Ⅳ Refuse never Today
【まえがき】
"今日を捨てること。それが明日を拾うこと。"
時には痛みを伴うかもしれません。
ここから結構話がぴょんぴょんしだします。
【あとがき】を呼んでも「うーん?」だった人は、一度戻ってみると発見があるかもしれません。
どうぞ。
「合言葉は?」
「郷に入っては郷に従え」
いつしかの面接官から聞いた通り、黒い声に返答すると確かに、その鉄扉は開いた。しかし、誰かが出迎えてくれるということはなく、完全にあたし自身の意志を反映する運びとなっている。
暗闇の中に見える一抹の明かりを頼りに、あたしはその中へと歩みを進めた。
建物内は特に強い芳香も無く、不和な視覚情報も無い。どこかで暖房がついているのか道は暖かい。そのはずなのに、身体の震えは収まらなかった。
暫く真っ直ぐ歩いてこられたのだけど、ここは廊下なのだろうか、なかなか行き当たらない。
漸く角に辿り着く頃には、入ってきた扉が見えなくなっていた。
不安に駆られるあたしの心を、唐突な衝撃がまた囃す。
「何、君。こんなところに女の子が一人。新入り?」
どこから話しかけられているのかも、一瞬わからなかったが、振り返るとそこには確かに何かがいた。
先方は相当に夜目が利くらしく、あたしの姿を捕らえられているのだろうけれど、あたしからその人の姿は確認できない。分かるのは、落ち着いているけれど、すっかり燻された声色くらい。
その目に、あたしはどう映るか。
さっそく試されているのかもしれない。
冷静さを装って、竦む足で確りと地を踏んで。
「はい。そうなんです。どこに行けばお金がもらえるかなと思って……」
「お金なんて、客から貰うんだろ? ……あ、そう。本当に初めてってか」
とりあえず、お金は客と呼ばれる相手から直接受け取らなくてはならないことがわかった。この女性も、同業者ということになるだろうか。
であれば、一体どうすれば何かを始められるのか、是が非でも聞きたい。どうすれば、生きられるのか、今すぐに知りたい。
「あの――」
「ここは三階建ての空きホテルだ。適当にウロチョロしてれば、普通に声が聞こえるだろうし、たまに開けてるやつもいるから、適当に覗いてみな。それの真似をすればいいのさ。相手は、街中に無限に転がってるさ。金を持ってそうな奴を捕まえな」
「それって――」
狙ったようなタイミングで、その声は聞こえた。
誰かに耳の裏を擦られるような、意図して背中を摘まれるような、聞いたことも無いような甘い嬌声だった。肩から左腕にかけて悪寒が走って、ちょうど霜焼けのように痒くなった。
身の毛も弥立つとは、言い得て妙だった。
「はっはははは! そりゃ馬鹿だ! そんなんでここに来んなっつの。帰んな」
「あっ、ちょっと……!」
制止にならない制止は、あたしの歩みを数歩進めるに留まった。
その人は暗闇の中に消え、その後気配もしなくなった。
あたしはまた、一人、取り残されることになった。しかし、ただ立ち止まっていることもままならなくて、すぐに歩き出す。何かに背中を押されるように、あるいは何かに胸倉を引かれるように。
暫くすると、廊下の輪郭がぼやけて見えるようになってくる。
先の宣告通り、廊下には一定間隔で部屋が設けられており、その中には光と音が漏れるものもあった。そんな回廊に覗く申し訳程度の月明りも、監獄のような鉄格子窓からでは頼りなく映った。
その扉を隔てた向こう側では、紛う事なき等価交換が行われている。
欲望と誇張に塗れた声が、それを牢乎として物語っていた。
「階段、あったのね」
暗闇に慣れた目でもって、あたしはそこを上がっていく。
入口から遠ざかっているからか、そんな高さではないはずなのに、少し息苦しくなる。いや、あながち間違った感覚ではないのかもしれない。
二階であることを示すライトの明かりに照らされて、人の蠢きに感応する自分の肌が露わになる。戦々恐々と拒んで震えるのが如実に分かって、我慢しようと額に汗が滲む。気分は悪くなるばかりだった。
それでも、何のラインの収穫も無しに逃げ帰ることはできない。
畳まれたあたしのプライドは、ノアの前で衣服をひん剥かれようときつく縛られようと、もう構わないと言っている。それならば、羞恥も恐怖も売りに出せる。それならば、歩くしかない。義務、なのだから。
前方に、一筋の細い明かりが見えてくる。
わざとらしく蛍光管の様を呈していたから、それが月の知らせではないとすぐわかった。
故意か、単なる閉め忘れなのか、知る由は無い。
