Ⅰ 帰って来て、未亡人。
【まえがき】
怒涛の最終章。
怒涛です。
どうぞ。
あなたの記憶に残ること。
誰かの記憶に、わたしがいること。
***
「うぅん……」
幕間に目を開けたら視界が一面、樹で覆われていて、結構吃驚した。一瞬、まだ夢の中なのではと錯覚したけれど、すぐにそうではないとわかる。
でももし、わからないまま幹を伝って下界に降り立てば、きっとそこは夢世界だ。
そんな気がする。
そういう人が、ここに居た気がする。
「意外と、寝れるね……」
得てして気持ちの良い寝醒めとはいかなかったけれど、そのせいか、頭は変に冴えている。
それもそのはず、寝醒めというほど僕の脳は休息していない。夜の更けていくのを、普通に感じていたくらいだ。意識して目を瞑らなければ、こんなにも睡眠に不適な場所では、到底、夢の世界へは旅立てまい。
三分と十数秒と言ったところだろうか。
僕たちの記憶や森羅万象三千世界に影響が出るとすれば、程よい頃合いに思う。いや、変化する未来はすでに過去の時点で決まっているから、その頃合いというのはまさに、今この瞬間の連続であろう。
少しばかり肩透かし感は与えてしまうだろうけど、無意味に時間を作っても仕方ない。
皆を起こしに行こう。
するすると幹の太いルートを伝って、根元の盛り上がっているところに足をつく。足の置き場としては不十分だったので、すぐさまもう片方の足を投げ出した。
「……っと」
少し、ふらついた。
そんなに長い時間縮こまっていたわけではないのだけれど。
それはともかくとして、こうして一人、屋上の森を歩くと、誰かが何かを僕に問いかけているような気がしてくる。実際、今、一番初めに誰を起こすか決めることができる。
しかし、僕が言いたいのは、そういうことではない。
確かに、皆をここへ集めたのは僕で、木の上で眠ろうなんていう馬鹿げた提案をしたのも僕だ。誰がここへ集まって、誰がどの木で眠っているか、そこまで認識の範疇である。
では、今から僕が揺する木に、果たして彼女は居るだろうか。いや、居なければおかしいのだけれど、そこから降りてきた彼女とは、本当に僕の知る彼女だろうか。
彼女は彼女たり得ているから彼女のような振る舞いをするだろうけど、保証はできない。
そう。
僕と同様、彼女自身も僕のことを疑い得る。
そういう意味で、僕が提案した行為というのは、『一度、現実世界から自分たちを乖離する』ことに近似しているわけだ。そうすることで、現実と非現実の区別を明確にし、僕に取る非日常の炙り出しを施せる。
だから、僕が初めにリズを起こしに行くのは、ごく自然なことなのかもしれない。
「おーい」
「わっ!!」
「リズ?」
「ルー? だよね? ねぇ、びっくりするからやめてよ、もー」
木に目印はつけていなかったけれど、庭園中央のベンチから一番近かったので、よく覚えていた。
反応が早かったのは、きっと、眠れなかったせいだろう。
一歩二歩、幹から遠ざかると、彼女がすとんと身軽に舞い降りた。
「起きてたの?」
「こんなとこで寝れるわけないじゃん。外だし、寒いし、木だし」
「あはは……」
ごもっともである。
言えど、無意味ではない。
それはリズも感じているようで。
「それで? 何か掴めたの?」
「そうだね。これから、かな……」
予兆は確かに、この屋上に渦を巻いて胎動している。
家からここへ来るまでの道のりが、風で繋がっているように感じる。
ともすれば、過去を辿るのも、現在を知るのも、未来を観るのも、不可能はない。
あくまで、シミュレート上での話だが。
「他の人も起こすの?」
「うん」
突如、ひゅうと吹いた夜風に身震いでもしたのか、リズがぴったりと密着してきた。僕はそのまま腕を組むように絡めて、手を握った。
少し、歩きづらい。
でも、寒くない。
僕はもう、一人じゃない。
「次は――」
そうして、ルリ会長、アレン、ノア、アリスと順に起こしていった。
さすがに底冷えがしたので、庭園で一番大きな木を盾に、僕たちは風下で円陣を組んだ。
「どうでした? 皆さん、何かわかりましたか?」
