Ⅲ Sacrifice the Innocent
【まえがき】
"あなたの殻を破れるのは、あなたの無垢"
人生に犠牲は付き物です。
落差のある今話、わりと長めです。
眠い人は、明日の夜に読みましょう。
夜に。
では、どうぞ。
家出九日目。
例によって、夜が明ける前に家を出た。お菓子持参である。
最近、闇夜の中で行動する時間が増えたからか、夜目が素晴らしく機能するようになってきた。昼と同じとは言わないが、街灯と月光のもたらす光量だけで視界は冴えた。
そんなあたしを導くように、学校の教員出口の施錠はされておらず、屋上へと続く道のりにも覚えがあったのだ。その上、見込んだとおりに鍵は開いていて、気分は頗る最悪だった。
いつもの木の前に立つと、今日は張り切っているのか、梢から家明かりが漏れ出ていて、非常に不審だった。それを目撃したノアが嬉しそうにしながら眠気を堪えているのを見て、あたしは溜息を吐いた息そのままに「ははは……」と少し笑うのだった。
今宵は大義名分があるのだ。その異次元の扉を開くのに、躊躇う理由は無い。
敷居を跨いだ瞬間の無重力感覚は、何度体験しても慣れない。玄関にありついた後も少しの間は立ち眩みで動けなくなる。それでもサクラに会いたかったのか、ノアはすぐに靴を脱いで廊下を駆けて行ってしまった。個人差があるのか。
あたしも後に続く。
「遅かったのう」
「遅いだなんて、心外だわ。むしろ、あなたにそんな概念あったのね」
家に時計すら置かない人に言われたくはない。
実際、この家に時計を置いてみたいとは思わないけれど。
「あるわい! お主の中には気遣いという概念がないようじゃがのう」
「あなたにはあえて遣ってないのよ。それに気が付かないだなんて、気が使えてないわね」
「ぐぬぅ……! なんじゃ、せっかく鍵を開けてやったのに! そこへ寝やがるるのじゃ! 皆の前で尻を叩いてやるわ!」
「喧嘩、しないで……」
揮って仲介するノアの表情は嬉々としていて、目はどこか輝いて見える。ひょっとすると、ノアはこれがやりたかったのかもしれない。
ともかく、ソファへ寝てもいいなら座ってもいいはずなので、腰を落ち着けるとする。
「落ち着かない家ね」
「落ち着かせんわ」
因果も時系列も捻じ曲がって非線形を象っている気さえするというのに、サクラ自身が落ち着けているか気がかりだ。常軌を逸した破天荒の振る舞いが、この空間の為せるものであるのなら、逆に追い出してしまいたい。
皮肉にも、そうやってあたしが興味心を抱いてしまうのは、他でもないサクラが本来もつ魅力によるものなのだけれど。
「それはそうと、ルートたちはまだなのかしら」
「色々準備しとるんじゃろ。側らが遊ぶ気満々じゃったからのう」
ということは、至る今日の会合というのは、偶然仕組まれたものということになる。
本当に勘が鋭いのか、欲望に忠実なだけなのか、いや、両方なのだろうけど。選択肢の両取りとは、なんともリズらしい。
「あーそうじゃ。風呂が湧いとるぞ?」
「あらそうなの。……それで? 何が欲しいのよ」
その手はいい加減に見え透いているので、段取りを省く。
要求を呑まなくとも押し付けられることになるのなら、あたしから要求するまでだ。
「明日は休みじゃし、今日は泊まっていくんじゃろ? それなら、のあと寝たいのじゃ」
「そういうこと」
「あー、悪いことはせんよ。寝るって、そういう意味じゃなくて、純粋に寝る方の意味なのじゃ。わしの抱き枕になれと、そういうわけじゃ」
「説得力皆無ね。でも、まぁ、ノアがいいなら、いいわよ」
何かしらをしでかしてくれそうな気配しかしないにも関わらず、手を出したりしないのだと確信が持てる矛盾。彼女特有の立ち回りの為せるそれだ。
さらに、念には念を入れて、ノアに決断を委ねることにしたのだった。
「ノア、いいよ」
「そう? 無理してない?」
あたしのため、と思ってやってくれているのなら、やめるべきだ。