だけれども、その明かりの中に、生きるための方法があるのは確かだろう。誰かがそう言っていたし、部屋の奥からも、生きる苦痛に耐える悲鳴が聞こえてくる。
あたしに選択肢は無かった。
「……うっ」
刹那、あたしは廊下の隅に倒れ込んだ。
一瞬よりも短い時間であったにも拘らず、その時の造景は非常に鮮明で、潜在的意識下にまで悠に入り込んできた。不要な情報だけを吐き出そうと逡巡を試みると、それと一緒に酸っぱいものが喉を通過した。それを抑えようとお腹に力を入れると、今度は目から情動が零れていった。
先生のためになる話も、友人の馬鹿な話も、少しだけ意識してしまう心の話も、全部勘違いなんじゃないかと、思わされる。勘違いではないけれど、思い違いではあるのだと自分に反論する。自然と不自然の境界、故意と事故の境界、そこにあるものとは、誰かによって創りだされた本能であると結論付いた。
殆ど何も食べていなかったから、嘔吐できずに涙だけ毀れて情けない。
「う、うぅぅ……。き、気持ち……悪い……。なん、なの……。はぁ、はぁ、はぁ……。もう、嫌……。帰りた、い……っ」
誰かの助けも無ければ、息をすることもままならないなんて。誰かを守ることもできないなんて。その誰かを愛することもできないなんて。
一人で何でもできると思っていたのに、その真逆。
何のための性格なのか、何のための頭脳なのか、何のための顔なのか。そう定めた二人の人間と、意地汚い神を呪ってやりたい。どろどろに溶けて消えるまで、怨みも恨みも憾みも全部、吐き出してしまいたい。
そうしたいのに、それすらできなかった。
本当に、情けなかった。惨めだった。
「うっ……。んん! ……はぁ、はぁ。んぁっ……」
何を我慢しているのか、意味も分からなくなってきた。どうして息をしなければいけないのかも、疑問に思えて来た。あたしがこんな目に合わなければいけない訳を、信じたくなくなってきた。
やっぱり、あたしは誰かに背中を――。
「大丈夫?」
背後の影を気取る余裕も無かったせいか、誰かが近づいてくるのに気付かなかった。涙で聴覚の調子も良くないのか、声も聞き取り辛かった。
でも、確かにわかった。
誰かが、あたしの背中を摩ってくれていることが。
「んぐっ……。はぁはぁ……」
「そんな我慢しない方いいって。吐いちゃいなよ」
確証はない。
確証はないが、声質といい触れ方と言い、一階で出会った女性とは全くの別人に感じる。
焼け爛れたような声ではなく、女性らしい澄んだ声だった。
でも、少し疲れているようで、その質は重い。
「なに。口?」
「く、ち……?」
「いや、なんでもない。つーか、逆に何その防寒体制。もしかして新入り? 胸はそんなにないみたいだけど、冬でも露出度は高めの方がいいよ。人目で見分けつかないと、不利。金蔓捕まえれば、体も懐も温まるでしょ」
どういうつもりか、あたしに親切をしてくれているようだった。
貸しを作っておいて、後で金品を要求する算段かもしれない。
「あたしに、構わないで……」
「だよね。それが普通。まぁ、こんなとこで倒れてたら、襲われるからね。そう思って、あっちも来るから。んじゃ、行くわ。ばいばい」
「あっ、ま、待って!」
そそくさと行ってしまうものだから、思わず、干渉してしまう。
その人は、面倒臭そうに振り向いて、あたしの手を振り払うのだった。
「何?」
ここで初めて、あたしはその人の姿を視認した。
暗いということもあって、確かなことは言えないけれど、包容力がある割には小柄で、ぶっきら棒な態度をとる割に瞳は優しかったと思う。薄墨色のキャミソールのような衣服と、正面のボタンが留まっていないジーンズを着用していて、季節感は待ったく無い。加えて、背景に馴染む具合から珍しい髪色をしていると何となくわかる。
輪郭は細いようだけれど、個々のパーツまでは認識できない。
もう少し、顔を上げれば見えるかもしれないけれど。
「あの。お、教えて欲しいのだけれど……」
「幾ら?」
幾度となく読んで古したセリフを舐めるように、その人は言う。
あたしはその人の苦労を知らないはずだけれど、どうしてかそこに同情を覚えてしまった。
さりとて、あたしに出せる賃金は無い。
「ごめんなさい……。何も……」
「バカだね」
「…………」
「何? ショック? 意気地無し」
それは、人生で初めて、言われたことだった。
どちらかというと褒められることの多かった人生だ。いや、そうなる様に努力してきた記憶もある。でも同時に、決して褒められるような人間ではないともわかっていた。
