Ⅱ 繋がることが、明日になって。
【まえがき】
四日目ですからね。注意です。
時間は早く流れます。
ど.
四日目。
昼。
「自分ちに入るのにこんなに緊張するなんてね」
「そ、そうだね」
ただいまと口を揃える前、玄関の扉に手をかける時から、すでに軽く震えていた。いつぶりになったか、二人で手を繋いで家に帰ったからというのもあるけれど、それよりも不安が勝ったと思う。
昨日の夜、アリスとノアの二人に一部始終を話したら、「家族に伝える」というアドバイスを貰った。許してもらえない覚悟で話すことになるけれど、気持ちを知ってもらうことができるし、伝えることで色々吹っ切れるとのことで、リズと二人で納得して今に至る。
おかげで、いつもなら安心する母の声も、耳の奥の方ではひっそりと拒んでいそうだった。
「あら。おかえりなさい。早かったじゃない。夕方頃戻る予定じゃなかったかしら」
台所の方から、エプロン姿の母が出迎えてくれる。
髪を結んでいて、さらには左手に菜箸を持っている。僕たちの前に立ち止まると、ふわりとバジルの香りが漂ってくる。我が家の休日の定番昼食パスタの支度中だろうか。
「あ。うん。ちょっと忘れ物」
このあと、また戻らなければならないから、二人で口裏を合わせてそういう設定にした。
このまま玄関に突っ立っているわけにもいかないので、もう一度「ただいま」と返事して、そそくさと靴を脱ぐ。「とりあえずただいまー」と、リズも続く。
「忙しないわねぇ。何を忘れたの?」
「えっと……」
「下着」
母に差し止められる僕の横からリズが捨て台詞を吐いて、そのまますたすた歩いていく。
急いでいる感じがするのは、時間があの場所よりも早く過ぎるせいか。
「あら? バッグにちゃんと入れといたわよ。五日分」
「プールと温泉に毎日入ってたら、採算が合わなくなったのー」
限りなく嘘に近い真実なので堂々としていられるけれど、言っていることはかなり混沌としている。思わず笑ってしまいそうになる。
リズが洗面所の方に消えると、僕に飛び火した。
「ルートも?」
「ま、まぁ、うん。そんなとこ。あははは……」
「あら、そうだったの。ふぅん……。プールと温泉ねぇ。あなたたち、道理で……」
「えっ……」
唐突に、母の視線が僕の爪先に飛んでくる。そこからじわりじわりと上に移って、僕の目のところで暫く止まった。仕上げと言わんばかりに、母は多少強引に僕の頭を撫でくり回した。
恥ずかしさと緊張で、酷く動悸がした。
「どどどっ、どうかしたの?」
「道理で、なんだか懐かしい匂いがすると思ったのよ。誰かにシャンプーを借りたのね」
コーヒー園を経営しているからか生来か、母は鼻が利く。それはもちろん、色々な意味で。
そういう前置きなのかもしれないので、僕はまだ気を抜かない。
「ああ、うん。借りたよ。サクラの」
「お友達?」
「うん。アカデミーで同じクラスになった……ほら、前に話したでしょ? 和っぽくてトラブルメーカーの」
「噂の子ね。でっ、可愛いの?」
「うん。すごくかわ……って! そ、それは、僕に聞くことじゃないってば!」
「そうなの。すごく可愛いのねぇ。うふふっ」
不敵に笑う母の表情は、今まで通り一ミリも読めなかった。
何に対しても泰然自若な態度を貫く瞳には、もうすでに真実が映ってしまっているのではないかという気さえしてくる。これまで、一度たりとも隠し事が成立したことが無いから。
まあ、今日、端から隠そうとは思っていないのだけれど。リズも僕も。
ただ、下着を回収する時間くらいはあってもいいと思うのだ。
「桜ちゃんだっけ? その子の家はどこなの?」
「えーと……木の、上? ログハウス? どっちだろ。というか、あれは家なのかな」
「まぁ。随分クリーンな家なのね。ご家族は?」
「まだ見てないかな。多分、出張か何かだと思う」
サクラはそこに関して全く触れようとしないし、話題が出るとすぐに脱線させてしまう。
