルカのことも」
「えへへ……っ。ありがと。るー」
「うん……!」
サクラには初めて呼ばれたはずなのに、なんだか懐かしい感じがして、気恥ずかしい。
でも、これは新しく記憶し直してもいいはずだ。
ルカと僕、そしてサクラと僕の記憶に上書きをして。
「あ。少し緊張してるでしょ」
「えっ……? あ、うん。そっか。そういうの鋭いもんね」
手を繋いでいるから、余計に隠せないだろう。
サクラは、触れた相手に対してとても鋭敏なのだ。
「んー。お姉ちゃんが鈍感なだけだよ」
「あはは……。それは、反省してます……」
誰かにも同じことを言われた気がするけれど、彼女の場合は、僕の反応を見て愉しんでいる感じだ。それに対して、サクラは僕の反応を予測したような遜った表情が見て取れる。
恥ずかしいなら言わなければいいのに、サクラは言う。
小さい時からそうだった。
その意味に、やっと気付けた。
「それよりさ」
「うん」
ぴたりと僕の腕に身を寄せてから、サクラが弱々しく言う。
「なんで、わたしだけ……裸なの?」
「えっ!? あっ! ホントだっ、じゃなくて、ごめんっ!」
若干、白肌を視界にいれてしまったことを、即座に詫びる。
とは言え、僕が意図してそうしたわけではないから、何と言って詫びればよいものか。
サクラは僕に見られないようにくっついて盲点にでも入ったのかと思ったが、それはどうやら違ったらしいようで。
「別に、いいよ。お姉ちゃん」
「ごめん……」
おそらく、僕が一番最後に見たルカかサクラの記憶が、この姿だったのだろう。
辿った記憶から容姿情報を補填するのには、最近のものやよくしている格好が適している。さすがに普段から全裸というのはおかしいだろうから、最近のものということになるだろう。
全裸、ということは、湯船だろうか。
あるいは……。
「ねぇ」
「ん? どうしたの?」
サクラは、僕の頼りない腕を伝って、耳元でぼそりと呟いた。
「どきどきしてるでしょ」
それはもう、心臓が飛び出るほどに。
僕が彼女に何かするわけでもないし、できるわけでもないはずなのに。
「うん……、まぁ、そりゃ……」
「やらしー……。お姉ちゃんって、結構節操ないよね。誰にでもどきどきするし」
「うっ……! ご、ごめんなさい……。でも僕、それに対して、どうしたらいいかわからなくて……。普通にしてれば問題ないんだけど、こういうシチュエーションだと急に鼓動が……」
「あ、ううん! 謝らないで? そんなつもりで言ったんじゃないの。仕方ないことだと思うし。お姉ちゃんの周りって、可愛い人たくさんいるから……」
「確かに……」
親しくなると友だちである認識が優先されて、日常的には気付かない。けれど、アリスもノアも、リズも、生徒会長も、みんな素敵な人ばかりだ。
…………。
この感情がいけないのではないかと、ふと疑心暗鬼する。
「でも、その中で一番どきどきする人がいるでしょ」
「一番、ドキドキする人……」
すぐにイメージが浮かんだけれど、今は一旦保留にしておかなければならない。
この世界のシミュレートも、そこまで簡単ではないのだ。
それはサクラ本人も知っているようだった。
「一番になりたいんだ。わたし」
「…………」
サクラがしているのが、紛れもない“今”の話であることに、僕は安堵を覚える。
それと同時に、僕の心の中には、靄のようなものがたちこめてきた。それはピンクを限りなく薄くしたような淡い色気を醸していて、そして、懐かしい花の匂いを漂わせている。
今、靄を晴らしてしまったら、日の光に焼かれるか、気化する大地に体温を奪われて、死んでしまうかもしれない。そうでなくとも、きっと草臥れてしまうことだろう。
「だから、お姉ちゃん」
「うん」
これは決して、誘引ではない。
記憶を掘り起こすために、必要不可欠なことだと思う。
「こっち見て……?」