あたしは、ノアのために何か行動したいだけなのだから。
「ううん。だいじょぶ」
「む、無理じゃとっ? 失礼な。そんなこと言ってると、わしがのあを――」
「ノアに何かしたら、ただじゃおかないから」
それがノアのためにならないことなら、死力の限り阻止するつもりだ。
ノアは素直だから、あたしが裁き違えることはまずないだろうし。
「ほほぅ。それは楽しみじゃのう?」
「それは良かった。手足を紐で縛って、心ゆくまで擽って、それから泣くまで絶対に解放しないで、お花を積みにも行かせないつもりだから、是非楽しみにしてなさい」
「お、鬼かっ」
「何もそんなに嬉しそうにしなくても……。正直、ちょっと引くわ」
「くっ。お主、わしを変態に仕立てようと……!」
「あはははっ」
下らないやり取りに、安堵する自分がいた。
でも、もう、誰かに守られることは辞めなければいけない。少なくとも、もう、その義務はあたしたちには付随しないのだから。
今日は、そう話すためにここへ来た。
「ま、いいわ。ノアがいいなら」
「うん」
「それじゃ、お風呂借りるわね。行きましょ」
「うん!」
それは、決して独りよがりなどではない。責任を転嫁することでも、させることでもない。
そう理解することが、あたしたちの励みになる。望みになる。
「何してるのよ」
「な、なんじゃ?」
「あなたも行くのよ」
「ふぇっ? わしも? なんでじゃっ? よ、よいのかの?」
「あなたの家でしょう。ここは。だから、流すわよ。背中くらい」
ノアは嬉しそうに微笑んでくれたが、当の家主は未だ戸惑ったままであった。
仕方がないので、あたしはサクラの服の襟を撮んで、風呂場へと赴くことにする。
別段、何か企んでいるわけではない。
「ま。あなたが嫌なら、やらないわ」
「い、嫌ではないが……。なんかきもいのう……」
確かに、ものすごく気持ちが悪い。
目下の者に媚びを売っているかのように、体中を毒がぐるぐる回って気怠くなる。正直なところ、眩暈すらする。
「これでも一応、心配はしてるのよ。あなたの顔」
「顔を、心配じゃと? なんじゃ……失礼なやつじゃのう……っ」
「良かったわ。痕になってなくて」
「んぬ……!」
わかったような素振りを見せてくれるのが、少し嬉しい。
何の力か知らないけれど、サクラも大概勘は鋭い。
「ごめんなさい。あの時は、あたしもイラついてたから。大人げなかったわ。反省してる」
「き、きもいのう……」
そして、ストレートに見せておいて案外気難しかったりする。皆で楽しくやるのが好きそうに見えて、一人が寂しいだけだったりする。それなのに、一人で居なければならないと無意味に格好つけたりする。
それくらいは、あたしも知っている。
「ふふふっ。どう? あたしのこと、好きになったんじゃない?」
「……っ! お主ぃぃぃ……っ!!」
だからこそ、あたしはその手を取りたかった。
あたしから手を取ろうとも、サクラから手を取ろうとも、あるいはノアを経由してそうなろうとも、繋いだ手は変わらずに温かいものなのだから。
×××
パリパリだのバリバリだのカシャカシャだの言う音は、多少無責任に感じた。
状況が状況なだけに、今必要な擬音は不穏なドキドキなのだ。良い意味でも悪い意味でも、学校の友人というものは、聊か愉快で、誠に不愉快であった。
きちんとした談義の場が設置されたのは、ルートとリズが訪れてから半日ほど、感覚として午後十一時半頃。夕食後、全員が入浴を終え、円卓に腰掛けて静かになってからの事だった。
テーブルには初めから五人分の椅子が用意されていて、夏休みの合宿の時の座席とは互換しなかった。円卓であるので特に関係性は無いが、あたしの隣にノア、ルートの隣にリズ、あたしとルートの間にサクラが座る形になっていた。
「わしはこの”わさび煎”がいちおしじゃ。つーんとくるたいみんぐを見計らって玄米茶を煽るのが、最高の組み合わせなんじゃ」
