第8章第2話
デルベの町を脱したクリスとサラたちは、夢の導きの言葉を信じて南へと進んだ。
どこまでも続く荒野を越え、日差しがやがて柔らかくなり始めるころ、遠くにきらめく海
が見えた。
「ここが……オリシア」
サラが息をのむ。そこはアウレリア帝国最南端の港町。市場の賑わいも、波止場を行き交
う船の姿も、かつて訪れたオスティアとそう変わらぬようでいて、空気はどこか穏やかで、
潮の香りも優しかった。
青く澄んだ海はどこまでも続き、水平線の彼方で空と溶けあっている。
(この海の向こうに──まだ旅が続くのだろうか……)
クリスは思った。不安の影が一瞬、心をよぎったが、これまでの道のりを導いてきたヤハ
の力を思い出すと、その思いはすぐに静まった。
市場の片隅、小さな荷車を置いて立ち尽くすクリスたち。
そのとき、背後から声がかかった。
「クリス?……クリスじゃないか!」
クリスは驚いて振り返った。帝国兵の姿を見て一瞬、息を呑む。
――しまった。異教の神を語る者として追われていることを思い出したのだ。サラの顔も
青ざめていた。
逃げることもできず立ち尽くしていると、兵士のひとりが笑顔で近づいてきた。
「やっぱりクリスだよな! あの船で俺たちを助けてくれたじゃないか?」
「……え?」
「ほら、ドメニコ船長の船の乗組員だよ。おまえが荷を全部下ろせって言っただろ? あ
れで助かったんだ!」
「……あの時の!」
ようやく思い出した。あの嵐の夜、命懸けで荷を投げ捨て、船を軽くしたあの船員たちだ。
「でも……あなたたち、その服は?」
「これか? 実はな、俺たちルキウス様の百人隊なんだ。ルキウス様の旧友の口添えで船
員の姿であの船に乗る事ができた。なんせ、戦の最中だったから西に悟られないように。さ
すがルキウス様だ。はははっ!」
隣でサラが不安げにクリスを見上げる。
「あとで話すよ」
クリスは小声でそう言い、微笑んでみせた。
「それにしても、まさかこんな遠くでまた会うとはな。なあ、今夜うちに来いよ。ルキウ
ス様の屋敷に。この人たちも一緒にさ。おまえたちはルキウス様の命の恩人でもあるんだ。
エリサ様もきっと喜ぶ!」
そう言うと兵士たちは、クリスとサラの家族をそれぞれ馬に乗せた。
白い家々の並ぶ丘の上、海風を受けて輝く屋敷が見えてくる。
ルキウス・アントニヌス邸――百人隊が休むことのできる、あの堂々たる大邸宅へ。
兵士たちが門番に挨拶しながら、白い壁の邸宅の中へ入っていった。
馬から降りたクリスは、目の前に広がる建物を見上げ、どこか懐かしい気持ちにとらわれ
た。
――アルベルトの屋敷に、少し似ている。
整然とした回廊と石畳、風に揺れる葡萄の蔓。けれどもこの屋敷には、それよりも柔らか
いものがあった。まるで陽光そのものが染み込んでいるような、穏やかな空気だった。
扉が開くと、中から一人の女性が現れた。
兵士たちは声をそろえて「ただいま戻りました!」と挨拶した。
「お帰りなさい。」
女性は微笑みながら答えた。その笑みはまっすぐで、深い慈しみに満ちていた。
「ルキウス様の奥さま、エリサさまです。」
兵士の一人が紹介した。
「そして、ドメニコの船で俺たちを助けてくれたクリスと、えっと、その仲間たち!」「は
ははっ、そんな紹介の仕方あるかよ、この…」
「クリスさん…なのね。ルキウスとこの子たちを助けてくださった。
ルキウスがいつもあなたの事を話してました。さあどうぞ。」
クリスは慌てて言葉を返した。
「いえ、僕は何もしていません。皆さんが積み荷を下ろしてくださったからこそ助かった
んです。」
「まあまあ、中に入れよ、クリス」そう言って兵士たちが案内してくれた。
広間に通されると、天井には葡萄の蔓が彫り込まれ、重厚な机には銀の燭台が並んでいた。
――やはり、アルベルトの部屋に似ている。
クリスが小声で呟いた。
「アルベルトさんの部屋を思い出します……。」
エリサが振り向き、不思議そうに尋ねた。
「オスティアのアルベルトさんをご存知なの?」
「ええ、しばらくお世話になっていました。」
「そう……奇遇ね。主人とアルベルトさんは古い友人なの。昔は意見が合わず仲違いした
時期もあったけれど、最近は“あの夜の酒場のあとで、ようやく分かり合えた”と嬉しそうに
話していたわ。」
――あの夜、アルベルトと会っていたのはルキウスだったのか。
胸の奥に、静かな感動が広がった。
その後、クリスはサラたちがどのように国境の町から逃れてきたのかを話した。
エリサは真剣に耳を傾け、涙を浮かべながら「大変でしたね」と言った。
「ここで、しばらくゆっくりなさい。神があなたたちを導いてくださったのね。」
エリサの言葉に、サラは小さく頷いた。
そのとき、奥から兵士たちの笑い声が響いた。
「いやぁ、いい風呂だった! 公衆浴場もいいが、こうして皆で語らえるのが一番だ!」
「クリスさんたちもどうぞ。温かい湯がありますよ。」
「ありがとうございます。」
クリスは思わず微笑んだ。久しぶりの湯浴みだった。冷たい風と塵にまみれた旅の日々を
思えば、湯気の香りだけで胸が満たされた。
夜になると、大食堂に灯がともった。
