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Ⅰ 禁隷ネイチャー

【まえがき】

 ここからノア編です。

 ノアに視点変更致しますので、抒情表現のオンパレードです。

 独特な擬音語があったりなかったりです。その辺も整理して読み進めてみてください。

 あと、カウント始まります。


 どうぞ。



 

 


 家出一日目。

 昼過ぎ。



「ちょっともー。早くしてよー」

「少しずれるから、半分ずつ使ってみる?」

「うちのシャワーはそんなに射角ないよ。洗う、流す、替わりばんこしかないの」

「だよね……というか、わざわざ四人で入らなくてもよかったんじゃ……」

 湯気で半曇りの鏡面越しに視線を感じる。

 自分は何かを言うべきなのだろうけれど、その何かを言える立場にない。黙って、その人と向かい合うしかできない。

 お湯がいつも以上に熱く感じるのは、冬だからだろうか。その人の体と触れ合ってしまっているからだろうか。“想い”からだろうか。それとも――。

「それにしても驚いたよ。まさか登校途中、二人が木陰に倒れてるなんて……」

「話しかけても反応しないしさー。頑張ってうちまで背負ってきたけど。私たちまで泥だらけ。あんなところで何やってたの? まさか野外プ――」

「逃げてたのよ」

 その人の言葉を合図に、しとっ、と一瞬だけ風呂場の時が止まったように感じた。

 浴槽に溜められたお湯に映った、自分とその人との距離感を推し量る間に、水の流れる音が世界を再開させてしまう。

「アリス、誰かに追われてるの? ……まさか。ノアさんがいなくなったのも、それと関係してるとか……?」

「教えないわ」

「えっ……。どうして?」

「巻き込みたくないのよ。あたしの(・・・・)問題に」

 そう言って、その人はこちらへ足を延ばしてきた。サクラのログハウスのように広くないから、互いに避けようと意識しなければどこかしらは確実に触れ合う。

 身構えていたつもりはないのだけれど、いざ、その人の足が腿の裏を掠めると、ぴくりと体全身で反応してしまう。答えてはいけないのだ。そんな資格など無いから。

「ノア……」

 鏡に逃げても水に逃げても、まるでだめだった。不自然に目を閉じることもできない。

 それならばいっそ、沈むのはどうだろう。

 覇気の抜けるような熱さの中に思い切り身を投じてしまって、感覚というものはさっさと捨ててしまうのがいいだろう。自分という(おもり)だけ残して、遠のいていく感情とともに存在すらも圧縮されてしまいたい。

 させまいと手を握るのは、また、その人だ。

 大好きな、大好きな、恋人(アリス)なのだ。

「この子が何か話してくれればいいんだけど……」

 身体全体を両脇から覆われるように、ゆらゆらと胸に抱かれる。柔らかい腕の感触と優しい肌触りが、沈みゆく自分という存在に鎖を巻く。アリスとの間にあるものが温水であることも相俟って、逆上せてしまいそうだった。

 そうして、俯くしかなかった。

 自分の胸の前で交差するアリスの腕がいやに細く見えるのは、光の屈折のせいだ。

「ノアさん……大丈夫なの?」

「この通りよ」

「え。なになに? ノアさん、喋らなくなっちゃったの?」

「近い状態ね」

「あれ? でも、アリスならノアさんのことわかるんじゃ……」

「それが、失踪以来伝わってこないのよ」

「それじゃあダメか……」

「えー……。せっかくノアさんがうちに来たのに、そんなのつまんなーい」

 冬の風呂場には、やはり温度差がある。

「リ、リズっ!」

「なによー。だって、今日はお泊まりになるんでしょ。これからいっぱい遊びたいじゃん。主にノアさんを弄る方向で」

「こらっ。その前に僕たちは学校に行かないとでしょ? それに、遊ぶのは宿題やってからだからね」

「ケチー。今日くらい休んじゃおうよー」

「ダ、メ。僕たちは用事も何もないし健康なんだから、ちゃんと行かないと」

「なんだよぅ。妹と風呂入ってるくせにー。ルーの担任だった先生にバラしちゃうよー」

「そ、それは……っ! べ、別に、全然っ? いいけど……っ?」

「はいはい。仲が良くていいわねー。そろそろ交替してくれないかしら? さすがにふやけるわ」

「あ、ごめん……」

 絞っていた蛇口を緩めて、シャワーを全身一通り潜らしてから、ルートとリズが浴槽の方へ寄ってきた。一連の動作が﨟長けていたから、そういう習わしなのかもしれない。

 二人はアリスもろとも自分も、陸へと引き上げるように催促する。

 立ち上がるくらいは自分でするべきと思っていたのだけれど、上手く足に力が入れられなかった。出遅れたらしいことに気付いたアリスは、自分の脇の下に腕を入れて抱きかかえるように立たせてくれた。