「なんかどこかのオジサンみたいだね……。うーん……僕はこれかな。”チーズ&アーモンド”。味もいいけど、この絶妙なサイズ感。気付くと、いつの間にか全部食べちゃってることあるよ」
「全部? 食べ過ぎじゃない? ま、ルーは太んないからいいのかー。私はそうだなー……。やっぱり、”お母さんのクッキー”が一番好きー。ミルク味のが美味しいから、いっつもコーヒー味が残るんだよねー」
「ノアは――」
「こら」
「あぅ」
嬉々としてチョコレートの小包を持ち上げようとしたので、手の甲を軽く叩いた。
丸いチョコレートは、ノアの手から零れて転がって、そのまま元の場所に収まった。
「あなたが混ざってどうするのよ」
「ごめん、なさい……」
しょ気て俯くノアの頭は、とても撫でやすい位置にあったので、気の向くままに手を伸ばした。
そうして欲しい、そうしたい。そんな想いすら交差せず、ただ単に成り行きであった。
「あー。アリスお姉ちゃん、そうやってまた見せつけてぇ……」
「そんなつもりはないわ。悲しそうにしたから、あたしはただ……」
ただ何なのだろうと、あたしは沈黙の中で考えた。
言い訳にも似た言葉が際限なく脳裏に湧くばかりで、至妙な例えなど浮かばなかった。
だから、あたしは言い淀んだ。
せめて経過した時間を数えるための時計があればどんなに楽だったか、など、悔いても仕方がないことだ。実際、静寂は解答を啓発しない。転嫁する術を見失ったあたしには、何かを待つしかできないのだ。
別段、仕組んだわけではない。
違うのだが、あたしはルートの瞳に見入っていた。
「その……。大丈夫なの? 二人は……」
悪いことをしたと、反省した。
なるべく早く、答えを口にするつもりだ。
「大丈夫と言えば、大丈夫。そうじゃないと言えば、そうじゃないわね」
「…………」
余計な発言をするべきでないと判断したのか、リズとは中々視線が合わない。
確かに、こういう場合、ルートの方が口舌は明るい。
「学校はどうするの……? ノートだったら見せられるけど……。アリスもノアさんも頭良いからテストは心配いらないんだけど、出席日数がある程度ないと進級ダメらしいよ……?」
「今はそんな場合じゃないの。その時はその時よ。それに、アカデミーはもう、”義務”じゃないのだから」
あたしはその言葉をなるだけ強調して言った。
この空間の中で、自分に一番響いた。
「それは、そうかもしれないけど……」
「心配してくれてありがと。でも、仕方がないのよ」
「そんな……。でも、僕はアリスと一緒に卒業したいよ。ノアさんと一緒に卒業したい。サクラだってそう思うでしょ?」
「ん? お、おう。そうじゃな。わしも、そう思う……」
己の力との葛藤でもしているのか、サクラの曇った表情は珍しい。それこそ、これから途方もない天変地異でも起こりそうで不安だ。
実際、サクラなら起こせるのかもしれない。
けれど、あたしはそれでサクラに頼らないし、サクラもきっとそれを分かって提案してこないのだ。今日の会合を自宅にしたのも、リズの気まぐれやルートの知恵ではなくて、サクラの確信に思えてならない。
そのサクラが見放すのだから、あたしの答えは間違っていないはずだ。
「ありがと。そうやって言ってくれると嬉しいわ。でも、もう決めたことなの。だからお願い。分かって……」
「アリス……」「アリスお姉ちゃん……」
あたしたちの心を繋ぐ、細い線のようなものがピンと張りつめたようになる。
それが溜息やら瞬きやらで震えて、残像が過去を浮かべる。
そこにいたあたしたちは、まだ、人の死を知らなかった。
「のあは……。のあはどうなんじゃ?」
あたしの意志が固いことを見越して、サクラはノアに問う。
ノアの考えがあたしと違うなら、それはそれで仕方のないことだ。けれど、それはないと言い切ることもできる。それほどに、あたしたちの線は濃く太く、酷く歪んでいる。
ノアはいつも通り、若干吃りつつも真っ直ぐだ。
「ノアは、アリスに、ついて、いきたい……。それが、ノアの、気持ち、なの。ずっと、変わらないよ……」
