第10章第2話
すぐに隣の牢からクリスの叫び声が響いた。
「やめて! エリサさん!」
ガイウスは冷笑を浮かべ、牢番に命じた。
「鞭打ち室に連れていけ。ついでに――魔女狩りの見世物にしてやれ。」
「やめろっ!」
クリスの声は石壁に反響した。
エリサは連行されながら、振り返って微笑んだ。
「大丈夫よ、クリス。ヤハが見てる。」
そして重い扉が閉じられた。
すぐに、遠くの部屋から鞭の音が響いた。
金属を裂くような乾いた音、そして女の悲鳴。
クリスは格子を掴み、声を振り絞った。
「やめろぉぉぉ!!!」
声は虚しく反響し、石壁に吸い込まれていった。
崩れ落ちたクリスは拳を握りしめ、うなだれた。
「どうして……どうしてですか、ヤハ……!」
その声は祈りであり、叫びであり――
天を裂くような嘆きとなって、闇の牢を震わせた。
「この女、しぶとかったな。」
「まったくだ。さっさと気絶しときゃ、ここまでやることはなかったのによ。」
「明日になりゃ、死んでるかもな。」
看守たちの笑い声と、鈍い音が廊下の奥から近づいてきた。
何かを引きずる音――いや、誰かを。
クリスは息をのんだ。
次の瞬間、廊下の角を曲がって、二人の看守が現れた。
その手には、ずるずると床を滑らされる一人の女。
「……エリサさん……!」
その体は仰向けに引きずられ、衣服は裂け、全身に鞭の痕が走っていた。
顔は血に濡れ、かつての毅然とした表情は見る影もない。
あのエリサさんが、気を失うまでに――。
クリスは鉄格子にすがり、叫んだ。
「おまえら! なぜこんな酷いことをするんだ!
おまえらはそれでも人間か!? おい、答えろ!!」
だが看守たちは無言のままエリサを隣の牢に押し込み、
まるで石ころでも扱うように扉を閉めた。
一人の看守が吐き捨てるように言った。
「死んじゃいねぇよ。出血は止まってる。息もしてる。
まだ死んでもらっちゃ困るからな。」
その言葉を残して去っていく足音が、やがて闇に消えた。
牢には、沈黙と血の匂いが残った。
クリスは鉄格子を握りしめたまま、声を出せなかった。
ただ、震える唇から嗚咽が漏れた。
――僕と……一緒に来なければ。
――僕がもっと強ければ。
自分の無力さが、心を締めつけた。
祈りの言葉は、どこにも見つからなかった。
やがて、冷たい石壁にもたれたまま、
どれほどの時間が過ぎたか分からない。
その時だった。
「……クリス………………クリス………………」
かすれた声が闇を割いた。
「エリサさん!? 大丈夫ですか!?」
「……クリス……いいから、聞いて……」
か細い声は、途切れ途切れに続いた。
「あなたは……どんなことがあっても……
ヤハを信じて……ヤハの教えを……守るのよ……いい?」
「……エリサさん……」
「少し……休むわ……」
それきり、声は途絶えた。
だがその言葉は、クリスの胸の奥に深く刻まれた。
――そうだ。僕にはヤハがいる。
どんなときも助けてくれたヤハが。
だがすぐに、別の声が頭をよぎった。
サラの声だった。
「あなたは、ヤハが助けてくれるから信じるの?」
胸の奥が静かに震えた。
ヤハは空を創り、海を創り、星々を散りばめた。
森の木々も、川の流れも、小さな鳥や魚たちも。
人間を愛し、微笑むようにこの世界を与えてくれた。
――けれど、僕たちは何を返しているのだろう。
クリスの頬を一筋の涙が伝った。
「……僕は、託された。
ヤハの灯を継ぐように。
ならば――恐れずに返さなければならない。」
目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
血の匂いと鉄の冷たさの中で、
クリスは静かに祈り始めた。
翌朝、鈍い鉄の音が響いた。
扉の錠が外れ、冷たい風が差し込む。
「ご機嫌はいかがかな? クリス君。」