「ワタシは、そうだなぁ……。なんか目が覚めたよ。マイナスイオンを吸収したような気がしたね。そして、生命の真価を肌で感じた」
「それは木だからなのでは……?」
「そういうアレンはどうなのー? どうせ何にもわかってないんでしょー?」
「うっ。そう、だけど……。すみません、ルートさん……」
「あ、ううん! 大丈夫だよ。アレン君、ありがとう。この調子だと、ノアさんとアリスも……だよね?」
「まぁ、ええ。そうね。今のところはね」
「ノアも、よくわかんなかった……」
再び、ひゅうと風が吹いた。
屋上という高所であり、深夜という時間帯であることも相俟って、非常に冷たい風だ。頻度も威力もそれなりにあった。
でも、今度は大樹が壁になって、上手く風を避けてくれていた。
ちょうど、向かってきた風が木にぶつかって、そこから二股に枝分かれしているイメージだろうか。そして、その合間に居る僕たちは、風の行く末など知る由もない。
しかし、知り得ることもある。
それは、言わば『風の分岐点』――『大樹の存在』だ。
僕が辿ろうとしている道のりは、そういう手段で掘り起こせるのではないだろうか。ここに居る全員が一斉に掘り進めたら、埋没した記憶の欠片も、きっと救い出せる。
どこを、掘ればいいか。
色でもいい、輪郭でもいい、重さでもいい、温度でもいい。
僕の中に微かに残っている、記憶の残滓を貼り合わせて、捏造して、増版して、それから全員で演繹しよう。そして、誰かの『願い』の跡から、僕たちの思いによって創造しよう。それこそ、全く懐かしいものを。
僕には――僕たちにはそれができるはずだ。
「でも、何か感じたんでしょう?」
「アリス……。うん。そうだね……」
意図して僕の対極に居るのも、意味あっての事だろう。
長年の付き合いだからこそわかる。
アリスは、僕のことを見透かせる位置に、いつも居てくれる。
「ちょっと整理してみる」
「寒いから、早くしなさいよ」
「アリスちゃん辛辣だねぇ」
「ははは……」
しかし、僕自身も急がずにはいられなかった。
とは言え、僕は僕の処理速度以上には記憶を探れない。
ここにみんなで集まった理由を考える。
もしかしたら、答え合わせができるのではないか。
「まず、僕がサッカーを辞めた理由。プロのクラブに入れなかったから」
「えっ? そこから入るの……? 大丈夫? 大丈夫って、あれだよ? 尺的な意味じゃなくて、その……辛くない?」
「うん。もう大丈夫だよ。僕にとって大事なことだから、忘れたくなくて。それに、僕にはリズがついてるから」
彼女の手を今一度、きゅっと握ると、「あっそー」と視線を外された。
無口な答えは、饒舌な僕の手に返って来た。
アリスのため息が、夜風を凪いだ。
「はいはい。その次はさしずめ、ノアとの出会いかしらね」
「うん。そうだね。すごく大事だよ」
「ルートとの、出会い……。ノア、今でも、覚えてるよ……」
一番初めにノアと出会ったのは、ミドルの下校途中のトンネル辺りで、本当にすれ違う程度のことだった。その時は、今でもあまり聞けないような大声でアリスを怒鳴りつけて、そのまま走って立ち去ってしまったのだった。
というエピソードは、今、相応しくなさそうだと気を遣ったのだが。
「なんか、突然家にやってきて、夜にたくさん電話したね」
「その言い方はちょっと語弊が……!」
でも、思い出すととても懐かしい。
僕の探していた感覚も、その懐古の念とともに引きずりあげられているように思う。何と形容すればよいだろう。道に迷った時、ふと知っている道に出ることができた、あの安心感などだろうか。
今の場合、その知っている道も、まだ実は知らない道だということになる。
「でも、アカデミー一緒になれたとき、すごく嬉しかったよ。驚きもしたし」
「そうね。あたしも嬉しかったわ。今思うと、ホッとするわね」
「んん……」
そういう風におませに照れたノアを、初めて見た。
誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた気がした。
「最初のうちは大変だったよね。ここに慣れるのも」
「そうかしら。あたしはかえって、楽になった感じがするわ」
