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Ⅱ 躁欒ドミナント

【まえがき】

 ノアアリ編です。

 メッセージを頂いたり、知人に声を頂いたりすると、特にリズが人気なのですが、私の一押しはノアだったりします。貧弱だったりネガティブだったりしますが、可愛さは特別です。

 あと、触り心地が良いです。

 色々と妄想を膨らませつつ……。

 どうぞ。



 

 


 家出二日目。

 朝。



 母が夜仕事を始めた四歳の頃から、自分は早起きだった。

 保育所へ行くまでの間、それから学校へ行くまでの間、少しでも長い時間一緒にいたいと思ったからだった。初めのうちは、それで満たされていた。自分も、母も。

 しかし、そのうちに母が時間をとれなくなっていった。その分、自分は削れるだけ時間を削って、母にあげた。

 そんなある日のことだったろうか。母に泣きながら「もうやめて」と言われたのは。

 それからというもの、母と自分が一緒に居る時間は一切無くなる。余った時間は『自分のため』という枠組みだけを残して、すっかり空洞と化してしまうわけだ。

 積もりに積もった(ほら)には、すぐ、虫が湧いた。少しの言葉を水に、膨らんだ欲望を餌に、それらはどんどん増殖した。出来上がった巣は居心地が良くて、自分はそこから抜け出せなくなった。

 幼い日、いじめに耐えられたのも、そういう絶対的な根城があったからなのかもしれない。

 余った時間が巣を広げ、塔を固めて、城を成す。

 食糧はすぐに底をついた。

 その時だった。

 一人の少女が「可哀想だ」と、自分の手を取ったのだ。

 少女は強く、繭の城も解けてしまうほど輝いていた。そして不思議だった。絶対的な根城が崩されていっているはずなのに、不安も恐怖もないことが。それどころか、一緒にいれば自分もそうなれる気すらした。

 虫でできた少女は、陰ながらにそう思ったのだ。

 できるだけ近く、長く、深く。生憎、余らせていた時間はたくさんあったから。

 そうしているうちに、変わった。

 誰かを、好きになった。

 そんなことを、思い出した。



「あら、おはよう」



 生まれて初めて聞くその言葉は冷たく、ひっそりと紙の匂いに滲んでいった。

 いつも目にする空とは違う景色の中で、自分の瞳は冴えわたる。髪を撫でてくれる主人の優しさを、精一杯読むために。

「え、と……」

 まずは、耳を見た。さらりと垂れ下がったブロンドを追うと、パジャマの襟元から覗く鎖骨が目に入る。いつも寝る時着ていたきめの細かいレース生地のではなくて、使い古された感のあるワンサイズ上のパジャマ。モノトーンのチェック柄という珍しい配色すら操るブロンドカラーは、さながら太陽のよう。

 書斎部屋だというこの場所に現れた、新しい光とでも言えるだろう。

「何。胸なんか見て。ノアらしくないわね」

「ち、違う……のっ」

 ルートのものを借りずに、ルートの母のものをわざわざ借りるあたり、何か目論んでいそうな気がしないでもないのだが。

 吸い寄せられないように、視線を背景に飛ばす。

 “戦闘メイドVS特捜部隊”というタイトルの小冊子が、いやに目を引いて困った。ルートの父の守備範囲の広さに感服である。

「まぁ、別にいいわよ。見たって触ったって、好きにして。減るものでもないし。逆に、減るものでも。今、あなたにあげられるものなんて、この()くらいしかないんだから」

 一つ息を吐いてから、アリスは言う。

 主人(アリス)に身体を捧げられてしまったら、自分(メイド)には対価を支払うことができない。その上、痛みという贖罪すら受理されないなら、権利を差し出すしかなくなる。