「そうじゃのうて。のあはやりたいこと、ないのかの? 料理人になりたいとか、発明家になりたいとか、そういう」
「ある、けど……。隣に、アリスが、居なかったら、全部、やる意味ない、から……」
いつしかの夜、ノアが微睡みの中で言っていた。『世界中の誰がノアを認めても、あたしが認めなければ、どんな最高傑作だろうと破棄する』と。
絵画や音楽を嗜んでいるから、破棄がどんな行為かは容易にイメージがつく。ノアがあたしに求める繋がりの強さが、痛いほどわかった瞬間だった。
それに対して思い悩んで来て、あたしは遂に決めたのだ。
ノアが捨てなければならないのなら、あたしはあたしをノアにあげる。そして、あたしはノアの捨てたものを拾うのだと。そうすれば、ノアからなくなるのはノア自身でなくて済む。あたしは絶対になくならないから、ノアの幸せは増大していくはずだから。
正直、あたしは感情論が得意ではない。
けれど、ノアの部屋で、ノアの布団で、時にノアの衣服を借りて、ノアの時間を感じて、ノアを受け入れて、ノアと触れ合って。分かった。読心ではなく本音を語り合って、声をぶつけて感情が交わった先にあるものの尊さが。
そして、生きてこそ、為せると。
「私は応援するよ」
そういう意味で一足先を行く、リズの瞳は煌々と鋭い。
リズにはまだ敵わないなと、心のどこかで思った。
「ノアさんがそこまで言うんだもん。それに、アリスお姉ちゃんがついてるし。大丈夫だよ、きっと。根拠はこれと言って無いけど」
「リズ……。リズがそう言うなら……って、僕も同じなのか。リズがそういう状況になったら、同じことするよ……。だから、正解とは言えないけど、アリスは間違ってないって、僕はそう思うよ」
「根拠はないけどー」
「あ、あるよ!」
「適当じゃのー。……じゃが、まぁ、わしも勉強は嫌いじゃし、そこは同じになるわけじゃな。さぼり仲間」
「ノア、別に嫌いなわけじゃ……」
「いいのいいの! そんな遠慮しないで! 私にはわかる。うんうん。勉強なんて、やったって何のためになるかよくわかんないよねー。円周率とか日常で絶対使わないでしょって思わない?」
「太陽仰角方位角時間計算は……?」
「ぎょ……? えっ? あ、うん。あれだよね。やっぱり、二人の話聞いてると、よく出てくるアリスお姉ちゃんのお父さんがムカつくね。もう黒幕みたいなものなんだしさ。みんなで懲らしめちゃダメかな」
随分と強引な話の戻し方なのが目立つが、ノアとリズの力関係がまだ未構築らしいところを抜き出して、あたしはくすりと一笑するのだった。
しかし、出任せなのか精練された言葉なのか知らないけれど、的は外れていなかった。
「確かに懲らしめたいところではあるのだけど、現実的でないわ。今は、相手陣の疲弊を待つのが確実だと思うわ」
たかだか女子学生数人が、あの黒服数十人に立ち向かうのは無謀極まりない。あたしたちの正体をはっきりと把握できていない現状、おそらく武装しているだろうし。
ただ一つ、そこへ抜け道を見出すのなら、その規模だ。
大勢の人間を動かすには、組織単位でもそれなりの負担がかかる。全員に団体行動を強要させるくらいだし、警戒レベルは最大と言っても過言ではないだろう。厳戒態勢が敷かれれば、組織も応じて大きくなって当然だが、今回は数十人だ。あの人数でのフル稼働ができるのは、せいぜい三十日といったところだろう。
そうなれば、こちらも行動しやすくなる。
「待って、それから、どうするつもり?」
「そうね。どうしてノアが追われる羽目になるのか、突き止めるわ。そして、ノアを捕らえる必要はないって証拠を突きつける。それに尽きるわ」
「アリスらしいね……。だからかな。なんか、余裕で終わらせてしまいそうなのは……」
「だといいのだけど。あまり楽にできるとは期待しないわ」
「そう、だよね」
明確な敵意というものが無い今、向こうからの攻撃は無い。
つまり、時間との勝負。いや、飢えとの勝負になるのかもしれない。