「ノアも、楽しかったかな……」
「あ、あれえ?」
それもそのはず、アリスはノアの一件以来、家のルールに縛られなくなったし、ノアもアリスと同居を始めて心身共に満たされたはずなのだ。
対する僕は、部活すら決めておらず、それどころか荒唐無稽にも名指しで生徒会副会長に任命されてしまった。入試のテストでそんなに高い点を出していた覚えはないのだけれど。
ともかく、ノリに乗ったアカデミーデビューとなったのであった。
「そう言えば、ルー、球技大会でサッカーしてなかったっけ?」
「えっ……?」
確かに、カシミーヤ校では運動会シーズンにそういった催しをする習わしがあった。近隣の住民の方に公開で開かれるので、毎年素晴らしい盛り上がりを見せる。
でも、どうだろう。
サッカーをやった覚えは、なくはないけれど、曖昧だ。
勝利という圧力のある雰囲気と、目標に向かって徐々にまとまっていく群衆。トラップからのダッシュで、肩に感じる風――果たして、頭の中のあのフィールドは、カシミーヤのものなのだろうか。
「もしかして、抜けてるのってそれじゃない? 私、ルーがサッカーしてるの見てて嬉しかった覚えあるんだけど……」
「うーん……。サッカーなんてしたかなぁ……。確かに、なにか勝った覚えはあるんだけど……。その後、なにかを生徒会でやらかしたような……」
「や、やらかしたってなんだよー! 人聞きが悪いなーもー。ワタシも覚えてるぞ。何せ、放送係やってたの、ワタシだからね。あの時は、確かに一年生のクラスが優勝してたよ。それがルートくんのクラスだったかどうかは知らなかったけど、近年稀に見る展開だったから良く覚えてるねぇ」
「そう言われると、そんな気がしてきたような……。でも、僕は、その表彰台に立ってない、ですよね?」
「うーん……。どうだったろ……」
その部分の記憶に関しては、欠片も香りも何もない。
僕は表彰式のタイミング、別場所で誰かと何か別のことをしていたはずだ。
洞察力のあるアレンが、重ねて僕に問う。
「ルートさん、その時は何してたんですか? 表彰式なんて大事な場面でいないなんて、ルートさんにとっては、相当重要な局面だったんじゃ……」
「そう、だよね……。でも、うーん……。うーん…………!! 全然、思い出せないや……」
でも、靄がかかっているとか、フィルターが詰まっているとかではない感じだ。いつも歩いている道から、一つずれた道を歩いているとわかった時のような、そんな錯誤で。
もう少し進んでみようと思った。
道は繋がっているかもしれない。
いや、見渡せればそれでいい。
「そうそう! あと、公開文化祭だよね!」
「何よ。急に楽しそうね」
結果を急いでいることが、皆に伝わってしまったかもしれない。
でも、記憶が逃げない保証はない。
「そんなにハイテンションで語っていいの? ルーのことだから、私とキスしたので、皆に弄られてそうだけど」
「そーいやぁ、そんなこともあったねー! ワタシ、直で見たわけじゃなかったから、まさかなーとは思ってたんだけどさー。リズちゃんが言ってるってことは、そういうことでいいんだよね!? 公認で!?」
僕としては、もっとこう、劇の脚本を任されて大変だったとか、主役も担うことになって大変だったとか、皆に助けられて感動したとか、そういうことをしみじみ語るつもりだったのだけど。
やはり、キスの印象はハグとは比べ物にならないなと、今更ながら感心する作者である。
そのことに一人でうんうん頷いていると、会長が雄叫びを上げていたので、さすがに口を塞がせていただいた。ルリ会長は屋上へ来るとすぐ叫びたがる。
「しーっ!! 静かにしてくださいっ! 誰かに通報されたらどうするんですかっ!」
「んんん……っ!!」
「あ痛っ!! ……って、噛むの!? 会長なのに!? ……うっ!!」
慣れない手の平の痛みにつられてだろうか、一瞬、キンと頭痛がした。いや、頭痛というよりかは、脳から発せられた電気信号が、全身の痛点を颯爽と駆け巡ったような感じだろうか。乗じて、背筋がピンと伸びた。
それから、酷い既視感に囚われた。
――僕はここで、誰かに同じことをされている?