それがサクラの意志であるなら、僕は甘んじて受け入れよう。
そこにルカの残滓が、サクラの花弁が、欠片になって散らばっているかもしれないのだ。
無下にすることはできない。
「うん……。わかった……」
本当の意味で向き合いたいのだろう、サクラは僕の言葉を聞いて、安心したように僕の体から離れていった。決して遠くではなく、手を繋いだままいられる範囲でだ。
まさか、手を繋いだまま、裸のサクラと向き合うことになろうとは。
僕の心臓はどうにかしてしまいそうだ。
ああ。
でも、その人こそ僕の『特別』な人、サクラだ。
僕の双子の妹、ルカだ。
「やっとこっち見たね」
「……うん」
嘘だ。
体を向き合わせただけで、まだ直視できたわけではない。
サクラが気を遣ってくれたのだ。
「恥ずかしい?」
「う、うん……。恥ずかしくないの?」
その輪郭は華奢でも豊満でもなく、至って標準。あまり外出を好まなかった肌は、影に愛されたように不可逆的に白く、聊か病のようにさらりとしている。花の匂いが漂っているのは、僕たちが昔使っていたシャンプーの匂いと、それを映した彼女の部屋の匂い。
鼻を啜れば、その間から見える瞳が円く煌々と、碧と青の宝石を宿している。頬を撫でれば、自然と宙を舞う髪が艶々と、全く法則がない。彼女の所作に合わせてお道化ているようにも感じる。でも、その中で唯一、彼女の心だけは遠く離れたところで侘しさを極め、傍観しているのだ。
彼女が欲しい、と思ってしまうのは、きっと子供の時に抱く、美しい人形への憧れに類する。
自分の手のうちに収めておきたい。そばに居ると、自分まで輝ける気がする。そんな感情が湧いてくる。
「恥ずかしいよ。恥ずかしいに決まってる」
「ご、ごめん……! でも、どうしたら……」
少し配慮に欠けていたと反省する。
せめて僕の羽織っているものでも貸してあげられたらいいのだけれど。
サクラは、きっと嫌がると思う。
「ふふっ。いいのっ。すごく恥ずかしいけど、お姉ちゃんなら、わたしのぜんぶ、見て欲しいよ。ああ、でもだめかも――」
「わっ、とと……」
「えへへ……っ。もっと、ぎゅってしてたくて……。だめ……?」
まあ、確かに。
これなら、裸は隠せるけれど。
けれど、このままではただの邂逅の抱擁になってしまう。
それだけではいけない。
僕がここに居る意味を失ったら、彼女も世界に留まれなくなってしまう。
「うん。いいよ」
「やった!」
「ただし!」
「んなっ、なに?」
少し声を張り過ぎたか。
吃驚させてしまったようだ。
僕がサクラに対してそんなにあどけない印象を受けていたのかと、自分でも少し驚きだ。
颯と、気を取り直して。
「聞きたいことがあるんだ」
「…………」
何かを感じ取ったのか、眉毛が少しばかり不安げな形をしている。
僕の勢いに問題があったのなら、それは改めよう。
「答えたくないのは、答えなくてもいいからね」
「……うん。わかった」
どうやら納得してくれたようだ。
それでは、僕は体を授けよう。いや、この場合、受け止めようか。
すでに抱きつかれていたから、僕はそれに応えるように、背中に手を回した。そして、彼女の包み込むような体温を、体全部で享受した。そのうち、同じほどの温度になる。
僕はその先を、すでに知っている。
彼女はどうだろうか。
「ねぇ、サクラ?」
「ルカって呼んで」
「ごめん。ルカ?」
「やっぱり、サクラって呼んで」
「うん。サクラ」
「…………」
「うん?」
「ごめんなさい……」
「ううん。大丈夫。僕はここに居るよ」
「…………」
「…………」
おそらく、彼女は偽りの温もりしか知らないのだろう。
いや、知っていたはずだけれど、忘れてしまったのだ。
長い、長い、時の中で。
「いいよ……。聞いて?」
「うん。ありがとう。辛かったら、すぐ休もうね」
「うん……」
辛いのも当然のことだ。
