第10章第5話(最終話)
夜風が頁をめくり、遠くで波が砕ける。
レアは窓辺に立ち、目を閉じて祈った。
「ヤハ……。あなたの灯が、どうか道を照らしますように。
天使よ、また必要なときに現れてください。
私は待ちます。私は歩きます。――クリスと、同じ灯の中で。」
書は静かに震え、薄い金色の粉が紙面に降った。
次の頁の最上段に、短い言葉が現れる。
〈聖地へ〉
レアは小さく微笑んだ。
涙は、もう怖れの形ではなかった。
それは、希望の形をしていた。
ついに、その頁がめくられた。
――ヤハの聖地。
アレティア王国。その分裂した北方の港町。
海は重く、灰色の雲が低く垂れ込めている。
クリスは足を踏み入れたその瞬間、兵に囲まれ、連れていかれた。
「……な、に……?」
レアの指先は震え、本を握る手に力が入った。
現れた名は――ガイウス。
(ルキウスを死に追いやった、あの男……。)
喉の奥が焼けつくようだった。
怒りは熱い刃のように胸の中で震え、自然と拳が固まった。
「クリスを囮にして……ルキウスさんを……。
本当に……ほんとうに……卑怯な人……。」
文字が滲んだ。
けれどレアは本を閉じなかった。
書の中では、再び暗い石壁と湿り気が支配していた。
男も女も、同じ苦しみの中にいた。
エリサが連れていかれたとき、レアは息を止めた。
鞭が落ちる音が紙面で響くたびに、レアの肩も震えた。
――ぱしっ。
――ぱしっ。
「やめて……やめて……。」
声は部屋には届かない。
けれど、祈りはどこかへ届いているはずだ。
「エリサさんは……夫を奪われたのに……。
なぜ、こんな……。」
怒りは、悲しみの奥に沈殿していった。
レアは机に額を押し当て、息をするだけで精一杯だった。
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数日、書を開けなかった。
けれど、レアは崩れなかった。
朝、起きる。
水を汲む。
畑を見て、薪を割り、母に笑顔で声をかける。
夜になると、静かに祈る。
誰にも迷惑はかけない。
泣くときは、天にだけ向いて泣いた。
両親は、それに気づかないふりをした。
「……あの子は旅をしているんだ。
体はここにあっても、心はあの子と一緒に。」
ヤイルはそう言い、オベデアは静かに頷いた。
「きれいになったねぇ、レアは。
あの子、もう子どもじゃないよ。」
風が吹くように、季節がひとつ越えていった。
ある夜。
静かな呼吸ができるようになったそのとき。
レアはそっと本を開いた。
そこには、新しい文字があった。
ガイウスは、部下に裏切られ、命を落とした。
それは報いではなく、空虚な終わりだった。
怒りではなく、虚しさが残った。
(……憎しみの行き着く先って、こうなるんだ。)
レアは深く、静かに息をした。
そして、そこから書は一行で世界を変えた。
クリスは、ただ一人、神殿へ向かった。
誰に背中を押されるわけでもなく、
誰に手を引かれるわけでもなく。
まっすぐに。
レアは胸に本を抱きしめた。
「クリス……私は、ここにいるよ。
あなたの痛みも、あなたの孤独も、私は知っている。
でもあなたは、一人で行くんじゃない。
灯は……一つなんだから。」
涙は流れなかった。
代わりに――
胸の奥で、小さな炎がまっすぐに揺れ続けていた。
それはもう、
誰にも奪えない光だった。
◇神殿の前のクリス
クリスは、ついに神殿の前に立っていた。
長い旅路がここへと導いた。
冷たい白い石が積み上げられた巨大な階段。その先には、灰色の空に溶け込むような聖堂
の影。
だが、その静けさを破るように、神殿の扉から二人の男たちが現れ、痩せ細った男を無造
作に地へと投げ捨てた。
「何をするんだ!」
クリスの声は震えていた。怒りと悲しみが混じり合っていた。
男は鼻で笑った。
「こいつは、金もないくせに神殿に居座ったんだ。食えずに勝手に死んだだけさ。
貧乏人が神に祈るなんて、身の程を知らねぇにもほどがある。」
クリスは拳を握りしめ、歯を強くかみしめた。胸の底から熱がこみ上げる。
――そのとき。
