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第9章第2話

王妃はしばし沈黙し、ゆっくりと席を立った。長い裾が床をすべり、香のような甘い香りが


空気を揺らす。


彼女は後ろの戸棚へと歩み寄り、そこから一冊の分厚い本を取り出した。黒い表紙には古


びた金の模様が刻まれている。王妃はそれを両手で抱きしめるようにしてクリスのもとへ


と戻り、静かに言った。


「これは、代々この島に伝わる“聖なる書”です。けれども……誰も読むことができません


でした。」


その言葉にクリスの胸が高鳴った。表紙を見た瞬間、どこか懐かしい感覚が蘇る。


「……聖なる書。」


彼が呟くと、王妃の瞳が驚きに見開かれた。


「いま……あなた、何と?」


「聖なる書、と言いました。これは――エルダ語です。」


「エルダ語?」王妃が息をのむ。


クリスは静かにうなずいた。


「はい。かつてエルダ地方で使われていた古の言語です。今はアウレリア語に取って代わ


られ、もう誰も使うことはありません。


……私は幼いころ、父と母にこの書から教わりました。なぜ両親がこの本を持っていたの


かは分かりませんが……文字も祈りの言葉も、自然と覚えていたのです。」


彼は恐る恐る尋ねた。


「触れても、よろしいですか?」


王妃は微笑み、頷いた。


「ええ、もちろん。」


クリスは両手で本を受け取り、ゆっくりと開いた。乾いた紙の匂いが立ちのぼる。古代の


文字が整然と並び、そのひとつひとつが淡く光を放っているように見えた。


王妃の声が震えた。


「……読めるのね? 本当に読めるの?」


「はい。間違いありません。」


王妃の目に涙が滲んだ。


「やはり……あなたこそ、“ヤハの灯を継ぎし者”。」


クリスは首をかしげた。


「“ヤハの灯を継ぎし者”とは、どういう意味でしょうか?」


王妃は深呼吸をし、少し照れたように笑った。


「ごめんなさい。取り乱してしまって……。でも、聞いてください。サラさんに執事が出


会う前の夜のこと――。私は夢を見たのです。白い衣をまとった“神の遣い”が現れて、こう


告げました。


『あなたの国を幾度となく守ってきたのは、あなたの民がわたしの掟を守り、平和を愛したからである。だが、やがて“ヤハの灯を継ぎし者”が現れ、真の言葉を告げるだろう』――