例え偽りだとしても、サクラが旅した歳月は確かにサクラの中にあって、実際に体感として記憶されているのだ。幸か不幸か必然か、僕にはサクラの記憶を共有する力はないけれど、その苦しみの一部はわかる。
僕が世界をやり直したあの時も、身悶えるほど辛かった。
確実に失われるものがあることを知覚するのは、途轍もなく苦しい。
サクラはきっと、そんな経験を無数にしている。
あろうことか、僕はそれを掻い摘んで聞き出そうとしているわけだ。傷口に塩を塗り込むどころか、広げて塗布する勢いなのではないか。
でも、僕はその傷をそのままにして欲しくない。その傷口を縫ってあげたい。
時間を巻き戻しても閉じないその傷を治せるのは、僕だけなのだから。
だから、今は僕を信じていて欲しい。
「どうして、突然居なくなってしまったの?」
僕が口を開くと、僕の服の裾を握るサクラの手が、きゅっとなった。
それからすぐに、僕の方へ体重がかかったのがわかる。
「怒らないで聞いてくれる?」
「えっ?」
このタイミングで、僕が怒るようなことがあるだろうかという、さり気ない疑問符だった。
言った下から「もちろん」と、豪語する。
何も根拠は無い。
サクラはもじもじと酷く狼狽しながら、僕の平らな胸に声を響かせた。
「あの、ね……? も、目的、達成されたの……。あの、夜に……」
発せられた“目的達成”という単語に、いまいちピンと来なかった。
余りに、現実的過ぎたから。
しかし、サクラがすぐに言い添えたので、理解は深まった。
「わたしの『願い』の……」
そう言えば、アリスが推測していたデータの中に、酷似していたものがあった気がする。
『願い』の目的が達成されると、その効力が失われるというものだったか。
サクラが言うのだから、それは真実にかなり近いのだろう。
「『願い』……?」
しかし、ともするならば、サクラが世界から除外される必要などなかったのではないか。
サクラの『願い』は確か、『魔法を使いたい』だったはずだ。
何も無いところから火を出したり、瞬間移動をして見せたり、学校全体を異空間に包んでみたり……。その『魔法』とやらが使えなくなっただけで、果たして、サクラ自身が世界から消滅してしまうようなことはあるものなのか。
直接的に関係が無いように感じるのだけれど。
もしかしたら、それが「怒らないで」と言った要点なのかもしれない。
だとしても、特に、怒るつもりはないけれど。
首を傾げていると、サクラが告白する。
「のあが自分の『願い』を告白した時、あったでしょ?」
「うん」
「あれ、すごくびっくりしたんだ。え、そんなことしても大丈夫なの? って」
「そうだよね。僕も驚いたよ」
「それで、わたし、咄嗟に嘘ついちゃったの……」
「嘘……? それって……」
本来、僕はそこまで洞察力の良い方ではないのだけれど、これは特別勘付いた。サクラが歯車を見つけてきてくれたのかもしれない。
「そう。わたしの『願い』」
つまり、サクラの本当の『願い』は別なところにあって、その目的が達成されたために、効力を失ってしまったと。逆に言えば、サクラが世界から消滅するということは、サクラは『願い』を叶えた時にはすでに、元の世界から消滅しているということになる。
それは例えば、イチとゼロの境界を潜ってしまったかのように。
「まさか……」
「うん。そうだよ。そのまさか」
――『事象の境界を知りたい』
「なんでそんなこと……」
思わず、抱きしめる腕に力が入ってしまう。
確かに、ルカは幼い頃から天体や物理の事に興味があって、よく僕に話をしてくれていた。事象の境界なんて、知っていなければ出ない単語だし、語彙はそこから来ているのだと思う。
でも、だとすれば、目的になった僕にも少なからず、何らかの責任はある。
