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第3章第2話

ある日、ちょび髭の家庭教師が風邪で休みになった。セバスチャンは嬉しそうにしていた。


クリスはその機会を逃さず、自分の村での話をたくさん語って聞かせた。森の匂い、山の風


の冷たさ、囲炉裏の火の温もり。セバスチャンは目を輝かせ、夢中で耳を傾けた。


「それでね、あの星空も、川の流れも、みんな神様がつくったんだよ。」


クリスは穏やかに言った。セバスチャンは驚いたように目を丸くし、それから小さく笑った。


「そんなすごい神様、本当にいるの?」


クリスは力強く頷いた。


「うん。本当にいるよ。僕はずっと、その神様に導かれてここまで来たんだ。」


セバスチャンの顔に浮かんだ表情は、知識を詰め込まれるときには決して見せない、純粋で


子どもらしい輝きだった。


セバスチャンはクリスの語る話に夢中だった。


「山に登ったらね、遠くまで見渡せて、雲の影が畑をゆっくりと移動していくんだ。ヤギの


鳴き声や、羊の鈴の音も聞こえて……」


少年は目を輝かせて頷いた。


「そんな世界があるなんて!ぼくも行ってみたいな……」


クリスは笑みを浮かべた。


「いつか必ず行けるよ。大切なのは、神様がつくった世界を信じること。きっと道は開ける


から。」


セバスチャンはさらに身を乗り出した。


「その神様の名前、なんて言うの?」


クリスが答えようとした瞬間、


背後で低い咳払いが響いた。


「……フン。くだらんな。」


振り向くと、部屋の入り口にアルベルトが立っていた。鋭い眼差しを向け、冷笑を浮かべて


いる。


「セバスチャン、きみには経済学や貿易を学ばせている。世界を動かすのは金と力だ。そん


な空想めいた話に耳を傾けるとは……まったく愚かしい。」


セバスチャンはビクリと肩を震わせ、視線を落とした。


アルベルトはゆっくりと部屋に入ると、クリスを睨み据えた。


「クリス君。うちの子に妙なことを吹き込まないでもらいたい。金で動くこの世の仕組みを


知らねば、いずれ身を滅ぼす。それを知らずに“神がつくった世界”などと……そんなものは


何の役にも立たん。」


クリスは言葉を失った。セバスチャンを守るようにそっと前に立ちながら、心の中でヤハの


言葉を思い出していた。


──「恐れるな。真実はいつか光となる。」


アルベルトは吐き捨てるように言い残し、踵を返して部屋を去った。扉が閉まる音が響くと、


しばしの沈黙が訪れた。


セバスチャンは怯えた表情のままクリスの袖を握り、かすかに囁いた。


「でも……ぼく、クリスの話が好きだよ。」


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クリスはその小さな手を優しく握り返し、微笑んだ。


それから数日後のことだった。モンテル家の屋敷に、甲高い怒声が響き渡った。アルベル


トの部屋からだ。廊下を歩いていたクリスは、思わず足を止めた。扉の内側から聞こえるの


は荒れ狂うような叱責の声である。


やがて、眉間に深いしわを寄せたちょび髭の家庭教師が、押し出されるように部屋を出てき


た。青ざめた顔には屈辱の色が濃く残り、握りしめた拳が震えていた。


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廊下の角で彼に出会


ったカタリナが驚いたように声をかけた。


「先生……どうなさったのです?」


家庭教師は苦々しげに答えた。


「……私は解雇されました。もう三度目でしょう、こういうことは。ご主人には我慢という


ものがない。」


そう言い残すと、彼は背を丸め、去っていった。


カタリナは深いため息をつき、その足で夫の部屋へ向かった。ちょうど出てきたアルベル


トと鉢合わせる。彼は不機嫌そうに腕を振り払い、吐き捨てるように言った。


「病欠だと? 教え方もなっていない。あんな者、要らん。」


カタリナは何も言わず、ただ静かに夫の背を見送った。


廊下の陰から一部始終を見ていたクリスは胸の奥に重苦しい不安を覚えた。──あの家庭


教師が風邪で休んだとき、自分がセバスチャンに神の言葉を語った。それがアルベルトの怒


りを募らせる火種となったのかもしれない。


もしや僕も追い出されるのでは……。


だが数日後、カタリナから耳にしたのは意外な言葉だった。


「主人は、あなたのことを悪く思ってはいません。むしろ、よく働き、気転も利くと評価し


ているのよ。……ただ、神の言葉を口にしない限り、という条件つきでね。」


クリスは静かに頷き、ますます働きに励んだ。どんな時も、ヤハが共にいると信じて。執


事やメイドたちに対しても気さくに接し、彼らからも好かれていった。その評判は自然とア


ルベルトの耳に入り、屋敷の中での立場も少しずつ安定していった。


そんな折、新たな家庭教師ニコラスが屋敷にやってきた。アルベルトが昔から信頼を置い


てきた友人だという。背は高く、物腰は柔らかく穏やかで、初対面の者に好印象を与える。


セバスチャンも、すぐに彼に懐いた。


しかし、クリスには言葉にできぬ違和感が残った。彼の笑顔の裏には、時おり冷ややかな


