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Ⅰ Nature by Wonder

【まえがき】

 "生命の躍動とは自然の上に成り立つものである。"

 語られない美しさこそ、人が気付くべき価値なのです。

 

 収束のアリス編。

 どうぞ。



 

 


 家出七日目。

 未明。



「ノアの、お父さん――」



「人を……、人を、たくさん……死なせちゃったの……」



 まず衝撃だったのが、ノアの口から『父親』という人物像が登場したことだった。

 感情伝いで存在を認識していたことはあったが、ノア自身の言葉に彼の存在が認められたことは無かったのだ。だから、意識的にそうしているのだと思ったし、あたしはその情報に関して強く求めなかった。

 そうして追い打ちをかけるように、『死』という事実確認がやってきて、あたしは身動きが取れなくなる。無論、身も心も。

 でも同時に、物語の真相に触れたかのような解決感、解放感というものもあった。

 でなければ、あたしはこの子の傍にいて、こんなにも冷静でいられるはずがない。

「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ」

 そうだ。

 あたしは今、ノアの一番近くにいる。手を伸ばさなくても、声を掛けなくても、互いを感じられる場所にいる。この場所は、他の誰にも居座れないようノアが作ってくれた場所で、あたしもまた、そこでノアを受け入れる。

 あたしがノアの背中に手を回せば、心の距離感がそっくり現実に表れてくる。

 あたしはノアに言われた通り、ノアの小さな体ごと抱きしめた。ノアの嗚咽の震えが止まるよう瞬間的に強く、そして自分本位なれど優しく、あたしは一心に抱きしめ続けた。

 ノアの言葉は以外にもしっかりしていて、とてもよく伝わった。それが余計に心苦しかったけれど、彼女の大きな声は、あたしにとって嬉しいものだった。

「何でも言ってみなさい。あたしはここにいるから」

「ごめんなさい……っ」

「うん。わかったわ。ずっと、ぎゅってしててあげるから」

「うぅぅぅ……っ」

「そうよね。怖かったわよね。もう大丈夫よ……」

「アリスぅぅー……!」

 甘えと怯えとが合わさったような、今までノアの声を聞いてきた中でも、類を見ない声色だった。それでも、甘えの声も怯えの声も知っているからか、あたしは何となくノアの調子がわかった。

 あたしはノアをぐっと自分の側へ寄せて、抱えるように抱きながら頭を撫でた。ノアの胸ですら弾力を感じる程に密着することになる。少しばかり難のある右手の使い方だけれど、それでいい。

 尊さも愛しさも、今は全部肌で感じたいだろうから。

「甘えていいわよ。今日は特別」

「んん……」

 ノアとあたしの関係からすると、四六時中甘えているように思わなくもないのだが、改めて言葉にすると、その行為に分かりやすい意味が宿る。あたしは、”言霊”というオカルトを自分の都合の良いように解釈していた。

 信じてさえいれば、結果論というものもそこまで悪いものではない。

「アリス……。アリスぅ……アリスぅ……。好き……。アリス、アリス……っ」

「ちょっと。くすぐったいわよ、ノア」

 ノアは、ちょうどあたしの胸の中に埋まる様に顔を押し付けて、そのまま左右に首を振った。そんなに勢いよく擦って顔を火傷しないか心配だけれど、そうやって落ち着くのなら仕方ない。まぁ、厚手ではあるにしてもTシャツだし、大丈夫だと思うが。

 それにしても、ノアの動きがとても新鮮だった。

 あたしの想定外の行動というか、不随意的というか。他人(ノア)の意志で以って動いているから、全く予想できない瞬間があるのだ。それが危うくもあり、面白くもあった。

「ぎゅって、もっとして……」

「はいはい」

「んん……。もっと……。潰れちゃってもいいから……」

「わかったわ」

 潰れる程とまではいかないが、あたしは思い切りノアを包んであげた。ノアという存在がずぶずぶと自分の中に沈み込んでいくような感覚になった。委ねるのも受け入れるのも、同じだけの力がかかると、分かるものだ。

 ノアからあたしに充てられる、『想い』の大きさが。本質が。

 それは悲しみだったりするし、喜びだったりする。あたしを好きな気持ちと愛情を満遍なく混ぜて、最後に甘えたい気持ちと性に対する価値観を内側から外側に向かって鏤めて。

 全部見えた気がした。

 そう。

 ノアには今まで、誰にも甘えてこなかった。甘えられるような人が周囲に居なかった。あたしだけがその役割を担うことができたけれど、そうすることはノアにとっては複雑な事に分類される。

 出来るだけ同じでありたい『恋人』という関係。上下関係を持たない『クラスメイト』という関係。その全く逆の『主従』する関係。甘えるということに関しては、そのどれも相性が悪い。