そうする詳しい理由はまだわからないけれど、余計な情をかけてサクラに負担はかけたくない。だから僕は、いつかサクラの方から話してくれるのを待つことに決めているのだ。
「そう。それは可哀想ね……。それなら今度、うちに連れていらっしゃい。少しは寂しいの忘れられるでしょ? もちろん、桜ちゃんが来たかったらでいいわよ」
「うん! ありがとう。今度誘ってみる。サクラなら絶対来るよ!」
そして荒らすよ、特に僕の部屋を……とは、一先ずは言わないでおく。
「桜ちゃんはボディタッチ激しめなんだっけ?」
「う、うん。まぁ」
以前、サクラを話題にしたときに、それに準ずることを発信した覚えがあるが、そんなにストレートには表現していなかったはずだ。
鋭い洞察力はさることながら、記憶補間能力も誰かと似てかなり前衛的である。
「それなら、その子の髪を触る時は優しくしてあげなさいね。肌ももちろんだけど」
「ん? どうして?」
過剰なくらいがちょうどいいと思っていた手前、疑問が生じる。
口から出任せなど発しているはずもなく、母の言葉は母たり得た。
「髪の毛がとっても繊細だからよ。その子。多分、肌も」
「繊細? ダメージに弱いってこと?」
ガサツとまではいかないけれど、その表現はサクラには不似合いだと思ってしまった。神経質なイメージの強い言葉だからだろうか。あの寛容な笑顔には見合わない気がするのだ。
その前に、一度も会っていないはずの母が「どうしてわかるの」かというところを、率直に聞いてみたくなる。
「それはもちろんわかるわよ。あなたたちも、昔使ってたんだもの。同じシャンプー」
「あ。そうなんだ。ということは、僕たちも髪の毛が……?」
今まで気にしたこともなかったけれど、もしそうなら、ガサツな扱いをしていたのは僕の方なような気がしてくる。
「そんなことはないわ。ちゃんと立派に育ったもの、二人は」
「二人、は……」
意味ありげな笑みに不信感を抱きつつも、僕は少し照れて見せた。
でも、対称となるサクラはどうなのか心配になってしまって、何となく表情は晴れなかったと思う。
母は、一瞬、正面から視線を逸らして言う。
「乳幼児用なのよ。そのシャンプー」
「そう、なんだ……」
薬用成分が少ない造りになっているくらいだろうから、僕のような健康体の人間が使用するのに問題はないはずだ。けれど、その健康体の中でも飛び切りの健康体であろう人間がそれを使用しているということへは、若干の衝撃を受けた。
でも、なるほど道理で。
今思えば、ビーチにいた時もバーベキューをしていた時も、一貫してパステルグリーンのパーカーを着用していた。あのサクラの性格からすると、せっかくのリゾートなのにも関わらず露出が少なかったように思う。ずっと木陰にいたようだったし、屋外に長くいたような気もしない。
つまるところ、あれは自己管理だったわけか。
もしかすると、学校でいつも身なりがきちっとしているのもそのせいかもしれない。
「あのサクラが、ねぇ……」
「ま、そうじゃなくても、女の子には常々、優しさが必要なのよ。あなたたち、そういうところ疎いから」
「そ、そうだけど。そんな別に……」
お付き合いをするわけではないからと続けようと口はもごもご動いたが、どうにか声は心に留めた。
これから、それについて話すのだ。自分の首を締めてはいられまい。
「友達だしさ」
「友達でもよ。いくら仲が良くても、きつく当たっちゃダメなものなのよ。女の子は特別柔らかくできてるんだから。誰かを優しく包みこめるようにね。いろいろ適当な子だけど、リズも。もちろん、ルート。あなたも、ね?」
「うん」
「だから、女の子どうしの友達だって、どっちかが強く当たったら、二人とも破けてしまうの。姉妹だって一緒よ?」
何となくわかってしまった。
母が、もうすでに何かを感じ取っているのだということを。僕たち二人の距離感の概算を、僕たちよりも遥かに早くしているのだということを。
