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第5章

ガシャン。


鉄の扉が冷徹な音を響かせ、闇の奥に閉ざされた。


「なぜですか? どうして私がこんなところに……何をしたって言うんですか?」


声は湿った壁に吸い込まれ、反響もしない。


「うるさい。上の命令だ。」


牢番の男は短くそう言い残し、重たい鍵を回した。金属音が冷たく、確かに現実を告げてい


た。


縄の跡が手首に食い込み、熱をもった痛みが脈打っていた。


だが、それ以上に胸の奥の痛みの方が重かった。


(僕は……いったい、何を間違えたのだろうか?)


ヤハの導きが確かにあった。嵐の日も、旅の終わりも、すべてはその光の中にあったはずだ。


それなのに今は、光どころか風さえ届かない。


天井の小さな窓から差し込む光が、石の壁をかすかに照らしている。


埃が舞い、まるでそれが小さな星々のようにゆっくり漂っていた。


(ヤハ……あなたは、ここにもいるのですか?)


クリスは膝を折り、静かに祈ろうとしたが、言葉が出なかった。


沈黙だけが、牢の中で彼を包み込んだ。


夜は静かに更けていった。


外では風が唸り、鉄格子を震わせている。冷たい風が石の隙間から吹き込み、部屋の中をな


でていく。


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牢の中には薄く敷かれた藁の上に一枚の毛皮。それが全てだった。


床は氷のように冷たく、藁を通しても足先からじわじわと冷えが這い上がってくる。


クリスは身を丸め、毛皮を肩まで引き寄せた。


それでも寒さは容赦なく体を貫いた。


「寒い……」


小さく漏れた言葉が、すぐに白い息とともに消えた。


この牢に入ってどれほど経ったのか、もう分からない。


昼と夜の区別さえ、わずかな光でしか感じ取れない。


(なぜ、僕はここにいるんだろう……)


何度考えても答えは出なかった。


人を傷つけたわけでもない。盗みをしたわけでもない。


ただ、ヤハの言葉を伝え、人々を助けてきただけだった。


それなのに、いま自分はこの暗く冷たい場所に閉じ込められている。


怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ「納得できない」という思いが胸を締めつけた。


クリスは壁にもたれながら、心の中で聖なる言葉を思い出した。


――「試練にあうとき、それはあなたを成長させるとき。それを静かに耐え、時を待ちなさ


い。」


(そうだ……ヤハは僕を見放したわけじゃない。これは、試練だ。僕を強くするために。)


そう心で唱えると、凍てついていた心がゆっくりと溶けていくような感覚があった。


静かに息を整え、毛皮の中に身を沈めた。


外では、風がさらに強く吹き荒れていた。


しかし、その音さえも子守唄のように聞こえてくる。


寒さと痛みの中で、クリスの胸の奥に小さな温もりが灯った。


それは、ヤハの存在だった。


(ヤハ……あなたは、ここにもおられるのですね。)


そう祈りながら、彼は目を閉じた。


闇の中に、わずかな光が浮かんでいた。


その光はやがて、深い眠りへと彼を導いていった。


日が昇り、冷たい光が鉄格子の隙間から射し込む。


牢の中は相変わらず寒かったが、少しずつ空気が動き始めていた。


囚人たちは藁の上でうずくまり、誰もが疲れ切った表情をしている。


その中で、クリスだけが静かに祈っていた。


「今日も生かされていることを感謝します。どうか皆の心に平安を……」


最初は誰も耳を貸さなかった。


やがて囚人たちは、クリスの周りに集まるようになった。


不思議と彼の話を聞くと、心が落ち着く気がするのだ。


暗く沈んだ牢の中に、小さな光がともっていく。


ある日、牢番がやって来た。


鉄の扉を開け、荒々しく言った。


「おい、おまえ。話がある。」


牢番はクリスを壁際に呼び寄せ、低い声で言った。


「おまえ、ここで何してるつもりだ?囚人どもに変な神の話を吹き込んでるそうじゃない


か。」


「変な神ではありません。」


「ふざけるな!」牢番は声を荒げた。


「おまえはその“変な神”を船の中で勝手に話して罪になったんだろうが。ここでも同じこと


をしてどうする!ここを出たくないのか?」


クリスは静かに首を振った。


「いいんです。出られる時は、必ずやってきます。それまで、ここにいる人たちのために話


したいんです。」


牢番は呆れたようにため息をついた。


「変わってるよな、おまえ。それを話しておまえに何の得がある?いや、逆に自分の首を絞


めるだけだぜ。」


「得はありません。」クリスは微笑んだ。


「けれど、心に平和をもたらすことができる。それだけで十分です。」


牢番は黙ってクリスを見つめた。


どこまでも真っすぐな瞳だった。


だが、すぐに視線を逸らし、吐き捨てるように言った。


「帝国にはな、認められた神しか拝んじゃならねぇんだよ。それも北王国と南王国だけが特


例だ。


勝手に祈ったり、他人に話したりすれば反逆罪だ。今おまえにはその疑いがかかってる。


分かってんのか?