 あたし自身がノアと『親子』ではないとわかっているから、それに対する明確な正答を持ち合わせてもいないし。

 不発の感情は結果として、キスに昇華した。

『甘え』になりきれなかったノアの『欲望』と、それに対するあたしの答えが、それだった。

 仮初であっても、『親子』になれる気がしたのだ。『恋人』であるから、義務に感じたのだ。

 そうやってあたしたちの関係は、惰性的に進んでいたのだと思う。

 でも、こうしてノアに触れてみると、あたしがいかに凍っていたか浮き彫りになっていく。ノアの温度で、一挙に溶けていく。それこそ、昇華する速さで。

 乞われなくても抱きたいし、あげられるものはすべてあげたい。もはや、この子の言うがままになっても構わない。この胸に感じる儚くも確かな鼓動が、愛しくて愛しくて敵わない。あたしのこの感情を知って欲しい。今、羞恥も厭わず曝け出したい。

 それでノアの『願い』が、あたしのものになる。いや、あたしの願いがノアのものになる。

 そのためならあたしは、太陽にでも月にでも牙を向ける狼になる。

「ねぇ。ノア?」

「ん……」

 おそらく世界で一番近い場所で唸るので、体中どこまでも響いた。今なら脚でも返事できそうだった。

 しかし、皮肉にも、言葉は”唇”から生まれる。

「キス、していい?」

「…………」

 ノアが口ごもるのは簡単に予想できた。

 だからあたしは、言下に添える。

「代わりに、あたしに話して欲しいの。少しづつでいいから」

「うん……」

 ノアの必要としているものを、あたしはできる限り与える。

 それだけのこと。それ以上の関係。

「それじゃあ、目を閉じて」

「ん……」

「ノアの心臓の音、聞こえるわ。すごく、速い」

「アリスも」

 無音と重なり合う命の響きは神秘的で、どっちがどっちの音かなんて、至極どうでもよかった。あたしのも、ノアのも、今、力強く生きているから。

 そういう意味で、部屋は無音にならない。

「いい?」

「うん……」

 それからゆっくりと、あたしはノアへと宥恕を運ぶ。

 なるだけ音が出ないよう努めても、仕方がない瞬間はある。

 それはお互いがお互いを赦した。

 息をつく間に、あたしは問うのだ。

「どうして、出て行ったの?」

 運動をしていない分ノアの方が、息継ぎが深い。

 背後で動く何かがずり乱れないよう、あたしはノアにすべてを合わせる。

 そうすると、カチカチとそれが回る感覚になって、頗る気持ちがよかった。

 すう、とノアが気を飲む。

「絶対、迷惑かけるって、思ったの。でも、違かったの……。アリスは、ノアのこと、ずっと信じてくれてたのに、ノアは……」

「いいのよ、ノア。こうやって、またあたしの隣にいてくれるじゃない。それで十分」

「本当?」

「本当よ」

「…………」

「…………」

 それからもう一度、二人で時を飲み込んだ。

 ノア風に言うならば、『それはノアの味がした』だろうか。

 今度は息をつくタイミングも、ぴったりと合った。

「ノアは、パパに何か言われて出て行ったのよね? それは、いつ言われたの? その時言われたこと、思い出せる? 無理しないで答えて?」

「うん。大丈夫。えっと……。ノアが出てった日の朝、ノア、アリスのお父さんに、呼び出されたの。それで、出て行けって……」

「急に?」

「あ、ううん。アリスのお父さん、公安でしょ……? それで、調べたらわかったんだって言われたの」

「ノアの父親が、人を……って、ことね」

「うん。それで、危険だから、家から出て行けって……。あ、でも、着替え準備する時間は貰えたよ……。教科書とかも、持って行っていいって……」

「何よそれ。追い出す気満々じゃない。鬼畜ね」

「……ううん。しょうがないと、思う……」

 いつになく素直に首を振るものだから、その姿自体に違和感があった。

 雇用主であると同時に義父とも見れる人物の一言なのだ、ノアのように気の弱い人間が何か言い返せるはずもないけれど。

 とは言え、やけに段取りが良すぎる気がする。躓きなく、ノアの排斥を遂行しているというところが、どうも腑に落ちない。それは、あたしの存在が証明しているのだ。これほど密着していたあたしの目を盗んで、というところが不可思議だ。不可思議でならない。

 以前に、しょうがないからという理由で少女一人を外に出すなど、至極ふざけている。

「しょうがなくなんかないわ。だって、ノアが何かしたわけじゃないでしょう? ノアのパパが何かしたのを知って、きっと、そのリスクを背負いたくない一心だったのね。仕方のない男だわ。欲に溺れて、情けない」

 そうはなりたくないと言っていたことすらも、きっと、忘れてしまったのだろう。

 もう、そんな人間に守られたくはない。

 そして、今度はあたしがノアを守っていくしかない。その権利も義務も、あるはずだ。

 そのために、あたしはノアのことについて知らなければならない。

 幸い、今、あたしには痛み分けの劇薬のレシピがある。

「ノアはたくさんって言ったけど、パパは何人って?」

「えと……。に、二十、二……?」

「えっ?」

 別に不吉な数字の羅列でもないし、予告犯のメッセージを解いたわけでもない。

 しかし、その数字を耳にして自然、当時のまま綺麗に掘り起こされる記憶があった。

「それって、まさか、あの事件の……」

「多分、アリスの言ってるので、合ってる……。事件って、言ってたし……」

 このタイミングでの調査といい、事件という大題。

 それはまさしく、ルートが世界を捻じ曲げることになった、『遠い方』での事件のことだ。

 犯人は一人の男性で、死者は二十二人。ターゲットは不特定で、犯人は警官に取り押さえられ懲役中のはずだ。

 あたしとルートの価値観での解釈になるが、あたしとリズは、その二十二人の命と引き換えに生かされていると言っても過言ではない。付け加えるなら、一度目の世界では射撃され死亡しているのだから、その男もだ。