あるいはそう言う口車なのかもしれないけれど、今日は、その車に乗ろうとも、目的地は同じはずなのだ。
なぜなら僕は今日、両親に告白をしにきたのだから。
「お母さん」
「うん? どうしたの?」
僕とリズとが望む、二人の在り方を。
「えっと。お話が、大事なお話が、あるんだけど……」
***
僕が父に「ただいま」と言うと、「早かったじゃないか」と、母と同じようなくだりがあった。
父は母ほど勘が鋭くないから、やり取りは何事も無く終わって、後は出されたパスタを食べるだけになった。
ただ、すぐに食べる気にはなれなかった。
大事な話をする宣言をしたこともそうだし、そのためにリズがいないのもそう。もちろん、パスタの味が苦手なバジルだというのもある。
だから、僕はリズを待つ。
リズと、母を待つ。
少し息がしづらかった。
その時だった。
神妙な顔つきの二人が、ここダイニングに帰って来たのは。
リズの表情は、お腹が空いている時の不機嫌そうなあの表情とはまた違っていて、思うところがある。共感にも似た、安堵だろうか。
これから振り絞る勇気の対価より、それは重かったのだと思う。
リズは足音も立てないで僕の隣に座って、母は僕の向かいに座った。いざ面と向かうのは怖くて、僕はリズを一瞥した後、父を見た。“新惑星発見”の見出しが目立つ新聞を読みながら、すでにパスタを啜っていた。
少しだけ間があって、何となく父が浮いた。
父は、割と早くそれに気付いた。
「ん? なんだ、どうしたんだ? みんな、食べないのか?」
また少し間がある。
僕は、母とリズを一瞥して、また父の方に向き直る。
「えっと。ちょっと話が、あるんだけど……」
こういう時、初めに口を開くのは大抵リズなのだけれど、そんな様子はなかった。先に母と何か話してきたのだろうか。用意してきた言葉をすでに、全部言い放ってしまったようにも見えた。
昨日の作戦会議が水の泡だ。
「どうしたんだ急に、畏まって。欲しいものでもあるのか?」
「あ、うん。ちょっと違うかな。いや、違くもない、かも……」
与えられたものだけで満足できた僕は生来、おねだりというものをしたことがない。
つまり、父も強請られたことが無い。
互いに不慣れな会話であるからか、僕と父との間の温度差が縮まっていく感覚に囚われる。
もう手に入れているような気すらする妹を、改めて欲しいなど、一周回って言えない。
「ど、どうしたんだ? まさか……、なにか悪いことでもしたのか?」
「うーん……」
「な、なんだなんだ? 母さんは知ってるのか?」
「ううん。知らないわ。ねっ?」
何か知っている口調で、母はリズに振る。
リズの沈黙は、僕の沈黙に被ったようになって、自然、母の巧言がそのまま僕に回された形になる。
互いに出を窺っているからか、空気は少し張っている。
この静けさに名前を付けるとするならば、僕の沈黙ということになるのだろう。
例えば、この場で「僕たち二人で罪を犯しました」と言って、許されようなどとは初めから思わない。言い逃れるために帰って来たのではなくて、試されるために帰って来たのだから。
だから、ぶつからなければならない。
誰よりも一番、距離感のわかる“家族”だからこそ。
「あの……」
僕は重い口を何とか動かした。
父の、それから母の、ストレートな視線を浴びる。
昔からずっと、見つめられてきた優しくて暖かい眼差しそのものだ。
そのはずなのに、今日この瞬間は、温度すら感じない。
ダメだ。これでは、助走が足りない。
「あのさ」
もう一度踏み切った、まさにその時だった。
僕の手に柔らかくて温かいものが、ふわりと触れた。
リズはこういう時、ずるい。
息をつく隙に一瞥すると、それがリズの手であることがわかる。テーブルの下、父からも母からも見えない位置で、それは僕の手を握っていた。表情は汲み取る時間がなかったけれど、握り返すことはできた。
記憶を掘り返すような速さで経過する時間を、僕は肌で感じることができる。
