Ⅵ Unfair on Farewell
【まえがき】
ノアの奪還に成功したアリス。
青春です。
どうぞ。
サクラのログハウスを出ると、すぐに元の場所に出た。時差は多少あるかもしれない。
とりあえず、ノアを裸で移動させるわけにはいかないので、部室に寄ってジャンパータイプのユニフォームを着せた。
それから家までは、早足で帰った。
熱り立っていること以外、理由は無かった。
あまりに露出しすぎているからか伝わっているようで、ノアは一言も話さなかった。それでも手を引くと、重くも軽くもないベクトルのままあたしについてきた。
だから、あたしも特に振り返らずに、真っ直ぐ歩いたのだ。
暫くして、玄関の扉の前に辿り着く。音をたてないようにノブを引くと、鍵が閉まっていることがわかる。巡回のメイドが施錠したのだろうと思う。昨夜開けておいた裏口も同じなようだった。
何となくこれは免れないだろうと危惧していたから、さして焦りはしない。
あたしは正々堂々と玄関のチャイムを押した。
この時間であれば、父も母もまだ起きてはいないはずだ。早朝の来客はメイドがすることになっているので、出てきたメイドに協力を仰げば気付かれずに家に入れるはずだ。
この子を連れて。
「…………」
おかしい。
ノアを追い出したのが父ならば、あたしはどうして、またここへ戻って来てしまったのだろう。ノアに何かあるかもしれないからと、踏み込んだ捜索もしなかったのに、結局ここへ連れて来てしまったら、何の意味も無いじゃないか。
それならば、ここではないどこかへ行けばいい。
ここではないどこか、とは?
あたしはどうして、ここへ来てしまったのだろう。
「ナイブス家に何か御用でしょうか……あら? アリス様に、ノア様……?」
開いた門から、見覚えのあるメイドが出て来た。最近従事することになったうちの一人で、同い年か一つ二つ下くらいの子だったから、印象に残っていた。
室内から漏れ出た生暖かい空気が、身体を覆うようにぶつかってくる。
「どうかされましたか……って、えっ? どうして外に……?」
「ただの散歩よ。気にしないで」
不信を抱くのも無理はない。
ただ、散歩は散歩。結論を急ぎたい。
「それより、あたしを中に入れて。二人に気付かれないように」
「ご主人様ですか……? えっと……。はい……。了解しました」
ゆっくり扉を開くと、ギィと音を立てて軋むことを知っているのか、そのメイドはすっと扉を開けてくれた。
あたしはドアを跨ぐまで、宙に漂う最善策を見ていた気がする。それなのに、ノアが扉を跨いだ時にはもう、それは見えなくなっていた。
そのせいか、行きの扉が締められることが、途轍もなく怖かった。
「旦那様はおそらくまだ寝ておられます。今でしたら、アリス様も部屋に戻れるかと……」
「扉はこのままにしておいて。すぐ戻るわ」
「かしこまりました……」
「ありがと。ノア、行くわよ」
踏み切ってしまったのだから、進むしかない。
大義名分を失ったとて、あたしはここへ無策で来たわけではない。
音を立てないようにすり足で、騒ぎを起こされないようにメイドの目を盗んで、あたしは自分の部屋へと駆けた。
厨房前の廊下を抜けて二階へ上る。二階の奥の部屋があたしたちの部屋。その向かい側の部屋が、二人の部屋だ。それぞれ、出入り口は対面していないので、今起床したとしても、入れ違いを狙って一度だけ抜け出せる。
「さぁ、着いたわ」
相変わらず重さを持たないノアに声をかけるよう言いながらも、あたしは振り返らない。
ドアを開くと、今朝飛び出してきた時のまま、部屋はあたしを待っていた。
雑に折り返された掛け布団を擡げて、あたしとノアがそこに挟まれば、途端にいつも通りの風景になるだろう。思わずイメージした構図があまりにいつも通りで、ありもしない時差に感覚が狂いそうになる。
時差ぼけを直すのに時計を見ようとも、今、それを信じられるほど余裕は無かった。
「悠長にもしていられないわね。さぁ、ノア。まずは服を着るのよ。それから、旅行用のセットを……」
