第9章第1話
ルキウスの死から数日後、百人隊の兵たちはそれぞれの故郷へと帰っていった。
だが、胸の奥には誰もが同じ痛みを抱えていた。
——なぜ、あの人がいないのか。
沈黙のまま、彼らは再びそれぞれの道を歩き出した。
サラの刺繍があのセレーネス島。別名平和の島、また薔薇の島とも呼ばれるその島国の王妃の目に留まり迎えられる事となったクリスたちはセレーネス島に向かうことになった。
エリサも夢の導きでクリス、サラたちとともに、セレーネス島に行くことになり王国が用意した船に乗り込んでいた。
静かな海。
彼らを運ぶ帆船は、潮の香りを含んだ風を受けて南へと進んでいく。
数日後、遠くに白い光を放つような島影が見えた。
「見て……あれがセレーネス島よ」
エリサが呟くと、クリスは船縁に手をかけ、目を細めた。
湾の奥には白い家々が規則正しく並び、ところどころ入り組んだ小さな入江には真紅の
花々が咲き誇っていた。
「きれいだな……まるで神の手で守られているみたいだ」
サラが頷きながら言う。
「あの赤い花、知ってる? バラっていうの。だけどね、茎には鋭い棘があるの。動物や
人から身を守るためなんだって」
クリスはその言葉を反芻した。
「この島を守っているのも、もしかしたらその“棘”なのかもしれないね」
船が港へ近づく。
不思議なことに、これほど穏やかな海でありながら、かつてアウレリア帝国とザファリア
帝国が何度も奪い合いを挑み、誰一人として到達できなかったという。
クリスは空を見上げながら呟いた。
「普通に入ってこれたのに、軍隊は沈んだ……どうしてなんだろう」
「神がそうされたのよ」エリサは微笑んだ。「掟ではなく、愛で守られた島なの」
港に着くと、桟橋には王国が用意した馬車が待っていた。
そのとき、クリスは船を降りる仲間の中に、ルキウスの百人隊の姿を見つけた。
「あなたたち……! 故郷に帰ったんじゃなかったの?」
思わず声を上げると、後ろからエリサの穏やかな声がした。
「帰る場所を失った者たちなの。だから、連れてきてあげたのよ」
「でも、軍の人がいれば入れなかったかもしれませんよ」
クリスが少し心配そうに言うと、エリサは小さく首を振った。
「通れたのなら、それもまたヤハの導き。掟ではなく、愛で動く神なのよ」
その言葉に、サラが笑った。
「ほんとだね。あの海も、この島も、愛で包まれてる」
エリサとサラが見つめ合って微笑む。
クリスはまだ理解できず、けれどもその笑顔に何か温かなものを感じていた。
そして、セレーネスの白い風が、彼らの頬をやさしく撫でていた。
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馬車が海沿いをゆっくりと進んでいく。潮風が頬を撫で、遠くで波の音が穏やかに響いてい
た。
やがて、道は内陸へと入り、緑に包まれた丘陵地帯を抜けていった。すると突然、視界が開
け――そこに現れたのは、まるで夢のような城だった。
誰もが息をのんだ。
白い石造りの城壁が幾重にも積み重ねられ、夕陽の光を受けて金色に輝いていた。城の周囲
には清らかな川が流れ、その水は底まで透き通り、ゆらゆらと光を映している。川の内側に
は、赤や黄、白の花々が咲き乱れ、特にひときわ鮮やかな赤い薔薇が目を引いた。
――まるで「薔薇の城」と呼ぶにふさわしい光景だった。
クリスは思わず呟いた。
「なんて美しいんだ……」
エリサも、サラも、ただ黙って見とれていた。
天に届きそうな塔の上では鐘が鳴り、低く響く音が周囲に広がっていく。やがて城門の前に
掛けられた石橋を渡ると、衛兵の合図とともに重厚な扉がゆっくりと開かれた。
門の向こうには、見渡す限りの緑の芝と花々の道。
その真ん中に、まっすぐ豪奢な大広間へと続く石畳の道が延びている。
馬車が止まり、皆が降り立つと、階段の上で一組の王と妃が待っていた。
王は優しく微笑み、王妃はまるで太陽のように明るく微笑んでいた。彼女の冠は宝石の光を
受け、虹のように輝いている。
サラが小さく息をのんだ。
「本当に……女神さまみたい」
王妃が階段を下り、温かい声で言った。
「遠いところをお呼び立てしてごめんなさいね。お疲れでしょう? お部屋でゆっくりな
さってください。」
その口調は王妃とは思えぬほど柔らかく、親しみのこもったものだった。
クリスは思わず戸惑いながらも、その優しさに救われたような気がした。
エリサが深く頭を下げた。