「アリス……」

「どうかした?」

 無償で振る舞われた微笑みは、受け取らずに。

「ごめん……なさい。ずっと、黙ってて……」

「ふふっ! いいのよ。あなた、もともと口下手じゃない。今更よ」

 それでも今は、あなたという主人に無償でついて行くしかない。

 いや、ついて行きたい。

「ね……」

「なにかしら?」

 二度捨てられる、その日まで。

「要らなくなったら、すぐ、捨てて……ノアのこと…………」

「…………」

 何か気に障ったのか、アリスは額に皺を寄せて、自分のことをきつく睨みつけた。自分はその瞳を、ただ見返した。そのまま透明になってしまいそうなほど。

 アリスが、ふっと吐いた息が頬を撫でた。

「あたしの唇をさんざん奪っておいて、その発言はないんじゃない?」

「ぅ……」

 微笑をもらすアリスからは、ほんのわずかだけ自分と同じ匂いがした。

 少なくとも、お互いの身体に染みついたこの匂いが落ちきるのを確認するまでは、息吹は続けなければいけないだろう。

 そう思って、試したくなった。

「あら素直ね。……好きよ、ノア」

「ノアも……」

 自分の布団を抜け出して、隣へ滑り込む。そのまま拒まれずに囲われて、寝床一つというスペースに収まる。必然を装って伸ばした両手は、アリスの腕と背中を覆っていった。そして、”アリス”の匂いを、存在を、必死で体全身に受けた。

 そうすることで、また、”自分”をアリスに与えることができる。

「いい、匂い……。アリスの匂い、好き……」

 これが最後になるかもしれない。

 思えば、アリスとの関係には常に感じていたかもしれない。いつ消えてしまうかわからないような”自分”という存在に、アリスの光は明るすぎた。ノア・グリニッチという影が、真っ黒い輪郭だけを残して消滅してしまう気がしたのだ。

 実際、自分には中身というものが無かった。そこに、強制的に詰め込んだに過ぎない”アリス”が、”ノア・グリニッチ”の幻影を見せてくれていただけなのだから。

「そう。ありがと。あたしも好きよ、ノアの匂い」

「アリス……」

 それが今こうして欲望に満たされて、希望がそれを肥大化させて、実感が袋の口を閉じた。

 心のどこかで、アリスも自分を求めてくれているような感覚。絶対的に服従し支配されているという、太く生々しい結束の力。そういうものが重さの無い枷となり、それは同時に精神を支える手摺にもなったのだ。

 恐怖が皆無だと言えば、それは嘘になる。

 しかし、”自分”を受け止めてもらえなかった時、日の当たらない場所へ身を投じる覚悟はできたと思う。そうして、空疎な影が暗闇を這う(かげ)となることを、漸く、認められるようになった。

 そういう意味で言うなら、今、怖いものは無いのかもしれない。

「ノア、もっと、アリスの匂い、嗅ぎたい……かも」

「ノア……?」

「首……」

「ちょっ、こら……!」

 背中を掴んでいなかった方の手で、そそくさとブロンドを掻き分けた。ぴくっとアリスが反応する間に、その隙間を縫って首元へと顔を割り込ませた。予定通りとはいかず、鼻よりも先に唇が着いてしまったが、全く構わなかった。

 今は、匂いも風味も同じようなものだ。

 一番初めに知ったのは、朝の彼女が仄かに甘いこと。次に知ったのは、少しばかりの汗ですら、自分には刺激の強すぎる火酒であるということ。自分というフィルターを通しているからか、その後についてきた芳香は、少しばかりアクが強く、酔った。

 あまり長い時間は舐めていられず、すぐ、早い息継ぎをする。すると、また、ぴくっと反応がある。そうやって奮い立って、また香る。目の前の幸福に流されて、悪酔いしてしまいそうだった。

 それでもよかった。

「別の、とこも……」

「ノア……」

 首のラインを伝って肩へ、そのまま脇のところまで来た。

 お酒というものを飲んだことが無いからわからないけれど、ウォッカをストレートで飲むような危険性がある感じだろうか。心臓が規定数を超えて脈打つ感覚。

 怖いもの見たさというとアリスに失礼になるから、飽くなき探求心が働いたことにする。

 嘘をついてまで潜り込んだ場所は、まるで砂糖のように甘く、ハチミツのように纏わりついてくる。それでいて、牛乳バターのような懐かしさと、焼けたパンのような真新しさとが混在している。

