Ⅷ Farewell and Becoming
【まえがき】
"別れとは、出会いを成立させるただ一つの方法である。"
意図しても意図せずとも、等しく。
アリス編、今章、まとめです。
重く冷たかった雪の名残が、まだ、少しだけ感じられそうです。
最後です、どうぞ。
「おはよう。アリス。朝だよ」
「おはよう。ノア」
ここ最近、朝、あたしの目を覚ますのは、小鳥の囀りでも陽の光でもない。
包み込むような優しい声と、決まって左手の甲へしてくれるキス。それから、何てことはない、いつも通りの時間感覚であった。
寝相が悪いと言われたことは無かったが、ノアがあたしより早く起きて布団から出てしまうので、起床時はよく布団がずれている。ノアが寝ていた方の布団をかき集めて、それを抱き枕にしていることが多かった。
そんなあたしを見て嬉しそうにキスしてくるものだから、恥ずかしくてならなかった。
早起きしよう早起きしようと意識はしているのだが、ノアに勝てたことは無い。いつも、キスで目が覚めるのだ。まるで、どこぞのお姫様みたいで、また恥ずかしい。
「アリス、いつも左側が、癖になるね」
「そうね。旋毛が左にあるからかしら。ま、ともかく、顔を洗ってくるわ」
「ノアも行く」
あたしは上半身を起こして、一つ伸びをした。
天井は白っぽく、冗談かというくらい愚直だった。
部屋のカーテンの隙間から覗く光は乾いていて鋭く、目を細めないと直視できなかった。其の奥に、冬の寒気を断絶する透明な壁があって、そこにはあたしとノアが密着している残像が浮かんでいた。
特別変な顔が映ってしまわないように、あたしはそそくさと部屋を後にする。
その後を、ノアがとことことついてくる。手を繋ぎたそうにしていたけど、あたしはノアの腕をとった。
根拠は無いが、家の中の短い距離なら、手繋ぎで移動するよりも腕を組んだ方が良い気がしたのだ。ずっと狭いと思っていた二人だけの世界は、そうやって広げることができそうだったから。
洗面所へは、わずか一分ほどで到着する。
ノアも一緒について来はしたが、朝の支度などとっくに済ませているはずだろう。自然、あたしが顔を洗ったり寝癖を直したりするのを、傍で見ているだけになる。
以前も時々そんなことがあったけれど、別段気にしたことは無かった。
でも、今は違う。
鏡にノアが映ると、キスしたくなった。
ノアはそれを知って、ついてきてくれる。
だから、あたしも前を向けた。前を向かなければならなかった。
そうだ。
義務ではなくて、きっと、これは本能。
「ノア」
「うん?」
「こっちに来て。髪を結んであげる」
「うん」
隣に居てくれる安心感と隣に居なければいけない強迫観念はすべて、自分の心が作り出した不可欠な成分。独り占めにしたい支配欲が拍車をかけて、ノア越しに映るあたしの表情は、いつかのノアの瞳を思わせる。
恋愛の「恋」の字も知る必要が無いと思っていたから、そのあまりの説得力の無さに、内心で自信が消失する。でも、またすぐに「愛」へと続く不思議はない。消滅することを知らないそれは、二人の間で共有されて無限に増えていく。
自分という存在が――アリス・ナイブスという存在が、希薄になっていく感覚に陥る。
では、それは一体誰のせいか。
対称的に増加していくのは、ノア・グリニッチという存在。その中には、確かにあたしがいて、そのあたしの中にもまた、ノアがいる。
だから、お互いの願いに、方向性などありはしない。
ただ一つ、目的があるだけで。
「ノアは、髪伸ばしたりしないわよね。どうして?」
「昔、アリスに、こっちの方が良いって、言われたから……」
「それでずっとショートだったのね」
確かに、昔そんなことを話した覚えがある。
目が隠れると暗い印象を受けるからと、アドバイスしたのだったか。あの部屋で。
潜めて恋を感じてしまうのは、多分、鏡の向こう側が別世界だからだ。
「それじゃあ、伸ばしてって言ったら伸ばしてくれる?」
「うん」
その別世界ではきっと、あの暗かった昔のノアともキスをしてしまうだろう。
そうやって一冬を乗り越えるくらいは、できるはずだ。