「このたびは、カリオン王陛下、そしてセレーネ王妃にお目にかかれますこと、身に余る光
栄にございます……。」
王は朗らかに笑った。
「そんなに堅苦しい挨拶はよい。わたしたちはただ、あなた方を歓迎したいだけなのです。」
セレーネ王妃も続けた。
「ええ、本当に。遠慮はいりませんわ。ここでは皆、家族のように過ごすのです。」
王と妃の笑顔はまるで光を放つようで、誰もが自然と微笑んでいた。
しばらくして、サラが小さな紙袋を抱えて王妃のもとに歩み寄った。
「これは……わたしが刺繍したものです。」
震える声でそう言いながら、袋の口を開く。中には、薔薇の模様
王妃の瞳が輝いた。
「この薔薇の模様、なんと美しいことでしょう。まるで生きているみたい。こんな刺繍、
見たことがありませんわ。」
サラは真っ赤になり、しどろもどろに答えた。
「い、いえ……そんな……」
いつも朗らかな彼女のこんな緊張した姿を見るのは、クリスにとって初めてだった。
その光景を見つめながら、クリスは思った。
――この島には、確かに神が息づいている。
穏やかで、美しく、そして人の心を温める何かが、この場所にはある。
サラのみならず、クリスやエリサ、そして百人隊の兵士たちまでも、王と王妃のもてなし
を受けた。
それぞれに与えられた部屋は広く、心を落ち着かせる香木の香りがほのかに漂っていた。
すべてが満ち足りているはずだった。
――だが、クリスの心は別のことで満たされていた。
それは、この城に漂う静かな気高さであった。
たしかに王冠は金糸の光を宿していたが、王の衣は淡い麻布。
王妃の冠も美しかったが、その手には糸と針が握られていた。
食卓も簡素で、香草のスープと焼きたてのパンが並ぶだけ。
贅沢を尽くそうと思えばいくらでもできる立場にありながら、彼らはそれを選ばなかっ
た。
それがクリスには、不思議でならなかった。
食事の席で、ついに彼はその思いを口にした。
「国王様、王妃様……なぜ、そのように質素な暮らしをされているのですか?」
王と王妃は顔を見合わせ、静かに微笑んだ。
カリオン王が答えた。
「逆に聞こう。――贅沢に暮らす理由があるだろうか?」
「い、いえ……」
クリスは思わず言葉を詰まらせた。
王は続けた。
「人は力や富を手にすると、知らぬ間に傲慢になる。
けれど神の前で、誰が偉いというのだ?
地位か、財か、言葉の上手さか?
どれも、神にとっては何の意味もない。
私たちは、たまたま国王と王妃という名を与えられただけの夫婦なのだ。」
その言葉に、部屋の空気が静まり返った。
サラもエリサも、クリスも、まるで心の奥を照らされたように感じた。
王妃セレーネが優しく口を開いた。
「実はね、サラさんをお呼び立てしたのは、あなたの刺繍が美しかったからだけではない
のです。
クリスさん、あなたが市場で“ヤハがついている”と話していたとき――
それを、うちの執事が耳にしたのですよ。」
「えっ……」
クリスは驚き、サラも目を丸くした。
「その言葉を聞いて、私は確信しました。
ああ、ようやく“ヤハの灯を継ぐ者”がこの島に来たのだ、と。」
エリサが思わず尋ねた。
「ヤハの……灯を?」
王妃は静かに頷いた。そしてエリサの方を向いていった。
「エリサさん。私は聖地サレムの出身なのです。あなたが姑を大切にしてヤハの都まで来
て働いていたこと――サレムでは皆が知っておりました。
私は母と共にサレムを離れ、この島に渡ったのです。
なぜなら、あの都にはもう“ヤハ”がいなかったから。」
王妃の声は次第に震えを帯びていった。
「神殿は賄賂と汚れにまみれ、祈りの場は商人の市場と化していた。
聖職者と呼ばれる者たちは、自分の名誉と富を守るために神を語った。
私はそんな場所を見限り、母と共にこの島に逃れたのです。
――そして、あなたたちを待っていました。
“ヤハの灯を継ぎし者”が、いつか必ずこの地に現れると信じて。」
王妃の眼差しがクリスに向けられた。
その瞬間、彼の胸の奥で何かが鳴った。
まるで遠い昔に聞いた夢の声が、再び響いたように。
「……そう、ヤハはあなたを選ばれたのです。
ヤハの灯を継ぐ者に。」
その言葉に、誰も息を呑むことしかできなかった。
静寂が、城の廊下の奥まで響いた。
やがて王がゆっくりと杯を掲げた。
「ようこそ――ヤハの導きのもとに生きる者たちよ。
ここセレーネスの地へ。」
その夜、海風がやさしく吹き抜け、バラの花びらがひとひら、王妃の冠に舞い落ちた。