 この匂いを一言でいうなら、そのまま――



朝ごはん(トースト)できてるよー……」



 書斎の扉が開いていたのは、一体どのタイミングからだったろうか。極まりのよくない時機に、極まりのよくない場所へ、極まりのよくない人物が立っていて、大変に極まりがよくなかった。

 おまけに、鼻を弄んでいた香りはその扉の向こう側から、一度でわかるほど鮮烈に漂ってきているではないか。焦げた小麦のトースト(・・・・)の匂いが。

 掛け布団とアリスの胸とに挟まれた間から望むリズの表情は、興味と好奇のちょうど境目。進退を強行しない距離感と、咄嗟の行動は遺伝的にも思えてくる。

 誰かに見せるものでもないけれど、こんな姿はできれば見られたくは無かった。


「ノアさん、朝なのに、その……、すごく……激しいねっ」


 花柄のエプロンに袖を通したリズは、恥ずかし気に言った。

 忌憚のない追及に返す言葉は無いけれど、アリスのしたり顔には我慢ならなかった。



「いっ、いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」



 ノア・グリニッチは、この世界で誰よりも愚直に盲目に、最後はやはり虫のように主人を愛していた。



     △▲△▲



 長方形の天板を有したテーブルは重めの焦げ茶色で、作られてからどれだけの時が経っているか安易な想像をしては、都度頷けそうだ。年輪を読めば実が分かるのかもしれないけれど、表面の光沢を作っているニスは厚く、信憑性はそれほど高くない。

 ただ、それでも、ニスの表面の年輪にはため息が出そうだった。

 何かをこぼしたり汚したりして、その度拭いて。誰かが飯台にあがったのを注意して、叩いて。客が来るのをもてなすのに花を活けて……。少なくとも、この家族の(らん)の一部がその円状の傷に刻まれていると思う。

 果たして、その欒に自分がいていいものだろうか。

 昔から付き合いのあるアリスは何となくわかるけれど、今日初対面の自分を、そんな大切なところに招き入れても大丈夫なのだろうか。こんな疫病神を座らせて、力場が拗れたりはしないのだろうか。

 いつも以上に神経を尖らせていると、毛の逆立った二の腕を、唐突に背後から捕捉される。


「おはよう。あなたがノアちゃん? まぁ、可愛いわ」


「え、えっと……」

 明朗快活な表情と弁舌ぶり、はっきりした目鼻立ちは見覚えがあるような無いような。リズとルートを掛け合わせて二で割ったら、こんな人になるような、ならないような。以前に、そもそものルーツがここにあるような。

 だからか、その人が誰なのか言われなくとも自然とわかった。

「ごめんなさいね。急にこんなの、困るわよね。『新しいお友達すごく可愛いんだ』って、ルートが事あるごとに話していたから、ノアちゃんに会うの楽しみだったの。そしたら、こんなに可愛いんだもの、我慢できないわよー」

「んぅぅ……」

 顔を合わせて数秒で人一人を胸に収めてしまう展開力たるや、ルートの素直さとリズの表現力の根源足り得ていた。昨日は、早くに寝てしまって顔を合わせていなかった。

 それにしても、この包容力はあの二人のものを足しても到底足りない気がするのは、気のせいではない。肺と心が息苦しく、そう訴えていた。

「はい。おしまーい。本当はもっとしてあげたいけど、二人ともご飯まだでしょ? それなら、ご飯が先よね。それに、ノアちゃんにはアリスちゃんがいるし……ね?」

「なっ」

 するりと髪を梳いて微笑むその人には、きっとどんな力も敵わないだろう。

 そんなことを思わせる瞳をしていた。

 萎縮したのはアリスも同じだったのか、言葉で追いかけた割に、声色には覇気が宿らない。

「い、いいのかしら? 泊まらせて頂いた上にご飯なんて、もらってしまって」

「あらなにアリスちゃん。遠慮なんかしないでいいのに。ちょっと大人になって、ませちゃったのかしら?」

「い、いえ、違うの……。ただ、平日にもかかわらず、あたしたちが学校へ行かないのを何も言わないで享受するなんて、そんなの……」

「おかしい、よね。でも、いいの。確かに、アリスちゃんもノアちゃんも不思議に思ってるんだと思う。でも、アリスちゃん、『何する気だ』って睨んだりする? しないわよね。だったら、私はそれでいいのよ。私にはそれだけあれば十分、料理を作る理由になるわ」