光がよぎるのだ。温厚に振る舞いながら、心の奥では別の思惑を抱えているような──そん


な鋭さを。


クリスは胸の奥で小さくつぶやいた。


「この人は本当に信じてよいのでしょうか。」


モンテル家の空気は、ニコラスが出入りするようになってから変わった。


週に三度、数時間だけの授業。セバスチャンにはそれで十分だと言わんばかりに、ニコラ


スは穏やかに、柔らかな言葉で世界の仕組みを教えていた。


そのおかげで、セバスチャンは以前より笑顔を見せるようになり、カタリナも息子と過ご


す時間が増えて心安らぐようになった。屋敷全体が和らいだ空気に包まれ、クリスも少しほ


っとしていた。


ある日、クリスはアルベルトから港のドメニコという船長に届け物を持っていくように


頼まれた。ドメニコ船長は無骨で言葉遣いも粗かったが、根は悪い人間ではなさそうだった。


クリスは「荒いけれど誠実」という印象を受け、少し安心した。


帰り道、酒場の前を通りかかると、中に見知った顔があった。


──ニコラス。


昼間から酒場に? と思ったが、港に関わる商人なら珍しくもないだろうと、最初は通り


過ぎようとした。だが、その隣に座っていた人物を見て足が止まった。


ちょび髭の元家庭教師。


グラスを傾け、何やら熱心に語り合っているようだった。クリスはしばし立ち止まり、妙


な違和感を覚えた。二人に接点があるなど聞いたことがなかったからだ。


──いや、きっと偶然だろう。


そう自分に言い聞かせ、クリスはそのまま屋敷へと歩き出した。だが胸の奥には、説明で


きない小さな引っかかりが残っていた。


だか、クリスの心配が確信へと移る出来事が起こった。


ある夜、廊下を歩いていたクリスは、ニコラスが書斎に入る姿を見かけた。


扉の隙間から漏れる灯り。小声で帳簿のようなものをめくる音が聞こえた。


「……これでいい。証拠はここに残しておけばいい。」


ニコラスの低い声に、クリスの心臓が跳ねた。


思わず踏み出した足が床板をきしませ、慌てて身を隠す。だがその一瞬、確かにニコラス


が手にしていた紙束の一部を目にした。


帝国の印章が刻まれていた。


それから、ちょうど一か月後のことである。クリスは再び港へと足を運んでいた。アルベ


ルトから託された包みを、ドメニコ船長の船に届けるためだ。港町オスティアの市場は今日


も喧噪に包まれ、潮風と魚の匂いが入り混じっている。


船着き場に着くと、ドメニコが腕を組み、いかつい顔をさらに険しくして立っていた。ク


リスは軽く会釈し、手にした包みを差し出す。


「これをアルベルトさんから預かってきました。」


ドメニコはそれを受け取り、重みを確かめるように片手で持ち上げると、口の端をゆがめ


た。


「……なるほど。おまえ、よほどアルベルトに信頼されているんだな。こんな大事な物を坊


主に預けるなんざ、並の扱いじゃねえ。」


クリスは思わず眉をひそめ、声を上げた。


「クリスです! いい加減、覚えてください!」


船長はごつごつした手で頭をかき、ぶっきらぼうに笑った。


「わかってる、わかってる。だが『坊主』って呼びやすいんでな。」


そのやり取りの最中、クリスの視線がふと動いた。通りの向こうを、ひとりの男が歩いて


いる。物腰は穏やかそうだが、背筋は妙に固く、歩調には余裕と自信が漂っていた。──ニ


コラス。新しくモンテル家に雇われた家庭教師。


クリスは思わずその姿を目で追った。するとドメニコが眉をひそめ、低い声で言った。


「なんだ? あいつ、知り合いか?」


「知り合いというか……最近、モンテル家に来たセバスチャンの家庭教師です。」


ドメニコの表情が一変した。険しさの中に、鋭い警戒心が宿る。


「家庭教師……だと? あいつがか?」


クリスは不安を感じて尋ね返した。


「船長は……あの人のことをご存じなんですか?」


ドメニコは答えず、しばらくニコラスの背中をじっと見つめていた。その瞳の奥に、ただ


ならぬものが揺れていた。


やがて船長はぐっと顔を近づけ、低い声で囁いた。


「……あいつは船の物資の保険屋だ。」


潮の匂いと酒の香りが混じった息が、クリスの頬にかかる。ドメニコの声はさらに低くな


った。


「だがな、帝国の物資の保険は、なぜか奴の会社が一手に引き受けている。帝国の役人に金


を渡してるって噂が絶えねえんだ。」


クリスの胸に不安が走った。穏やかに振る舞うニコラスの姿と、船長が吐き捨てるように


語る黒い噂。その落差が重くのしかかる。


ドメニコはさらに声を落とし、目を細めた。


「そんなあいつがモンテル家に出入りしている。……何か、うさんくさい匂いがする。」


クリスは思わず息を呑んだ。アルベルトの友人であり、セバスチャンの教育を任されてい


る男。その裏にそんな闇が潜んでいるのか。


ドメニコはごつい手でクリスの肩を軽く叩き、短く言い放った。


「クリス。おまえも気を付けな。巻き添えを食うかもしれねえぞ。」


港の喧騒は相変わらず賑やかだったが、クリスの耳にはどこか遠くに響いているように


感じられた。胸の奥に冷たい影が忍び込み、重苦しい不安が静かに広がっていった。

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