だからこそ、その言葉に、小さな胸が打ち震えた。
同じように小さな胸のその人は、あたしを嗤う。
「いいよ。ついてきて」
右も左も、何もわからないあたしに、手を差し伸べてくれる。あたしを褒めても何も対価は無いのに。喜んでくれるかわからないのに。全くの興味本位なのかもしれないけれど。
その様はまるで誰かの親を見ているようで、極めて胸糞悪かった。
でも、どうしてだろう。
あたしは、その人について行ってもいい気がする。
×××
あたしは、二階の廊下を少し進んだところにある一室に連れてこられた。あたしの背中を押すように案内されたから警戒していたけれど、その人が入口の鍵を閉めることは無かった。
部屋には大きめのベッドが一つだけで、これといった家具は無く、照明もいわば間接照明のようなインテリアめいたものしかない。外を見渡す窓は無く、それとは逆に、曇り硝子張りになったシャワールームが敷設されている。何かの匂いがするということも、特には無い。
抱いていた印象からすると、遥かに清潔で、普通の宿泊施設と何ら変わりないように思える。
何かしらの仕掛けがあるかと思っていた手前、構え損をした感はある。
それはこれから、あたしに直接仕掛けるのだろうけれど。
「何にも持ってないって言ったよね。じゃあ、体でいいよ」
「体……?」
何のことを言っているのか、一瞬わからなかった。
部屋に入るなり、あたしに服を脱げと命令していたことを思い出して、理解が追いつく。
「男の相手するの疲れたし。いいよね、たまには。女同士なんだし、別に何も問題ないでしょ? デキたりしないし。さ、早く。顔、見せて。ああ、下着はまだそのままでいいから。さっき、暗くてよく見えなかったから」
催促されるままに、あたしは必要分の衣服を脱ぎ捨て振り返る。
風呂以外の用途で脱衣することは無かったけれど、躊躇ってもいられなかった。
それに、何か……。
「あぁ。おぉ。へぇ。すっごい可愛いね。モテるでしょ実際」
「え、ええ。まぁ……」
そういう根端なのだと割り切って聞くにしても、歯の根から浮いているのではないかというくらいのセリフに鳥肌必至だった。それを隠そうと、自分の二の腕を掴む。何のつもりも無いのに、視線も合わせられない。
絶妙な感覚だった。
「隣、来て。何もしないから。まだ、気分乗ってないし」
「わかったわ……」
とぼとぼと歩くと、交差する自分の太腿が見えた。
それはいやに肌色で、急に、辱めを受けているような気分になる。何しろ、その人は衣服を脱いでいないのだ。完全に、分が悪いではないか。
善策が作り上げられる時間など、あるはずもないけれど。
「警戒しすぎ。嫌われるよ」
「…………」
その人の話のトーンには独特な間があって、それがどうにも謀略の邪魔になっていた。
せめて、その人の口元でも拝めたら、違うのだろうけれど。
「こっち見て」
思っていることが見透かされでもしているのだろうか。それこそ、強い力でもって透視されているのかもわからない。
頬を両側から挟まれ、首ごとぐるりと回された。
そうしてあたしは、その人と再会することになる。
「あっ……」
「別に何もしてないでしょ。わざとらしいよ、それは」
「その……、ごめんなさい……」
「謝んないでよ。萎える」
指摘されながらも、あたしは絶対に俯くことは無い。それどころか、瞬きすら忘れそうだ。
あたしは、その人を知っていたのだから。
夜をそのまま模写したような黒髪に、顔の小ささが際立たせる大きな瞳。澄んでいるにもかかわらず、芯の詰まったような確りした声質。そして、昔のあたしが抱いた”華奢”という感想が、まだここに生きている。
幼い日に数えるほどしか見かけていないが、間違いない。
――この人は、ノアの母親だ。
「ま、いいや。じゃ、遠慮なく」
手慣れた勢いで抱きついてくる。そこそこ柔らかい胸の感触が伝わって来るのと同時に、背中を不定周期で摩られる。さっき介抱してもらった時とは、リズムも強さも全く違う。ノアの母親だとわかってしまったからか、緊張は無くなったように感じる。
その代わりに、かなりの拒絶感があった。
「硬いよ。もっとリラックスして。別にすぐにどうこうするわけじゃないの。どうこうする時には、そっちから強請ってると思うよ」
あたしは特に強い反応は示さないで、小さく頷くだけした。
その人は、そんなことには頓着せずに、背中をくるくると優しく撫でまわし続けた。