 解答を求めたアリスの言葉に仕組まれた誘導灯すらも、拾って並び替えるくらいは平気な顔でやってのけてしまう。それこそ、文字通り”朝飯前”に。

 ルートの母はすごく強かった。

 こんな人のもとで育っているのだ、あの二人の強さの所以には頷ける。

「さて、と。ノアちゃんは、食べられないものある?」

 気を取り直す合図をするように髪の毛を束ねながら、ルートの母が尋ねてくる。

 食べられるものと食べられないものの境目すら怪しかった身上、そういうものはこれといって決めていなかった。厳密にはあるかもしれないけれど、アリスの家に来てからもアレルギー反応が出たことはないから、おそらくは大丈夫な体質なのだろう。

 首を二度横に振ると、「偉いのね」と優しく頭を撫でてくれた。

 何故か自分は頭を撫でられることが多い。

 人によって感触が違い、思う心も違うけれど、今回はその中でもどこか特別に感じた。

「じゃ。二人とも、少し待っていて。好きに寛いでいていいからね」

 何かいいことでもあったかのように、鼻歌交じりに部屋を出て行ってしまった。ふわりと、深みのあるコーヒーの香りを引き連れて。

 そういえば、ルートの家はコーヒー園を営んでいると言っていた気がするが、情報は定かだったか。広間にいる今はもちろん、入浴中すらも、あの黒い飲み物の匂いがしていた。

 リズとルートは鼻が慣れてしまっているのだろう。アリスも、何度も訪れているから、こういうものだと情報を飲み込むことができているのだ。

 往々にして、自分は慣れなかった。

 コーヒー自体は、甘くして飲むので嫌いではないと言える。匂いも、変に感覚を刺激しないし、むしろ落ち着く部類に入ると思う。こうして、家中がその香りで充満する体験はしたことがなかったけれど、これそのものは別に嫌ではない。

 慣れないのは匂い自体ではなくて、匂いが作る雰囲気だ。

 誰かの当たり前が、今ちょうど、自分の当たり前と拮抗しているから、妙な疎外感を感じているのではないだろうか。この匂いの充満する空間はすべて、この匂いに慣れている者たちの所属する空間であるということ。

 学校の廊下の壁が窮屈を匂わすのも、サクラの家が誘惑を香らすのも、きっとその機序だ。

 同じように、自分とアリスだけの空間もある――草臥れたマンションの一室、そこの物置部屋。確かに、あの空間には、自分とアリス以外は排他されるような力があるように思える。意図してでない、それでいて強力な力が。

 そう思うと、急激に吸気が途轍もなく重たく感じられた。息をしようと試みる度に、体ごと地面に引きずり込まれそうになる。

 そこには、懐かしさすらあったと思う。

 その時だった。


「はい。あーん」


 実際に重たい空気の中、顔をあげた先にあったものは、一口大の何かだった。その奥には、ルートの母が笑顔でそれを撮んでいる構図が見えた。

 まごついていると、その人は今一度タイトルを号した。


「はい。あーん」


 題の意味はよくわからなかったけれど、どう応えればいいかはわかる。

 差し出された何かの辺り、その人の周囲だけは驚異的に空気が軽いのだ。さっき、撫でてくれたからだろうか、その人の周りだけ、やけに桃色に霞んでいた。

 であるから、という前置を於いて、自分は自然的に生を求めたのだと思う。


「っんむ」


 舌の上に展延していく奥深い香りは、どこかで嗅いだことのあるようなノスタルジックな塩味。幾重にも積み重ねられた風味は、味という直接的見解をも覆す、どんでん返し的重厚なストーリーを想起させる。果物のように艶めいた甘さもあり、焼き物のように直情的なベクトルもある。引き立てられた根菜のようなものは、根菜たる証拠を残しながらも、えぐみも苦味も皆無。極めつけは、本来の触感が活かされた調理法にしてあるという徹底ぶり。