「……や……め」
「ノア……?」
「やっぱり……だめ……」
「何が……ダメなのよ」
「全部……。だめ、なの……。守って、もらうのも、もう、だめなのぉ……。好きなのも……。全部……。わぁぁぁぁぁん!!」
ノアは表情を両手で隠して、その場にしゃがみ込んでしまった。
あたしの前でこんな風に泣くことは今までにも何度かあったけれど、そのどれとも似ていなかった。感情をため込んで爆発させるこれまでの涙とは、形も色も温度も、全部違っていて。
あたしはこの涙の拭い方を知らなかった。
そして、ノアも教えてはくれなかった。
「どうして、何も言ってくれないのよ……」
サクラの家からノアを連れ出した時と似た感情が、瞬間的に湧いた。
それは、一方的に情報を知らされない時に、あたしが他人にする対処だった。
あたしは洋服棚からノアの服をとって、それを強引にノアに着せた。自分が乱暴なのを見せつけるように、あたしはノアを初めて雑に扱った。シャツに袖を通す時、スカートを履かせる時、ノアの軽い体重はあたしの手で左右に揺れた。
どうしてか感じる優越感の中に、罪悪感はすっかり埋もれていた。
「はぁ……」
これで、とりあえず、家に来た目的は果たせたと言える。
衣服の調達、資金の確保、それくらいだが。
ノアがここを出て行くと言うのなら、あたしはそれに同伴する資格がある。目的の無い場所に、あたしは留まる理由が無い。
自分の布団の乱れを直して、あたしたちは部屋を後にする。それから、玄関で待機させたメイドのところまで急いだ。
「待たせたわね。もういいわよ」
「はい……。あの……アリス様」
策があって引き留めている風ではなかったので、立ち止まる。
「様はやめて。はぁ……。何かしら?」
「もしかして、家出、なされるのですか?」
“家出”とは、確かに言い得て妙だと思った。
そう題するのが許されるのならそうしたいところではあるが、生憎、それすらもわからない。
「散歩よ。ノアの行きたいところに。海、山、丘……川、かもしれないわね」
「で、ですが……!」
個人的にあたしに畏敬の念をもって接してくれるのはありがたいけれど、あたしが欲しいのは、そういう上方ベクトルの意志ではない。そう言いつけているはずだ。
ああ。
言いつけている、のか。あたし自身も。
「ええ、そうね。傍から見れば家出かもね。でも、違うの。そうじゃない。あたしはこの子の行きたい場所に行くつもりなのよ。でも、そこがどこだかわからないの。だから、散歩よ」
「散歩……」
何日か考えて出た結論でもない、不落の論理が伴っているわけでもない。その言葉には、深い経緯など無くて、こんなメイドにすらも説破されてしまい得る。それでも、いや、だからこそか、あたしはその言霊を繰り返す。
「それなら聞くけれど、あなたは、この子がどこへ行きたいかわかる?」
「それは……」
「わからないわよね。それなら、これは散歩よね?」
「わ、わかりました……。ご主人様にはそうお伝えします……」
どうせ隠しても、じきに無駄になることはわかっている。
それならば、言伝に嘘を吹き込んでも仕方がないと思った。
「それじゃ、行くわ」
会話という繋がりを断つように事務的に吐き捨て、あたしはドアの隙間を潜る。いまだ変わらないノアの気持ちに答えるためなのだと、他でもない自分自身に言い聞かせながら。
その矢先だった。
「どこへ行くつもりだ」
遠くから聞こえた声はあまりに聞き慣れ過ぎていて、誰のものであるかすぐにわかった。同時に、こちらに向かって廊下を歩きながら、それを話していることもわかる。
今、あたしはこの場からすぐに立ち去るべきなのだ。
にも拘わらず、あたしはそうしなかった。
ある意味で最後のチャンスなのではないかと、思ったからだった。
「さぁ。知らないわ。この子の行きたいところに、行くつもりよ」
あたしの声が届こうが届くまいが構いはしないが、下手な口述はしないでおく。