そうでもなければ、僕はこの世界で天文学に興味を持つことは無かっただろうし、好事家と言われてまで和食を好んだりはしなかったはずだ。
もはや、謝って許してもらえるなんて、あり得ないけれど。
でも、それに関しては、謝るしかない。
「うーん。やけくそかなー。今思えば」
「ごめん……」
「謝らないでってば。これは、わたしの問題なんだから……」
そう知っているからこそ謝りたいし、謝っても仕方がないことなのであった。
それでも僕は、黙ることが出来なくて。
黙っていると、体が疼いてしまって。
「ごめん、ごめん……! 本当にごめんっ……!」
「やめてよ、お姉ちゃん。わたし、死んだ人みたいじゃん」
「でも、だって、僕にできることって、もう……っ」
こうして抱きしめていてあげることくらいしかない。
でも、それも永遠を保証できない。
サクラの生きた永遠を、僕は償えないかもしれない。
「じゃあさ。お姉ちゃん」
涙ぐむ僕の顔を真っ直ぐに見止めて、彼女は言い放つ。
「わたしと、きすして?」
つまり、そういうことだった。
僕とリズとが結びついてしまったために、ルカが傷ついて、それで自暴自棄になってしまった。事象の境界を超えれば、消えてなくなると思って、そう願った。
でも、消えなかった。
彼女は事象の境界を知って、『世界が誕生する三分十数秒』を何度も繰り返した。
そして、その中で彼女は、サクラとして、また僕と出会い恋をした。
そうだ。
卒業式の後、僕の家にサクラが遊びに来たのだ。
それで――。
「あの夜は、わたしが強引に……したけど。今度は、お姉ちゃんから……るーからして欲しい。ちゃんと、愛してるのきすを。りずにしたのと同じ……いや、それよりももっと」
「サクラ……」
多分だけど、僕はそれをサクラにあげることができる。
そして、そうしてしまえば、僕の贖罪は果たされるのだろう。
「るー……」
けれど、きっと後悔する。
瞳を閉じた彼女の表情を見て、そう思った。
だから僕は、差し出された彼女を気持ちを一度僕の中にしまった。
「や、やっぱりダメだよ! このままじゃ!」
「な、なんで! わたしはこんなに大好きなのに! お姉ちゃん、わたしのこと嫌いなの……?」
違う。そんなはず、あるわけない。
「そ、そんなの……っ!」
僕は首を大きく横に振る。
そして、また、強く抱きしめた。
「大好きだよっ! サクラのことも、ルカのことも! 大好きに決まってる!」
「お、おねっ……! ううっ、うぇぇええええんっ!!」
あまりにボロボロと、大粒の雫が零れるので、なんだか僕が絞り出したようにも思えた。
いちいち拭くのも面倒だからというのもあったろう、暫くすると、彼女は僕の胸に埋まってしまった。少しばかり、シャツが湿る。
それから、声が籠る。
とりあえず、激昂は一段落してくれたようだった。
「なんでっ? なんでっ、だめなのぅ……っ」
鼻声でなのか埋まっているからなのか、はたまたその両方なのか、いつもよりワントーン高く響く。
鼻を啜るのに呼応して、ぴくっと体が震えるのが、儚くも愛らしい。
「うん。ごめんね。でも、サクラが僕を選んでくれるなら、僕ももう一度考えなきゃって思ったんだ。サクラのこともリズのことも、大好きだからこそ、こんな形で選ばれるのも……選ぶのも、ダメだなって思う。僕はもう、後悔なんてしたくないから。サクラも、本当は気付いてるんでしょ?」
僕が背中をポンポンと叩いてあげると、その震えは鎮まる。
それが明々白々たる証拠であった。
サクラは、今ここで僕とキスをすることに、後ろめたさを抱いている。そんな状態でキスしても意味が無いし、絶対に後悔する。サクラも、それは同じだと思ったのだ。
サクラが求めるものは、きっと、僕の体だけではなくて、心もだ。
「嫌……」
「大丈夫だよ」
サクラは受け入れたくないだけなのだ。
でも、それを受け入れなければ、僕もサクラの気持ちに答えることができない。