 口に入れてから食堂へと消えるまで、終始、発見だった。

 その何かは、魔女的な美味しさがあったのだ。

「これ、なに……?」

「今の? ブリ大根の、大根の方よ。さっきルーたちに持たせたお弁当にも入れたんだけど、どう? 美味しい?」

 どちらかというと、物ではなくて事に対しての疑問だったのだけれど、やはり伝わらなかっただろうか。

「ブリ、大根……」と、覚えたての単語を口ずさんでたじろいでいると、その人がこちらを見てにこりと笑んで、また魔女らしかった。

「ノアちゃんは、『あーん』ってやってもらったことない? ノアちゃんくらいの歳の子は普通恥ずかしがるから」

 先ほどの行為を、いや、厚意を指すのだろうけれど、その実は不明なので、頷けも否定もできない。端から記憶の中に無いのは道理で、首を傾げるに尽きた。

「あら、そう……。じゃあ、これからアリスちゃんにやってもらうといいわ。ノアちゃんもやってあげたらいいし」

「な、なんであたしまで……っ」

「そんなこと言いながら、こっそりやるのがアリスちゃんよねー?」

「な、なんでよっ。やらないわよ!」

 確かに、アリスが恥ずかしがっているように見える。

 自分はそんなことは無かったし、むしろ嬉しかった。単純に食が提供されたわけであるうえに、口元へ運ぶと言うこと自体が授受についての許諾になっているのだ。教養も暗黙の了解も必要としない、言わば『提案』という形。

 これはつまり、そういう行為なのだろうか。詳細はわからない。わからないが、アリスの表情がこんなにも緩んだのは初めて見た。

 要は『あーん』とやらは、試す必要があるということだ。

「私は好きなんだけどな……。まぁ、確かに子供じゃないんだし、一人で食べられるとは思う。でも、これって愛のおすそわけだから。愛は人にあげても減らないんだもん、おすそわけすれば増えるのよ。好きな人となら、尚更ね?」

 物理法則を容易く捻じ曲げた発言だが、言わんとしていることは自然と理解できた。愛とは超常的なものだと信じているし、そう実感もしているから尚のこと。

 愛という情念がそういった壮大な力であると感じている瞬間だけは、か弱い自分も強く大きくなれていると思う。アリスの隣に居れるくらいには、身も心も。

 食卓へ並べられた料理は、アリスの家に比べれば遥かに少量で、非情に主観的だろう。けれど、料理の並んでいる位置はアリスからも自分からも同じくらいの距離にある。しかも、自分がその一杯をスプーンで掬って、アリスの口元へ運べば、それは愛になるらしい。

「ね。アリス」

「な、なによ」

 もしそうなら、最後にはそうして同じスープを啜るのも悪くないと思った次第だ。



 ――こんっ、こんっ。



 アリスの気が抜ける瞬間を見計らって『あーん』を試行しようと目を凝らした矢先のこと。

 廊下の奥の方、おそらく玄関の方から金属が硬いものにぶつかる鈍い音が聞こえた。ちょうど、アイスリンクでストーンとストーンが衝突した時のような、黒々とした緊張感があった。

 アリスの家と同じノック式のチャイムだろうか。

「ベルチャイムじゃないってことは、お店じゃなくてうちに用ね。こんな朝早くに、誰かしら。牧場のメイリーさんは今日じゃないって言ってたし……っと、ちょっと出てくるわね。二人とも食べていてね」

 自分たちがここにいるというタイミングも相俟ってか、保護された空間の入り口を開けられることには若干の抵抗があった。開けてはいけない、開けるべきでないのような、虫の知らせとでも言えるだろうか。

 アリスも何か思うことがあったようで、表情が暗い。

「嫌な予感がするわね……」

「そう、かも……」

「十五分」

 ぼそりと時間が聞こえる。

「え?」

「十五分戻ってこなかったら、どこかに隠れるわよ」

「う、ん……」

 機嫌の悪い時以上に眉間にしわが寄っていて、訳を聞いても答えてくれなさそうだった。もとより、アリスの勘は良く当たる。以前に、アリスの言葉はどんなことがあっても信用しているのだ。諄々(くどくど)と詰め寄る謂われも無い。