 つまり、ノアのパパがノアのもとを離れたのは最近かもしれないということになる。

 にもかかわらず、今までノアの口から『父親』に関するワードを聞いたことが無いのはおかしい。それがおかしくないとするならば、それはそのまま世界の振る舞いの不自然さを立証する一題になりかねない。

 ノアの気持ちもあるから、あまり聞きたくはないが、これは義務なのだ。

「ノアは、ノアのパパのこと覚えてる?」

「んん。全然なの……」

「小さい時のことも?」

「う、ん……。小さい時は、いた、ような気がする……けど、いなかった、感じもする……。けど、多分、いなかったと思う……」

 何か肌に恐怖を感じることがあると、その出来事と一緒に関連する物事を完全に忘れてしまうことがあるらしい。もしかすると、ノアはそれなのかもしれない。

 あたしの”ノア知覚”でも、記憶までは探知できなかったのだ。ノアが自身の記憶から抹消しているのであれば、筋は通っている。

 偶然性が絡んでいるからなのか、どこかしっくりこない感がある。ピースがはまらないような。逆に、もっと非現実的な事が起きているような懸念すら否めない。

 だとするならば、何か希望めいた光のようなものが見えなくもない。

「じゃあ、ノア。少し嬉しい感情もあったんじゃないかしら」

「う、うん。少し……。お父さんは遠くに行っちゃったって、お母さんずっと言ってたから……。もう、死んじゃってるんだなって、どこかで思ってたの……。すごく悪い人なのかも、だけど、生きてた、から……」

「ノア、あなた……っ」

 本当に芯の強い子だと思ったけれど、あたしは口に出すのをやめた。不躾にそんなことを言い放つよりも、恋人のキスの方が百倍も千倍も、痛みを吸い出せる。

 一度抱きしめる工程を経て、あたしはまたキスをした。

 そのまま耳元で囁くのだ。

「大丈夫?」

「うん。平気。どっちかって言うと、アリスと……キス、する方が、変になりそう……かも」

「いいじゃない、変になったって。ノアがどうなっても、あたしはそばにいるわ」

「あり、がと……! 大好き……。アリス……」

 その後、ノアはすっかり眠りについた。

 その状態を守るために、抱きしめながら頭を撫でるあの難しい姿勢を、夜明けまでキープし続けた。あたしの睡眠時間は犠牲になったが、そうでもしなければ、ノアは眠れなかっただろう。


 ――ノアの父親が、あの『モール二十二名殺人事件』の犯人。


 ノアにそれを告げる勇気はあるくせに、弁明を聞く余裕はなかったのだろうか。そうして、唐突に事実を突きつけられて迫害されて、あろうことか、その宣告で父親の生存を知るだなんて、非情にもほどがある。

 けれど、可哀想と思うことは無い。

 同情から始まったあたしとノアの関係は、もうすでに、別の形へと遷移しているからだ。互いが互いを求め合うような、友情が懐かしく感じてしまうような、儚くてほろ苦い確かな情動とでも言えようか。

 だから、それに関しては特に言うことはない。

 事件に関して、靄はほとんど晴れたように思うのだが、まだ謎がある。

 どうしてこのタイミングでノアに言うのか、自分で逃がしておいてどうしてまた探すのか。

 かなり高い役職にいるパパであれば、その辺のコントロールは上手くできるはずだ。重要参考人が家の中にいるのだとわかれば、尚の事だ。

 業績のため? 地位のため? 正義のため? 組織のため? そのための、パパ自身のタイミング調整なのだろうか。

 まぁ、何にしても、今はこの状況を打破することが大先決だ。

「…………」

 それはつまりどういうことなのか、考えるのが嫌になった。

 散り散りになった今を元あった場所へ返すことは、あたしのしたいことではないからだ。

 ノアを見捨てるような人間のいる場所へは行きたくないし、ノアをそこに行かせるのも嫌なのだ。でも、その結果として”家出している今”があるわけで。

 裏返しにすれば解決するかもしれないのに、それをしないのは他でもないあたしだ。

 だからと言って、無策に溺れるのは本末転倒になる。

 家出とは、あたしたちの辿り着くべき場所ではなく、時間を稼ぐための手段なのだ。

 ノアが話してくれたおかげで、黒幕が怠惰な人間であるとわかった。

 ともすれば、この冬。

 自分たちの力だけで、生き抜くしかない。

 いや、生き抜いてみせる。



 

【あとがき】

 二人一緒でよかったと、書いていて切に思いました。

 これからかなりキスする回数が増えそうですが、どうか見守ってあげてください。

 それが彼女なりの、精一杯の、解釈なのだと思います。



 次回、生きます。

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