Ⅲ Look for Friend
【まえがき】
アリス編に戻ってきました。
寒くなってくる時節、温かくして読みましょう。
今回、アリスが始動です。
では。
「ナイブスさん、そっちお願い」
「…………」
体中に纏わりついたこの束縛感を形容するなら、重力が何倍もある天体の地表に立ったかのよう、だろうか。果てしない諦念と一周回った絶望には、重力という名前がついている。
「あのー。ナイブスさん……?」
「…………」
これは多分に、あたし以外の人間があたしに対して齎しているものであって、他ならない。
たった一つの抜け道に逃げ込むとするならば、若干の代償は見過ごさなければならない。文字通り。
ただ、本当にそうなのか。
あたしが、あたしにそうしていたら、逃げても戻っては来れない。
「ナイブスさんっ。このままだと……! あ、ほらっ。いっちゃうよ!」
「…………」
ごつ、という低い音が足の裏を伝って、神経をも鳴らす。途中、鈍い痛みに変わったかと思えば、遂には頭の中心を掻きむしるかのように尖った。
立っていられなくなったあたしは、その場にしゃがみ込んだ。
「ああー……。失敗だぁ。やり直しだよー……って! ナイブスさんっ!? 大丈夫っ!?」
「…………」
誰かを毒にかける者は、必ず解毒剤を所有していると言うが、どうにも見当たらない。
見当たらなければ、代替品を使うしかなくなる。
それこそ、少しでも触れれば大層に危険な、甘い猛毒などを。
「頭、痛いのっ? セ、センセーっ! ナイブスさんが――」
「…………」
言葉を、表現を忘れたわけではない。
ただ、代償が怖いだけ。返答が、怖いだけ。
「ねぇ、大丈夫っ? 背中摩る? よしよし」
「…………」
それから限界が来て、あたしは少しの間だけルートの感覚でいた。
氷上でなければ、二度と目覚めなかったかもわからない。
「お。起きたね」
女性らしく細長いながらも丸みを帯びていて、とてもよく使われた感のある声が、あたしに向いていた。
視界一面が物々しい天井だったので、すぐに意味を理解した。
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいのに」
先生はそう言うけれど、これはあくまで、部員としての言葉だ。
大方、次は保健体育の先生としての言葉があるだろうか。
「最近、ちゃんと寝てるかい?」
「いつも通りよ」
あたしの観ない間に、あたしは四肢欠損などしていないか、念のため確認しながら答える。身体の内部のことに関しては、もはや気に留めない。
先生は少し疑り深く寄ってくる。
「いつも通り、寝てないのかな?」
「どうかしら。寝ているつもりでも、そうなっていないのかもしれないわね」
そこはあたしにもわからない範囲なので、語尾を濁す。
拗れたことが特別嫌いそうであるから、このような過程など、意味を為さないのではないかとは思うが。
紡がれる言葉には、意外性も何もなかった。
「ここ最近、ミス連発してるよね」
「反省しているわ。本番までには必ず何とかするつもりよ」
あたしは立ち上がり、来月にある中規模大会を見据えた一言を吐き捨てる。
現在進行形で練習しているチームメイトたちからすれば、こんなにも弱いエースは不要かしら、と青白いリンクを睨みつつ。
一瞥した先生の表情こそ、腑に落ちなかったが。
「なんとか、ね……。確かに、ナイブスさんならできちゃいそうだね……」
「当然よ。しますから」
出来る限り事務的に答えると、逆に先生は熱かった。
「でもね、違うんだよ。先生ね、今は結果よりももっと、過程を大事にしてほしいと思うんだ。まだ一年生なんだから」
リンクが溶けてしまわないよう、あたしは静と務める。
「ああ。追随を許さない個人よりも、崩れないチームワークの方が強いって、いつもの熱いあれですか。言っていることは、理解できるわ。でも、結局は結果だと、前のコーチは言っていたわ。現に勝てているコーチと勝てていないコーチ。選ぶなら、あたしは前者ね」
「ナイブスさんは、いっつも手厳しいな……」
瞳が潤んでいるようで、言い過ぎた感は否めない。
生徒が先生に気を遣う意味はもはや理解不能だが、あたしなりの優しさを示しておく。
「あたし、勝たないと怒られたので。昔は」
そんな簡単な話ではないと、少し悔しいけれど、先生には関係は無い。
前回の練習試合、このチームへ来て以来初めての敗北を味わったツケを払わせようと言う根端だったのだが。
思ったよりも機嫌は取れたので、良しとする。
「そっか……。そうだよね。ナイブスさん。ものすごく上手だもんね」
「そうでないと、勝てないのよ」
敗北という言い訳に埋もれている人間になら、尤もらしい嘘を教えるよりは、経験した真実を説いた方が適当だと思った。
