第1話 あの日、あの時
私は、かつての友人のことを思い出していた。
その記憶はもうずいぶんと古く、少しずつ、当時の色や景色が薄れていきつつある。
当時、私は高校生だった。
中学の頃とは違う新しい生活に、新しい街。
田舎育ちだった私にとって、東京の街は呆然としてしまうほど眩しかった。”大都会“っていうのを、初めて肌に感じた。地元から近い広島市もそれなりに大きい街だとは思う。中四国だと多分1番だろうし、岡山とか山口とかに比べたら、そりゃあもう。
だけど、東京は違った。
まるで別世界だった。
生まれて初めて、ビルが高いと思ったんだ。空に向かって聳え立つスカイツリーは、同じ日本だとは思えないほど遠く、高く伸びていた。空の一番端まで届きそうなくらい大きかった。「うわあ」と、思わず声が漏れてしまうくらい。
もうすぐ、私は30になる。
結婚相手は決まってて、仕事も順調。学生の頃を思い返せば、月日が経つのはあっという間だなって思った。当時の理想はもうずっと遠いところにあるけれど、今の生活には心の底から満足してる。今でも、時々思い出したりはする。“日本のエース”だって言われていたあの頃、私は10年も20年も、ずっと走り続けているんだろうなって思ってた。高く飛ぶことしか頭になかった私は、一日中陸上のことを考えてた。
2mのバーを越えていくためにはどうすればいいか。
踏み出す足の位置はどこか。
そのことばかり、考えてた。明日のことなんてどうでも良かったんだ。今となっては、その気持ちが嘘のようだけど。
先日、ニュースがあった。10年前に起きた、飛行機事故の特集だった。
羽田空港からアメリカ行きの国際便。
開催地のロサンゼルスへと行くために、全国の高校で選ばれた選りすぐりの球児たちが、U-18の選手団として空港を飛び立った日のことだった。当時のことを、今でも鮮明に覚えてる。最初にそのニュースを目にしたのは、目が覚めてすぐのことだった。学校に行く前につけたテレビの先で、燃え盛る飛行機の機体があった。ロサンゼルス国際空港からの中継だった。どのチャンネルも、そのニュースばかりだった。
「もしもし、沙苗?」
ニュース画面に釘付けになっていると、スマホが急に鳴った。クラスの友達からだった。
「ニュース見た…?」
「見てるけど?」
「あの飛行機、晴翔君が乗ってるん…だよね?」
最初、友達が何を言ってるのかわからなかった。冴えない頭の中で、何が起こってるのかを整理しようとする。
だけど、理解できなかった。
すぐには。
“うまく聞き取れなかった”って言った方がいいかもしれない。電話越しで聞こえる声は震えてて、すごく慌ててた。それがなんでなのかわからなかった。
テレビ画面に映る、「U-18 | 野球日本代表」の文字を見るまでは。
……………………
………………
…うそ……でしょ……?
目が点になった。
眠たくてしょうがなかった頭が、急に覚めた。
「晴翔」
その言葉が、——名前が、電話越しに聞こえてきた。
あり得るわけない、って、思えた。
晴翔はクラスメイトで、私が高校に入ってから、初めてできた友達だった。
ハル。
彼のことを、そう呼んでた。
…そういえば
私はハッとなって、昨日のことを思い出した。
彼から電話がかかっていた。当時私と彼は喧嘩中で、口も聞きたくないと思っていた。なんで喧嘩してたのか、なんでそんなにムキになってたのかは、今となってはよく思い出せない。ただ確かだったのは、あの頃、あの地平線の続く空の下で、別々の道を歩もうとしている私たちがいた。
私たちはお互いの時間でいっぱいいっぱいだった。私自身は、人生で初めて挫折を味わっていた時期だった。彼は彼で、自分の夢を追いかけていた。
…もしも時間を戻せるなら、きっと私は、あの日、——あの事故の前日の電話を、無視することはなかっただろう。
“何を話せばいいんだろう”って思うよ?
だって、絶賛喧嘩中だったわけだし。
何しにかけてきたの?