ともすれば、いかにしてこれまで通りの供給を作り上げるかは生存に置いて最重要になる。
「雨風を凌ぐ場所は大丈夫として。まず、食べ物を確保しなくちゃならないわ。水の汲めそうな水道の位置はあらかた記憶したけど、食糧ともなると難しいわ。パン屋で端材を貰えるらしいけど、そんなのは一時凌ぎにしかならない」
「ゴミ捨て場は?」
「リズ、それすっごい忌憚ないっ!」
リズが言うと真面目に言っているのか怪しいけれど、自分たちでも検討はしていたから、普通に答えることができる。
「それは考えたけど、却下ね。もしそれで体を壊してしまったら、かえって面倒になるわ。今のあたしたちにとっては、風邪ですら大病なんだから」
「うーん……。それだと、やっぱり、アルバイトなのかな……。普通に、食料を買うってなると、それしかないような気がするよ」
「そうなるわよね」
やはりありつくところはそこなのかと、少し気落ちする。
別段、それをやりたくないと言うわけではないのだけれど、不安に駆られる要素が多いような気がするのだ。ノアを長い時間一人にしてしまうのもあるし、その前に、まず雇用契約が結べるのかというところ。身元を隠して勤めているのが判明して公安の世話になったら、洒落にならない。それでも、収益というものは安定して入るし、ハイリスクハイリターンと言ったところだろうか。
そこで第一に考えたのが、ルートの家のお手伝いだった。
それはすぐに、却下になったのだけれど。
「それじゃあ、うちの――」
「それはダメよ。前に、黒服がやって来たでしょう? 危険だわ。それに、いつまでもお世話になりたくないの。あなたとの関係、おかしくなりそうで嫌だわ」
「う、うん。それは僕も嫌かも」
「じゃあ、そのパン屋さんは? 人にミミをあげるくらいだし、優しそう」
「悪くは無いんだけど、少し遠いのよ。それに女性の店員しかいないようだったから、黒服が来たら、もはや誰も太刀打ちできないわ。小型店だし、全滅かもね」
「全滅のう……。そいじゃ、『遠い方』ならよいのではないか? あそこなら見つかっても隠れやすいし、店もいっぱいある。対抗措置も取りやすいじゃろ」
「ええ。そうよね。今、一番有力よ。でも、あそこにも問題があるの。部活の先輩から聞いた話なのだけど、学生のバイトは絶対取らないそうなの。嘘は前提にせよ、疑って来られたら対策のしようがないわ」
「むぅ……」
それから幾つか案が出たものの、デメリットの閾値が低すぎてしまって、すべて却下となった。
こういう話をしたことを無いから実態は知らないけれど、普通は夢が膨らむやり取りなのだと思う。
これ以上、あたし以外の人間の夢を摘み取るのはよそうと、あたしから切り出す。
「まぁ、ここで案を出し合っても煮え切らないのはわかっていたわ」
「アリス……?」
伝えなければいけないことを伝えて、今日はもう休もうと思う。
何せ、今日の夜、あたしは寒くて寝苦しいはずなのだから。
「言っておきたかったのは、これから、会うのが難しくなるってこと。それだけだから」
何者かの声にならない声は、誰にも聞こえはしないはずだったのに。それなのに、暖炉の火炎は唸って、見事にそれをかき消すように静寂を裂いた。酷く静かで、酷く五月蠅い。その中で、歯車が鳴るのがわかる。
その間隙にあたしは泣いて、そうして一種の覚悟をしたのだと思う。
あたしの瞳が捉える未来像は、犠牲の上に成り立っているのだから。
×××
家出十二日目。
夜。
サクラの家から帰ってすぐ、あたしたちはあたしたち自身に厳しくルールを課した。基本的にはあたしが提案して、それをノアが飲み込む形だったけれど、否定の言葉が出るとは端から思わないし、結果無かった。
そんな決めごとの中には、プライバシーに関わる事案もあった。
歯を磨く時には二人でコップ一杯の水を使うようにした。お風呂は週に一度、交替でサクラの家を借りることにした。トイレは一日一度だけ流すことにした。そうやって切削して出た必要分はすべて食料に充てることにした。