どれだけ努力しようとも、結果が出なければ、努力は認められないのだ。無駄だったとマイナスになることすらない。ただ、ゼロになる。やっていないことと同じ。
だからこそ、結果は出さなければいけない。
「でも、ねぇ。ナイブスさん……?」
結局、結果が無ければ、意味は無いのだ。
それも、出来るだけ多く。誰かの目に留まるような、確実さと迅速さで以って。
そのためには、過程を――
「ナイブスさんは、それで楽しい?」
いつの間にか、先生は笑顔であたしに聞いていた。
結果を射止めるためのプロセスに、楽しいもへったくれも無い。そう言う持論をあたしは持っていたはずなのに。
どうして。
楽しい今日と、楽しくない今日を比べてしまったのだろう。
「――っ」
思わず息を飲む。
勝手に、言い負かされたような気持ちになる。
「なんか、ノアさんが部活に来る前のナイブスさんに戻っちゃったなーと、思ってね」
「…………」
そんなのはあたしが知ったことではないと、目で言う。
先生は、はははと小さく笑って答えた。
「ナイブスさん。チームのみんながね、ノアさんが来てから優しくなったって言ってるの。それで連携がしやすかったって」
「あたしのせい、ですか」
違うとわかっているのに、何故かそう言われている気持ちになった。
あたしが、あたしに暗示しているからだった。
「違うよ。そうじゃない」
先生の言葉ごときで、暗示が解けるとは思えない。
でも、熱があれば、氷は解けて水になるのかもしれないけれど。
「もっと、皆のこと、頼ってみたら……?」
そんなこと、氷漬けのあたしにできるわけがない。
孤独という薄い膜を凍結させ続けてきたあたしにとって、あの子一人背負うのだって、やっとだったのだ。それが急に増えるなど、もっての外。
逆に、氷点下のあたしから滴る冷酷な雫に迷惑するだけなのではないか。あるいは、あたしの不慣れな気遣いに、不安定な意志が結露するだけではないか。
それこそ、勝利から縁遠くなる。
「勝って評価されるのが楽しいんじゃなくて、みんなでやって勝つから楽しいんだよ」
勝つためには、努力が必要で。どうして勝つのかは、評価されるためで。評価されるためには、努力が必要で。どうして評価されたいかは、もうわからなくて。わかるためには、努力が必要で。どうしてわかりたくないかは、リンクサイドに書いてあって。リンクサイドには、誰もいなくて。
ああ。
一体何をしているんだろう、あたしは。
友情だって愛情だって、上手く使えば勝利に近づけるだなんて、そんなこと、とっくに知っている。今までだってそうしてきたのだから。そのために、こんなにも時間をかけて。
何を焦っているのだろう、あたしは。
この時間が一番無駄じゃないか。
「ごめんなさい。あたし、疲れているみたい……で。今日は、もう、帰ります……」
そう言う結論に至った以上は、あたしは眩暈未満の仮病以上で演る。
「調子、戻らなそうかな? どうする? 暫く休む……?」
「ええ。そうするわ。次の試合までには戻るから」
「そっか。それじゃあ心配いらないね」
大概、先生もあたしを過大評価しすぎだ。
×××
さて、今日からは、放課後の時間が三時間ほど伸びたことになる。
ただ、疲れは確実に日々溜まってきていて、一段と億劫がっている重力を実感する。結果の出ない失望感も相俟って、もはやあたしを動かすのは責任感だけになる。
それだけでは、見つかるものも見つからない。誰かと勝ってこそ勝利なのだと、そんなことは、言われずともわかっているつもり。あたしにできないことも、誰かができれば、それはプラスに働くのだから。
そう言うわけで、あたしの行き先は学校の外に出ない。
天井裏と壁の中以外を探しつくした廊下も、こうしてプロセスを変えて見れば、陰りが伺える。校舎に何か秘密があるかもしれないと、幼稚な考えまで浮かぶ。探していなかったところは無いだろうかと、意識が前を向く。
そういう探し方だって、あって損は無い。
そして、一人でなければ急ぐ必要は無いのも道理。
「失礼するわ」
二度、ノックをしてからドアをスライドする。
一瞬、温かい空気が肌を撫でた気がしたけれど、錯覚だったようだ。
如何にも経費削減の至りであろう、暖房のついていない八畳ほどの部屋。空気の動きが殺されたこの場所には、纏まりの無い書類群とは裏腹に整然とした紙の香りが留まっている。光は一つの窓に集約され、それが動的に部屋を分断しているように見えなくもない。
数秒で埃が積もるのではという不衛生な長テーブルには、席が三つ設けられていて、そのうち二つはすでに埋められている。
情報に埋もれたここ――生徒会室に立ち寄ったのには、当然ながら訳があった。
「あ。アリス。どうしたの?」
まずあたしに声をかけたのは、幼馴染でもあり副会長でもあるルートだ。
