〖Linoah〗よかった。ありがとう。
【まえがき】
おまけです。
温かい温かい温かい。
世界一温かい、冬のお話。
〖notice〗と〖Lenoah〗も読んでいると、尚ぽかぽか。
どうぞ。
妹と彼が不倫している現場を目撃してからも、私は彼と付き合い続けた。
許すも何も、過ちを犯すことは誰にでもあると思っていたからだ。それに、昔からレノと私は見間違いをされることが多々あった。その時は、それの延長だろうと短絡視していた覚えもある。
彼はものすごく真面目な人で、二度としないと誓ってくれたから、私はすごく嬉しかった。
それがかえって仇になった。
私ではなくて彼の方が、不倫に後ろめたさを感じてしまったのだ。
謝罪しているのだから大丈夫だと私が言うと、彼は私に不信感を抱き始めた。でも、どうしてそういう思考に至るのか全く理解できなかった私は、黙っているしかなかった。理解できないのなら、理解しようとするしかないし、何よりも彼のことを愛してしまっていたから。
私は、間違いの少ない道を通り過ぎて、過ちに関しての感度が皆無に等しかったのだ。
夜、彼がベッドで私に暴力を振るうようになった。
初めは、男性はそういうものであると受け入れたが、それから回数が増えていって、徐々に凌辱的な内容も多く、色濃くなっていった。
暫くの間は行為の延長だと信じていた私も、日常生活で同じことを強要されるようになってからは、耐え忍ぶ日々だった。痛みを愛に変換するのも、限界があった。でも、必要なことだと思った。
そんなある日の事。
私は子供を身籠った。
嬉しくて、人生で初めて声を上げて泣いた。
でも、この時に気付くべきだったのだ。
彼と私との温度差に。
△△▲▲
そして、冬。
二月十四日に、ノアが誕生した。
姓を決めていなかった私は、この時に、彼との結婚を決めた。
子供が生まれればあの頃の彼に戻ってくれる。結婚して家族になれば、また幸せな日々がやってくる。レノに自慢だってできる。
そう期待して、私は職とリンドバーグの姓を捨てた。
私の考えは、甘かった。
結婚して三人で同じ姓を名乗れるようになって、暫く経って。
彼はノアの成長を喜ぶどころか、ノアに暴力を振るうようになった。それを庇う私も、酷く痛めつけられた。つまり、失敗だったのだ。
でも、守るしかなかった。
選択肢を削ったのは、他でもない。私自身の無策の期待であったのだから。
それからすぐ、彼は酒乱になった。
私たちには家賃分を渡すだけで、後はすべて酒に充ててしまった。
私のインターン時代の給料にも手を出され、当然ながらそれは底をついた。
負の連鎖は続くのだと、この時に思い知らされた。
外科医となった彼が、術中に医療ミスを犯してしまったのだ。
それには私もとうとう堪忍袋の緒が切れて、彼を怒鳴りつけてしまった。
過ちの大きさも形も知らない私が、そんなことをするべきではなかったのに。
私は彼に暴力を振るわれて、片目を失明した。
そうして私は、光を失った。
△△▲▲
それから間もなくの事。
彼があの醜い事件を起こしてしまった。
その時すでに同居していなかったのが、不幸中の幸いだったと思った。自然、ノアは不審がることも無かった。
当然のことながら、刑事事件だとしてうちにも捜査が入ったが、文字通り得られるものなど何もなく、それは通り過ぎた。逆に、失うものばかりだったと思う。
事件のおかげで、私は家族とも疎遠になった。
そうして私の元に残されたのは、彼の作った多額の借金と、ノアだけだった。
生命に比べれば、借金など背負うに値しない軽いものだ。
でも、ノアの存在は途轍もなく重かった。
子供の育て方など、教科書に載っているはずもないし、ケーススタディをしてもすぐに例外が生まれて対応できなかった。母乳を絞る体力よりも先に、振り回された精神が音を上げてしまった。