「…………」

 言葉は、見当たらなかった。

 簀子の敷かれた床は冷たくないけれど、その隙間に飲み込まれそうな恐怖を感じた。

「ほら。前向きなさい。あたしが洗ってあげるから」

「…………」

 そんな資格はないのだと、()った。思ったが、言わなかった。

 こんなガラクタを磨いても意味はないけれど、空ろながらも方向をもった意志はある。

 羞恥心という箍の無い今だからこそ、なのかもしれない。

「ん……っ」

「痛かった? じゃあ優しくするわね」

 アリスの手が目の粗いタオルのようなものを纏って、自分の全身を這い回る。初めからアリスは優しいのだから、痛いわけはない。でも、すごく痛い。

 そう。出会った時からずっと。

「すごい……。なんかアリスが優しくて別人みたい……」

「う、うるさいわね。本当は嫌なのかもしれないけど、ノアがこうなったのはあたしが原因なのよ。仕方ないじゃない」

 そんなことはないのだと、自分が一番よく知っている。

 アリスは世界で一番、誰よりも、ノア・グリニッチに優しかったのだから。

 でも、言葉は見当たらない。喉に薄くて強固な幕が下りているような感覚になる。

「ねぇねぇ。言葉を話させればいいんでしょ。簡単じゃないの? そんなの」

「だったら、こんなことになってないわよ」

「もー。アリスお姉ちゃん、わかってないなぁ。簡単だよ簡単。キ――」

「この子とあたしがキスすればいいとか言うんでしょ? あなたのことだから」

「うっ。ちち、違うし! もっと簡単だもん!」

 ぱしゃぱしゃと荒れるので、こちらまで飛沫(しぶき)が舞う。

 大袈裟に盛り立てられた場の雰囲気は、彼女の大言を期待している。

「あんまり聞きたくないんだけど」

 アリスの作った選択肢を拭い払って、彼女は自分を指差した。

「そう。私と、するんだよ」



「「「え」」」



 一体感は即座に散開しながらも、余韻は糸で繋がっているように伸びていた。

 アリスの重い溜息が、張りつめた糸を裁断する。

「はぁ……。何言ってるのよ」

 ルートの微笑の奥底は陰っていて、とても黒く見える。

「ははは……。何言ってるの、リズ……」

 確かに、何を言っているのだろうと、思ってしまった。

 彼女の中で口づけという事柄が、どういうことに当たるのか、疑問だ。

「ほ、ほら。こないだの夏合宿(バカンス)の時さ、一緒にお風呂入ったじゃん? その時の感触が、実は忘れられなくてー。その……。ちょっと、良かったかもー、って……ね?」

「ね? じゃないわよ。見なさい。ルートがただならぬ形相で水面を睨んでるわ」

「と、とにかくっ! するの! すればいいの! すればいいんでしょ!?」

「滅茶苦茶ね」

「いいのっ。わかったら、アリスお姉ちゃんと私の場所交換ね!」

「リ、リズ……? 無理はしなくていんだよ?」

「はぁ……。それをあなたがリズに言ったらダメでしょ」

 アリスはシャワーで体を一通り流すと、すぐさま水を止めてしまう。面倒だと口にしながらも、そのまま湯船の人員と乗り換えを果たしてしまった。湯船から出て来たその人は、どこか委縮しているように見えなくもない。

 話の流れが掴めないまま、事は過ぎようとしている。

「えぇぇぇぇ!! ほ、本気なのアリス!?」

「なによ。五月蠅いわね。まだ朝方よ」

 朝方にしては浴槽の温度が高めに思えたのは、きっと気のせいではない。

「いやいやいや! だって、ノアさんはアリスの彼女だし、リズは……」

「僕のだから……って? 別に、あんたのもんではないと思うわよ。なに口説いてるかわからないから、一概に言えないけどね」

「そ、そうじゃないけどさ! この複雑な光景を目の当たりにするのは相当きついよ!?」

「あら? そうかしら。あたしは別にいいと思うけど。したいことをすればいいと思うわ。なんなら、あたしたちもしましょうか?」

「冗談やめてよっ! それはカオスすぎるよ!」

 何を言い合っているのだろうと首を傾げていたら、誰かに真っ直ぐに正された。

 目の前にいたのは、ルートの妹であり恋人でもある、リズという少女だった。

 当然だが、全裸だ。

 おかげで、この光景には思い当たる事故があった。

「お姉ちゃんたちうるさいから、勝手に進めちゃおっと」

「…………」

 あの時の瞳は確か、塞がれていて無だった。

 それが今は、真剣と諧謔を足して二で割ったような、収まりのよくない眼差しであるように見えた。これからすることに意義を見出せてはいるものの、そのあとの結果がどうなるかは考慮しない時の表情らしかった。

