Ⅵ Don't be Afraid
【まえがき】
"学んだ恐怖は、失われぬ知恵となる。"
それが失われた瞬間に、きっと目に見える世界は形を留められなくなる。
もう、見逃せる部分もなくなってきました。
今章、重いです。
どうぞ。
家出?日目。
朝。
二人して汗臭くなった体も、もう、洗っている暇がなかった。
今朝、外が騒がしいので目が覚めて、その後すぐ、嫌な予感は予感ではなくなった。
キッチン横の換気扇のファンの隙間から外を覗くと、黒い服を身に纏った者達が公園に十数人いたのだ。缶蹴りでもしているのならよかったところだけれど、狙いは十中八九、あたしたちの城だ。
でも、この間とは確かに様子が違うことがある。
周囲を捜索しているという動きはあまりなく、どちらかというと、先遣隊をこちらへ派遣して偵察しているようにも受け取れる。決してランダムに行動するのではなく、ある程度の計画性があると言えばよいだろうか。
そして、もう一つ。
数の少なさだ。
おそらく、ターゲット像をかなりの精度で絞ることができたための対応だろう。ドアを一つ一つ打ち破ってしまわないあたり、公安の無駄な慎重さが垣間見える。それで今回は、水面下の我慢大会を申し込んできたと言うわけか。
正直、争い事は真っ平御免だ。
でも、あたしたちの愛を邪魔されたくはない。
「アリス、どうするの……?」
すっかり長い口づけを覚えたノアは、あたしを意識してか、胸元を掛け布団で密かに隠して若干の距離をとる。ノアに対して”女性らしい”と思ったことが無かったから、不思議な気持ちだ。ただ、汗など生理現象なのだから気にしたりしないのにと、少し残念でもあった。
主導権を握るあたしは、あまり汗をかいていない。
「そうね。策はあるわ。でも、少し考えさせて」
あたしもノアも不幸にならずに済んで、尚且つ、誰も咎められない逃げ道を探した。
一番初めに浮かんだのは、『願いの夢』の力を使うことだった。
一番初めに却下されたのも、それだった。
なんてことはない。
サクラがここへ来ないのだから、あたしがたった今選択することに、不正解は存在しない。
あたしが傷つこうが死のうが、ノアには指一本触れさせない。そしてあたしは、絶対にノアの傍を離れない。
そういう想いだけ、持っていればいい。
「アリス……」
「なに? どうしたの?」
「ぎゅ……ってしたい」
「ええ。いいわよ。少し汗臭いけど」
高揚したままの心臓が、小さな胸を透過してダイレクトにあたしの脳を鳴らす。特別、緊張もしないけれど、今はもう安堵もしない。欲望と期待とが心を乱して、静かにあたしの全身を巡る。
ノアは、あたしの恋人だ。
全部、知っている。
だから、もう、知らなくてもいい。
これからは、あたしがノアの過去を作る。
いや、二人で未来を創ろう。
「ノアって、温かいわ」
「アリスも、温かい」
「一緒ね」
「うんっ」
同情は愛情を築いて、あたしはそこに運命を見出した。
運命は心と心に橋を架けて、その間に険しい河を流すのだ。
ノアがいると知ったら、あたしは勇んでその橋を渡る。
「あたし、謝ろうと思うの」
「謝る、の?」
「ええ。それで、あたしの気持ちを全部伝えるわ。きっと、なあなあにしてきたから良くなかったの。だから、言うわ。パパに」
「アリス……」
もしそれで、ノアが迫害されるようなら、その時こそ、あたしの目的地は決まると思う。
ノアがそれで不幸になるようなことは、絶対にありえない。
「あたしね、実は、ノアの気持ちがよくわからなかったの。あたしを好きなのはわかっていたけれど、求める意味はイマイチ理解できなかった。キスという行為がもたらすものが、あたしに責任を感じさせていたの」
失ったら、それは悲しいだろうけれど、きっとキスに執着はしないだろうと思った。ノアの妄想に付き合えなくなる寂しさはあるだろうけど、冬の寒さに泣くことになるとはあり得ないと思っていた。
けれど、違った。