「嫌だよっ……」
「サクラ……」
気持ちは痛いほど理解できた。
今はただ、サクラに寄り添って話を聞き続けよう。
そんなことしかできないけれど、そんなことでも意味はある。
「お姉ちゃん……。お姉ちゃん……。好き……。好きっ……! 大好き、だよぅ……」
「よしよし……」
ごしごしと、サクラは僕の服で涙を拭くふりをするけれど、本当はもっと強く抱きしめて欲しいだけなのだとわかる。ちょうど、駄々をこねる幼児のようでもある。
髪を撫でると、少しだけ嬉しそうだったから、暫くそうした。
「ね……?」
「うん」
今度は、声が震えていなかった。
そのまま答えを引き出すように、少しだけ、サクラを自分の方に抱き寄せた。
そうすると今度は、異常なほどに早い鼓動が聞こえてきた。
僕のものかサクラのものか、二人のものか。
この白の世界では、到底わからないけど。
「わたし、どうしたらいいのかな……」
「一緒に元の世界に帰ろう? そうしたら、僕、また悩むよ」
首を傾げるサクラに解答を言い渡したつもりだけれど、的を得ていなかったようで。
それもそのはず、僕がここに居るのは、他でもない僕の――。
「『願い』の力なんて、わたし、もうないよ……? あの夜、強引にお姉ちゃんと、その……、したから……」
「う、うん。大丈夫なんだよ。それでも。覚えてる? あの――」
そうだ。
世界にただ二人だけ――僕とサクラが知っている、あの魔法があるではないか。
そしてそれは、きっとまだ、未完成だ。けれど、絶対に失われない。
だから、今ここで完成させなければいけない。
でなければ僕は、この世界から帰れない。
「あの、『おまじない』」
「『おまじない』? って、お母さんの?」
サクラの中にも、まだ残っていたようで安堵する。
あり得ないとは思っていたけれど、ここで忘れられていたら、そこで終わりだった。
「そう! また、あの『おまじない』で約束するんだ!」
「そんなんじゃ絶対無理だよ……。それに、お姉ちゃんと一つになれなかった、あんな『おまじない』なんて……ただの『呪い』と一緒……」
やはり。
サクラはあの『おまじない』を、『呪い』だと思いこんでしまっている。
本来、意志を確認するためだけの『おまじない』を、『呪い』だと思うこと。それが、そのまま『呪い』を作り出している。信じること自体は同じでも、何を信じるか、どう信じるかによって『おまじない』の効力は形を変えるのだ。
何も非現実的な夢物語ではなく、それはごくごく自然なこと。
つまり、サクラが力を取り戻すのは簡単なこと。いや、そこに正体不明の力など、初めから存在しない。誰しもが、願いを叶えられる力を持っている。
それに気付かせてくれる『おまじない』なのだ。
「わたし……もう、痛いのも苦しいのも嫌だよ……」
「させないよ。そんな思い」
今しかない、これが最後のチャンスかもしれない。
そう思って、僕はサクラを腕ごと、ぎゅっと強く抱きしめた。
すると、サクラが泣き出してしまうので、僕もまた何も言わずに、力を緩めなかった。
いつか、サクラが僕から離れる時が来るのを待つためだった。
暫くと言っても、そこまで長い時間ではなかったと思う。
「もう、大丈夫?」
「……ん」
「そっか。よしよし」
「…………」
僕自身も、今までの発言を確信に変えるために、言葉を選ばなければならない。
まずは、サクラを肯定しようと思った。
「確かにね? 言う通り、『呪い』なのかもしれない……。僕も、はじめはそう思った」
「お姉ちゃんも?」
「うん。実は、モールで起きた事件に、リズたちが巻き込まれたことがあったんだ。僕も傍に居たんだけど、守れなくて……」
「えっ……」
「そしたら僕、叶えてた。『時間を巻き戻して』って」