と。」


王妃はまっすぐクリスを見つめた。


「その夢を見てから、ずっと待っていたの。あなたが来るのを。」


広間の空気が静まり返る。


王妃の声は、祈りのように柔らかく続いた。


「クリス。あなたこそ、ヤハの灯を継ぐ者。もしよろしければ……会堂でこの書を、民の


前で読んでいただけませんか?」


クリスは思わず辺りを見回した。サラもエリサも、何も言わずにうなずいた。


その視線に背中を押されるように、彼は小さく深呼吸をし、静かに言った。


「……はい。読ませていただきます。」


その瞬間、窓の外から一筋の光が差し込み、古い聖なる書の文字が黄金に輝いた。


まるで、天がその約束を祝福しているかのように。


翌朝、陽が昇るよりも早く、クリスは会堂の扉を押し開けた。


白い光が差し込む中、彼は祭壇の前に立ち、両手で黒い聖なる書をそっと掲げた。


その日から、彼の朗読が始まった。


国王も王妃も、国中に知らせることはしなかった。


「神の言葉は、人が求める時に自然と届くもの」――そう信じていたからだ。


最初はたどたどしい朗読だった。


古いエルダ語のまま、ゆっくりと、間をとりながら一文ずつ読み上げていく。


だが、その静けさの中で響く言葉に、港から来た商人も、畑で働く者も、子どもたちも、少


しずつ足を止めた。


やがて、クリスの前には小さな人の輪ができた。


日を追うごとにその輪は広がり、彼の声は会堂の石壁を震わせ、外の広場にまで届くように


なった。


夜、部屋に戻るとクリスは机に向かい、聖なる書をアウレリア語に訳す作業を続けた。


この島の八割の人々がアウレリア語を話す。


貿易のために便利な言葉だったが、同時に古の祈りの言葉を忘れさせた言葉でもあった。


だからこそ、彼は両方の言語を使い、**“心で伝える”**ことを選んだ。


エリサと隊員たちは畑で土を耕し、井戸を掘り、土木工事に汗を流していた。


サラは刺繍に没頭し、日が暮れる頃には指先を赤く染めながらも微笑んでいた。


それぞれが静かに、しかし確かに幸福の中にいた。


---


ある日の朗読の最中――。


老女がひとり、涙を流して膝をついた。


「……ああ、懐かしい……」


人々が息をのむ。


彼女は震える声で言った。


「クリス様……私たちの国の人々にも、その教えを分けてあげてくださいませんか?」


クリスは驚き、聖なる書を閉じるとその場に膝をついた。


そして、老女の手を握り、優しく言った。


「僕は“クリス様”ではありません。僕は、ただの人間です。


お婆さん……あなたの話を聞かせてください。」


老女はゆっくりとうなずき、語り始めた。


---


「昔は……アレティア王国も、サレムも、みんなひとつでした。


神殿には歌があり、祈りがあり、笑いがありました。


若者たちは皆、会堂で聖なる言葉を競うように朗読していたのです。


誰も強制されず、ただ、互いを思いやる心で――」


老女の目は遠い過去を見ていた。


「貧しい者にも富める者にも分け隔てはなく、


皆が“ヤハの心”を持って生きていました。


それが、私たちの祖先の誇りでした。


けれど……北から商人たちが来た。


アウレリア帝国が金と富を持ち込み、人々は変わってしまったのです。


掟を守るために、彼らは新しい掟を作り出しました。


金で罪を贖い、寄付を積めば神に近づけると言い張った。


神殿の北の門には遊女が立ち、南の門には金の箱が置かれ……


やがて信仰は商いとなり、人の心は二つに裂かれました。


そして、国もまた――南と北に分かれてしまったのです。」


そこまで話すと、老女は咳き込み、体を震わせた。


クリスはすぐに背を支え、そっと背中をさすった。


「もう話さなくていい。ゆっくり休んでください。


……確かに、私は聞きました。」


クリスは静かに老女の手を握り、目を閉じた。


「確かに、愛と平和の神が悲しんでおられるのを感じます。


――行きましょう。南北の王国へ。」


彼の声は、静かに、しかし確かな決意を帯びていた。


その瞬間、会堂に集まっていた人々は息を呑み、


蝋燭の炎がゆらめく中で、まるで神が彼の言葉に応えたかのように風が吹き抜けた。


そしてクリスの旅は、再び動き出した。


ヤハの灯を――真の平和を――取り戻すために。


その日の会堂の空気には、いつになく厳かな静けさが満ちていた。


老婆の語った「二つに裂かれた国」の話が、人々の胸に深く刻まれたからだ。


誰もが黙り込み、祈るようにうつむいていた。


その様子を、後方の柱の陰から静かに見つめていた二つの姿があった。


――セレーネス国王と王妃である。


二人は言葉を交わさず、ただ目を合わせ、静かに頷いた。


その頷きには、深い理解と確信が宿っていた。


---


夕暮れ、会堂の鐘が鳴り終わる頃、クリスは城に戻った。


サラとエリサが迎えに出てきて、少し緊張した面持ちで尋ねた。


「……ねえ、クリス。国王と王妃は、行かせてくれるの?」


ふたりの声が重なった瞬間、クリスは言葉を失った。


胸の奥で何かが重く鳴った。――許しが得られなければ、これ以上は進めない。


だが、その沈黙を破るように、奥の回廊から穏やかな声が響いた。


「行きなさい、クリス。」


振り返ると、国王がゆっくりと現れた。


その背後には、王妃が優しく微笑みながら寄り添っている。


「会堂での話はすべて聞いていました。」


国王の声には、確かな信頼と温かさがあった。


「ヤハがあなたを導いている――私たちもそれを感じました。」


王妃も静かに頷き、そして言葉を続けた。


「……あの老婆は、先ほど亡くなりました。」


「えっ……!」


クリスの瞳が大きく見開かれた。胸の奥が締めつけられる。


王妃は、そんな彼の肩にそっと手を置き、優しく言った。


「そんなに悲しまないで。彼女はね、最後にこう言ったの。


“また楽園で会える日を楽しみにしています”――と。


……だから、クリス。必ず、本当の楽園を私たちに見せてちょうだい。」


その言葉に、クリスは深く頭を垂れた。


涙が頬を伝ったが、それは悲しみではなく、使命の重さを知った者の涙だった。


---


翌朝、空は高く澄みわたり、白い雲がゆっくりと流れていた。


港には、エリサと百人隊の隊員たちが整列していた。


彼らの顔には疲労の影が残っていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。


「行こう。」


クリスの一言に、誰もが力強く頷いた。


サラは刺繍の針を置き、静かに彼を見送った。


「気をつけて、クリス。……ヤハがともにありますように。」


エリサがその横で小さく笑った。


「この旅は、もう“奇跡”の続きね。」


船の帆が上がり、海風が音を立てて吹き抜けた。


セレーネスの港が次第に遠ざかり、波の彼方に沈んでいく。


クリスは振り返らなかった。


その瞳は、すでに前を――遥かなる聖地サレムを――見つめていた。


---


海の果てに、白く輝く神殿の尖塔が微かに見えた。


それはまるで、天の光が差し込む道しるべのように、彼を導いていた。


ヤハの灯を継ぎし者――その名の通り、


クリスの旅はついに、最後の地へと向かってゆく。

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