ノアは言葉を発するのも、はいはいを始めるのも遅かった。
誰かと比べるということはないけれど、私はその事実に、信じられないほどのストレスを感じた。
ノアが笑ってくれるとすべて吹き飛ぶけれど、そのストレスの元凶はノアだった。幸せが不幸せを作るという矛盾したサイクルに、私の頭はパンクした。
けれど、酒や薬物に逃げると言う選択肢は私には無かった。
精神的にも、無論、金銭的にも。
彼と住んでいた部屋を売って、家賃の安いマンションに移住した。また伸びるだろうと、長かった髪もほとんど売った。もう諦めようと、インターン時代に使っていた手術道具も売った。魂だって、売れるものなら売ってしまいたかった。
もう、限界だった。
だから、助けを求めるしかなかった。
救いを願うしかなかったのだ。
△△▲▲
レノはショッピングモールの奥にある夜営の宿泊施設通りで、流れの娼婦をしていた。
双子というのはやはり運命なのか、情報を探す前に街で偶然にも出会うことができた。
レノは疲れていたけれど、私はどうだっただろうか。
再会を果たした時の、お互いの表情なんて、もう思い出せない。
レノが私のことを嫌っていると知っていたけれど、私はレノのことが大好きだった。明るくて前向きで、素直で、真似したがりで、とても可愛かった。そして、何よりも、人との関わり方を知っていた。
それから、レノと会う回数が増えた。打ち解けるのなんて、一瞬のことだった。
レノは全く変わっていなかった。変わっていないねと、私も言われた。
私は小さく笑って、その時、心を決めた。
――レノになら、ノアを任せられる。
私は、私の持っていた財産すべてをレノに渡すことに決めた。ノアと住んだあの一室も、彼から貰ったこの姓も、三人で生きていた記憶も全部だ。
レノは別にいいよと言ってくれた。
その時にレノがどう思っていたかは、正直わからない。そんなことは無いだろうけど、家が手に入るからという理由だったのかもしれない。
でも、それでも、構わない。
それはすべてノアの為なのだから。
せめて、ノアにだけは、こんな思いをして欲しくなかったから。
そうして、ノアは私と彼のことを忘れた。
△△▲▲
居場所も職も失って、どれくらいが経っただろう。
私は空っぽになった。
鏡を見ることも水面に姿を映すこともなかったから、未だに知らないけれど、きっと、相当にやつれていたことだろう。お腹が減ることは無かったけれど、嘔吐することはあったし、指も見るからに細っていたから。
そのまま竹藪で死んで養分になっても良かったのだけど、神様とは慈悲深いもので。
私は通りすがりの農夫に命を救われることとなる。
いや、命を救うことになる、か。
その場で、コメを握って三角にしたものと、水筒の水、それから山菜を分けてくれた農夫が食べていたキノコがたまたま猛毒だったのだ。意識混濁に陥った人を見て、私の体は、条件反射で動いていた。
気道を確保して人工呼吸、それから心臓マッサージ。延命出来得る限界まで、続けた。得体の知れない成分を服毒したのだ、丸腰で治療できるはずがないと知っていた。
あり得ないことも連鎖するのだと、その時に思い知らされた。
たまたま竹藪を通った人が公安の人で、これまた偶然にも、馬車を引き連れていたのだ。気付いたのも、向こうからだった。
農夫の男性は馬車で運ばれ、そのまま病院へと直行した。私は医師に交代するまで延命を続け、それが結果として、男性の命を救うことに繋がったらしかった。
こんな細い指でも救える命があるのかと感心してしまった。
その後で皆から拍手されて、なんだか幼い時代に戻ったような感覚になった。
だから、あれは子供心だったのだと思う。
その人の提案を承諾したのは。
「うちで、働いてみないか?」