崇拝していいのは皇帝さまだけだ。わかったら黙ってろ!」


そう言い残して、牢番は扉を乱暴に閉めた。


重い音が響き渡る。


だが、クリスはその音にも怯えず、静かに目を閉じた。


「……どうか、この牢番にも、あなたの平安が訪れますように。」


その祈りは、冷たい石の壁に吸い込まれていった。


しかし、翌朝。


牢番はなぜか、昨日よりも静かな目でクリスを見ていた。


数日後。


牢番が重い足音を響かせてやってきた。


「今日は外に出ていい日だ。」


突然の言葉に囚人たちはざわめいた。


「少しの時間だけだが、外の空気を吸わせてやる。だがな――」


牢番はゆっくりと周囲を見渡し、


「喧嘩や変な真似をしたら刑は倍だ。いいな、クリス!」


「えっ?僕ですか?」


思わずクリスが聞き返すと、牢番は口の端を吊り上げて笑った。


「そうだ、おまえだ。」


鉄の門が開き、囚人たちは塀の中の広場へ出た。


冷たい風が頬をなで、久々の陽の光が肌を照らした。


皆それぞれに小さな自由を味わっていたが、


クリスのもとに牢番が近づいてきた。


「おい、クリス。魔女狩りを知ってるか?」


「えっ?魔女狩りって……?」


牢番は少し空を見上げ、つぶやくように言った。


「そうだよな。知らねぇか。


知ってたら、おまえみたいなヤバいことはしねぇよな。」


「ヤバいことって……?」


「魔女狩りはな、昔からこの帝国で行われてきた。


妙な力を見せたり、祈りで人を変えたりする女は“魔女”って呼ばれてな、


裁判も何もかもねつ造され、何日も鞭で叩かれ、最後には処刑される。」


その言葉を聞いた瞬間、


クリスの心は氷のように固まった。


「そんな……なんてひどい……!」


胸の奥から熱が込み上げた。


気づけば、彼は牢番の胸ぐらを掴んでいた。


「なんでそんなことを!どうして人をそんな風に……!」


牢番は驚いたように目を見開いた。


クリス自身も自分の行動に驚いていた。


近くの見張りがすぐ駆け寄る。


しかし、牢番――ロドリクは片手を上げてそれを制した。


一瞬の沈黙。


ロドリクは静かに、だが低く言った。


「それが現実だ。」


その言葉と同時に、ロドリクはクリスの胸を突き飛ばし、


再び鉄の扉を開けて彼を牢に戻した。


そして扉が閉まると、拳でクリスの頬を殴った。


鈍い音が響き、血が滲む。


さらに蹴りを入れ、クリスは藁の上に倒れた。


「……これも現実だ。」


ロドリクの声は震えていた。


「おまえのために言ってる。おまえは“魔女”みたいになっちゃいけねぇ。


生きなきゃいけねぇんだろ?」


クリスは苦痛の中、かすかに頷いた。


ロドリクは続けた。


「囚人たちも、俺も、おまえの姿に心を奪われてる。


ここにいるやつらはみんな極悪人だ。だが――


おまえの話を聞くうちに、変わり始めてるんだ。


悪霊にそんな真似、できるわけねぇ。」


そして、彼は背を向けた。


「……だから、生きろ。自分を大切にしろ。」


扉が閉まったあとも、ロドリクの足音はしばらくその場を離れなかった。


クリスは痛みに耐えながらも、天を見上げ、静かに祈った。


コン、コン──。


冷たい石壁に響く控えめなノックの音。


「なんだ?お客様だと? 一体だれだ?」


宦官ドンゴは帳簿から顔を上げ、わずかに苛立った声をあげた。


その言葉が終わるより早く、重々しい執務室の扉がゆっくりと開いた。


現れたのは、帝国軍百人隊の隊長――ルキウスであった。


黒鉄の鎧の肩に薄く砂の跡を残したまま、彼は静かに立っていた。


「久しぶりだなあ、宦官のドンゴ殿」


穏やかな笑みを浮かべながらも、その瞳には威圧するような光があった。


「こ、これはこれはルキウス様! 知らせをいただければ、お迎えに上がりましたものを」


「いや、それには及ばない」


短く返すその声に、室内の空気が一瞬で張り詰めた。


ドンゴは慌てて笑顔を作った。


「帝国大評議会の前においでくださるとは……ドンゴ、感激でございます」


「相変わらずだな、ドンゴ殿」


ルキウスの声には皮肉が滲んでいた。


「ルキウス様のご活躍は、私の耳にも届いております。皆がこの度は将軍間違いなしと──」


ルキウスは咳払いでその言葉を遮った。


歯の浮くような称賛ほど、彼が嫌うものはなかった。


「そんなことより……ここにクリスという若者が投獄されていると聞いたが?」


ドンゴは一瞬、目を泳がせた。


「は、はぁ……それが──」


「投獄されているんだな?」


低く、しかし逃げ場のない声。


ドンゴは部下の執事を呼びつけ、小声で確認させた。


執事は青ざめた顔で頷く。


「……そのようでございます」


「そうか。彼に礼が言いたくてな。あのドメニコの船に、我々も乗っていてな。


私を含め、部下たち全員が彼に救われたのだ」


ドンゴは一瞬で顔色を変え、慌てて頭を下げた。


「い、いやいや! すぐに牢屋から出しますとも! そんな方をお閉じ込めしていたとは


──!」


こうして、クリスは冷たい牢獄の扉を出ることとなった。


外に出る直前、牢番のロドリクがクリスにそっと近づいた。


その顔には、どこか申し訳なさが浮かんでいる。


「なぁ……あの前の晩な、俺……おまえが牢屋から出る夢を見たんだ」


「夢を?」


「ああ。だからよ、あの時ちょっと手荒な真似をしたのも……そうしないと、本当に夢の通


りにならねぇ気がしてな」


不器用な笑いが、寒い空気に溶けた。


クリスは微笑んだ。


「分かってますよ、ロドリクさん。何も怒ってませんから。それより……奥さんと今度こそ


仲良くしてくださいね」


「えっ……なんで知ってるんだ、俺が復縁したのを。誰にも言ってねぇはずだぞ!」


ロドリクは目を丸くした。


しかし、クリスは振り返らずに、


ただ向こうを向いたまま、静かに手を振って歩き去っていった。


冬の光が差し込む。


その影は、確かに自由を取り戻した者のものだった。

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