暗黙の了解であった事柄を、改めて文字に起こすと、使命感が酷く心を縛った。それを互いに慰め合うことで、繋がりの強さに変えて、あたしたちは生存を凌いだ。
全ての資金源であるノアにばかり負担をかけるわけにもいかないと、あたしはあたしで職に就ける場所を探して回った。つい昨日は昼間、買い出しに行くついでに、遠回りした。
分かってはいたけれど、なかなか思い通りにはいかなかった。
そこには父の根回しが無いとわかっているから、尚更悔しかった。
それでも、あたしはやめなかった。
やめられなかったのだ。この義務を。
そんな一昨日の事、ついに恐れていた事態が起きた。
ノアが熱を出したのだ。
幾らか予測はしていたので、精神面で対策することは可能だった。そのはずなのに、あたし自身も心労からか、いつも通り冷静に看病することができなかった。
体重も生理周期も大体同じくらいだと言うサクラから、解熱剤を分けてもらって難は去ったけれど、予断を許さない状況に変わりはない。この負の輪廻を断ち切るためには、やはり、安定した供給が不可欠なのだ。
だから今夜、あたしは歩き出すことにした。
そう。ノアを置いて。
それだけがネックだった。でも、仕方がなかった。
そんなことを、昔、誰かがしていた。
体が弱くて病気にかかって、お金も無いのに高い薬を買って来て。食欲がなくても食べやすいようなゼリーとか、好物のハラスとかも、探して来てくれて。
そうやって、また家を出て行って。すぐに戻るからという言葉を、信じられなくなって。仕方がないのだと言う言葉が、嫌いになって。それでも、その苦しみを、自分の苦しみと重ねて泣いて。
やり場のない気持ちの中、眠る少女は不安と安堵の境を彷徨うのだ。
そんな誰かの気持ちを、今、あたしは、漸くわかってしまった。
醜くて、面倒で、でも、ものすごく、愛おしいのだ。
だからこそ、自分の身など削ってしまいたくなる。そうすることで、あなたが幸せになるのならと、代償が小さく見える。
アプローチは違えども、根底はきっと同じなのだと思った。
「少し、行ってくるわね。すぐ、戻るから」
そしてあたしは、誰かと同じ台詞を吐く。
寝息を妨げないよう、あたしは二度だけ髪を撫でて、忍ぶように部屋を後にした。
このあたしが無策で危険を冒すはずはない。
前日、質屋の店長に面接を申し込んだ際に言われたことに、ピンと来たのだ。
なればと、あたしは急いでいるわけだ。
この身を捧げるのであれば、ちょうど昨日、お風呂を借りたのだ、この機を逃す手は無い。あたしはそこまで腑抜けていないと思いたい。いや、せめて、このブロンドが艶めいている間に獲得したい。
そこへ何か価値を見出すのなら、一度しかないということに尽きるだろうけれど、あたしにそれは必要ない。不要なものが、必要なものへ変わってくれるのなら、このチャンスに賭けると言う選択は間違っていない。
ああ。そのはずだ。間違っていない。
でも、はっきり知っている。正解でもない。
だとすれば、この身で試すしかない。待っている人がいるのだ、迷っている暇はない。
「へ、変ね。着込んできたのに……か、身体が震えるなんて……」
目的地が近づくにつれ、”遠い”は”近い”に変遷していく。それがまた、”遠く”なる頃、腕の裏辺りには悪寒を感じていた。目に悪いピンクネオンの街並みに、吐く息すらがくがくと音を立てて震えるのだ。不安も恐怖も、そこにはある。
あたしを前に進ませるのは、義務感、ただ一つだけ。
「こ、ここ、かしら……」
『遠い方』を抜け、賑やかな宿泊施設通りへ辿り着く。
今なら、まだ、仕方がないと言う言葉で片づけてしまえるかもしれない。
【あとがき】
アリスを操作できないのがもどかしい今話です。
ノアとの約束もあるのに、どんどん暗い所へ行ってしまいました。
何か、そういう夢を見ている気分です。
早く覚めるといいのですが。
次回は、夜の街にて。




