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Ⅳ 愛して。

 


 一歩を踏み出す勇気は、誰かの背中を押す心。

 誰かの背中を押す心は、私に勇気をくれる愛そのものであった。



     *



 ある日を境に、わたしは姉を名前で呼べなくなった。

 それは決して姉と呼ばれない自分への陶酔なのかもしれないし、ただの責任転嫁なのかもしれない。

 遅いとも言えないし、早いとも言えない。

 その日は、往々にしてやって来たというものだ。

 わたしの知る誰かは、それを成長と呼んだけれど、こんなに苦しいものが成長なら、わたしは成長などしなくてよかったと心中嘆いていた。

 でも、隣で同じように成長していくのを目の当たりにして、わたしはわたしのままではいけないのだということもわかった。それは勿論、体もそうだし、心もそうだった。

 綺麗な碧緑(ひとみ)はそのままに、輪郭はより一層鋭く縁取られて、漂わせる香りも重くなった。少しだけ胸元の張ったブラウスが、淀まぬ声に掠れるのは、ごく自然な法則に則っているだけなのに。

 最後に触れたのはいつだったろうかと、よく考えてしまう。

 姉がわたしの知らない誰かと手を繋いでいるところを想像すると、それだけで気持ちが悪くなった。誰かとキスをしているところを想像すると、夜眠れなくなった。愛を深めていくのを想像すると、怖くて悔しくて、涙が溢れそうだった。

 相手が男性であろうとも、女性であろうとも。

 それは、わたしが追いつこうと焦っているからだと近頃気付いた。

 わたしに微笑んでくれたのは、過去のものになってしまった。気付きたくなかった。

 いや、嘘だ。ああ、最悪だ。

 いっそのこと、違う学校だったらよかったのに。

 それも、嘘だ。

 この遣る瀬ない感情は、そのまま、わたしと”お姉ちゃん”の距離感の写しだったと思う。それがあるべき姿か、望まれる姿かは別として。

 だからだろうか。

 鏡を見る度に思うことがあった。



 ――この眼球を取り出して、左右を入れ替えたら、わたしはまた”お姉ちゃん”になれるかもしれない。



 無論、わたしにはそんな勇気などなかったし、そもそも、眼球を取り出すことができたのならば、わたしはそれを投げ捨てるはずだ。そうして光など失ってしまえば、また、手を差し伸べてもらえるかもしれない。

 その程度でよかった。

 宇宙を彷徨うのに一人で居たくなかっただけなのに、わたしは自分で自分を銀河の彼方にでも擲ってしまったのだろうと思う。

 そしてまた、始まりの時をあなたと歩く。



「ただいま……」



 お帰りと、母が変わらぬ笑顔で言うのが、心苦しかった。

 力なく返事をして、わたしはまた一人で部屋に――いや、一人部屋(・・・・)であなたを待つ。

 あなたはもう、わたしを待っていないけれど、わたしはあなたを待っている。あなたが答えをくれないからこそ、わたしはこうして平坦を保っていられる。

 わかっているのに。わかっているからこそ。

 わたしは、後悔しかできない生き物に成り下がっていたのだと思う。

 そういう時は、読み慣れた本を読んだ。

 主人公は最後には死んでしまうけれど、物語の初めは笑い合いながら仲間と戯れている。中盤から驚天動地の展開があって、主人公は悲痛に暮れなければならない。そうして初めて、仲間と過ごす日常の尊さに気付き、それを守るために身を挺する。

 そうやって、何度も何度も繰り返された物語。

 わたしのなかでは、もう、始まりと終わりの境界が無くなるくらい、時間の流れが一切無いように感じられるくらい、世界が小さかった。

 わたしはその中を、大股一歩で歩くことができた。

 わたしが誰かの手を取れば、この世界なら一緒に支配できる。すっかり網羅できる。

 いつの間にか、好きでも嫌いでもない話になった。

 あのころ、あなたと二人で旅する世界は、とても広大で、畏怖の念すらあったと思う。でも、だからこそ、わたしはあなたに縋ったし、あなたはわたしを頼っていた。そうして乗り越えることができたし、手を取り合う大切さを知れた。