この時点で、あたしは限りなく無策に近かったと思う。
「……どうして連れ帰った」
敷居を隔てた位置から、何の圧も無く訝られる。その口調は確かに重く、聞き古された乾きがある。あたしは正直に答えることもできるし、嘘を繕うこともできる。
敷居という境界を意識しつつも、あたしは淡々と答える。
「ノアはあたしの恋人よ」
ノアはあたしを必要とし、あたしはノアを必要とする。そういう、“居場所”のようなものを互いに共有しているのだ、と言って伝わればいいのだけれど。
そうは問屋が卸さない。
「学校はどうする気だ」
その程度の諮問であれば、多少は覚えがある。
「学校へ行けば、どこへ行ってもいいのかしら」
揚げ足をとられた父は強く息を吐いて。
「ダメに決まっている。いいから戻りなさい」
その言霊の矛先は、仰々しくもあたしへ向かっていた。
言葉の綾に罠を仕掛けられるほど口が達者ではないはずなので、あたしはストレートに矛盾性を責める。
「それなら、どうして追い出したりなんかしたのよ」
別段、泣いて詫びて欲しいとか、そういうわけではなかった。何か特別な反応が欲しいかと言うと、不思議とそんな感覚はないのだ。
そういう、想定外の反応を除いて。
「その子のためだ」
もう、我慢ならなかった。
自棄であると称されれば、それはそうなのだと思う。
はじめてノアにキスをした日の感情と、本当に似ていた。
本気で誰かに怒りをぶつけるとか、心が揺らいで自然と涙が出るとか、日夜触れたくなるほどに誰かを愛おしく思うとか、あたしにはそう言うのは無い。だから、こういう感情たちに名前はまだ無い。
だから、今は、誰かの言った名前を借りて自棄でもいい。
怒りでも悲しみでもない、呆れでも愉しさでもない。大きくも小さくもない、暗くも明るくも黒くも白くも無い。形があるのか、それは長さで表すのか深さで表すのか。ましてや、向きなど無い。その“自棄”というものはたちまちにあたしの心を占拠して、統治していったように感じた。
暫くすると、それは心からも溢れた。
「それなら、あたしも出て行くわ」
自分の中にあった無策の策と、その“自棄”はよく混ざった。
よく混ざって、固まった。固まって、あたしの盾になった。
「お、おいっ! 待てっ、アリスっ!」
あたしは盾を手に入れた。
そう確信した左手に重みは無く、ただ冷たい雫と噎せるような殸だけがあった。
あたしは憚らず、遮二無二道路を駆け抜けた。
西に、東に。
そうして、疲労した。
目的地が無いのだから、その疲労に意味は無い。あたしはそれでもいいけれど、ノアはよくない。
それならばと、あたしは仮の目的地を設けた。
「とりあえず、あなたの家に行って休みましょう」
休むと言うのが、一体どれくらいの期間のことを指すのか、自分でもわからなかった。
何泊するかを伏せられてホテルに行くような不安はあるものの、疲弊には勝てない。
とりあえずの目的地に向かって、歩くスピードを調節した。
あたしの家とノアの家はそこまで距離が無いものの、重い体を引きずって歩けば数十分はかかるところだ。積雪はないが、低い気温下では体の動きも鈍る。
腕時計を忘れたことを思い出したのは、その時だ。
憶測二十分、ノアの家が見えてくる。
築年数を伺いたくなるような草臥れたマンションで、道中に見える大型マンションとは違って部屋数もかなり少ないし、今明かりの灯っている部屋自体少ない。あたしは来慣れているから何も感じないが、普通の人なら嫌悪感を抱かざるを得ないだろう。
その二階部分の一室が、ノアが母と暮らしている家になる。
マンションが近づくと、少し様子がおかしいことがわかる。
明かりの灯っている部屋が少ないにもかかわらず、マンションの前に二十名ほどの人が屯している。居住者全員が外に出て来たにしては多すぎるし、何より黒服に身を包んでいるのが怪しい。おまけに手袋までしている。
葬式にしては賑やか過ぎるし、手袋は必要ないはずだ。
「何よ、アレ……」
こんなことは、今までになかった。