天使の声が、静かに、そっと響いた。
「あなたの目で、ヤハの神殿をくまなく見なさい。」
クリスは息を吐き、怒りをのみ込んだ。
ここで争えば、見なければならない真実が見えなくなる。
そう理解していた。
北門付近は、貧しい人々であふれていた。
盲目の者、病の者、家を持たぬ旅人。
助けを求めて来た者たちが、門前にうずくまっていた。
クリスは持っていたパンを差し出した。
すると、たちまち人々が群がった。
あまりの必死さに、クリスは後ずさり、影へと逃れた。
そのとき。石柱の陰から、強い化粧をした男が現れた。
「ねえ、おれといいことしようよ。」
クリスは息を呑み、逃げるように神殿の中庭へ走り込んだ。
中庭には、今度は遊女が立っていた。
「こっちに来なよ。一晩だけでいいから。」
ここが神の地のはずだった。
ここは――本当に、ヤハの清い場所なのか。
祭壇へと通じる柱廊を進もうとすると、二人の屈強な男たちに行く手を遮られた。
「ただで入ろうだなんて。罪深いな。神の前だぞ。」
「供物を買ってこい。金貨一枚でな。」
広場の店では、小さな像でさえ金貨一枚。
一年働いても稼げるかどうかの金だった。
クリスは拳を震わせた。叫びたかった。壊したかった。
だが――天使の声が、また心に触れた。
「まだです。」
南門には、祭司たちがいた。
神に仕えるはずの者たち。
そのひとりが、男を足蹴にしていた。
「祭司長様の言うことが聞けないのか?娘を差し出せと言ってるんだ。
神に近づけるんだぞ。光栄なことだろう。」
「どうか、それだけは……お許しください……!」
その間に娘は逃げ、父親は地にひれ伏した。
「外に放り出して、痛めつけてやれ。」
「やめろ!」
気づけば、クリスは祭司の手首を掴んでいた。
祭司は悲鳴を上げ、その隙にクリスと父娘は走り去った。
夢中で走り息が切れた。
そのとき、周囲の声が耳に届いた。
「ヤハなんていない。」
「遠くから来たのに無駄だった。」
「神は助けてくれない。」
「ヤハは冷たい神だ。」
人々は絶望を背負い、うなだれて帰っていく。
クリスは泣き崩れた。
「違うんだ……!
ヤハは……いるんだ……!
悪いのは人だ……!
ヤハは……ひどくなんかない……!」
声は震え、涙は土に落ちた。
「ヤハ……わかりました……。
あなたが、なぜ私をここへ導かれたのか。
なぜ人々の涙を、痛みを、祈りを見せられたのか。
ここはもう……清い崇拝の地ではありません。
でも……あなたは、確かにおられる。」
クリスは胸に手を置き、まっすぐに空を見上げた。
「あなたの世界をください。
みんなが……幸せになる世界を……!
ヤハ!!」
その叫びは、大地に、空に、祈りの深部へと響き渡った。
ふわり、と身体が浮いた。
世界が白く広がり、光の中に柔らかな声が満ちた。
「クリス。
あなたはよく、ここまで来ました。
忠実で、正直で、そして――愛に満ちていました。」
その声は、宇宙よりも広く、母の胸のようにあたたかかった。
「さあ、レアが待っています。
今日で、ちょうど七年が経ちました。
約束は守られました。
あとは、私たちの仕事です。」
光は霧が晴れるように緑へと変わっていった。
そこは、レアの家の前だった。
家の扉が開き、レアが飛び出してきた。
「おかえり……!!」
クリスは、驚きながらも、強く抱きしめた。
時は、確かに経っていた。
しかし、2 人にとって 7 年の月日はそう長い時間ではなかった。
レアは、優しく、美しく、凛としていた。
「レア……少し大人になって、きれいになったね。」
「……もう。やだ。」
レアは頬を染め、しかし笑っていた。
「クリスこそ、逞しくなったわ。」
レアは丘へ向かって走り出す。
「待ってよ!」
「ふふふふ。」
風の中を、二人は笑いながら駆けていく。
「ねえ、旅の話、聞きたくない?」
「ううん、全部知ってる。」
「えっ?なんで?なんでだよー」
そのクリスの問いに
レアはいたずらっぽく言った。
「ひ・み・つ。」
家の中では、黒い本が風に落ち、最後の頁が開いた。
そこには一行だけ。
〈ひ・み・つ〉
---
完