時を遡る残酷さを、ほんの僅かも考えずに、僕はそう決断してしまった。命を秤にかけた僕は、人ならざるものとしての苦しみと、心への重責を負った。僕は、二十二人分の命を生きなければならなかった。
でも、こうして今も生きている。
僕も、リズも、アリスも。
「ニュースで見てしまったんだ。モールで、二十二人もの犠牲者が出たって。その時、すごく辛かった……。ううん。今も、辛いよ。正直、『呪い』って言ってもいいと思う」
ただ、どちらが正解だとか、どちらが非人道的だとか、その答えは無かった。
さらに残酷なことに、答えは自分で決めるものだったのだ。
その一つの解釈を、サクラが教えてくれた。
「だけどね、サクラ。僕、思うんだ」
サクラも、生きていた。
生きていてくれた。
それだけで、僕の中で錘を成していた何かが軽くなるのを感じた。
「『呪い』も『願い』も『おまじない』も、どれも同じだけ、誰かのことを思ってる。その想いがお互いに通じ合った時、それは成就するんだ。それなら、『呪い』って思うのはやめよう? それじゃ、相手も自分も、誰も幸せになれないから」
「幸せに……?」
そう。
世界を幸せで一杯にするのならば、それは『呪い』では難しいのだ。
もう、忘れてしまっただろうか。
「うん。サクラの『魔法』も一緒だよ。サクラはそう思わないかもしれないけど、僕はサクラの『魔法』が僕たちを繋げてくれたと思ってる。だから僕は、サクラが僕のことを考えてくれてるって……すごく嬉しいよ?」
「お姉ちゃん……」
声に覇気が宿らない。
けれど、互いの脈拍でわかることがあった。
淀みの無い決意と、順応に対する一抹の不安だった。
「うん……。わかった……。信じるね。お姉ちゃんのこと」
「うん。ありがとう。信じてくれて」
何だろう。
一面真白だったこの世界に、黒との境界線が引かれていくような不和を感じる。この空間が崩れ去る、ではないけれど、確かに、そこかしこに通風孔のような光が漏れていっているようだ。
肌に感じる温度も、少しだけ寒い。
もしかしたら、もう時間がないのかもしれない。
「じゃあ、目、閉じるね……? あっ。口にしても――」
「しーっ。『おまじない』の時は喋らない、でしょ?」
「んー……」
「よしよし。大丈夫。僕は居なくなったりしないから」
「ん……」
いや、これは違う。
これは、まさか、そういうことなのか。
パリパリと、光が音を立てて卵の殻のようにはがれていく。そこで初めて、この世界が決して真っ暗などではないことがわかる。見渡す限りの白い花畑は、すべてコーヒーの花だ。いつか浜辺で見たあのログハウスは、僕の――僕たちの家そのものではないか。
サクラがどれだけ僕を愛していたか、その純粋無垢たる想いが、涙の一滴として胸に滲みていく。それが僕の中に拡がって、失われていた僕とルカとの記憶が、ひとつ残らず同期されていくのを感じる。
「じゃあ、するね……?」
「ん……」
ああ。何だ。
世界は、こんなにも鮮やかな光に象られている。こんなにも美しい色で彩られている。そうやって形を成したものこそ、僕たちの探していたものではないだろうか。
『幸せ』で一杯にすることとは、不可能ではないのだな。
そう思いつつ、僕も瞳を閉じた。
*
――『元の世界に帰ろう?』
あなたは、優しく笑って、それから一度だけ頷いた。
【あとがき】
“それ”とは一体どこを指すのか。
ここまで読んでいただいている皆さんと、そうでない皆さん。
見えている世界が違うと思います。
けど、それって、結構当たり前なことで、そうやって違う世界を見ている人たちを理解しようとする。それが、誰かのことを想うということなのです。
だから、恋も愛も、自分とは『違う』誰かにしか成立しないものです。
でも、自分と同じところが多いほど、好きになってしまう。
この感情を、どうすればいいでしょう。
彼女たちは、どうしていたでしょう。
次回は、なんと……!
この続きです。