危うく、この世界に疑いをかけるところだった。
無意識のうちに走り出しそうになる僕を止めたのは、リズとアリスだった。
「どこ行く気よ」
「あっ、うっ、ごめんっ、僕……。なんで……」
僕の手首を握る二人の手は、僕にもわかるほど震えていた。
僕と同じくらい、皆も怖かったのだ。
誰かの発言によって世界がすべて覆されて、真っ逆さまになって、大地から振り落とされてしまうかのような、途方もない不安。対処しようがないからこそ、そうなってしまった時、せめて誰かと繋がれているように。
そう思って、この桜の木の下で、皆で円陣を組んだのだ。
繋いだ手と手で。
「ねぇ、ルー? もうやめよ? もうおうちに帰ろうよ……」
「リズ……」
僕が中心にいるからこそだろう。
その中で、一番、夜に怯えていたリズが、僕に縋ってくる。
だとすれば、アリスもノアが守るだろう。
「アリス……。ノアも、少し寒い……」
「そうよね……ごめんね……」
当然ながら、二人も例外ではなかった。
「俺は大丈夫ですけど、皆さんが……」
「ワタシも、時間は別にいいんだけど、確かにちょっと寒いなー」
もっと密にくっついているべきなのに、むしろ、離れていってしまっている。
記憶は彫刻むものであって、鏤散るものではない。
この程度の夜風で吹き飛んではいけないのだ。
でも、狼狽えて汗をかくと、かえって冷えてしまう。
「わかった。最後にするよ」
「ルー?」
実際にイメージするまでは、長さも重さも形もわからないから、そういう意味では本当に一か八かである。
でも、やるしかない。
「これでダメだったら、諦め――」
諦めたら、それは、この世界を肯定することになる。
僕が大切な“何か”を忘れたまま、僕はこの世界で生き、そして死ぬことになる。
絶対に後悔するだろう。
そして、そうしないように僕はまた、あの頃のような贖罪の日々を重ねるだろう。
でも、今回は決して償えない。
今日という終着点――境界線から遠ざかっていくだけの明日を繰り返すたびに、僕の中にある『忘却』という枠組みだけ浮き彫りになる。そして、未来永劫、僕が感じる喜びも幸せも、その枠組みの中にしか溜められない。
最後には、『忘却』の枷が、僕の色を決めてしまう。
「あっ、えっ……?」
その瞬間、頬に当たる風が沁みた。
「ル、ルー、ごめん……! 私……怖くてっ。これ以上したら、ルーがどこか遠くに行っちゃいそうで……!」
「はははっ、うん、いいよっ……僕は、大丈夫だから」
どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。
でも、僕はこの涙も後悔の証にしたくない。
リズが自分の服の袖で僕の涙を拭ってくれた。僕は「ありがとう」と言って、リズの髪を撫でた。リズは、髪を撫でる僕の手を捕まえて、辿って、そして僕にキスをした。僕は、そのまま瞬きだけした。
「あ」
籠った息を吐いて数秒後、リズが目をまん丸にして言った。
「しちゃった……。みんなの前で……」
「うん……」
「ワタシ、見ちゃったんだけど」
「僕……俺も、見ちゃいました」
「ノアは、見えてないよ……」
「見せられないわ」
状況が状況だからだろうか、公然のキスということに関しての焦りはほぼ皆無だった。
リズも少しだけ恥ずかしそうにしている。
「みんな、今の忘れてねっ」
「いや、無理っしょ」
「無理ですね」
「無、無理だよ……」
「図解として撮っておきたかったわ」
ああ。
そうか。
これだけ思い出そうとしても思い出せないのは、『思い出してほしくない』ことばかり思い出そうとしているからなのかもしれない。それは僕がかもしれないし、誰か別の人が、かもしれない。