あたしに気が付かないのも、無理はない。
あれから随分と時は流れて、あたしも相応に成長しているから。心も体も。
それがこんな形で試されようとは、あの時のあたしが思うわけも無い。
さて、そろそろ背中が温かく、いや、熱くなってくる。一定の恥ずかしさも助けて、少し逆上せそうになる。血の巡りが良くなったせいか、鼓動も速くなっていく。ちょうど良い所で止める、などということは無いから、その感覚は、次第に次のステージの閾値を踏む。
何か、大切な場所の栓のようなものが抜けそうなイメージが、俄かに脳裏を過った。
「ん? 大丈夫? 痛くない?」
「大丈夫よ……」
「ちょっと熱っぽい? 疲れてない?」
「少しだけ……」
「じゃあ、横になろっか。はい。いいよ。ぱたーんと、ここに寝ちゃおっか」
「ええ……」
「撫でててあげるからね」
急に声のトーンが跳ね上がったと思えば、あたしはいつの間にか横になってしまっていた。
暫くの間、そうやって、あたしは為す術も無くその手に甘やかされることになる。
「学生でしょ」
「え?」
「親と喧嘩して家出してきて……とかじゃないの。迷惑かけてやりたくてとか」
「そうかもしれないけど、違うかもしれない」
何もかも見透かされて、その掌の上で踊らされているようで、癪だった。
でも、嘘もつけなかった。
「適当。そんなんで人生捨てていいの?」
「捨てないわ。絶対。一つも」
「あ、そ。若いね。けど……、初めてでしょ?」
「ち、違うわ……」
さすがにそれは誤魔化せないと思ったから、言下に訂正した。
不都合も大いにありそうだ。
「だよね。さっき廊下で吐いてたし」
「別に、吐いてはないわ」
「まぁ、それはいいよ、どっちでも。でも、部屋の中見たんでしょ? じゃあ、結局、あれができるかどうかだから。廊下で吐こうが、自分を捨てられるならそれで成り立つの」
「自分を、捨てる……」
それはどういうことなのだろうと、あたしは心中、今までの経験に置き換えてみた。
一番印象に残っていたのは、カーリングでの辛い合宿練習だった。
自分を捨てて新しい自分になれば、勝利は見えてくると、名門のコーチに叱咤されたのだった。今でも、その言葉の真意は知り得ないけれど、要約は済んだのだと思っていた。
結局それは、名称を変えただけの代償なのである。
「そういうことだから、私のこと楽しませてよ。重い日とかも知らないし、そんなの関係ないから。ただその本能を、私の遊び道具にさせて」
「…………」
あたしは、黙って、頷くしかない。
その人の求めるものを、供給し続けるしかない。
「キス、していい?」
「構わないわ……」
喜ぶ、という様子も無く、その人は横たわるあたしの両手を押し付けて、そのまま唇を重ねた。恋人の母親とキスしているという額面もさることながら、誰とも知らぬ人間と重ねたそれを、自分に重ねることが気持ち悪くて仕方がなかった。
吐きそうになってくる。
でも、あたしには、この行為を止めさせることもできるはずだ。
勿論、代償はある。
だから、あたしは我慢しなければならなかった。
「何。そんなに嫌? 私、そんなに色んな人と軽々しくキスなんかしないって。女の子だから特別に前戯してるだけで。かなり可愛いし」
「で、でも……」
「ああもう、わかった。じゃあ、いい」
吹っ切れたような一言の後、その人はあたしの胸元へと飛び込んでくる。そうして、大きく深呼吸したかと思うと、あたしの匂いを褒めた。依然、両手は押さえつけられていて、ある程度の不自由があった。
それからすぐのことだった。
「やっ……!」
鎖骨から脇、脇から首、そして耳の裏の方まで、仄かに温かく湿った刷毛で、ゆっくりとなぞられたような感じがした。その軌道は順次ひんやりと冷えて、その温度差に身震いした。
これに耐えなければ、体のどこかから何かが溢れだしそうな気がして、怖い。
「んっ! はぁ、はぁ……」
でも、どうすれば耐えられるのかわからない。
鍛えているのに、どうしてか息が上がる。
その人が何食わぬ顔で居るのが、信じられない。
「あれ? 体とか舐めたりしたことなかった? さっき、キス、異様に上手かったから、誰かとしてるのかと思ったけど。まだ学生だし、真面目そうだし、そこまではいってないか。……てか、何? 彼氏いんの?」
「…………」
策略に耽る。
「い、いないわ……」
「そ」
ダメだ、頭が回らない。
「けれど、彼女が、いるわ……」
「あ。そっちの人なんだね。じゃあ、遠慮なんかいらないわけか」
「そ、そうね……」