そういう感情が、ずっと頭の中にあった。絶対出てやるもんかって思ってた。だから、結局出なかったんだ。彼からの電話は2回あった。その、どちらも。
テレビの中に映る光景を、今でもはっきりと覚えてる。
燃え上がる機体に、折れ曲がった翼。
飛行機は原型を留めていなかった。
滑走路は燃えた機体によって黒く汚れていて、とてもそこに飛行機があったとは思えなかった。
あれからちょうど10年。
その特集番組が、たまたまつけたニュース番組で放送されていた。もう10年も経つんだという感覚と、まだ、10年しか経っていないんだなって気持ち。できれば、あの事故のことは忘れてしまいたかった。思い出したくもなかった。どれだけ悲しくたって、時間は巻き戻せないんだ。
いつだって、それは同じだった。
時々、彼の夢を見る。
東京暮らしに馴染めずにいた私を、彼はいつもからかってきた。いつも、教室の中で騒がしかった。
“鬱陶しい“
それが、彼と出会った時の印象だった。だって出会って早々に呼び捨てをしてくる人なんて、今までいなかったから。
「さな!」
夢の中で、彼が私を呼ぶ声が聞こえる。
少しずつ、彼の顔の輪郭が薄れていく。
そういう感覚に陥ったのは、ここ数年の間のことだ。ニュースの画面を見ながら、少し、過去のことを振り返ろうと思った。
だけど、時間が迫っていた。
仕事に行かなきゃいけない。
もうスーツに着替えてた。化粧も済ませて、サンドイッチを口に頬張っていた。だからテレビを消して、アパートを出た。天神川駅へと向かう徒歩10分の道のり。印刷会社に勤めている私は、事務員としてもう5年以上働いていた。結婚相手の彼氏は、その職場で出会った。
府中大川にまたがる橋を渡って、広島高速の高架が見える通りを歩いた。広島市内と言っても、今私が住んでる場所はかなり長閑な場所だ。市内のアパートは家賃が高くて、引っ越した当初はちょっと離れた場所で探していた。結局、府中町っていう広島市内でも人気のエリアを選ぶことになっちゃったけど、…それはまあいくつか理由があって。
…あれ?
もう長いこと住んでるから、町の景色は頭の中に入っていた。
橋の向こうに見える市内の街並みも、川沿いに流れていく、穏やかな風の通り道も。
府中町は田んぼもあって、すぐ近くに山が見える。川向こうに伸びていく土手の景色は、私の地元の町並みと少しだけ似ている雰囲気があった。山陽本線の線路とトタン屋根でできた車屋。高架下を抜けて、マンションやアパートが立ち並ぶ路地を歩いてた。路地の中にいくつか瓦屋根の家があって、ブロック塀の向こうに見える洗濯物が、ひらひらと風に揺られてた。
一瞬、視線が止まった。
駅へと続く路地の向こうには、白いスレート壁の工場が、緑のフェンスの向こうに建てられていたはずだった。それなのに見覚えのない錆びた茶色いフェンスが、工場側に入る筋の十字路の角から続いていた。
それだけじゃない。
木の壁でできた家と、電柱と。舗装のできていない砂利道に、見覚えのない平屋。
…なに、ここ…
後ろを振り返ると、さっきまでの景色が消えていた。
突然だった。
突然、目の前から消えて無くなった。
広島高速の高架も、見慣れた駅前のパーキングも。
チャリンッ
軽やかな鈴の音。ハッとなって振り返った。見慣れない道の真ん中には、1匹の猫が。
「やあ」
“それ”が音となって耳に届いた時、咄嗟に周りを確認した。
誰?
そう思ったのも束の間だった。
目の前の「猫」が近づいてきては、私を見上げた。
「キミは何しにここへ?」
………………………………………
………………………
……え?
……猫が…喋った……?
そんなはずがないと思い、もう一度見渡す。
だけど、誰もいなかった。
声は女性の声に近かった。
というより、女の子の声に近かった。
周りには人影も、車の音もなかった。
猫はじっと私を見つめている。
…まさか…
恐る恐る、声をかけた。
「…えっと」
上擦ったような声の下で、猫は微笑んだようにニャーと鳴いた。
……なんだ…
………気のせいか……
(喋るわけないか…)
そう思い、猫の頭を撫でる。
だけど、そんな私をからかうようにクルッと回り、「こっちに来て」と、トコトコ歩き始めた。
…………
………嘘………でしょ……?
周りの景色が変わったこと。
そのことに対して、少し考える時間はあった。
だけどそれ以上に驚いたのは、目の前にいる猫が、人間のように喋ったことだった。
“喋った”
そう、そんなことあり得るわけないって思うよね?