そういうことを考えていなかった。
忘れたのは、僕にとって大切なことだ。
それはつまり、その記憶を共有する相手にとっても大切、あるいは『特別』であると言い換えてもいい。
『思い出してほしくない』というのは、つまり、今の不意なキスのような出来事なのかもしれない。であれば、もっと些細な、とるに足らない日常を、僕は思い出すべきなのかもしれない。
球技大会、文化祭のように学校規模のものでは、決して満足しない。満足しないと言うよりか、そういう枠に嵌められてしまうのが、性に合わない。
日常の中に作り出した非日常を、僕や他の人たちと共有することでこそ、僕たちの『特別』は成り立つということ。
余りに平凡過ぎて、写真に写されることもない、当たり前の『特別』を、僕は大切だと気付いたのだ。
あの、夕陽の見える水の辺で。
あの、煌めく白浜に囲まれた異世界で。
あの、時の無い決意の空間で。
「合宿だ」
「えっ?」
ここへ置いていかないように、首を傾げるリズの手を握った。
温かい。
温かいけれど、少し胸が痛くなる。
「合宿だよ! ここにいるみんなで行ったじゃないか! 秋に!」
「秋の合宿……? んんー?」
「ここに居るみんなって、ワタシもだよね? ワタシよくハブられるからなー、みんなに」
「俺も……混ざってるんですか? 男なのに? あれ? でも、なんだか……宿泊会みたいなのやったような気が……しないでも、ない……でもない、ような……」
腑に落ちない点があるのは僕も同じだ。
でも、あれは確かに、合宿だったろうと思う。
夏休みのようで夏休みではない。土日のようで土日ではない。
そう。
例えば、祝日の重なった連休の。
「んんー……? 合宿かぁ……。言われてみれば行ったような気がするかも……」
「本当!? リズ、覚えてるの!?」
「覚えてるって言うか……、うーん……。なんか夏だったような気がするんだよね……」
違う。
これは夏のようで夏ではない。
僕たちが体験した幾数日は、もっと、月の瞳が揺らめく夜長の空気が漂っていたはずだ。
それと、もう一つ――。
「海……」
「ノア、あなた……!」
「海……海だよ! 海があった!」
記憶の欠けていた部分を、ノアが染め直してくれた。
それこそ、はじめは深淵の紅の絵筆からだった。
「そこで、リズとノアさんが燥いでいたんだ! 初めて海を見たから!」
「ええー、私、そんなことで燥がないよー。……あれ? 何でだろ。私、海行ったことないのに、見たことある感じするんだけど。しかも、大パノラマのやつ」
塗り重ねるのは、リズの言葉。
大パノラマと言われて、何となく砂浜との折り合いが掴めた気がする。ヤシの木だったり、ログハウスのような建物だったり、補填するとそれらしくなる。
「大パノラマ……。俺、海はたくさん見てますけど、一つだけ、異様に鮮明に記憶に刻まれてる景色があります……。昔からか、最近見たかはわかりませんけど、その景色から、楽しかった思い出と悲しかった思い出が同時についてくる感じがします……」
「ああ……、そうか……、そうだよ……! アレン君は、僕が誘ったんだ……!」
「俺が、ルートさんに……?」
楽しい思い出も悲しい思い出も、僕が先延ばしにしてしまったからこそ、過去として集積された記憶。事実と、それから自分と向き合うための、長いようでいて短く、短いようでいてとても長い。
でも、それは僕が選択するために必要なことだった。
貴重な時間だったと思う。
あの時、時間は分からなかったけれど。
「あの……勝手な妄想だったらすみません。先に謝っときます。あと、リズもごめん」
「アレン君?」
「な、なんなの?」