「ノアがあたしの前からいなくなって、気付いたわ。誰かが隣に居てくれること、その誰かが好きな人だったら、どんなに幸せだろうって」
ノアの母がそうであったように。ルートの母がそうであったように。
だからわかる。
「だから、謝るわ」
あたしのパパも、きっとママも、同じことを覚えているはずだ。どうしてそんなに努力するのかって、どうしてそんなに厳しいのかって、伝えることってものすごく恥ずかしいではないか。
ノアと裸になって触れ合っても、まだ、恥ずかしいことがある。
簡単ではないはずだ。
でも、それでこそ一層、あたしたちは強く繋がれる。
「あたしは、今、幸せだもの」
「ノアも、幸せだよ……」
その瞬間、ぽうっと、蝋燭の火が消えて、部屋がわずかに仄暗くなる。
それこそ、誰かが恥ずかしくて吹き消したのではないだろうか。
「消えちゃったね……」
「そうね。でも、ノアがいるの、わかるわ」
「ノアも、アリスいるの、わかる」
「そう。良かった……。ノア、立てる?」
「うん。大丈夫」
「手、貸すわね」
「ありがと」
あたしたちは、温まった布団の上で起立した。
あたしもノアも、行く末は見据えている。
不安は残るが、それを免れるための策であり、立ち向かうための愛でもあった。
「手を繋いで行きましょうか」
「うん」
その扉の先に光がある確証は無かった。
早朝だと言うのは建前で、未来を切り開くには力不足だということも知ったからである。
ただ、それを知っての選択であるのだから、決して自棄にはならない。
少なくとも、あたしとノアはここに生きていたのだと、とことん意地悪な神様にでも、見せつけてやることはできるのだから。
覚悟と決意の念を込めて、あたしはノアの家の扉を開く。
そして世界は繋がった。
次の瞬間の出来事。
一瞬、また宵闇が帰って来たのかと錯覚したが、現実は素直にあたしを襲った。
あたしは漆黒の紫電に腕を拉がれて、そのまま玄関床に叩きつけられた。構えが甘かったために、その反動で敷居に頬を強打した。ナイフで指を切った時よりも熱く、頬がじんじんと痛んだ。
父の差し金だからと、油断してしまった。
大量の血液が頬を伝うのがわかる。
「確保っ!!」
それは当然のことなのかもしれない。
重要参考人を匿う意味とは、社会の末端に位置するあたしにしてみれば恋人と愛を育むことと同義だった。でも、きっと、家族を亡くした者からすれば、床にできた血溜まりの淀むことなど、些事な儀式に過ぎない。
それと同じで、ノアとあたしが引き剥がされることなど――
「嫌っ! 離してっ!! ノアっ! ノアーッ!!」
同じなはずはなかった。
ルートがあたしとリズを選択したように、あたしもまたノアを選ぶのだ。選びたいのだ。
失われたことを忘れれば良いと言いたいのではない。
まだ、失っていないのだ。
まだ、この世界は終わっていないのだ。
涙するのは、一度戦って知ってからでも、遅くは無いと訴えたかった。幸福を見出すことだって、不可能ではないのだと伝えたかった。
だから、それを呈するために、あたしは全力で抵抗した。
恰好は一切気にしなかった。
とにかく、あたしの上に圧し掛かるそれを、どかそうと努めた。
除けられないのだとはわかっていたけれど、信じていたから絶対に諦めなかった。ノアが視界に映らないのが不安だったけれど、声が聞こえたから必死で踠いた。助けを呼ぶのではなくて、立ち向かおうと叫び続けた。疲れなんて、全く感じなかった。
その時だった。
ふわりと、背中の錘が軽くなる印象。
あたしはその隙をついて、もう一段踏ん張って、黒い錘を跳ね飛ばした。
「はぁ……はぁ……。ノアっ、ノアっ! どこにいるの!!」
キョロキョロと周囲を見渡すと、すぐ、あたしの目の前に忽然と、真っ白なそれはいた。
フリルドレスとエプロンを着用していて、髪は綺麗に纏められた黒。あなたに付き従うという意味合いを持った薔薇蕾のブローチを拵えた、頗る規律正しい装い。ある一定の場所でなら理解はあるが、こんな辺鄙なところに居ると、甚だ場違い。