そして、僕は告げる。
「好きになっちゃったんだ。リズのこと」
間があるものだろうと覚悟していたから、二人の反応に意外性はなかったと思う。
確りと、追いかける言葉も持っている。
「だから何かをして欲しいって訳じゃないんだ。ただ、知って欲しくて……」
知った上で切り離されるのであれば、それはもう仕方のないこと。ただし、それは諦めるのではなくて、会うこと自体の価値がその分大きくなるだけだということ。
一秒や一分の価値は、決して変わらない。
時間は、経つべくして経つものではなく、自分で気付いて、そして刻むものなのだから。
「私も……」
漸く聞こえたリズの声は、いつもより遥かに小さかったけれど、繋いだ手を通して僕に一番早く、強く響いた。
僕が頷けば、リズの気持ちが伝わるような、不思議な自信を覚えた。ノアの気持ちが少しだけわかった気がする。
元々、家族の前で公言するというアドバイスを考え付いたのは僕自身だ。ノアにそんなアドバイスをして、実際に同棲する結果になったのだから、裏付けはなされている。
まさか当事者を演じることになるとは思いもしなかったけれど。
けれど、良かった。
僕の手は、こうして温かいから。
「そうか……」
父はフォークと新聞を机の上にゆっくり置いて、一呼吸置く。
母をも捉えない優しい眼差しの奥には、紛う事なき真剣な至言が見えた。
「ルートもリズも、賢い子に育った。だから、自分たちが何をしているかというのも、ちゃんとわかっているんだろうと思う。本当は隠したいことだろうに、そんなことをこうして話してくれるんだ。素直で、思いやりも持ってる。その上、顔なんかは巧く母さんに似て。そりゃあ、好きにもなるだろう」
「お父さん……」
僕も、違うのだと頷く。
「ああ。わかってる。だけど、なんでだろうな。父さんは、そんなに嫌な気はしない」
「お、お父さん……?」
「仕事が忙しくてあまり構ってやれなかった時期もあったし、スポーツが苦手だから一緒にやるってこともそこまで無かった。だから、自然と引け目を感じて、報いようとしているのかもしれない……」
「ち、違うよお父さんっ。お父さんは、夜遅くまで働いてて大変なのに、それなのにいつも優しくて、全然怒らなくて、時々鈍くさいけどやっぱり頼りになって、それで……。とにかく、大好きっ!」
リズから感謝が溢れると、それに呼応するように、父の目からは涙が溢れた。
ありがとう、と真っ直ぐな言葉がリズへと伝わる。それは繋いだ手を経由して、僕にも伝播した。
「家族が一緒にいられる時間って、長いように見えてそうじゃないからな……。だからなんだろうな。リズとルートがずっと二人で一緒に居てくれるって思ったら、『良かった』って思ってしまったんだ……」
「あらあら。頼りないお父さんねぇ」
母はおもむろに広げた食事用ナプキンで、父の目を擦った。
手が、俄かに汗ばんだ。
「それでいいのね? あなたたちは」
母の慧眼に射られたからだ。
その慧眼もいつもと同じく優しくて、僕らをぎゅっと押し込めるように強くて柔らかい。でも、気持ちは決して押し潰さない。
ここに来ていつも通りである母には、まだまだ勝てないなと思ってしまった。
「うん」
僕は頷いた。手を繋いでいたから、リズが頷いていたのも何となくわかった。
リズも僕がそうしたことに気付いたのか、知らしめるように握力が増した。温もりを返すよう、僕もひっそりと握り返した。
母はさらに問う。
「これから、二人を咎める人がたくさん出てくると思うわ。それでも?」
「うん。僕が、リズを守るから」
「リズなんか、すぐ男の人に誘われるわよ」
「わ、私は男に興味ないしっ」
「人前でキスなんかできないわよ」
「あ、あれは劇だったからで……!」
「子供は、できないわよ……?」
明らかに、声の調子が変わったように思う。
当然だろう。
