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第10章第1話

海は穏やかだった。波間に光る陽光が、まるで神の導きのように航路を照らしていた。


クリスたちを乗せた船は、ゆるやかに西へと進み、やがてアレティア北王国――ヤハの神


殿がある地へと近づいていった。


クリスは甲板に立ち、風に髪をなびかせながら遠くを見つめていた。


胸の奥に渦巻くのは、言葉にならない不安と期待の入り混じった感情だった。


老婆が語っていた“堕落した神殿”の姿が脳裏をよぎる。


「もし……本当にそんな場所だったら、僕はどうすればいいんだろう。」


その呟きは波音にかき消された。


船は途中、小さな島に寄港した。積み荷の確認という名目で停泊したが、


そこから数人のアウレリア帝国の兵士が新たに乗り込んできた。


彼らは口数少なく、鋭い目つきで周囲を見回していた。


クリスは何かを感じ取り、なるべく距離を取るようにしていた。


やがて船は北王国の港町――オルドに到着した。


空には白いカモメが群れをなし、港には市場の喧騒が響いていた。


一見、平和そのものの風景だった。


クリスたちは桟橋から続く長い石段を登っていた。


湿った潮風が背中を押す。石段の上には広場が見え、その先には白い建物の影が伸びてい


た。


――その時だった。


上りきろうとしたクリスの喉元に、突然、数本の剣先が突きつけられた。


きらりと光る鉄の刃。その冷たさが首筋に伝わる。


「な……!」


後ろを振り返ると、サラやエリサ、ルキウス隊の兵士たちにも同じように剣が向けられて


いた。


すると、一段上の石段からゆっくりと一人の男が姿を現した。


年齢は四十を越え、鋭い眼光に冷笑を浮かべている。


彼はゆっくりとクリスに近づくと、芝居がかった口調で言った。


「クリス君だね?」


「……ああ。」


男は嘲るように唇を歪めた。


「ようやく会えましたよ、裏切り者のクリス殿に。はっはっはっ!」


「いったい……何のつもりです?」


「これは失礼。私は――アウレリア帝国百人隊の隊長、ガイウス・コルウィヌスと申しま


す。」


「ガ、ガイウス!」


その名を聞いた瞬間、後ろにいたエリサが思わず叫んだ。


ガイウスはその声に反応し、冷たく目を細めた。


「おや?私の名を知っているとは。どうやら、ただの旅人ではなさそうだ。」


彼はすぐに手を振って兵士たちに命じた。


「ここでは何ですから……我らの“客室”へ案内して差し上げろ。」


兵士たちはクリスたちを拘束し、港町の奥へと連れ去った。


――そこは、古い監獄のような石造りの建物だった。


クリスとエリサは隣り合う小部屋に押し込まれ、


ルキウスの隊員たちはさらに離れた牢へと分けられた。


重い扉が閉じられる音が響き、冷たい静寂が訪れる。


しばらくして、ガイウスが戻ってきた。


彼はクリスの牢の前に立ち、鉄格子の向こうから言った。


「クリス。おまえは、かつてコリントスで投獄されていたな?」


クリスは黙ってうなずいた。


「そのとき、おまえは釈放される代わりに、ルキウスを東の国境――ザファリア帝国領デ


ルベへ誘い出した。


そしてルキウスは、そこで討たれた。違うか?」


「……そんなことをするわけがない!」


クリスは格子に掴まり叫んだ。


「僕はただ……釈放されたんです!誰かが出してくれた。それだけなんです!」


「わっはははっ!」


ガイウスの笑い声が牢に響く。


「そんな都合のいい話があるか!誰が、おまえのような若造を釈放する?


おまえのせいで宦官ドンゴは処刑されたんだ! ……いや、“されたことにしてやった”