それは、紛れもなくメイドだった。
「ご無事で――」
「あんた……! 一体、何、やってるのよ!」
「そう言われましても……」
あたしの錘を取り除いたのは、どうやら、このメイドらしかった。
いや、今はそんなことはどうでもいい。むしろ、その冷静さに腹が立つ。
あたしは見覚えのあるそいつに、食って掛かった。
「ノアはっ!? ノアはどこよ!?」
「ああ。ノア様でしたら……」
「アリスぅ……」
メイドが一歩後退さると、その影から、ノアが出て来た。
「ノアっ。良かった……」
怪我は無いらしかったけれど、そうだった。あたしが怪我をしていたのだ。
ノアが見逃すはずもない。
「ア、アア、アリス……っ!? 血が、血がぁ……! 血が出てるよ……っ!? ああああ、どどど、どうしよう……っ。ノアは、どうしたら……! ノアのせいで、こんな……!」
「ふふふっ。絶対そう言うと思ったわ。でも、心配しないで大丈夫よ。その代り、あとで、キス……して、ね?」
「……うんっ!」
おたおたと泡を食っていたノアも、すぐに察してくれたようだったので、助かる。
今は、とりあえず、事情を飲み込むのが先決だろう。
「ねぇ。あんたはどうしてここに来た訳? 黒服の仲間じゃないの?」
「申し訳ありませんが、詳しく説明している時間はありません」
メイドが何やら手旗で合図すると、新たな五人のメイドが参上して、玄関前通路は狭くなる。
メイドの視線がすべて一カ所に集まっていると思って、それを辿ってみると、そこには黒服が集合していた。メイドとは対照的な黒の塊で、サングラスで隠れていはいるものの、そちらの視線もすべてこちらへ向いていた。
「いいですか。アリスお嬢様。私が合図致しましたら、走ってナイブス邸に向かってください。現状、あのお屋敷が一番安心です」
「なんとも分かりやすい罠ね」
「アリスお嬢様。お願いです。信じてください……」
状況はわからないが、メイドが味方であるのならば、光はあった。
ならば、信じよう。
「わかったわ。あなたを信じる」
メイドは少し嬉しそうに笑った後、すぐ、恥ずかしそうに口角を下げた。
可愛らしい顔をしているかと思えば、あたしが一度家に戻った時、玄関の扉を開けてくれた子だ。もしかしたら、格闘技でもやっているのだろうか。こんな力があるなんて驚きだ。
なるほど。
最近、また少しメイドが増やされたわけは、要するに戦闘用だったということか。メイドに戦闘をさせるとは、一体、どこの国の習わしだ。
何かが、どこかで繋がった音がした。
「ご理解いただけて何よりです。それでは、頃合いを見て合図をお出します。合図は手旗し――っ!? ア、アリスお嬢様!?」
「あたしが撫で終わったら、でいいでしょう?」
「は、はい……」
今まで、あたしがなあなあにしてきた部分。
それは、メイドたちとの付き合い方にもあったと思うのだ。
確かに、家族ではないけれど、家族の一員に数えることもできる。厨房を覗き込んで、昔のように料理を教えてもらったりできる。
あたしはずっと、そうしたかった。
「そ、それでは、あの……。ナイブス邸まではですね……っ。そちらのメイド長が、お二人をお守り致します。なので、全力で走ってください。ここは、私たちが引き受けます」
「四人でも平気な確証があるのね」
「はい」
「そう。信じるわ。ノアは大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「それじゃあ、行くわね……」
「はい。いつでも」
雪は降っていなかった。
それなのにどうしてか、しんと、積もる音が響くのだ。余りの静寂さに誘引されたその音は、公園とこことを往復して、対立するコントラストの中で遊んでいるように鳴っていた。遊んでいれば寒さもわからないだろうと、いつしかの記憶が戯れて、冬であるのに寒くなかった。朝であるのに、暗くなかった。
