Ⅴ Discarding is Selecting
【まえがき】
"拾うこととは、捨てることである。"
言葉にするようなことではなかったとしても、事実。
前話、前々話との繋がりが強い話ですので、覚えていないと言う方は、是非一度戻って確認していただけると嬉しいです。
きっと、彼女たちの息遣いまで見えてくると思います。
どうぞ。
『ありがとう。アリスさん……。あの子のこと、お願いします』
「お願いしますって、何よ……っ!」
あたしは部屋を飛び出して、ノアの元へと急いだ。
今何時かもわからない。ここがどこかも、知らない。自分が、何者かも忘れた。でも、もうどうでもいい。
あたしはノアを覚えていて、ノアはあたしを覚えていてくれる。
それだけでいいと思った。
『私なんて、傍にいることもできないダメ親だから』
「そうやって想っているんだから、何もダメな事なんて、ないじゃない……!」
あたしがあたしを捨てても、あたしの中にノアは居て。ノアがあたしを忘れても、あたしはノアを覚えている。
そんなことは、とっくに知っていたのに。
あたしは一体、こんなところで何をしているのだろう。
『親、失格だから……。ただの、裏切り者、だから……』
「勝手な事ばかり言って……。本当、迷惑よ……っ」
それでもきっと、今まで伝えてきたこと、伝わってきたことが無駄になることはない。
あたしがさせない。
どれだけ格好悪くても、どれだけ苦痛であっても、そういう選択をすることはできる。
だから、走る。
走る。いや、奔るのだ。
ノアの待つ場所へ向かって、只管に。
『親、じゃないし……』
「親じゃなかったら、諦めていいのっ!? いいわけ、ないでしょう……!?」
二人の関係がどうであるとか、呼び名などどうでもいい。
その間を繋ぐ糸があれば、弛もうが切れてしまおうが、あたしはまた手繰り寄せるだけ。
その糸が、固く結ばれるまで。
『あの子。私のために毎日毎日お弁当作ってくれるの。手紙まで添えて。それがね、すごく美味しいの……。バカだよ……そんなの、泣いちゃってしょっぱくなるに決まってるじゃん……!』
「当然じゃない……っ。あなたの、娘でしょうがっ!」
あたしは奈落へ垂れ下がった糸を引いて、どんどんと手に巻いていく。無限の闇から掬うそれは、とても細く儚くて、でも、束になると痛かった。そうやって、指の骨がはち切れそうになるのも、あたしは厭わない。
いや。むしろ、もう、あたしはその奈落へ飛び降りてしまいたい。
飛び降りたその先が、永遠の闇でもいい。
あなたがいない世界より暗い世界なんて、この世に一つも存在しないのだから。
『ありがとうって、ずっと思ってたよ……。でも、もう、会えないから……。会っちゃいけないから……』
「その言葉で気付いたわ……。あたし、言ってることとやってることが滅茶苦茶だった」
せっかく確かなことを見つけたのに、あたしはあたしたちの関係ばかりが気がかりで、出鱈目な行動をしていた。その手触りを手に入れるために、必要のない遠回りをしていた。他人に迷惑までかけて得るものなど、風に靉靆く叢のようなものだった。
でも、それがあったからこそ、あたしはこうして歩く。
音を奏でて走る。
そうして世界はどこかへ転ぶ。
当たり前だったものが失われてゆく恐怖に、立ち向かえる。
『でもあなたが、アリスさんがいてくれるから、安心した。これでもう、あの子は大丈夫』
「勝手に罪を背負った気になって……。馬鹿みたいね……」
だけど、その気持ちも理解できる。
あたしも、同じ経験をしたから。
あたしとパパの関係と、ノアとレノの関係、レノとレノの姉の関係、あたしとノアの関係は、何かしら同じ糸で繋がっているからだと思う。ここへ混ぜるべきではないだろうけど、”彼”も、きっとそうだ。
義務と希望とを天秤にかけて、その秤が壊れてしまったのだ。
『じゃあ、さっさと行きなよ。ここは、アリスさんみたいな人が来るところじゃない。あなたの居場所は、ここじゃないでしょ。だから、行きなよ』
「わかってるわよ!」
でも、秤は直すことができる。
右と左、同じだけの気持ちを乗せて、もう一度目盛りを振り直せばいい。
それができるのは、今、あたしとノアだけだ。
『行って。……お願いっ!』
「ノア、待っていて。すぐ、行くから……っ」
レノの話によれば、レノはノアの本当の母親の妹であり、本当の母親の記憶はノアの中から一切消されているということ。気付けば、ノアの前にレノがいたことになっているという筋書きで。
記憶の消去を行ったのは、ノアの本当の母親で、その手段が思案の外、『願いの夢』だったのだ。悪い印象を持っていたレノは『願いの呪い』と呼んでいたけれど、都市伝説云々の話を添えていたので、同じものを指していそうだ。
ただ一つ、【『願い』の目的が達成されると、『願い』はその効力を失う】というルールの違いを除いては。
『願いの夢』に関する新しいデータが垣間見えたのは、今はとりあえず置いておく。
ノアの記憶から消されたものが、『ノアにとっての悪い記憶』であったのならば、それはおそらく、関連する事象も含まれる。
例えば、傷とか。
ノアの父親――彼は、ノアや母親に暴力を働くような男で、ノアの供述が正しければ、あの二十人殺害事件の主犯だ。それをノアが記憶していれば、あるいは、思い出すような要素があれば、ノアの母親のした『願い』の力によって封殺されている可能性が非常に高い。