「ノアはどうしたい?」
「アリスのして欲しいように、したいな」
「じゃあ、そのままにしましょう。伸ばしたら可愛すぎるもの」
「うん。えっ?」
「二人で暮らすようになったら、お願いするわね」
「……ん、うんっ」
方向なんてありはしない。
目的がそこにあるだけで。
「…………」
「…………」
だとすれば、キスするしかなかった。お互いの傷を舐め合うように、優しくて苦いキスを。
あたしたちの目を覚ましたのは、命の鼓動、それから愛の息吹。
「アリス……。痛く、ない……?」
「ええ。心配してくれてありがと。でも、もう大丈夫よ」
「痕に、なっちゃったの……」
「気にしないで。こんなでも、ノアはあたしのことを愛してくれるんだもの。これ以上は望まないわ。それに、今は、かえって感謝してるの。こうやって、ノアが毎日キスしてくれるから」
「する……。するよっ。何回だってするっ!」
黒服に突き飛ばされた時、あたしは頬骨のところを思い切りぶつけてしまったのだ。大量に出血していたが痛くは無かったので、その時はあまり頓着しなかった。
後になって、パパが呼んだ医者に処置を受けたのだけど、縫合するからということで、痕になるのは確定になったのだった。パパとママは大いにショックを受けていたようだけど、あたしは特に、感嘆もしなかった。
顔に針を入れられる恐怖はあったけれど、そんなものは、ノアがいなくなってしまう恐怖とは比較にならなかったのだ。手術中も、ノアが手を握ってくれていたから、頑張れた。
天罰でも、因果でも、運命でも、名前などどうでもいい。
この傷は、あたしにとって記念品みたいなもの。
糸、だった。
×××
二人とも同じ場所へ行くと言うのに、あたしたちはまた、行ってらっしゃいのキスをして、それから学校へと向かった。勿論、手を繋いで歩いた。
途中にあるノアの家へ寄ると、どきっとすることがあったけれど、きっとそれは、婚約者が義理の両親に顔を合わせる時のそれだ。
あれ以来、レノがノアの手紙に返事をくれるようになった。
初めに返信をくれた時の内容は、家賃だとか生活費だとかについてで、実に事務的だったけれど、回を重ねるとそれは次第に砕けていった。
字は汚いし文章は拙いしで泣けるけれど、ノアは嬉しそうに笑っていたから、あたしも嬉しくなった。あたしのことについて書かれていることがたまにあるのだけど、それは少しばかりむず痒かった。
やっぱり、親なのだとあたしは勝手に思った。
「そろそろ出ましょうか」
「うん。そうする」
最後に、ノアとあたしの思い出の場所を軽く掃除した。
もう、布団も家具も、何も残っていない。
でも、ノアとの思い出はあたしの胸の中にちゃんとある。
この場所がまた、誰かの思い出を作ってくれることを切に願って、あたしたちは部屋を後にした。
レノの事情でこの部屋の賃貸契約は終了となるけれど、無くなるわけではない。無くなるわけではないけれど、ここへ来ることがなくなると思うと寂しくはあった。
しかし、これでノアの住所は、住み込みメイドとして正式にナイブス家となったのだ。
今はそれを喜ぼう。
「ねぇノア?」
「なに?」
「今、幸せ?」
金属製の階段を下りながら、あたしはノアに問う。
ぎしぎしと家全体が軋む耳障りな音の合間に、ノアの声が涼風のように鳴った。
「うん。幸せ」
「そう。良かったわ。それならあたしも幸せだわ」
少なくとも、現世が平和であるとあたしは確認したかっただけだった。
びゅうっと風が強く吹くタイミングがあった。
あたしはその中に、また、戦火の声を聞いた。
尊さと愛おしさの隣にある狂気もまた、人間の本能の一部であった。
ノアの家族を巡る今回の騒動で、あたしは新しい視点を得たのだと思う。
ノアの父は、ノアの素直な証言もあって、無期懲役に刑を留めることとなった。ノアはあたしの思っていたより事情を知っていなかったけれど、もっと別に、たくさんのことを知っていた。
ノアの父は、ノアに会いたいと言っていたけれど、後でノアは会わないと言った。
瞳を染めたのは怒りでも恐れでもなくて、愛なのだとわかった。