 どうして、こうなってしまったのだろうと、悔いても遅いだろう。

 けれど、諦めきれない気持ちは、胸のどこかに確かにあって。それは、あなたと時々お喋りする瞬間に、思わず飛び出してしまいそうなほど不安定で。

 今日も、あなたを待っているのは、そういう思いのやり場を、とうの昔に失くしてしまったからだと思う。

 それはそう、あなたと部屋が別々になってからかもしれない。

 もう、この部屋にはあなたの匂いは残っていない。あなたの声も、あなたの息吹も、何も。

 心の空虚なところに吸い込まれて、胸はきゅうっと痛くなった。

 ああ。成長痛なのだなと、思うことにしていた。



「あ。ただいま。大丈夫? 体調悪いの?」

「る……。お、姉ちゃん……」



 わたしの部屋に入る時は必ずノックをするのに、珍しくしないで入って来たのだろうか。少し目を閉じていたら気が付かなかった。

 特に健康で横になっている罪悪感が、わたしをベッドに縛り付けた。

「大丈夫? 何か持ってこようか?」

「んん……」

 お姉ちゃんは、わたしの体調が優れないと、何も言わなくとも何か持ってくるし、おまけに母にも伝える。一段も二段も大事になる。

 そういうところが、迷惑だった。

 そういうところが、大好きだった。

 わたしは無垢のシーツで顔を隠した。

 白いのに、世界が真っ暗に落ちていくようで、なにか不思議だった。

 あなたが、そこに居てくれるから。

「本当に大丈夫?」

「……うん」

「また、不機嫌?」

「……ち、がう……」

「そっか」

 白の世界がピンと張りつめたと思うと、黒との境界面からお姉ちゃんの匂いがした。

 それから、背中辺りに温かい感触があった。

「言いたいこと、言ってみて?」

 わたしのすぐ横に座ったお姉ちゃんが、背中を摩りながら言い添えた。

 何故だろう。

 安心するのに。嬉しいのに。

 とても怖い。この目から溢れてくるものは、どうしたら止められるのかわからない。

「わかんないよっ……。そんなのっ……!」

「うん。大丈夫だよ。分からなくてもいいんだ。全部受け止めるから、言ってごらん」

 誰かを許すことに慣れていないはずなのに、お姉ちゃんがわたしを許してくれる。誰かを包み込むことができないはずなのに、お姉ちゃんはわたしを抱きとめていてくれる。

 今、そうすることをやめたら、果たして、この溢れる涙は止まってくれるだろうか。

 そんなのは無理だ。

 傍にいるとこんなに悲しくなるのに、胸が苦しくなるのに、お姉ちゃんと離れるのは嫌だった。居たくても辛くてもいいから、一緒に居たいと思ってしまった。長い、長い、長い時間をこれからも共に。

「…………」

「どこか痛いの? お腹?」

「んん……」

「誰かに意地悪されたの?」

「んん……」

 ああ。ダメだ。

 理想を描く空想も、今は混ざり気が強くて、何の意味をも為さない。わたしの劣情というものも、逃げ場を失って、膜を膨張させ続けている。このままではわたしが壊れてしまうとわかる。家族に迷惑をかけるという自制心だけが、歯止めをかけている現状、わたしという心は身動きが全く取れない。

 どうすれば、わたしは助かるだろうか。

 答えは簡単だった。いや、それは難しいとも言うのかもしれない。

 わたしはどうしても助からないからだ。

 そこにあるのは、どれだけ傷の深さを浅くできるかという対処療法的なものだけ。”奇跡”はわたしの生まれた時に、”運命”はこの答えに気付いた時に、すでに使い果たしている。

 であれば、時間を待たせるのも身を削るのと同義だろうか。

 先延ばしにした分は、あとで痛みとして自分に返ってくるに違いない。最悪、手遅れになるかもしれない。

 その時、わたしは一体どうしてしまうだろう。

 ああ。そうだろう。

 こんな風に惨めに泣いて、お姉ちゃんの袖や裾を濡らすのだろう。慰めてもらって、また泣いて。我儘を言って、後悔して。心の居場所も、体の居場所も、無くなってしまうかもしれない。

「……き」

「ん? なんて?」

 我慢できなかった。我慢するのをやめてしまった。

 分かりきっているのに。

「好き……」

「好きな人のこと?」



「お姉ちゃんが好き……!」



「わっ、と……」

 やってしまった。

 全く。鈍感なお姉ちゃん。

「……うぅぅ……うぇええええ……っ!!」

 お姉ちゃんの胸に飛び込むと、やっぱり大好きな匂いがして、気持ちが落ち着いた。けれど、閾値の前後で逡巡の乱高下が起きていて、それはどうしても消えずにいた。

 これ以上、何を望んでも進まないだろうに。

「泣かないで。うん。わたしも、好きだよ…………ルカのこと」

「……っ、うわぁあぁああん……!!」

 それなのに、お姉ちゃんは何も知らないから、酷だった。

 無知の知という言葉を、これ以上ないくらい憎んだ。

 不安に溺れる未知よりも過去に驕れる既知よりも、真っ白な無知が一番罪だと知った。

「でも。やっぱり、笑ってる顔の方が好きだなぁ」

「……う、ん…………」

 そんなお姉ちゃんに、わたしは呪いをかけようと思った、

 わたしはこんなに苦しいのだ。お姉ちゃんも、苦しんだらいい。

 ずっとずっと、いつまでも。

 わたしが、お姉ちゃんのことを嫌いになれるまで。お姉ちゃんが、わたしのことを大嫌いになるまで。成就したならばその時は、笑って、恋の叶う瞬間を祝おう。

「本当に、好き……?」

「うん。本当だよ」

「ずっと?」

「ずっとだよ。小さい頃に約束したでしょ?」

「……!」

 そう。

 それはまるで、幼い子供のするいい加減な約定のよう。

 叶うこと、叶わないことよりも、誓い合う”今”という時を思う。築いていく”未来”という夢を追う――負う。

 辿りつくことよりも、誰かとそこへ歩いていくことの方が大切で、寄り道するのも決して間違いではない。

「誰かと結婚しても、離れてても、おばあちゃんになっても、死んじゃっても……。ずっと、だから……!」

「うん。ずっとだよ」

 拙い口約束でもいいから、最後に言っておきたかった。

 わたしは、忘れない。

 例え、あなたが忘れてしまっても。

 例え、わたしが選ばれなくても。



 そして、わたしはあなたに『おまじない』のキスをした。

 わたしがあなたとキスした過去だけ残して、わたしは世界から消えてもいいと思った。

 長い、長い、長い、時間――あなたと感じていた『幸せ』の時間を、あなたが忘れてしまっていたとしても。それでも、構わない。



「ずっと大好きだよ……。るー?」



 嬉しいのに。

 世界はこんなにも幸せで一杯なのに。

 わたしの涙は、止まらなかった。


 

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