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第10 章第3話

その夜、クリスは再び夢を見た。


静寂の宇宙――どこまでも深く、どこまでも白く。


星々の瞬きの向こうから、あの懐かしい声が響く。


> 「クリス……クリス……ここからは一人で神殿へ向かうのです。


> あなたの目でヤハの神殿をくまなく見なさい。


> そして、心で感じなさい。


> ――ヤハの灯を継ぎし者として。」


その声が消えると、辺りはやわらかな光に包まれた。


クリスは目を開けた。夜明けの光が牢の格子を越え、頬を照らしていた。


翌朝。


エリサはまだ目を覚まさなかった。


しかし彼女の顔は穏やかで、安らぎに満ちていた。


「ありがとう……エリサさん。」


そう小さくつぶやき、クリスは立ち上がった。


誰も止めなかった。


兵も町人も、ただ黙って彼の背を見送った。


まるで全てを知っているかのように。


「これを。」


宿の老婆が差し出したのは、粗末なパンと小さな革袋の水だった。


「ありがとう。」


クリスは深く頭を下げ、歩き出した。


その背には、もうあの弱々しい少年の影はなかった。


そこにいたのは――試練を超え、心に光を宿した青年だった


歩きながら、クリスはこれまでの旅を思い返していた。


出会いと別れ。涙と祈り。怒り、そして赦し。


懐から古びた袋を取り出す。中にはパンと水。


――それだけだった。


「そうか……やっと分かりましたよ、ヤハ。」


クリスは空を仰いだ。


「人が生きていくのに本当に必要なのは、パンと水。


それ以上を求めると、欲望が生まれる。


でも、パンと水さえも……あなたが与えてくださった。


僕たちには、あなたの愛があれば、それで十分なんだ。」


頬を伝う涙を、彼は拭わなかった。


その涙は悲しみではなく、深い感謝の祈りだった。


やがて、遠くに神殿の塔が見えた。


石造りの尖塔が空を突き、白煙が真っすぐ天へとのぼっている。


――香の煙。捧げ物の煙。


けれど、クリスはすぐに気づいた。


その煙には、神聖さのかけらもなかった。


むしろそれは、


人間の欲と恐れが天に押し出した“黒い影”のように見えた。


「ヤハ……ここが、あなたの神殿なのですか?」


その声は、風に溶け、鐘の音のように遠く響いた。


――時は遡る。


場所は、西の村ニキ。


朝の光が差し込むなか、レアは母オベデアの声で目を覚ました。


「あなたが朝ごはんに遅れてくるなんて、珍しいわね。」


「そうだな、いろいろあって疲れたのかもしれないな。」


父ヤイルの穏やかな声が続く。


レアはあくびをしながら階段を降りた。


「ううん、なんか夢を見ちゃって。」


「へぇ、どんな夢?」


「子ヤギに追いかけられる夢とか?」


ふたりの冗談に笑いが起きた。


――いつもと違う。朝から、パパもママもこんなに笑ってるなんて。


最近は、アドリヤのことでずっと暗かったのに……。


食卓で温かなパンの香りを感じながら、レアは思った。


(アドリヤも、かわいそうだったな……でも、クリスの神って、本当にいるのかな。)