ガイウスが現れた。
その目には、夜通し酒をあおったような濁りと、異様な笑みが浮かんでいた。
「おやおや、今日はご機嫌斜めのようですねぇ。まあ、無理もない。
昨夜はあなたのお仲間と少し余興をさせてもらいましてね。
いやあ、見事でしたよ。あれほどの鞭打ちに耐えた女は初めてだ。」
その言葉に、クリスの瞳が燃えた。
「前置きはいい。何の用ですか。」
「はっはっは。冷たいねぇ。
まあいい、要件だ。まもなくここにアウレリア帝国の高官、レオニウス・ヴァレンティ
ス殿が到着される。
あなたはその方の前で、“ルキウスを死に追いやった”と証言するんです。」
「言いません。」
ガイウスの口元が歪んだ。
「はあ? クリス君、それは困りますね。
あなたが口を閉ざすなら――エリサ殿を“魔女”として処刑するしかない。
あの女の悲鳴を、もう一度聞きたいのか?」
「そんなことにはならない。ヤハの名によって、そんなことは起きない!」
ガイウスは乾いた笑いを上げた。
「まだそんな神を信じてるのか。
せいぜい祈るがいい。だが、おまえの神は何も答えやしない。
ああ、そうそう。おまえの仲間たちはもう寝返ったよ。
皆、実に優秀な兵だ。……もう誰も、おまえの味方はいない。」
笑い声が廊下に遠ざかる。
扉が閉じられた後、静寂が落ちた。
「……クリス、よく言った。」
隣室からエリサのかすれた声が聞こえた。
「エリサさん! 大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないけど……あなたの言葉に勇気をもらったわ。」
――この人は、自分の命が危ういと知りながら、僕の信じる神を信じてくれている。
クリスは拳を握りしめた。
数時間後、二人は牢から引きずり出された。
広場の中央には処刑台。エリサは丸太に縛られ、足元には乾いた藁が敷かれていた。
火の用意は、整っていた。
クリスは石段の下に立たされ、上を見上げた。
そこには、金の紋章を胸にした男――レオニウス・ヴァレンティスがいた。
その横で、ガイウスが満足げに笑っている。
「高官殿、こちらがあの一件のクリスでございます。
この者は宦官ドンゴと結託し、ルキウス殿を死に追いやった裏切り者です。」
「そうか、こいつか。」レオニウスが眉をひそめる。
「さあ、クリス君。すべてをありのままに話すんだ。
“自分がやった”とね。」
ガイウスはわざとらしく耳元に顔を寄せた。
「言わねば、彼女が燃える。」
クリスは顔を上げた。
「ルキウス様を死に追いやったのは――この男です!」
その言葉に、広場が凍りついた。
「何を言う!」ガイウスが叫ぶ。
「ドンゴと手を組み、ルキウスをおびき出したのはおまえだ! 証拠の書状もある!」
レオニウスは混乱していた。
「落ち着け! 二人とも帝都に連れて行く!」
だが、ガイウスの耳には何も届いていなかった。
「黙れ! もういい、殺せ!殺せと言ってるんだ! 早く殺せぇ!」
怒鳴り声とともに振り返った瞬間――
鈍い音が響いた。
ガイウスの腹に、剣が突き立っていた。
「……な、何を……」
一人の兵士が低く言った。
「俺はあんたの百人隊の一人だ。顔も覚えていねえ、お前が悪いんだよ。」
さらに深く剣を押し込む。
「仲間を虫けらのように死なせた報いだ……」
ガイウスは崩れ落ちた。
他の兵士たちは動揺して逃げ出し、残ったのはルキウスの隊員たちだった。
「縄を解け!」
誰かが叫び、エリサを縛る縄が切られた。
クリスが駆け寄ると、エリサは微笑んだ。
「ほらね……ヤハが助けてくれたでしょ。」
彼女はその言葉を残し、意識を失った。
「エリサさん……本当によく頑張ったよ。」
クリスは彼女を抱きしめ、涙をこぼした。
その夜、彼らは廃屋となった宿に身を寄せた。
眠る前、クリスは静かに祈った。