漫画やアニメの世界じゃあるまいし。
でも、「喋った」んだ。
それは間違いなかった。
空耳なんかじゃなかった。
驚きのあまり、しばらく動けなかった。
その場に立ったまま、歩いていく猫の後ろ姿を見てた。
猫は呆然とする私を見ながら、「早く早く」と尻尾を振った。慌てて猫を追いかけた。自然と、足は動いてた。周りは嘘のように別世界になっていた。私の知っている町並みは消えて、路地の横に立ち並ぶ家や建物は、まるで遠い昔の中にある世界のようだった。
…どこ、ここ
…昔の町?
いや、そもそも…
わからない
わからないけど、その「場所」が、ずっと過去にある場所に見えた。
どこかで見たことがあって、それでいて、ずっと遠い時間の先にある景色。
そんな感覚になって、不意に懐かしくなる自分がいる。
公園が見えた。誰もいない道を歩いていくと、古びた家屋や商店が所狭しと並んでいった。シンプルなフォントで書かれた、「青果店」や「鮮魚店」。さしかけの上や、壁に突き出すように設置された白いブリキ看板に、遠くからでもわかるほど大きくレトロチックな文字が並んでいた。焼き鳥店や焼肉店の下には、赤い提灯がところどころにぶら下がっている。
どの建物も古く、それでいて確かな骨格を持っていた。
間口いっぱいに店を開けて、目の通った檜材の格子を並べ、その上に背丈が一尺以上もある一本物の大きな桁を渡している。軒の上を見ると銀色の日本瓦が敷かれていた。その付け根からは二階が立ち上がり、細長い煙突のようなパイプが上に向かって伸びていた。軒下にはビール瓶の入っている木箱や、火のついていない石油ストーブが置かれていた。「たばこ」と書かれた立て看板や、駄菓子屋の前に停められた、たくさんの自転車。
人はいなかった。
「どこ」にも。
整然と続いていく古びた木造建築の周りには、人の気配らしい気配がなかった。だけど、駄菓子屋の外にはアイスクリーム用の冷凍ケースが出されてて、焦茶色の陳列棚にはたくさんのお菓子が並べられていた。まるでついさっきまで、この場所に「誰か」がいたかのようだった。
通りの端に停められた移動式の屋台には、丸椅子が四つほど並べられていた。剥き出しの豆電球からはコードが伸び、割り箸やレンゲが、「ラーメン」と書かれた暖簾の下に綺麗に立てかけれていた。
「…ちょっと待って!」
連れられるがままに、私の足は動いていた。猫は時々振り返りながら、早足になる私を置き去りにするように歩いた。
しばらくすると、突き当たりに出た。正面には、「8番地区」と書かれた3階建ての建物があった。
左右を見渡す。
町並みは変わらなかった。
ただ、通ってきた道よりも少しだけ細くなっていて、工場のような大きい建物や、同じ背格好の家が道なりに続いていた。商店や出店も、所々にはあった。猫はある場所で立ち止まっていた。それは正面の建物の横にある、ある書店の入り口だった。それが「書店」だと分かったのは、入り口の上に『中央書店』と書かれていたからだ。
「ここは、8番地区っていう場所だよ」
息を切らしながら近づいた私に、猫はそう言った。
…8番、地区?
「8番地区っていうのはね、この世界の“どこか”にある場所のことだよ」
入り口の横には、見慣れない電話ボックスがあった。クリーム色のボディと、丸みを帯びた赤い屋根。ガラス窓の向こうに、ダイヤル式の赤い電話機が見えた。
公衆電話かな?って思ったけど、公衆電話って言うと、普通は緑の四角いやつを想像する。けど窓の向こうにある電話機は、まるで家庭電話機のような形をしていた。
「時々、この町に迷い込む人がいるんだ。キミのようにね」
「…迷い…込む?」
「周りを見てみなよ?誰もいないでしょ?それはこの「世界」が、まだ存在していないからなんだ」
言ってる意味がわからなかった。
第一どうして猫が喋ってるのかも、うまく整理できていないままだった。
「…あの、キミは?」
「ボク?ボクはね、“案内人”だよ」
…どういう
町は静まり返っている。
誰かの足音も、川のせせらぎも、鳥の声ですら聞こえない。
だけど空は動いてた。
真っ青な、それでいて大きな雲が漂う空。
異様な光景には違いなかった。今まで見たこともないような町並みに、現実とは思えないほどの静けさ。何が起こってるのかわからなかった。
まるで、夢の中にでもいるかのような——
「キミには、戻りたい世界はある?」
「戻りたい世界?」
「うん。もし過去に戻れるとするなら、キミはどこに飛びたい?」
「過去」に、戻れるとするなら。
穏やかな風が、サッと通り過ぎるように吹いてきた。
戻れる時間なんてない。
それはもうずっと、頭の中で考えてきたことだった。