けれど、僕だってそれは必死に考えた。存在しない答えを、只管に展延し続けた。アレンと付き合って、一人の女性であることを自覚して、わからなくてもがいた。
もがいてもがいて、そうして一つの答えにありついた。
「できる、よ……」
答えが存在しないのならば、作ってしまえば――創ってしまえばいいのだ。
彼氏彼女という関係性、その延長線上にあるものが夫婦。男性は夫で、女性は婦であるべき。あるべくしてそうなっていて、意味や言葉はあとからついてきた。決まりはないけれど、自然とそうなっていて、そうする者が多かった。
そこに選択肢などありはしなかった。
ならば、僕たちだって同じだと思った。
気持ちが通じ合うことを愛と呼ぶのなら、夫婦は夫婦でなくともよいはずだと。そうしてしまえる世界を、作ればいいのだと。
「僕、生物学の研究をしようかなって思ったんだ……。遺伝子とか、発生とか。元々科学は好きだし、星と似てることもたくさんあって、結構興味あるんだ……」
そうして、僕とリズでも子供ができるのなら。
それは、世界に新しい選択肢が生まれる瞬間でもあるのだ。
「うふふっ!」
母があまりにも唐突に笑うので、僕より先にリズが訝った。
「な、なに?」
「ううん。何でもないわ。ただ、ルートの初おねだりが“リズ”だなんて、ちょっとおかしかったってだけ……ふふっ」
「ちょ、ちょっともう、やめてよ……!」
撫でるように反論すると、一瞬、きゅっと握られる。
ちらりとリズの方を見ると、僕の羞恥が伝播したかのように赤面していた。
確かに、ちょっとおかしかった。
「ふふっ……はははっ」
つられて笑ってしまう。
少しの間の後、団欒は笑いに包まれた。
これが、僕が望んだものだと、心の底から思った。
「さぁ。早く食べましょう。せっかくのパスタが延びてしまうわ。今日は、バジルのとアサリのと二種類作ったのよ」
「そうだな。さっさと食べよう」
「お父さんはもう食べてるじゃん」
「ははは、そうだね。じゃあ、僕たちも食べようか。みんな待ってるし」
僕らの半分の時間で、僕らの倍の速さで、止まらない時間の中で。
サクラあたりがきっと、待ちきれなくて機嫌が悪くなってしまうから。
リズの分のフォークを取って渡して、僕も自分の分を取る。母も自分の分を取って、父はそそくさとテーブルのフォークを拾う。
「いただきます」
僕の合図を皮切りに、小気味よく三人が続いた。
それから暫くは、磯の香を懐かしんだ。
半分も減ったところで、父が水を一気に飲みほして閃いた。
「そうだ。これから小論を書くつもりなんだ。リズ、悪いけど部屋をどいて貰えるかな」
「んー……うん」
僕のおねだりに巻き込まれているからか、リズも断り辛そうにしている。
駄々をこねたから恋愛感情など許さない、ということは父の性格だから無いだろうけれど、こちらがかなり下手に出た事実は確かにある。暫くは、潔く両親の言うことを聞くことになるのだと思う。
それが、お互いの気持ちに折り合いをつけるために必要だと思う。
「すまんなぁ。小論なんて久々に書くから、書斎でもあった方が良いかと思ってな」
無い顎鬚を撫でるような素振りで、どこか得意げに見える。
口調も、父にしては少しばかり仰々しいように感じたので、尋ねてみたくなる。
「なんの小論なの?」
「テーマか? そうだなぁ、心理学になるだろうか……。詳しくはまだ言えんなぁ」
父から恋愛などという言葉が出てくることに、不和は感じざるを得ない。
昔から、言語学だったり統計学だったり、聞くからに玄妙なことを題材に話を演繹することが多かったと思う。より具体的に、正確に、というところに重きを置いて。
それが、心理学などという抽象的が過ぎる学問に変わったのだ。
一体、どういう風の吹き回しだろうか。驚かずにはいられない。
「な、何の心理学なの?」
「恋愛、だよなぁ……」
「えっ、他人事なの!? 計画とか立ててたんじゃ……」
「ついさっき思いついたんだ」
「えっ、ついさっきなの!?」