あたしが自発的にこの時間に来ることはまずないからだろうけど、少しばかり不安げな問いかけであるには違いない。
生徒会とて、一生徒ではある。重々承知でここへ来ているのだ。
「ちょっと用事があるのよ」
当たり前のことを、強く言った。
そうすると、何かに反応したのか、テーブル奥の眼鏡をかけた女生徒がおもむろに本を閉じた。いよいよもって眼鏡を外す。
「あら? アリスちゃん? どうした? まだ部活じゃないのかね?」
今しがた読み耽っていた小説の登場人物の口調でも映ったのか、おかしな口調ではあるけれど、とりあえずは生徒会長だ。色々と足りない部分が多そうな人物ではあるが、ルートは絶大な信頼を置いていて、あたしもそれなりに重鎮だと思うことにしている。
合ったその日からちゃん付けで呼んでくるフレンドリーな人柄ではあるが、そういう配慮もあってか、あたしと割と距離はある。
「今日は休んだわ」
事務的な口調で答える。
会長の答えに熱があるせいで、部屋の寒さが余計に際立つ。
「えぇっ!! 休みかい!! どうしたの、今日は! んっ!? 用事でもあった!?」
「よくいる親戚のおじさんみたいになってますよ会長。あ、それでアリス。生徒会に用事?」
「じゃなきゃ来ないわよ」
「だよね。ははは……」
「それもそうだよなー。あっはっはっは!」
現時点では障害でしかないけれど、あたしの事情を知れば、この人もきっと手を貸してくれるだろう。でも、微力でしかない。あたしの力が及ばない。
それではだめなのだ。
猛々しく響く笑い声の一切をかき消すように、あたしはできる限り鋭利な言霊を乗せる。
「副会長、借りてくわね」
しん、と本棚が軋む音がした。
割って聞こえてくるのは、あまりに品の無いパートナーの謎めきだ。
「へっ? 僕?」
あたしに誰かを震わせる才能は無いけれど、手を引いて連れ出す努力はできる。
多少強引に鞄を準備させて、あたしはルートの腕を掴んだ。
抵抗も合意もない、中途半端な重さだった。
「ちょちょちょ、アリスちゃん!? 駆け落ちなの!? 駆け落ち展開始まったの!?」
「違うわ。少し、探し物を探すのを手伝ってもらうのよ」
あたしがそう言うと、自然、ルートの腕が軽くなる。
表情を見るとやる気に満ち溢れていたので、それならばと、そっぽを向いておく。
「探し物っ!? それってまさか……。愛、とか言わないよねっ!?」
「愛、ではな――」
「もう古いんだかんねそんなのっ! 近頃はね、もっとこう……アレなんだからねっ!」
「ルリ会長……。思いつかないなら言わないでください……」
〈これ以上はアリスが怒りそうだ〉と言う理屈には溜め息が出るけれど、さすがだとも思った。伊達に長い付き合いではないな、と。
「なんだとー」という合図を皮切りに、長編小説を朗読しているのではというくらいに雑言が飛び出す。
ルートが、その中を踏み慣れた足取りで掻き分けて突き進んでいった。
「ルリ会長。今週の仕事はあらかた終わってますので、アリスの手伝いしてきますね。仕事が増えたら来ますので、その時は呼んでください。でも、会長の仕事はちゃんと自分でやってくださいね」
「来期のイベントスケジュールは……」
「それは、さっき会長が本を読んでいる間に終わりました」
「新年度の予算案は……」
「それは会長のお仕事だと思います」
鬱憤を晴らしているような構図ではあるものの、邪心が無い。
生徒会長自ら招いたことだから致し方ないが、この学校の一生徒としては見苦しいことこの上なかった。
それだけ、副会長の存在が大きいのかもしれないけれど。
「すみません。行ってきます」
「うわーん。寂しいよー」
わざとらしく突っ伏す会長を、副会長は苦笑いで見ていた。
「あはは……。サクラがいればよかったんですけどね。今日は、早めに帰っちゃったみたいで」
「サクラちゃん、最近早いよね。ワシは悲しいのじゃぁぁ……あっ。まさか、彼氏か!? 彼氏なのか!? いや、サクラちゃんは彼女か……? 今頃、リゾートでいちゃついてるってことかっ!? くそぅ。まぁでも、サクラちゃん可愛いしな。男子が黙ってないよなー。はぁぁぁぁぁ……。なんでワタシには――」
「行きましょ。ルート」
「うん。行こう」
そして、あたしは――あたしたち二人は、生徒会室を後にした。
この後の宛は無い。宛は無いが、目的はある。
探す力は増えていない。増えていないが、瞳は倍になった。
力なき者に歩幅を合わせるということ。誰かを頼るということ。それはつまり、歩みを遅らせるということ。でもそれは、確かに進んでいるということ。
結果というものに向かって歩くなら、一人より二人。
【あとがき】
さあ、アリスが動き始めました。
どことなく漂う安心感……さすがアリスです。
ルートの協力も得て、ノア捜索完遂なるか……!
次回、ルートと一緒に探します。