「……俺、ルートさんと付き合っていたような気がします。短い間でしたけど」
「…………」
リズは顔色を変えずに、アレンの口元を見ているようだった。
少しショックだったのかもしれない。
けれど、僕のした選択にも気付いて欲しい。
「うん、そうだね。僕、アレン君と付き合ったんだ。でも、最後は――」
「そこから先は、言わないでください! 忘れたことにしますから……! なんて……、はははっ!」
「うん。わかった。ごめんねアレン君」
そうだ。
僕はそこで腹を括って、リズと付き合おうと決めたのだ。両親に打ち明けた経緯は、アレンとの思い出があったからこそのものだったということだ。
だから今こうして、リズと手を繋いでいられる。僕は、自分の選択に自信を持てる。
リズは、昔から鋭い。
その拗ねた素振りも、今はただ、愛おしく思える。
「はいはい。お仲がよろしゅうございますね」
「ご、ごめん、つい……」
「ふーんだ」
リズには後で謝るとして、今はアリスの追及に応えなければなるまい。
アリスは無意味に僕たちの合間を裂いたりはしない。
「何かわかった? アリス」
「ええ。一つ疑問なんだけど、あたしたちは一体どうやってその場所へ行ったの?」
確かに。
生徒会長副会長の二名は居れども、こんな脈絡の無い大所帯を引き連れて、国外へ飛び出すのは考えにくい。それも、海に面した場所と来た。比較的すぐ思いつくことと言えば、六月になるとポストに投函されるハネムーン旅行のチラシと、十一月にある修学旅行の行き先くらいのものだろう。
あと、僕たちに限定してあるとすれば、あの力か。
だとすれば、それは一体誰のものだろう。
僕たち全員の記憶に残るような、心躍る小旅行。誰かに加担することもなく、分け隔ての無いルール。そうして、僕たちの時を惑わせる。
「あ……」
そんな存在は、一つしか――一人しか居なかった。
だから僕は、最初から“この場所”を選んでいたのだ。
彼女が、呼んでいる気がする。
「ここだ……」
「えっ? ここ!? ここって、屋上? なに? こっから海に行ったとか言うの?」
「言うみたいよ」
「なんだろう。ワタシはよくわかんないけど、それは楽しそうだなぁ」
「ですね。なんか俺も、行ける気がしちゃいます」
「ん……。ノアも思う」
全員と順番に目を合わせた後、僕はリズを強く抱きしめ、リズのおでこにキスをした。
離れたくない気持ちは大いにあったけれど、今度は大袈裟になりすぎないように。思い出した時に恥ずかしくならないように。
そしてまた、手を繋いだ。
「僕、もう一度会いたい人がいるんだ」
気付いた。
もう、この場所は現実世界などではない。
そこは夢世界の延長であり、その境界線上にあると言っても過言ではない。イチとゼロがあやふやに曖昧に繰り返される、高度なシミュレート空間。言い換えれば、僕と誰かの心が交わる真実の世界。
つまり、僕の『願い』は『願い』ではないし、剰え『呪い』でもなかったということ。
でも、大丈夫。
目を閉じて、その真っ白な暗闇に心を投じれば、もう不安などない。さっきリズとしたキスが、きっと『おまじない』よりも強い力で僕を守ってくれることだろう。あるいは、アリスが僕の深層心理ごと釣り上げてくれるかもしれない。
「膝、少しいい?」
「うん。いいよ。おやすみ。私、待ってるね」
さあ。
夜が明ける前に、もう一度彼女に会わなければならない。
僕にとる『特別』な存在――サクラに。
【あとがき】
これまでのお話をしめくくる最終章です。
初めて読む方には時間が見えないかもしれません。
しかし、折角最後ですので、ちょっと厳しくいきます。
次回、この続きです。