「と、言うわけだから。リズ。帰って来てからでいいから、荷物を運び出して欲しいんだ。重いものは手伝うからな」
「えっ、結局追い出すの!?」
「はーい。わかったー」
「えっ、いいの!?」
なんだか色々と曖昧だけれど、そんなことで、序本結は紡げるものなのだろうか。文芸家とは、得てしてそういうものなのだろうか。
身の危険をひしひしと感じたようで、思わず鼻息を荒くしてしまう。
それを鎮めたのは、訳知り顔の母だった。
「ふふふっ。今日のルートはお喋りねぇ。鈍感なのは相変わらずみたいだけど」
「い、いや、だって……!」
あたふたと視線を散らしていると、母が耳を貸すように小さく手招きしたのに目が留まる。
ゆっくりと顔を近づけると、母は少しわざとらしくはにかんだ。
口元を隠してはいるけれど、そこはさして耳に近くない位置だ。声の大きさたるや家族全員に伝わってしまうようだけれど、無粋なのは僕だと知っている。
僕はできるだけ、首を伸ばすようにして聞いた。
「お父さんね、すごく不器用なの。これでもあなたたちのこと、気遣ってるんだから、察してあげなさい?」
「う、うん……?」
誠に残念だけれど、現時点では全くわかっていないのが実情だ。
とりあえずで頷きはしたものの、リズが部屋から追い出されて嬉しそうにしている意味が理解できていない。それが、どうして気遣いになるのだろう。父が不器用なのは理解に易いけれど、これでは逆に器用くらいの話なのではないだろうか。
これは、あとでリズに聞いてみるしかない。
「パスタ、お代わりあるけど食べる?」
どのタイミングでどれくらい食べたか全く覚えていないのだけれど、僕のお皿の上にはアサリの殻だけあって、寂しげに口を開けて佇んでいた。
でも、父の皿も空で、リズの皿も空で、母の皿も同じだった。
そして、時計は確りと家族の時間を刻んでいて、一秒の価値を見出している最中だった。
それでも、「美味しかった」の感想の価値は変わらない。
「ううん。今日はいいや。サクラが待ってるから」
「あ。そう言えばそうだったね。忘れてた。まぁでも、待たされて強くなる子だから。桜さんは」
「あはは……」
どこからそう言う見解が導き出されたのか気にはなったが、笑い流してしまうことにした。
一つ息を吸って、「さて」と吐く。フォークをお皿に乗せて、グリーンティーの入っていたコップを重ねる。立ち上がるまでに、わずかなりとも無駄な動作は挟まない。
傍から見れば、急いでいるように見えるだろうか。
それこそ、始業式に間に合うように匆々と。交わる視線に微熱して、離れることのない距離感に困惑して、遂にはその柔らかさを肌に求めて。もどかしさを超えた先にあるどうしようもない誇りと、絶望を越えた先にある希望。あるいは、また微熱。
僕の求めるものは、遥か前、初めの初めから見えていたことに違いはない。
「ごちそうさま、でした」
見ようとしても見えなくて、路頭に迷って、でも目的地は知っている。
そんな安心感にこそ、怯えて泣いて。やり直して、また泣いて。二度とない世界を、もう一度生きて。それでも、僕は嬉しくて泣いて。目に見える悲しみよりも、感じられる温もりの尊さを知って。
だから、僕はリズが好きで。
「行ってきます」
こうして、一緒に歩いていきたいと、そう思えるのだ。
すっかり語り尽くされた僕の気持ちは、形容するのなら「愛」なのだろう。
【あとがき】
ここはかなり重要なところなんじゃないかなと。
理解を求める恐怖……。
理解されない覚悟……。
貶され罵倒されるためのレンアイ……。
現実はそんなに上手くはいかないものですが、諦めなければいつかは叶うものです。
このタイミングで苦労する表現も、やろうと思えばできましたが、あえてしませんでした。
一回死んだのを見たなんて、つらいにもほどがありますから。
でも、負けない。
実はルートが一番強いのかもしれません。
次回は、この続きです。
そらそうか。
前もやったな、このくだり。