食後、オベデアが言った。


「今日は神様にお祈りをする日よ。感謝を忘れないでね。」


――そうだ。今日は仕事もせず、心を静める日だ。


「上に上がるね。」


レアはそう言って二階の部屋へ戻った。


机の上に、見慣れない黒い羊皮紙の本が置かれていた。


「ママが置いたのかな?」


手を伸ばしかけたそのとき、昨夜の夢を思い出した。


――まぶしい光のなか、天使のような人が現れ、私の名を呼んだ。


『あなたの愛が真実なら、きっと読み続けられます。』


そう言って、その人は机の上にこの本を置き、消えた――。


「……夢じゃなかったの?」


震える手で本を開く。


最初の頁には、こう書かれていた。


> 〈村を出て歩き始め、夕方になりかけていた。木陰に動くものを見つけた。ヤギだ。


「えっ……ヤギ?」


――それは、あの日の出来事だった。


木に絡まって動けなくなったヤギ。あの時、クリスが助けてくれた。


さらに読み進める。


> 〈水筒の残りを分け与えると、木は自然とほどけた。〉


「これ……クリスの旅の日記?」


そこに、ヤイルとオベデア、そして自分の名前が出てきた。


> 〈おい、客人だ。レア、挨拶を。〉


「えっ……なにこれ!? ママが書き写したの?」


だが次の一文を読んで、息を呑んだ。


> 〈レアを見て、僕の胸は高鳴った。〉


「……!」


頬が一瞬で熱くなった。


> 〈その夜、レアのことを考えると眠れなかった。〉


「も、もう! なにこれ!」


レアは本を閉じ、顔を両手で覆った。


胸の奥から熱いものがこみ上げる。


「でも……嬉しい。」


深呼吸して、再び頁を開く。


その書は、アドリヤの死、そしてクリスとの別れの言葉を記したところで終わっていた。


――どういうこと?


レアは戸惑った。


まるで、誰かが意図的に旅路を途中で断ち切ったように、言葉はそこから先に進んでいな


い。


「続きは……私が書くの?」


そう呟いてみたものの、書けることなどたかが知れている。


毎日は同じ家事と、同じ畑の仕事。


旅に出ているのは、クリスだけだ。


(……私も、一緒に旅に行けたらよかったのに。)


その夜、寂しさは胸の深いところで沈んだまま眠りについた。


翌朝。


レアは前日の続きとして日記をつけようと、机の上の書を開いた。


――そして、息を呑んだ。


最終頁だったはずの場所から、数頁が新しく綴られていたのだ。


「……え?」


文字は、淡い光を帯びていた。


誰かが夜のうちに書き足したのではない。


紙そのものが、まるで時を受けとめて生まれたかのように、自然に続いていた。


「この本……時が進んでいく……。」


ゆっくりと理解が形をとる。


昨夜の夢。


光の衣をまとった天使が告げた声。


――『あなたは、彼と共に歩むのです。言葉を通して。魂を通して。』


「……そういうことだったのね……。」


レアは胸にそっと手を当てた。


温かなものが、かすかな灯火のように胸の奥で揺れた。


「ヤハの神様……ありがとうございます。私、ちゃんと見守ります。」


そう祈ると、書の文字が静かに脈打つように輝き、レアは旅の続きを読み始めた。


文の中で、場面は南の村トーレンへ移る。


干からびた大地。乾いた風。小さな命が失われた家。


その子の名は――アドリヤ。


「……アドリヤ……?」


あの日、自分を縛った名前。


不幸と掟を象徴したかのような、重い響きの名。


だが、書の中にいたその子は、小さく、優しく、ただ愛されたかっただけの子だった。


クリスがその子の小さな手を握り締めた時、レアの胸にも、熱いものがこみ上げた。


――どうしてこんな小さな子が、こんな目に。


涙が頬を伝うのと同じように、書の中でクリスも泣いていた。


そして、光は降り注ぎ、幼い命は息を吹き返した。


「……本当に……クリスは……ヤハに守られている……。」


レアの胸の灯は、その瞬間に静かに燃え上がった。


書は続く。


果てしない海。潮風の匂い。


レアは海を見たこともないのに、胸の奥に波が寄せて返した。


モンテル家の門。


アルベルトの陰のある瞳。


そして、家庭教師ニコラス。


「……こいつ、怪しいわね。」


思わず小声で呟き、ひとりで苦笑した。


裁判の場面では、レアは思わず声を上げていた。


「クリス、勇気を出して! 負けないで!」


誰にも聞こえないはずなのに。


けれど、その祈りは風になって届いたかのように、クリスはまっすぐに言葉を放ち、


裁きは覆った。


「やった……!」


レアは跳ねるように喜び、階下でくつろいでいたヤイルとオベデアは顔を見合わせた。


「ここのところ、妙に明るいな……レアが。」


「うん。でも、あの子が笑ってくれるなら、それでいいんじゃない?」


オベデアは静かに微笑んだ。

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