 小計画を構えていると、ルートの母がすたすたと居間に戻って来た。

「二人とも、暫く外出を控えた方がいいかもしれないわ」

 唐突に聞いた口調は険しく、事の重大さを感じさせるようだった。

 しかし、それに対しての驚愕や動揺というものは限りなく小さく収まった。

 アリスは平静を装って尋ねるが、その食は細い。

「来たのは、誰? 用件は?」

「黒い服を着た人達よ。ノアちゃんのことを探しているみたいだったわ。何十人もいたからびっくりしたけど、知らないことにしておいたわ。あんな怪しい恰好してるんだもの、易々と教えられないわ」

「そう……。ノアを、ね……」

 また、何か重たいものが自分に圧し掛かったように感じた。今度は、自分から遠い人物も巻き込んでしまった。代償は小さくなるどころか、大きくなっていく。

 それは、償わなければならない。

 少なくとも、一人で。


「なるほどね」


 そんな暗雲を一挙に晴らすが如く、アリスの一言は凄まじく冴えた。

 捨て駒にされる可能性も考慮しつつ、自分はアリスの瞳を見つめ返し、それから等しく愛した。

「あたしが目的ではなくてノアが目的……にも関わらず学校から離れたウェール家を訪れたということは、少なくとも詮索方法が学校単位ではないということね。背理的に、あたし伝いでの情報を元にここへたどり着いたと言うなら、黒服の正体にも合点がいくわ。大勢で移動していることを考えると誰かの指示に従って組織的に動いていて、かつ正体を掴めていないといったところね。写真すら持っていなかったみたいだから」

「ど、どうするの……?」

 いつ、何を、どうするのか、まとめて訝ったつもりだった。

 解っているのか否か、アリスは小さく頷いて手を握ってくれた。

「大丈夫よ。あなたはあたしが守るわ」

 約束のキスを求めるには、少しばかり口の中が塩辛過ぎたから、手を握り返すに留めた。

 仲介したルートの母は、その慣性力さえも見越して、結論を急ぐ自分たちに歯止めをかける。

「出て行くなんてダメよ。危険すぎる」

 最もであった。

 しかし、その危険は分散してはいけない。掻い摘んだ一部と言えど、簡単に分け合えるような代物ではないのだ。

 伝えたかったそのことを、アリスが代弁する。

「これ以上、迷惑はかけられないわ」

 浴びせかけてしまった借款の大きさに懺悔しては、まさにその言葉に尽きた。

 自分たちがすぐにこの場を去るということが、そのまま、責任を返還させるということになる。一番わかりやすい、等価的代償の形なのだ。

 そこへ水を差す想いは、確固たる思いをふやけさせる。

「それで出て行ってケガなんてしたら、もっと迷惑になっちゃうでしょ? それじゃ、アリスちゃんの言っていたことがそのまま総崩れになるわよ。そもそも、二人を危険な目に合わせるなんて、看過できないわ。親としても、人としてもね」

 そうして言葉を信用しきって殻に閉じこもれば、確かに被る痛みというものは少なく済むかもしれない。けれど、そうやって外界からの光さえも閉ざしてしまえば、肝心の欲望すらも影を失くすことになる。アリスに会わせる顔が無くなる。アリスに、好きと言えなくなる。

 そう教えてくれたのは、他でもない、この人の子供なのだ。

 だからだと思う。

 確信的な当事者意識が、自分の原動力になった。


「ノア、それでもいいっ!」


 自棄ではない。それでいて、打算的でない。

 利己的でない。それでいて、絶望的でない。

 そういう気持ちが、弦を張った(うつわ)のように声を奏でたのだと思う。


「アリスに、ついていきたいのっ!」


 振幅の見えなくなるまでずっと、半永久的に、自分の言葉が響くのを感じていた。誰かが共鳴してくれることを、ただ只管に祈りながら。

「ノア……」

 アリスは静かに聴いて、優しく観想した。

 その数秒後だったか、ルートの母が重々しく口を開いたのは。

「そっか……。んんー……。でも、ノアちゃんがそこまで言うなら、分かったわ。アリスちゃんもきっと、考えあってのことだと思うし。でも、そのかわり、ケガだけはしないようにね」