朝日の示す光を辿れば、きっと、今回のゴールに辿り着く。
例え雪に乱反射しても、あたしがそれを見失うことは決して無い。
そう心に決めて、あたしはそっと、メイドの髪を撫でた。
そして、次の一瞬。
あたしはノアの手を取って、雷のように駆けた。
追うように黒い塊がこちらへやってくるのがわかる。
四人のメイドが二階から飛び降りて、そこへ応戦する形となった。
金属がぶつかる音、布が裂ける音、皮膚が張る音、そのすべてが静寂という無音の世界に否が応でも入り込んできた。
あたしはそれから、後ろを振り返らなかった。
ノアは、あたしの横を走っていた。
「はぁ、はぁ……。はぁ……」
でも、運動が苦手なのも、知っていた。
メイドたちがそれを知っているかどうかは知らないけれど、あたしは知っているのだ。
置いていけるわけはない。
「頑張って、ノア!」
ノアの背中を叩いて鼓舞するけれど、それで足が速くなるわけも無い。
火事場の馬鹿力とはいうけれど、この状況だ。ノアの中で危険信号はすでに出ているはずだろうから、これ以上は見込めない。
あの黒い対抗馬は、確実にあたしたちよりも捷い。
いくら四人で抑えているからと言って、多勢に無勢だ。時間の問題になる。
このままでは……。
「私が抱っこして走ります」
少し後方を走っていたメイド長が、あたしに並走してそう言ってきた。
深いことなど考えず、あたしは了承した。
メイド長はノアと進行スピードを合わせて、そのままノアを抱き抱えるように持った。
なかなか快調だった。
ノアの体重は三十四キロと軽量であるが、それ以上に、メイド長と相性が良いからだろう。ノアの方も、できるだけ負担にならないようにと、体を縮めてぐっと芯に近づいていた。
こちらの走りの重心が安定したようになって、ぐんと一段二段スピードが上がった。
「悪いわね! お願いするわ!」
「お安い御用です」
メイド長の言葉には一定の安心感がある。
メイドの中では一番長い付き合いでもあるわけだし、パパに肩入れし過ぎないなど、信頼がおけた。料理は上手だし、勉強も教えてくれるし、何より人が良かった。
それなのに、あたしは名前も知らなかった。
メイドは外部の者だと言う想いが強かったからだ。
でも、もうそれは、違う。
「あなた、名前はなんて言うの? こんなタイミングになってごめんなさい」
「いえ。どうかお気になさらず。名乗るほどの者でも、ございませんから」
「あたしは聞きた――っ!?」
トンネルに差し掛かった時だった。
気圧の変化のせいだろうか、大きな空気の壁にぶつかったような感覚になった。
その反動で、メイド長のブリムが飛んだ。
「えっ……?」
今まで、メイド長の顔をまじまじと見たことが無かった。いつも目を瞑っているし、時折、眼帯などをして特徴的だった覚えはあるものの、メイド長であるが故と頓着し得ない。それだから、ノアと見比べる機会などあるはずも無い。それを知らないことが、気がかりにもならない。
でも、今、確かに、影を見た。
似ていたのだ。
いや、同じだった。
あたしに、生きるということの難しさを教えてくれたあの人と。
あの、レノと。
「あなた、まさか……!」
耳が巻風を作っていてはっきりと聞こえなかったけれど、メイド長は確かにそう言った。
「リノ、と申します」
目的地へと辿り着く頃、ノアはリノの胸の中で、眠ってしまっていた。
きっと、疲れていたのだろう。
つい嬉しくて、ノアの髪を撫でながら、「ごめんね」と少しだけ泣いてしまった。
【あとがき】
目まぐるしく展開が変わっていく感じ、書いていて忙しいです。
きっと、読む方も目が回ることでしょう。
ですが、見逃せない動きがたくさんあるので、立ち止まってスローにしてみるのも悪くないと思います。それが文の良さであり、悪きところでもありますから。
次回は、騒動の原点へ……。