ともすれば、ノアの母親の『願い』の目的が達成されたであろう今、ノアの心身に何か影響があってもおかしくはないのだ。
裏付けるように、ここ長らくノアの心はあたしに伝播しなかった。
それは、ノアの抱いた『アリス・ナイブスに自分のすべてを知って欲しい』という『願い』の目的が叶っていたからなのではないか。
同じように、ノアから消された記憶の痕が、掘り起こされているかもしれない。
そう思うと、居てもたっても居られない。
多分、今のあたしを止められる人はいない。
公安だろうが、黒服集団だろうが、勿論ルートだろうが、立ちはだかる者はすべて蹴散らす。
急がなくてはならない。
一分でも早く、一秒でも早く、ノアの元へ辿りつかなければならない。
「はぁ、はぁ……!」
これは、もはや義務ではない。
義務よりも重い、愛だと知った。
「なんで、もっと早く走れないのよ……っ」
もっと、ノアを知りたい。ノアのすべてを知りたい。ノアのことを知らなければならない。これから二度と教えてもらえないのなら、あたしが探る。
「ノアっ」
見て、聞いて、触れて、感じて。
見せて、聞かせて、触れ合って、笑って。
そんな日常を供給するために、あたしはノアの傍にいる。
「ノアっ! ノアっ!!」
戦うために、あたしはノアの傍にいるのではない。
ノアを幸せにするために、居る。
ずっと、居る。
「ノアーッ!!!!」
正直、ドアなど蹴破ってしまおうとも思っていたのに、開いた。
鍵が開けっぱなしだったから、誰かが忍び込んだのではと焦ったけれど、開けたのはノアだった。玄関口のすぐ前に立っていて、今ちょうど鍵を開けたらしかった。
何も喋らずに微笑んでいたノアを、何も言わずそのまま部屋へと連れて行って、かなり強引に布団に押し倒した。形式上両手は押さえつけたけれど、抵抗なんてするはずもないから、衣服は簡単に脱がすことができた。
ノアは「あっ」とだけ言って、その後すぐに泣いた。
「み、見ないでっ」
「見るわ。全部。ノアのこと、全部知りたいの。あたしは、どんなノアも、大好きだから。だから、見せて……?」
ノアは一度だけ頷いて、それから少し笑ってくれた。
あたしはノアの両手の縛りを解いて、そのまま優しく肩を撫でた。
「あぁ……。どうして、こんな……」
ノアの右肩には青々とした痣と、抓られて内出血したような痕が浮かび上がっていた。今まで、そんな傷なんて、一度も見たことが無かったはずなのに。
でも、ノアが自暴自棄になってやってしまったなんて考えは、毛頭無い。
今日ばかりは、『願い』を信じて幸福の痕を見る。
「やっぱり、ノアのこと、嫌いに、なった……?」
あたしの瞳を見つめてそう試すので、あたしはすぐさまノアの口をキスで塞いだ。
薄目を開けると、ノアの眦からポロリと一つの涙が零れるのが見えた。
「好きよ、ノア。大好き。愛してる……」
そう口にしてズボンを脱がしてしまうのは、ありふれた必然だった。
ノアは何の抵抗もせずに、あたしに体を曝け出す。
「ノアも、アリスのこと好き……。全部、全部、全部、好きだよ……」
毎晩のキスのお返しとでも言わんばかりに、ノアは気持ちをぶつけてくる。
効力を失った『願い』の影響でノアの心がわからなくなっても、自然、ノアの気持ちはすべてわかる。
目的と手段が一致しているから、という道理もあるだろう。
でも、それ以上に、あたしとノアの気持ちは強く何重にも結ばれて解けなくなった。例え燃やされても同じ灰になることだってできる。紛い物の『接着剤』など、もう必要ない。
あたしはそれを、目で見て、肌で感じて、ノアと確かめるだけでいい。
「この傷も、この傷も……全部、痛かったわよね……。ごめんなさい……。守ってあげられなくて……」
ノアの肌に触れる指と唇で、彼の母よりも優しく確かめて。
記憶の中の母の愛を、あたしはあたしのもので塗り替えていく。
「ノア……。好き……。もう、絶対、離さないから……」
首、肩、両腕、腰骨の出ているところ、脹脛、爪先も。背中も、太腿の内側も、臍の周りも、小さなお尻も、恥ずかしい所も。痣と傷を一つ一つ数える様に、あたしはノアの全身にくまなくキスを振り撒いた。
そして、ノアを全部見て、全部知って、全部愛した。
そこにあった過去の片鱗も、全部あたしで上書きした。
これは義務でも何でもない。あたしがしたくて、ノアがして欲しくて――ノアがしたくて、あたしがして欲しくて、ただそれだけのこと。いわば、本能。
あの人は、レノはそう生きていた。
ノアにそう伝えると、柔らかく笑って、その後あたしの唇を奪っていった。
ノアは、そう生きている。
あたしはノアの吐いた息を吸って、またノアに返す。愛おしくて、愛おしくて、とてもではないが気が狂いそうだった。肌に触れたい、もう一度キスしたい、一つになりたい。
あたしは、そう生きている。
そこには正解も不正解も、きっと無い。
「ねぇ、ノア」
「なに、アリス」
「学校、卒業したら、二人で一緒に暮らさない?」
「うん……っ!」
「絶対よ?」
「絶対、ねっ」
大地を踏みしめて時折、人は何も思わない。
【あとがき】
本当の意味で二人が繋がったと同時に、また一つ『願い』の絡繰りが明らかになりました。
――『願い』とは、効力を失い得る。
人工的かつ自然的で、本当に何の力なのかわからなくなってきましたね。
私もわかりません。
そういうことも踏まえつつ、次回へ続きます。