「勿論わかってるわ。でも、ごめんなさい……」

「謝らないで。あなたたちは、まだ子供なんだから。我儘でいいの」

 もし、口を噤むのも開くのも許されるなら、またアリスの手を取って歩きたい。叶うはずもない願いが叶うような気さえする、途方もない未来の話をしながら。

 今、ゴールを見据えるのならば、果たしてそこは温かいだろうか。この冬のように寒いだろうか。

「それでアリスちゃん、これからどこへ向かうつもり? コーヒー園の移動販売で、荷車を出すんだけど……それ次第では行先も変えられるわよ。アリスちゃんは知ってると思うけど、夕方頃にね」

「荷車ね……」

「アリス……?」

 時間帯か、移動速度か、人力かもしれないことか、何か腑に落ちないことがあるようで、アリスの返答は俄かに淀む。

 それでも、再び考えが纏まるまでの速さは、さすがアリスだった。

「ごめんなさい。荷車は遠慮しておくわ。それと、場所も教えられない。もしもの時、疑いたくないの……」

「やっぱりアリスちゃんは優しいね。うん。そっか。わかった。それじゃあ、私はガーデンの小屋の方にいるから。あとは好きにしていいからね。念のため、出て行くときは裏口を使うといいかもしれないわね」

 ルートの母が指差した方は、確かコーヒー園がある方だ。

 なるほど。ガーデンはこの家に面しているし、自分たちが家を後にする様子を遠くから確認することができるというわけか。おまけに、表立って外に出なくともよい。

「ええ。ありがと。それじゃ、先にお礼を言っておくわ。ほら、ノアも」

「え、あ、うん……。あ、ありがと、う……」「急だったのに泊めたりしてくれて、ありがと。助かったわ。また、遊びに来るわね」

「はーい。勿論よ! ノアちゃんも、また来てね! ……よーしっ。手入れ手入れー」

 台所に行ったり玄関の方に行ったりしながら、日除け帽子や剪定バサミを装備して、たちまちいなくなってしまった。

 ルートとリズを掛けて二で割ったのが母だと感じていたが、あながち間違ってはいないと思う。いつも通りの、一人になりきれない感覚に似たものを受容した。

 そんな自分の隣には、いつもアリスがいた。

「さて。ノア。ご飯を食べたら、行くわよ」

「うん。でも、ノアたち、出てったら、鍵、大丈夫……?」

「今はルートのお父様がいるはずだから、泥棒は問題ないわ。エッセイを書いてるらしいから、留守番の機能は低めだけど」

「いたんだ……」

 父親、という存在を見たい気はするけれど。

 それは今度、また、二人で遊びに来た時にしようと思う。

「えと……。それで、どこに行くの? あっ、ノアは、別に、言わなくても……ついて、行くよっ」

「そう。それはよかった。ありがと、ノア。あなたがそう言ってくれると、あたしも安心できるわ」

 アリスが息をつく調子はどこか遣る瀬が無くて、今なそらその髪を撫でられそうな気さえした。この弱々しく穢れた枯れ木の手で、触れるはずはないけれど。

 けれど、ついて行こう。実は結ばれるのだ。

「誰にも見つからない、かつ宿泊するのに十分な空間。殊更、信用のおける人物の管理下にあること。そして、いざとなったら身を隠せる、学校から近い所在……」

「そんなところ……」

「あるわ。一カ所だけ」

 鋭く突き立てられた言葉には、割に希望という温度が無い。

 そうして、冷たく言い添えられた口調は静かに、堆積してゆく雪のように、仄暗く温かいように思えた。



「あなたも知っている場所よ」



 

【あとがき】

 今回、少し動きがありましたね。

 このくらいのローペースこそルーモスらしさです。

 一日って、思ったより長くて、思ったより短いのです。

 そんなことが表現できていれば幸いです。


 次回、二人はどこへ……?

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