農夫を馬車に乗せてくれた公安の人こそ、今のご主人様、アバン・ナイブス様だった。
△△▲▲
詳しい採用理由などは知らないが、今思えば、私の天職なのかもしれない。かつて目指していた医師というのも、誰かに進められて作り上げられた目標だった気がする。
資格マニアだった私は、アカデミー卒業までには百を超える資格を取得していた。
掃除検定、庭師検定、監査検定、事務検定、エトセトラ。二十を過ぎたあたりから、記憶するのは諦めたけれど、認定書の山を見るとそれだけで和んだ。
そんなどうでもいい資格の数々が、こんな形で役に立つとは夢にも思わない。
いや、きっと、これは夢なのだ。夢の続きに違い無い。
そんなことを考えながら、住み込みメイドとして忙しない日々を送るのだった。
ある日を境に、夢は夢ではなくなった。
いや、ある意味では、夢のまた夢かもしれなかった。
「は、はじっ、初め、まして……。ノア、です……。ノア・グリニッチです……っ」
どういうわけか、ノアがナイブス家にやって来て、しかも同じ場所でメイドをやると言い出すのだ。もう、天と地が逆になるのではないかと思った。全身を巡る血が沸騰するのではないかと思った。
信じられなかった。
私の手元を去ったノアが、大きくなった姿で目の前にいるのだ。
手が震えた。
我が子を今一度抱きたくて、仕方がなかった。
「大きくなったね」と、「ごめんね」と、声をかけてあげたくて、気が狂いそうだった。
でも、そんなことはしてはいけない。
我が子を愛することから逃げた私に、そんな資格などありはしないのだから。
こんな時ばかりは、光を失った瞳を褒めてあげたくなる。
涙なんて、我慢できるはずもなかった。
△△▲▲
ノアがナイブス家に定着して、仕事ぶりにも落ち着きが見えてくる頃。
ノア側の事情も、少しずつわかってきた。
ノアに好きな人ができたということ、その人というのがナイブス家のお嬢様であるアリスという女の子であるということ、そのためにここへ来たのだということ。
一瞬、立ち眩んだけれど、私の立場は決して揺らがなかった。
親が応援しなくて、一体誰が応援するだろうか。
それから私は、二人の恋路を陰ながら手助けすることにした。
ノアがこっそりお弁当を作っているのを見つけて、次の日にさりげなくアドバイスしてみたり。メイド勉強会と称して、お嬢様の好きそうなセーターを編む方法を教えたり。二人が同じ部屋で眠れるように旦那様にお願いしたのは、他でもない私だったり。
そうやって二人の距離が縮まるごとに、ノアが笑顔になるのも増えた。
嬉しくて嬉しくて仕方がなくて、私は部屋で一人泣いた。
この気持ちをレノにも知って欲しくなった。
私がレノを想起するのは、至極自然な事であった。
――今、どこにいるの?
△△▲▲
お母さんへ
こんにちは。
あ。この手紙を読んでる時は、きっと夜だから、「こんばんは」かな。
気を取り直して……。
お元気ですか? ノアのお弁当だけじゃなくて、ちゃんとご飯も食べてますか? しっかり眠れてますか?
質問ばっかりしてごめんなさい!
でも、心配なの……。
もちろん、お仕事忙しいのは、ずっと昔から知ってる。
だから、お母さんがお休みの時でいいんだ。
たまにでいいから、一緒にどこかに行こうね!
そうだ!
ノアね。なんと、アリスの家でメイドをすることになったんだよ!
ノアもお仕事だよ!
毎日すごく大変だけど、みんな優しくしてくれるの! だから、全然大丈夫!
それにね。毎日、アリスの部屋でお泊りできるの! お風呂も一緒に入ってるの!
アリスって、すごくいい匂いなんだよ! 寝顔もすごくかわいいし! 寝てる時、髪の毛が少しチクチクするけどねっ。アリス、髪長いから。
そうそう、それでね! アリスって、寝てる時、すごく抱きついてくるんだよ!