「ねぇねぇ。キス、何回したことある?」

「…………」

 それと似た風情の悪戯話がエレメンタリーの時に流行っていたような気もしないでもない。

 もとより答える義理は無いけれど、あくまで目は背けないでいた。

「なんか子供くさいこと聞いてしまった……。でも、絶対百回はしてるでしょー」

「…………」

 その人は、ははは、と瞳で息をついて。

「じゃあ、ノアさん。ノアさんは、私のことどう思ってる?」

「…………」

 今度は妖しく機嫌を伺うように。

「ふーん。そしたら、目は閉じてね。私も後からそうするから。雰囲気大事ねー」

「…………」

 他人の言動に槍を突き立てたいわけではないので、言われた通りにする。

 改めて、湿った肌の感触が頬を撫でた。それでも、濡れたままの髪を梳くのは難しくて、ちょうど耳の前の毛が頬に吸い付く様になぞられてゆく。

 アリスがよくそうしてくれたのとは、違う感情が湧いた。

「じゃあ、ノアさんがリードしてね」

「…………」

 感じたことのある中でも強烈な印象の記憶が、まず脳裏に浮かんでくる。その日の前日、その日の後日、と順に記憶が掘り起こされていく。同時に、自分視点での感覚だけがそこから切り離されていくような感じがした。超常的潜在的な力を、根こそぎ奪われるかのような、そんな得も言われない感覚だった。

 ただ、それを受け入れるかそうしないかは、自分で選ぶことができた。

 誰かとの繋がりを持つという意味合いで言えば、どちらの選択をしても同じこと。優劣など無い。

 それなのに、自分の中の誰かが否定をした。

 どこかの誰かのために、どこかの誰かの上書きはしたくないのだと。



「だ、だめ……っ」



「あぅ」

 腰の傍にぶら下がっていたはずの両手が、いつの間にか胸の前まで来ていた。おまけに、そこにいた人物の肩辺りを押し出した形跡があるではないか。

 何もした覚えがないので、すぐさま、周囲の状況を確認した。

「あ……」

 鏡に映し出されたのは、時の流れよりも遥かに無責任な重罪人の顔だった。自らの命の重さを勝手に決めつけ、償おうとする意志すらも無い。そんな表情が見て取れた。

 でも、それだけではなかった。

 瞳越しに像を結ぶ姿が、途轍もなく温かくて、少し恥ずかしかった。

「えっ。躱すの? ちょっ、まっ、恥ずかしいからやめてよーっ。私だけ、欲タカリみたいじゃんか。もー、無理矢理にでもしちゃお!」

「や、やめて……っ」

 それが欲集りなのではないかとという真っ直ぐな疑問(ベクトル)で、出された胸を押して返した。

「あれ、ノアさん……?」

「そんなバカな」

「バ、バカだなんて、アリスお姉ちゃんひどい。ノアさんも避けるしひどいなぁ」

「えっ……ごめん、なさい……」

「別にいいけどさー」

「リズ。あなたって、馬鹿なのか天才なのかたまにわからない時があるわ」

 何かに導かれて、誰かのもとへ帰る。自分が誰かもわからないままに。リズに導かれて、皆のもとへ帰る。少なくとも自分が” ノア・グリニッチ”であると信じながら。

 決して許されたのではないけれど、何か吹っ切れたような気がした。

 欲望という強大な意志の塊を目前にしたからか、自分の中にあった意志のベクトルに力が宿ったのかもしれない。誇れるほどの意志はないし、揺らがない強靭な心もないけれど、思えば欲望は確かにあった。

 どうして掴めなくなってしまったのだろう。

 自分が見失ったからだろうか。

 それとも、誰かが奪ったからだろうか。

 だとすれば、誰が、そうしたのだろう。

 ベクトルは、簡単にその答えを示してしまうので、遣る瀬が無かった。そこには逆説も背理も必要としない。いきなり出た結論に、納得する自分がいる。

 自分はそのまま矢印の向く方へひたひたと歩いて、また、その人の隣に居るだけだ。

 それは何かに縋るのではなく、ただの死に場所選びに他ならない。



 

【あとがき】

 シリアスとコミカルが入り乱れる中、かなり肌色成分多めだったと自負しております。

 裸の付き合いという言葉があるらしいですが、それよりも素晴らしい「吊り橋エフェクト」という言葉があったりします。今回はちょっぴりその応用でした。

 今章は、他の章よりも「体」についての表現が増えると思います。

 恥ずかしいこともあると思いますが、心とは切っても切れない大事なものなのです。


 それでは次回、「ノア編続き」です。

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