今は、それだけで十分だったのだけど。
「あ。アリスたち来た」
「おっそーい。中で絶対キスしてたでしょー」
「いや、もっとすごいことしとるかもしれんぞ?」
意地悪だった神様が詫びているかのように、こんな贅沢も許された。
いや、さすがにそれは、神様の責務が大きすぎるか。
ただ、目的地の近い人間同士が集まって手を取り合う、それだけのことなのだから。
「待たせたわね」
「あれ? なんで、サクラ、いるの?」
「昨日、るーとの家に泊まりに行ったんじゃ」
そうやって誰かと繋がりを持つことが、つまり、世界を共有することになる。一人一人の願いの目的が作り上げた世界を、見たり聞いたり、知ったりできるようになる。そうやって、友達になる。恋人になる。
それは決して目的の先にあるものではなく、共有した世界を広げていって辿り着き、含むもの。義務などではなくて、ごくごく自然な行為と厚意。
誇るなら、あたしのそれは好意であったということ。
「アリスお姉ちゃん、体の調子は大丈夫?」
学校へ赴く足でリズが聞いてくる。
歩幅はそれほど広くない。
「別に、大丈夫よ。あなたにも迷惑をかけたわね。ごめ――」
「あっ、謝んないでっ」
「…………」
そうか。
世界を共有する時間が長くて思慮しなかったけれど、リズはまだミドルの生徒なのだ。
あたしたちとはそろそろ分岐路だった。
でも、それは帰りにはまた繋がる道だ。大きな視野をもってみれば、それもまた前へと進む一直線の道ではないか。急ぐことは無い。
「その代わり、今度、私とデートして欲しいな」
「はいはい。いいわよ」
それじゃあねと丁字路を曲がって、リズはリズの道を歩いていった。
彼女が離れてゆくごとに、世界を繋ぐ糸のようなものが色濃く見えた気がした。
とても、素敵な事だ。
目的地の近い人と、こうやって歩くと、あたしたちの周りに薄いベールができていく感じがする。その中はとても温かくて、雪も冷たくない。心が寒くなる夜も、全員で乗り越えられそうな、そんな感じが。
「ルート」
「ん、なに?」
「はい、これ。昨日借りたノート返すわ」
鞄からルートのノートを取り出して渡すと、あたしの横からノアが言い添えた。
「ルート、ありがと……」
「あ、うん。どういたしまして。学年末だから結構な量あったと思うんだけど、さすが早いね。テストの方も大丈夫そう?」
「ええ。問題ないわ。学年末テストって、今までの総集編みたいな問題がでるらしいから、逆に楽だわ。休んでいてできなかったところは、今、ノアに教えている段階だけど、テストまでには何とかなると思う」
「アリス、教えるの上手、だから……」
基礎が不安定なノアにものを教えるのは簡単なことではないのだけれど、それはそれで楽しかった。ノアの奇才的発想を、いかに噛み砕いて公式に落とし込めるかが、一つのポイントだったりして、そこからあたしが学ぶことは少なくない。
他の人には感じられないであろう、あたしだけの世界だった。
「ほぉぁぁぁ。ようやるのう。すっかり、毎日毎日ちゅっちゅべたべたしまくって、頭ぽかぽか白紙状態かと期待したのに。全くつまらん女じゃ」
「悪かったわね。あなたと違って出来が良くて」
「な、なんじゃと、このぉ! 舐め回すぞ!」
「そ、それはっ、ノアがやる……のっ」
「そんなことさせんのじゃ! のう? るーと」
「ぼ、僕っ!? む、無理だよ。いや、無理って、汚いとかってことじゃないよっ? そうじゃないけど……ダ、ダメダメっ。ダメだよっ! アリスのことを、そんな……っ」
「変態なのかしら。この人たち」
三人に全身をくまなく舐め回されるなど、考えただけでも鳥肌が立つ。
こんな朝方から本当にやめて欲しい。
「相変わらず毒舌じゃのう」
「誰のせいよ」
でも、サクラにも思うところがあるらしかった。
それもそのはず、長期欠席していたクラスメイトが帰って来たと思ったら顔に傷があったなんて、動揺ものにも程がある。しかも、サクラに関しては「顔に傷が出来たら責任をとる」とまで言っていた相手だった。実際、そのサクラの顔に傷は無いけれど、あの平手の因果応報なのだと気負ったりしないとも限らない。
