第2章トーレン村の灯
ヤイルたちに別れを告げたクリスは、静かな決意を胸にニキの村を後にした。
https://48460.mitemin.net/i1029935/
南の道のり
は長く、野宿をしながら歩き続け、その日もほとんど食事をとらず空腹のままやがて夕暮れ
が訪れると森影は濃くなり、あたりは薄暗さを増していった。
クリスは思い出した。「旅の間、あなたは食べるものと寝るところには困ることはない。」そ
う言った夢の中の老人の言葉を思い出した。信じよう、その言葉を。
すると小さな集落が姿を現す。その中に一軒だけ、ぽつりと灯りのともる家があった。
https://48460.mitemin.net/i1030168/
クリスが近づいたとき、中からすすり泣くような声が聞こえてきた。
https://48460.mitemin.net/i1030289/
胸騒ぎを覚えたクリス
がその家の玄関の前で立ち止まると、突然、扉が開き、初老の男性が姿を現した。
彼は扉の外に立つクリスを見て一瞬驚いたが、すぐに向き直って中の人に軽く会釈をす
ると、うつむき加減に家を出て行った。
中から現れた女性が、不思議そうにクリスを見つめる。その目には涙が光っていた。
https://48460.mitemin.net/i1030516/
「旅の者です。クリスと申します。……泣き声が聞こえたので、気になって」
思わず口にしたクリスの言葉に、奥の方で座っていた男性が顔を上げた。
女性は声を震わせて答えた。
「息子が……息子が死んでしまったのです。それで……」
その傍らの男性も悲しみを堪えながら立ち上がり、妻の肩を優しく抱いて慰めた。
気づくとクリスの目にも涙が溢れていた。女性はそれに気づき、かすかに微笑んだ。
「……あなた、私の息子のために泣いてくれているのね。ありがとう。優しい人ね。さあ、
入って、この子の顔を見てやってください」
促され、クリスは小さく会釈をして家に入った。そこには小さな体で静かに横たわる少年
がいた。まだ五、六歳ほどだろうか。幼いその顔を見た瞬間、クリスの頬を伝う涙は止まら
なかった。
「とても優しい子でね……。いつも笑っていて、いろいろ手伝ってくれて……羊の世話まで
してくれていたのに……」
母親はそう言うと、言葉を途切れさせ、悲しみに押しつぶされるように泣き崩れた。
しばらくして、父親が静かに名を告げた。
「私はルーベン。妻はティーネ。そして、この子は……アドリヤだ」
「……ア、アドリヤ?」
クリスは驚きのあまり声をあげた。両親はただ静かに頷いた。
――あのアドリヤと同じ名前。
心の中で呟く。なんてことだ、とても良い子であるこの子も、死んでしまったというのか
……。
思わずクリスはその小さな手を握った。
「……えっ?」
温かい。確かに、ぬくもりがあった。
「生きています! この子、アドリヤは生きています!」
クリスは叫んだ。
「えっ!」
両親は同時に声を上げ、駆け寄った。
その瞬間、幼いアドリヤのまぶたがゆっくりと開き、光を宿した瞳が露わになった。
「マティアスさんを呼んでくる!」
ルーベンは声をあげると、急ぎ足で家を飛び出していった。
クリスが不思議そうにしていると、リーネが涙を拭いながら説明した。
「この村で唯一の医者なの。きっとすぐに来てくれるわ」
やがて、ルーベンと共に初老の男性が入ってきた。白髪交じりの髪と深いしわの刻まれた
顔は、長年の経験と人々の信頼を物語っていた。彼こそが村の医者、マティアスであった。
そのとき、アドリヤは母のそばに座り、なんと普通に食事を口にしていた。
「なっ……!」
マティアスはその姿に目を見開き、慌てて駆け寄ると、脈をとり、胸に耳を当て、体を隅々
まで確かめた。
やがて顔を上げ、驚愕を隠せぬ声で言った。
「……信じられない」
両親は歓喜のあまり、マティアスの言葉さえ耳に入らぬ様子で互いに抱き合いながら笑
っていた。
「な、何があったんです? 何かしましたか?」
マティアスの問いかけに、ルーベンとティーネは揃って「別に……」と首を振った。
ようやく少し落ち着いたティーネが、クリスを見つめながら問うた。
「クリス? あなたが……助けてくれたの?」
「い、いえ……私はなにもしていません」
クリスは慌てて首を横に振った。
しかしティーネは静かに微笑み、涙で濡れた頬をぬぐいながら言った。
「……あなたの心が、この子を癒してくれたのよ。きっと」
その言葉にクリスの胸は熱くなった。なにか大きな力が、自分を通して働いたのだろうか
――。
こうしてクリスは、ルーベン一家のもとにしばらく滞在することになった。
クリスがルーベンの家に滞在して数日が経った。
その間、村の医者マティアスは毎日のようにアドリヤの様子を見に訪れた。
熱はないか、体力は戻っているか、食欲はどうか。
その目は医師としての冷静さを保ちながらも、どこか信じがたい光を宿していた。
ある晩、ルーベン夫婦が外に出ていたとき、マティアスとクリスは炉端で二人きりになった。
静かな炎の揺らめきが部屋を照らし、マティアスの顔に深い影を落とす。
しばし沈黙の後、マティアスが口を開いた。
「……クリス。私は医者として長いあいだ多くの命を看取ってきた。
だが、あの子のことだけは今でも信じられない。確かに息はなかった。脈も途絶えていた。
死んでいたはずだ。それなのに……今は元気に生きている」
クリスは胸の奥がざわめき、言葉を失った。
「わからんのだ。医学では説明できぬ。だから……聞かせてほしい。あのとき、一体何をし
たのだ?」
マティアスの視線は真っ直ぐにクリスを射抜いた。
クリスは俯き、小さく首を振った。
「……私は、なにもしていません。ただ……その子の手を握っただけです」
マティアスは目を細め、しばらく黙り込んだ。
クリスは炎を見つめながら心の中でつぶやいた呟いた。
自分は弱く、ただの旅の少年にすぎない。だが――夢で呼びかけられた声、村での出来事、
そして今。
まるで見えない大きな力が、自分を通して人々に何かを示そうとしているように思えた。
「……ヤハ」
クリスは小さく呟いた。
それはエルダの村で、幼いころから教えられてきた神の名前。
今になって、その名の意味と重みが心に迫ってくる。
「私の力ではありません。神――ヤハが、あの子を生かしてくださったのです」
そう告げるクリスの声は、震えていながらも確かな響きを持っていた。
マティアスは深く頷いた。
「そうか……。ならば、この奇跡は神の御心だ。私はその証を、この目で見たのだな」
炉の火がぱちりと音を立てた。
二人の間に沈黙が流れたが、それは重苦しいものではなく、むしろ聖なる静けさに包まれ
ていた。
その夜、クリスは胸の奥で確かに感じていた。
――自分は何も持たない。だが、神は自分を通して人々に語ろうとしている。
そのことを悟り始めたのだった。
しばらくして、クリスはこの村を後にした。