アリスは覚えてないっていうんだけど、ノアは全然眠れないから、覚えてるんだよ。すっごく、柔らかいの!
あ! ずっと眠れないわけじゃなくて、いつの間にか寝ちゃうの! だから、ちゃんと眠れてるからね!
アリスって、いつもクールなんだけど、本当はもっと……なんだろ。もっと、温かい? もっと、優しい?
と、とにかくね! アリスって、すごく素敵なんだ!
…………
書こうかどうか少し迷ったけど、お母さんだから、やっぱり書くね。
ノアね。
アリスのことが、好きなの。
それでこの前、好きって言っちゃったの。
でも、それで良かったと思うんだ。だって、好きなんだもん。ずっと、好きだったんだもん。
結婚は無理でも、一緒にいたいって思えるの。結ばれなくたって、繋がっていられるならって、そう思うの。
今度、おうちに連れてくるね。
お母さん、多分、反対するだろうけど、ノア、諦めないと思う。そのくらい好きだし、ノアだって十五歳だし、大人だもん。
うん。諦めないもん。
だからね。これは、秘密なんだからっ。
あとね。
ノア、友達ができたんだ!
ルートっていうんだけど、すごく優しいんだ。
ちょっと変わってて、それがまた面白いの。でも、すごく頭良いし、運動もできちゃうんだよ!
アリスもそうだけど、ノアの周りって、すごい人ばっかり……。
二人とは、クラス別々になっちゃったんだけど、また、友達ができそうなんだ!
サクラっていう、すごく可愛い子! おばあちゃんみたいなしゃべり方なんだよ! また変だよね! でも、すごく面白いんだよ!
ふぅ……。
ノアも、みんなみたいに頑張らないと、だね。
そろそろ学校へ行かなくちゃ!
それじゃ。また、手紙書くね。
お弁当、食べてくれて嬉しいです。体に気を付けてください。今度一緒に、どこか行きたいです。何か食べたい物あれば、言ってね。
最後、かなり詰め込んじゃったね。
でも、これでもまだ伝えきれないくらいなんだ。
だから、お母さんとお話ししたいな……なんて。
忙しくなくなったらでいいんだ。
お母さんのこと、ずっと待ってるから。
それじゃ、体に気を付けてね。
ノアも、気を付けるね。
ノアより
ありがと。
大好きです。
▲▲△△
ノアへ
いつもお手紙ありがとう。なかなか会ってあげられなくてごめんなさい。
お母さんは元気です。もう少しお仕事が落ち着いて来たら、どこかへ遊びに行こうね。
海が良いかな? 山が良いかな?
どこでも好きなところに連れて行くから、考えておいてね!
あ。でも。
もしかしたら、お母さんよりもアリスさんと行きたいんじゃない?
図星でしょ!
そしたら、お母さんはお邪魔かなー?
冗談だよ。
でも、たまにはお母さんにも甘えてね。
家族なんだから。
勉強、頑張ってますか?
難しいことがあったら、すぐに先生に聞くんだよ。わからないまま放ってくと、どんどん置いていかれちゃうからね。あとで頑張ろうとすると大変だよ。
お友達、たくさんできたみたいでお母さんは安心してます。
ノアなら大丈夫だと思うけど、お友達には優しくね。そうすると、ノアも優しくしてもらえるから。勉強も、みんなでやると楽しいものだったりするよ。
あ。あと、運動もしなくちゃダメだよ。
筋トレとか無理なことはしなくていいから、毎日柔軟体操くらいはしなさいね。そうすれば怪我も減るし、いざって言う時に体が動かないなんて困っちゃうわよ?
でも、本当によかったです。
ああ。文字を大きく書きすぎちゃったみたい。
書いてる途中にお茶を零しちゃって、ちょっと滲んでるけど気にしないで。
お手紙ありがとう。嬉しいです。
それじゃあ、また返信するね。
お母さんより。
お母さんも、ノアのことが大好きよ。
生まれてきてくれて、ありがとう。