そういうところで情が深い子だから、最近は、あまり怒らないように努めていた。その成果もあって、サクラの方も、あたしに執拗に迫ってくることはかなり少なくなった。
だからだろうか。
この頃、何となく、サクラの影が薄い。
良い相手を探してあげようかと思ったりは、しなくもない。
「外、寒いわ。さっさと学校に行きましょ」
「うん。行く!」
「くぅ……っ。堂々と手なんか繋ぎおって。ずるいのう。わしもしたいのう……」
「あはは……。そんなに僕のこと睨まなくても。サクラって、時々奥ゆかしいよね。はい、どうぞ。僕で良かったら。学校着くまでね」
こうして出来上がった珍妙な行列は、同じところへ向かって小さな世界を広げてゆく。
ルートはくしゃくしゃに丸めた新聞紙を広げるように。サクラは雪道を縦横無尽に走って掻き分けるように。ノアはお湯を沸かす方法を考えるように。あたしはその誰かの気持ちを共有するように。
目的があって、手段があって。その先には願いがあって。
そして、『願い』は手段であって目的ではない。ならば、逆もまた然り。
願いがあって、手段があって、その先には目的があって。
目的のあるものは、願いをもってして生まれたのだと言っても過言ではないのだ。あるいは『願い』をか。
例えば、学校もそう。
カシミーヤ校が学び舎として欲されるのなら、誰かが学び舎を欲したがために、カシミーヤ校はそこにあるのかもしれないということ。手段としての『願い』に応じて、その目的は達成されるに至ったのかもしれないということ。
演繹すれば、国だってそう。世界だってそう。あたしたちだってそう。
あたしの頬にできた傷のように、大地もまた、大地が大地として欲される時にできた『願い』の証なのかもしれない。誰かが、そうあるように願ったから、大地もまた大地なのだと。
振り返れば、この物語には幾つかのルールがあった。
『願い』はただ一つ、それがすべてで、決して無視されず、思った本人にしかわからない。作り上げられた世界を共有できても、作り上げられた手段を共有することなど出来はしない。
すべてが、それを如実に謳っているではないか。
だからきっと、『願いの呪い』なのだろう。
だとするならば、収束していないサクラやルートの『願い』をどう見守っていくかは、とても重要なことになる。友達としても、人としても、勿論、『願いの呪い』を終わらせた者の一人としても。
サクラの『願い』の先にある目的はなんであるのか。
ルートの『願い』の先にある目的は、あたしたちのそれと近いものなのか。
少なくとも、誰かの目的が手段を生むならば、『願い』が世界から無くなることはない。
でも、それでいい。
そうして世界にはきっと、何も残らない。
あの花畑を舞う紋白蝶の夢がまた、世界を作ってくれるのだから。
【あとがき】
お疲れさまでした。今章終了です。
今までとは少し違った視点のルーモス、どうでしたでしょうか。
何かが悪い何かが良いと言うことだけでは語り尽くせない世界、正解の無い世界。裏を返せば、人が悩む為にこそ世界は存在して、苦悩を望む何かがそこにある……。得体の知れない空気は、いつだって確率的に存在しているのです。
じゃあ、それは一体何なのか。
それを解くことができるのは、何かに苦悩する人間だけ。
面白い世界だと、私は首を傾げながら笑うものです。
さて、気付けば三年間も続いてきたルートモストマック。
略してルーモス(流行らない)。
次回、次回、と一人で盛り上がっていた物語でしたが……。
――次章、最終章!
です。
ついに、ここまで来てしまったのだなと、少し寂しくはあります。
しかし、始まってしまったのですから、終わりだってあるのです。
この、【あとがき】をどう深読みするか。
ここまで読んでくださった方であれば、にやりと来るものがあるのではないでしょうか。
そうです。
私もにやりとしております。
それでは。
私もそろそろ眠くなってきたので、寝ます。
今、大体三時ごろ。
次回、お楽しみに……!!