「彼女、名前なんて言うの。私のこと、その人だと思って思いっきりしていいよ」
間違いない。
ここで、ノアの名前を出してしまえば、あたしの目論見はすべて崩れ去ることになる。決意も覚悟も策略も、すべてが泡沫に消える。
けれど、もう、引き返すこともできない。さらさら、引き返すつもりも無い。
ならば、あたしはあたしのままで。ノアは、ノアのままで。少なくとも、代わりはいない。
「それよりも先に、あなたの名前、聞きたいわ」
「代わりにはならないってことね。お熱いね。真面目そうに見えて、実は毎晩色々やってる系か。なるほどね。じゃあ、ここへ来たのも、彼女のためってことか。それは泣けるね。ははは」
「いいから、教えて」
「はいはい」
あたしは結論を急ぐ。
あたしに残された時間は、そこまで多くない。
「レノよ。レノ・グリニッチ」
「レノ・グリニッチ……」
「何よ。変でもないでしょ。そっちは?」
一瞬、偽名を使おうか迷った。でも、真実を述べることにした。
人生の分岐を、自分の手で作り出すのも悪くはないと思ったからだ。
気付かれれば小さな可能性が、気付かなければ大きな堕落が、そこにある。それはあまりに近すぎて、どちらに歩いても同じように見えなくも無い。
でも、ノアの名前を汚すくらいなら、あたしはあたし自身を捨てることも辞さない。
そんな選択肢になり得る言葉は、惜しくもあたしの名前。
あるがままに譲り受けて、怠惰に供給され続けてきた響き。
アリス・ナイブス。
「アリス・ナイブス」
あたしの名前が、ここまで誰かの心をかき鳴らしたことは無いだろうと思った。勿論それは、あたし自身のことを言っている。誰かというのはいつも、あたしの中にいて、それはあたしたり得ている。
そのはずだった。
けれど、可能性は鈍色にでも、輝きを放っていって。
「アリス・ナイブス? アリス……ナイブス……。アリス……。えっ……?」
あたしの自信がノアの勇気を灯すように。
最後には、月光がレノの表情をこれでもかと照らしていった。
「まさか、あなた、ノアの……!?」
月が昇ったことへの驚愕なのか、太陽が沈んだことへの疑問なのか。はたまた、月が沈むことへの期待なのか、太陽が昇ることへの不安なのか。レノの表情が二転三転とすると、あたしもまたそれを受けて、感情を変えた。
偉そうなことをするきらいはないけれど、あたしはごく自然な本能で、レノを抱きしめていた。
「ち、ちょっとっ、何してんの……?」
「ごめんなさい……。本能、かもしれない……」
「え、なに? どうゆうこと……? 何言ってんの? ていうか、なんで? どうしてここにっ? えっ? ホントにアリスさん、なんだよね……? 嘘、じゃないでしょ……?」
「嘘じゃないわ。あたしは、アリス。アリス・ナイブス。ノアの、恋人よ」
あたしがそう言った途端、その人はものすごい勢いであたしを抱き返してきた。それからボロボロと大粒の涙を零して、それらであたしの下着をびしょびしょに濡らすのだ。あまりに大声で泣くので心配したが、あたしはレノの背中を撫でられなかった。
事情という物語は、あたしもレノもきっと、何一つ理解できていないのだと思う。
あたしは、「ああ、終わったな」とだけ思った。
あたしがレノに対して失えるものは、もう、無くなってしまったということだから。
それでも、あたしは服を脱がされた挙句に濡らされたわけだ。
その責任をとってもらうためだけに、レノが泣き止むのを待とう。
あたしはすでに、家に帰ってノアにする言い訳を、考えていた。
その言い訳は、もう、通用しないのだけれど。
――ありがとう。アリスさん。
――あの子にも、やっと、信じられる人ができたのね。
――あの子にも、やっと、好きな人ができたのね。
――あの子も、やっと、幸せになれたのね。
――あの子も、やっと、愛されて生きられるのね。
――ありがとう。アリスさん。
――これで、やっと、『願いの呪い』が消えるのね。
――これで、やっと、あの子の笑顔が見られるのね。
――ありがとう。本当に、ありがとう。
――よかった。あなたに会えて。
【あとがき】
おそらく今話がルーモス史上最も「性」に関して濃かったと思います。
そうやって奥まったところをつつくたびに、何か核心めいたものが見えたのではないかなと思いますがいかがでしたでしょうか。
そして今回は、『願いの夢』に関しての強力な輪郭線も見え隠れしました。
果たして、そこには関係があるのでしょうか。
次回に続く。