「…よく、わからないんだけど」
「そうなんだ。おかしいなぁ。ここに来る人はみんな、「過去」に囚われてる人たちなんだけど」
「過去に?」
「うん。会いたくても、会えない人。そういう人がいると、ここに迷ってしまうんだ」
——空を見て。
猫は、そう言った。
見上げると、さっきまでなかったはずの飛行機雲が、青い空の下にまっすぐ線を引いていた。
それだけじゃなかった。
その飛行機雲を追いかけるように、無数の飛行機が、音を立てるでもなく飛んでいた。
積乱雲の連なる地平線。
その、峰に向かって。
「誰もが、空の向こうに行けると信じている。キミはどこから来たの?」
「…どこから?」
「ここにはね、色んな時代の人が来るんだ。過去の人、未来の人。もう、世界からいなくなってしまった人も」
「私は…」
自分がどこから来たのか。
それに答えられるだけの言葉は、まだなかった。猫は「電話をかけてみて」と言った。電話ボックスの中にある電話機。
“もし、会いたい人がいるなら”
猫はそう言って、「行きたい日付を入力してみて」と言った。
受話器を外して番号を打てば、その場所に行ける。
そう言った。
「1つだけ注意して。その電話機は、キミの記憶と繋がってる。過去は変えることはできないし、未来だってそう。あくまでそこは、記憶の中に過ぎない」
「…記憶の、中…?」
「この世界から出る方法は一つだけだよ。過去を断ち切るか、過去を受け入れるか」
「過去を…?」
「さっきも言ったけど、ここに来る人はみんなそうなんだ。過去を捨てきれずに、同じ場所に立ち止まったままでいる」
この場所に人がいないのは、“時間が流れていないから”だそうだった。
どこにも属していない町。
だから、誰かとすれ違うこともない。
「キミは、何者なの?」
「ボクは、キミのような迷い人を、元の世界に帰すためにいるんだ」
電話をかけた先は、「2014年」。
教えられるがままに番号を打ち、耳を澄ませた。
受話器越しに呼出音が鳴った。
どこにでもあるような電話の音だ。
prrrrrrr
ここがどこかなのかはわからない。
“何してるんだろう”って、そう思う自分もいる。
夢でも見てるのかな?
そんな感情が不意に横切って、古びた街並みをサッと見渡した。
書店には、たくさんの本が並べられていた。雨が降ったらどうするんだろう?って思うほど、入り口の外には立てかけ用のラックがいくつか置かれていた。
古い書物や、外国語で書かれた雑誌。
どれも、昭和の雰囲気を感じるものばかりだった。
私は平成生まれだけど、“昭和臭いもの”っていうのはなんとなくわかる。
この町並みがまさにそうだった。
歩いてて思ったんだ。
“昔の町だな”って。
実際に見たわけじゃないけど、なんとなくわかるでしょ?
昭和から続いてる中華料理店や理容室、それと、学校。
アルバムに飾られた昔の写真。
80年代のヒットソング。
まあ、よくは知らないけどね?
だけどこの町には、「今」を感じるものが何もなかった。
『8番地区』と書かれた3階建ての建物は、まるで旅館を思わせるような骨組みの日本建築だった。
木格子に、しっくい壁。
軒下からぶら下がった提灯は、玄関先に立つ背の高い灯籠と合わさって、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「いい?過去に戻ったら、決して振り返らないで」
戻れるはずがないと思ってた。
喋る猫に、見慣れない町。
何もかもが現実離れだったとしても、変わらない気持ちだけは、ずっとそばにあった。
わかってたんだ。
会いたい人、戻したい時間。
変わらずに想ってた。
いつまでも、しまい込んでた。
彼を忘れたことなんてなかった。
あの日々のことを、手放した日なんてなかった。
いつだって聞こえてた。
耳を澄ませば、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
アルプススタンドに響くブラスバンドの演奏や、真夏の日差し。
首を持ち上げるひまわり。
立ち込めるアスファルトの熱気と、——蝉時雨。
ねえ、ハル。
もしキミにもう一度会えるなら、私はどこにだって飛んでいくよ。
きっときっと、何年かかっても、もう一度キミの背中に触れられるように、この足を踏み出す。
prrrrrrr…
……………
………………………………
………………………………………………………………
それから、どれだけの時間が経ったのかわからない。
気がつけば部屋のベット上にいた。
窓際に差し込む眩しい光と、鳥の囀りのそばで。