と言うべきかな。」


クリスの目が見開かれた。


「まさか……お前が……!」


「その通りだ。」


ガイウスは鉄格子に拳を打ちつけた。


「すべて貴様のせいだ!ドンゴは利用価値を失った。


ルキウスを失い、帝国の名誉は地に落ちた。


そして私は――この僻地オルドに左遷された。


だがな、これで全てが終わる。貴様を“ルキウス殺害の共犯”として帝国に引き渡せば、


私は再び帝都の百人隊に、いや、将軍になれる!」


その時、隣の牢からエリサの叫び声が響いた。


「あなた!あの子たちをどこへやったの!? ルキウスの隊員たちよ!あなたたちの仲間じ


ゃないの!?」


ガイウスは冷たく笑い、首を横に振った。


「仲間?ふん、部下など使い捨てだ。駒に過ぎん。」


エリサは鉄格子を握りしめ、怒りに震えた。


「あなたには血も涙もないのね……!」


だがガイウスは何も答えず、ただ薄笑いを浮かべたまま、


「では次は“貴女”の番だ」と呟いて暗い廊下を去っていった。


石壁の隙間から吹き込む冷たい風が、灯の火を揺らした。


そのわずかな光の中で、クリスの瞳は静かに燃えていた。


「エリサ……エリサ! 大丈夫?」


隣の牢に向かってクリスは声を張った。


石の壁の向こうからは返事がなかった。


しばらくして、かすれた声が返ってきた。


「……クリス。信じてるよ。」


安堵の息が漏れた。だが、その声には疲労と痛みが滲んでいた。


「まさか、あんな話を信じてないですよね。僕は何もしていない。釈放されたのは確かだ


けど……誰が出してくれたのか、本当に知らないんです。」


沈黙が落ちた。


やがてエリサは静かに言った。


「……多分、ルキウスだわ。あなたを釈放したのは。」


「えっ?」


「彼は西のプタニアを平定したあと、まっすぐ家に帰ると言っていた。


でもね、途中で“寄らなければならない場所がある”とだけ伝えてきたの。


その後、皇帝大評議会が始まって、しばらく音沙汰がなかった。


考えられるのは一つ。――あなたを救いに、コリントスへ向かったのよ。」


クリスは言葉を失った。


「ルキウスさんが……僕を?」


「そうよ。あの人は、そういう人。誰かを見捨てたりしない。


……ちょっと嫉妬しちゃったけどね。でも、あなたなら許せるわ。」


「エリサさん……」


エリサは少し笑みを浮かべ、しかしすぐに険しい表情に変わった。


「そして、ルキウスを殺したのは――あの男、ガイウスよ。」


「ガイウス……!」


「ええ。彼はずっと前からルキウスを敵視していた。


ルキウスが功績をあげるたび、彼の中の何かが歪んでいった。


私はずっと不安だった。あいつは嫉妬で自分を滅ぼす男だと。」


その瞬間、クリスの脳裏に浮かんだのは――


あのコリントスの港で、ドメニコの船を降りたときに見た兵士の顔だった。


「……あの人だったのか。僕を釈放してくれたのはルキウス。


あのあと戦地に戻って……それでも僕を助けに。


ありがとう……ありがとう……!」


クリスの目から涙がこぼれ落ちた。


その声を聞いたエリサが、かすかに笑って言った。


「泣いてる場合じゃないわよ、クリス。ここを出なきゃ、神殿には行けない。


「……そうだね。」


「さっき、エサを撒いておいたの。必ず動くはず。


とにかく今は体力を温存して、休みましょう。」


そう言ってエリサは壁際に体を寄せ、すぐに静かな寝息を立てた。


クリスは目を閉じ、ヤハに祈った。


――どうか、彼女をお守りください。


数日後。


鉄の扉が軋む音がして、ガイウスが現れた。


その目には、残忍な光が宿っていた。


「おまえがルキウスの妻だな。」


「……そうだ。」


「名は?」


「エリサ。」


「そうそう、エリサさんだったね。」


ガイウスはゆっくりと牢の格子に手をかけた。


「なるほど、端正な顔立ちだ。ルキウスが妻にしたのも納得だ。


だがな――俺は、ルキウスが心底嫌いだった。


俺のやることなすこと、すべて邪魔をして……それがことごとく成功する。


まるで俺には能力がないと、皆に吹き込んでいるようだった。」


エリサは静かにその目を見据えた。


「それは違うわ。彼は一人の命も無駄にしないために戦っていた。


あなたの隊も、あの時ルキウスがいなければ全滅していたはずよ。」


「うるさい!」


ガイウスが怒鳴り、格子を蹴った。


「隊員なんてただの駒だ! 俺を引き立てるための!


助けてくれなど誰も頼んでいない! あいつは英雄を気取りたかっただけだ!」


エリサは悲しげに目を伏せ、そして小さく言った。


「かわいそうな人ね。……あなたは。」


その言葉にガイウスの顔が歪んだ。

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