今までになかったことが、あたしの身近でもう一つ起きている。
第六感に他ならないが、そこに妙な繋がりを感じて、あたしは自然と隣のマンションの影に身を潜めていた。
そこで初めて、左手に重みを感じた。
すかさず、あたしは振り返る。
「大丈夫。怖くないわ。あたしがついてるから」
「ん……」
ノアは酷く安心した表情で、あたしの手を強く、そして重く握り返してきた。
自分が安堵したのがわかった。ただ、表情までどうなっているかはわからなかった。
しかし、こうしている場合ではない。
得体の知れない集団の間をすり抜けることほど無益な行いをするつもりはない。一刻も早くこの場を去るべきだろう。
静かにノアにそう伝えると、頷いてくれた。
そうしてあたしたちは物陰を伝って、もと来た道を戻っていった。
「はぁ……はぁ……」
戻り道を半分ほど来たところで、嗚咽するのとはまた違った荒々しい呼吸が聞こえてきた。
あたしがしたのではないので、誰のものかすぐわかった。
「疲れたわよね」
「…………」
何か後ろめたさがあるからか、ノアは何も言わずに遅い呼吸をした。
そんなことをされて、あたしは盾を翳さないわけにはいかない。
「そこの木陰で少し休みましょう? ね?」
力なく頷くノアの小さな手は、今までで一番重たくて冷たかった。
夏にならないと葉すらもつけないのか、あたしたちが寄りかかった木は細くて鋭利で、歓迎されている気は全くしない。あっちへ行けとばかりに地中から突き出した根の上に、わざわざ座ってやった。
布団程の柔らかさは無いにせよ、落ち葉が良いクッションになる。
ノアを横に寝かせて、あたしの太腿を枕にした。
「…………」
「…………」
冬の朝とは相当静かで、ノアの心音が太腿を伝って聞こえそうだった。それを数えては、あたしの鼓動と比べるけれど、意味は希薄だ。
そういうことを、以前もしていた気がする。
ノアの家の狭い部屋で。二人しか入れない空間で、くっついて。いつでも温かくて。特別な感情などなくて。ただ、幸せの時間がそこにあって。
そういうことを。
ああ。それなら、いっそ。
いっそのこと、このまま行き倒れて、この木の養分になってしまってもいいかもしれない。
そうすれば、一生そのまま。ずっと、一緒に居られるかもしれない。
「ノア」
「…………」
「今、キスしてって言ったら、してくれる?」
「……でき、ない……」
何を言っているのだろうと思った。
これではまるで、盾があたししか守らないようではないか。
あたしがしたいのは、保身などではないはずなのに。
「ノア」
「…………」
「ここで、あたしと一緒に死んでくれる?」
「…………うん、いいよ」
何を馬鹿なことを言っているのだろうと思った。
あたしの盾が、あたししか守れないガラクタだったからだ。それならばいっそ、捨ててしまおうと思ったからだ。
それで誰かが何かを思うとすればきっと、この子が愛してくれるはず。
それだけあれば、今は十分に感じた。
もはや、あたしにはそれしかないのだろうけれど。
一つの歯車が朽ちて、残りのすべてが狂っていく感覚。そう表現しても、全く過言ではないと言い切れる。誰も信じないと言うのなら、あたしたちが命という器で以って提言してもいい。
あたしはノアを信じるし、ノアもあたしを信じてくれる。
歯車が二つしかない世界なら、どんなに楽か。
でも、ノアはそれを増やしたのだった。
誰かに心を開くということ、それこそが新しい歯車が回り始めるということ。そうすることであたしが止まるわけではない。むしろ、自分のもつ歯車が大きく回りだすということ。
そうした結果が今、ではないのだと思いたい。
だからもし、仮に潤滑剤のような希望が、この世に存在するならば――。
「あれ? アリス……?」
「と、ノアさん?」
【あとがき】
終末感漂うところに、仏の光ですね。
ここで二人が発見されないパターンも、きっとあったと思います。
そんな気がしてくる、限界点の今話でした。
次回は結構肌色です。




