第10章第4話
ある日、クリスが投獄された。
言いようのない不安と恐れがレアを襲った。
それでもレアはクリスが投獄された日からの半年間。
ただ読み、ただ祈り、ただ耐えた。
夜、毛布は一枚だけ。
食事は少量のスープと固いパン。
痛みを想像し、冷たい床に膝をついて祈った。
――私はここにいる。
――あなたの痛みを、ひとりにしない。
レアの信仰は、その暗い冬に芽を伸ばし、音もなく強く根を張った。
書の頁は、まるで遠い旅路の匂いを運んでくるかのようだった。
ルキウスがクリスを解放した場面を読みながら、レアはそっと胸に手を置いた。
――ありがとう、ルキウス。
思わず呟く。
ルキウスは静かな信念と優しさを持った、まっすぐな男だった。
その姿を思い浮かべると、レアは不意に頬が熱くなる。
「……かっこいい人、だったのかな。」
しかし次の瞬間には、首を振って小さく笑った。
「ううん。私はクリスのことしか考えてないよ。ずっと、ずっと一緒なんだから。」
自分に言いきかせるように、でもそれは無理のない自然な言葉だった。
ページをめくる。
ルキウスとアルベルトが、かつての旧友であったことが記されている。
「そうだったんだ……。なにか、色々あったんだろうけど……そういう絆って、素敵。」
胸の奥が、少し暖かくなる。
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場面はデルベへと移った。
男たちの視線が交差し、夜風が甘く絡む町の入口。
そこで最初に声をかけてきたのは――遊女。
「えっ……遊女って、男の人を誘惑する人、よね……?」
レアは思わず立ち上がり、拳を握った。
「クリス! だめ! 行っちゃ……だめ!!」
しかし書の中のクリスは、ただその女性を――サラを――ひとりの人として見ていた。
そして、サラの過去が語られたとき。
レアの握った拳は、静かにほどけた。
笑顔は、傷つけられないためだけの仮面。
レアの視界がにじんだ。
「……見た目だけで、人を決めつけちゃだめだよね。
ヤハ……教えてくれてありがとう。」
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さらに旅は進む。
クリスは救ってきた。
命を。心を。
小さなヤギ、ニール。
幼いアドリヤ。
アルベルト。セバスチャン。
荒んだ海の上でも、人の心の中でも。
しかし、クリスもまた、救われてきたのだ。
多くの手によって。
レアはゆっくりと息を吸った。
(ヤハは……クリスだけを成長させているんじゃない。
私も、同じ灯の中に生きている。)
胸が温かかった。
悲しみも、痛みも、その中で燃えていた。
しばらくして書の頁は再び進んでいた。
レアはその更新に、もう驚かなかった。
ただ、心を整えて読み始める。
エリサ――ルキウスの妻。
穏やかな眼差しと、芯のある凛とした姿。
「素敵な人……。私も、こんな風に生きられたら……。」
しかし物語は、レアの胸の奥を突然締めつける方向へと進んだ。
デルベ。
裏切り。
ルキウスが倒れたという報せ。
その文字を目にした瞬間、レアは息ができなかった。
「――ルキウスさん……!」
その名は、涙の形となってこぼれ落ちた。
どうして。
どうして、良い人ほど先に行ってしまうの。
胸の奥で問うしかできなかった。
そのとき、サラの言葉が蘇った。
『あなたは、ただ助けてもらえるから神を信じるの?』
(……違う。
信仰は、“都合の良い光”じゃない。)
レアは涙を拭った。
目は赤くても、まっすぐだった。
(信じるって、こういうことなんだね。)
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エリサは泣かなかった。
怒りに燃える百人隊を諭し、静かに立っていた。
その強さは、鋼ではなく、祈りだった。
「……すごい。私も、強くならなきゃ。」
レアは昼間、今まで通り働き、笑った。
両親も変わったとは思いながら、何も言わなかった。
夜になれば、書を開き、旅を追った。
季節がいくつ巡ったのか、もう覚えてはいない。
けれど――
クリスを待つ時間は、長くはなかった。
それは、灯を分け合っている者の時間だったから。
サラの刺繍が認められ、平和の島国へ渡ると書かれていた。
「どんな国なんだろう……。」
レアは胸に本を抱いた。
心の中に柔らかな風が吹いた。
旅はまだ終わらない。
そして――
その旅は、確かに、レアと共にある。
エリサも、天使の夢を見ていた――その一文に触れたとき、レアは胸の内で小さく頷いた。
(やっぱり……私と同じだ。)
思い返せば、サラにも天使は現れた。絶望の縁に立つたび、見えざる翼が人の背をそっと
押していく。
いつも、大切な場面で。いつも、灯が途切れそうなところで。
書は淡く光り、次の頁が立ち上がる。
エリサは大切な役割を帯びて、クリスたちとともに平和の国セレーネスを目指すことに
なった。
サラの刺繍は王都に届き、王妃のもとで仕える道が開かれる。
(よかった……サラ。)
レアは静かに息を吐いた。変えたのはクリスではない。ヤハだ。
ヤハがクリスをサラのもとへ導き、嫌悪と諦めの鎖を断つ力を与え、失われかけた「夢」
を呼び覚ました。
デルベを間一髪で離れられたことも、ルキウス隊と巡り会ったことも、エリサの家に身を
寄せられたことも――
(いつから始まっていたの? この流れは。)
未来も過去も、ヤハの前では同じ一筋の川なのだろうか。レアはページの白さに遠い海を
見た。
やがて書は沈黙を覚えた。
どれほど待っても、一行も進まない夜が続いた。
それでもレアは退屈しなかった。
(この間は、私が育つ時間。)
彼女は家事に励み、祈りを深くし、言葉を選んで人に優しくなろうと努めた。
灯は読まれない頁の下で、見えないまま育ってゆく。
――そして、ある朝。
頁がふっと香りを帯び、セレーネス島の岸が開けた。
紺碧の入江。柔らかな陽。海風に揺れる庭には、咲き満ちる薔薇。
(うわぁ……。)
思わず声が漏れる。こっちでも薔薇は咲く。けれど、ここは違う。
花びらは祈る手の形で、色は朝焼けのように透き通り、香りは人の心をほどく。
王宮の回廊に灯がともり、カリオン王とセレーネ王妃が歩み出る。
穏やかな目を持つ人々だった。威圧はなく、聞く前に耳を傾ける種類の静かな威厳。
サラは深々と頭を垂れ、薔薇の刺繍を献上する。
(王妃さまが薔薇を愛しておられること、ちゃんと知っていたのね。)
気の利く振る舞いは、サラに宿った新しい誇りのかたちだった。
レアの憧れは、胸の内でふくらみつづけた。
王宮の学院で、聖なる書が披露される。
学士が驚きの声を上げた。「これはエルダ語で書かれている」
かつてクリスの村の周辺でだけ使われていた古い言葉。
(……ヤハは、この書をクリスに読ませるために、ここへ導かれたんだ。)
納得が、光のように腑に落ちる。
夕刻、王都の片隅の広場で、老婆が語った。
「ヤハの聖地は、この島から海を渡った向こうの国にあるよ。けれど、神殿の立つ町は、
どうにもよくない匂いがするねぇ。」
不穏な影が、文面の余白をかすめた。
(やっぱり、行くのね……。)
レアは本を抱きしめる。行き先に恐れはある。だが、恐れよりも確かなものがあった。
そこに答えがある。
そして、その答えは、誰かを裁くためではなく、誰かを生かすために与えられるはずだ。