長いテーブルには焼き立てのパンとオラータの香草焼き、葡萄酒の壺が並び、兵士たちは
口々に笑い合っていた。
「ここにいると田舎に帰るより落ち着くんだ。ルキウス様もエリサ様も、まるで家族のよ
うでさ。」
「俺もだよ!」
あちこちから声が上がり、笑い声が広がった。
クリスはその光景を見つめていた。
――ルキウスさんはどんな人だったのだろう。
会ったことはないのに、温かい手のひらで包まれるような安心感があった。
エリサの笑顔と、兵士たちの穏やかな顔。そこには確かに、“生きた信仰”があった。
サラが小声で呟いた。
「みんな、幸せそうだね。……ねえ、クリス。ここにはきっと、神様がいるよね。」
クリスは静かに頷いた。
「うん。きっと、いるよ。」
そのとき、一人の兵士が立ち上がり、クリスのもとへ近づいた。何か言いたげに口を開き
かけた瞬間、
「あなた、祈りは済ませたの?」
エリサの声が鋭く響いた。
兵士は背筋を伸ばして「は、はい。終わりました!」と答えた。
食卓に静寂が流れ、すぐにまた笑い声が戻る。
クリスは苦笑いを浮かべながら囁いた。
「厳しいところは、ちゃんと厳しいんだな……。」
その後、兵士たちは口々に嵐の夜の話を始めた。
そして、話はクリスのところに及んだ
「なあ、クリス。あの時の“荷物を放り出せ”って本当は誰の指示だったんだ?本当にお前の
神様が言ったのか?」
クリスは深くうなづいた。
「やっぱ、信じられないなあ。」
「何を言ってる。あの時、最後の荷を海に投げた瞬間、風が止んだだろ?」
「そうだ、忘れるもんか。あの瞬間、空が割れたように光ったんだ。」
「神様以外に誰ができるんだ!奇跡だよ奇跡!」
笑い声と祈りの声、杯を打ち鳴らす音が重なり合う。
その温かい夜の中で、誰もまだ知らなかった。
その夜、嵐の夜の出来事を語る声が食堂を包んでいた。
すると、ドメニコ船長のそばにいた兵士長が、ゆっくりと盃を置いた。
「ドメニコ船長も言っていた……。あれほどの嵐が、最後の荷を海に放った瞬間、嘘のよ
うに止んだと。
俺たちは誰も信じられなかった。空が裂け、星が戻ってきた時、誰もが神を見たと思った。」
静まり返った空気の中、兵士長がクリスに問うた。
「クリス。おまえの信じるその“ヤハ”の神とは、いったいどんな神なんだ?」
クリスは少し息を整え、遠くを見るように語り始めた。
「エルダ村で夢を見ました。天の光の中で、“行け”と呼ばれた夢です。
そして、旅の中で何度も導かれ、幾度も助けられました。信じるというより……気づいた
んです。
――見えないけれど、確かにそばにいる方がいる、と。」
兵士たちは言葉を失い、静かに聞いていた。
やがてエリサが小さく呟いた。
「その神は……本物かもしれないね。」
その夜、誰もが心のどこかで、何かを信じたくなっていた。
外では波が穏やかに寄せ、遠くで鐘がひとつ鳴った。
翌朝、サラは市場に出た。
「少しだけ持ってきた刺繍を売ってみたいの。」
兵士たちは喜んで護衛につき、露店の一角を借りて場所を整えた。
その刺繍は見る間に売れていった。人々は“光の糸で縫われた布”と呼んだ。
サラの祖母も港の人々と話し、笑い声を響かせた。
――まるでこの町全体に、ルキウスの優しさが残っているようだった。
だが、穏やかな日々は長くは続かなかった。
ある朝、玄関の扉が荒々しく叩かれた。
立っていたのは、ぼろぼろの軍服を着た三人の兵士だった。
息を切らし、顔は砂と血にまみれていた。
「ルキウス様が……ルキウス様が討たれました!」
その言葉が屋敷中に響いた瞬間、時間が止まった。
「ザファリア帝国の軍に……我々は、命からがら……」
誰も言葉を発せなかった。
ルキウス隊の兵士たちは、何度も問いただした。
「嘘だろう?冗談だろう?間違いじゃないのか!?」
だが兵士の手には、見覚えのある封書が握られていた。
――あの任務の召集状。
「亡くなられる前に……これを託されました。」
エリサが震える手で封書を受け取った。
「……本当なのね?」
兵士たちは涙をこぼしながら、静かに頷いた。
屋敷の中は嗚咽で満たされた。
誰かが叫んだ。
「ルキウス様の仇を討とう!今すぐ出陣だ!」
怒りと悲しみが入り乱れ、兵士たちは剣を手に取り始めた。
その時、鋭い音が響いた。
――エリサが、一人の兵士の頬を打っていた。
「やめなさい!」
その声には涙が混じっていたが、揺るがなかった。
「ルキウスがなぜ、あなたたちを連れていかなかったのか……まだわからないの!?
ルキウスは知っていたのよ。あれが罠だってことを。
それでも皇帝に誓った忠義のために、一人で行ったの。
あなたたちを守るために……たった一人で死んだのよ!」
誰も動けなかった。
「おまえたちが今行けば……その死は犬死にになる。
ルキウスの死を無駄にしたいの!?」
兵士たちは剣を落とし、泣き崩れた。
エリサは涙を見せなかった。
だが、クリスにはわかった。
――この中で、いちばん泣きたいのは彼女だ。
夜になっても、エリサの姿は食堂にはなかった。
クリスは庭に出て、星を見上げた。
冷たい風が頬を撫でる。
「ヤハ……なぜですか。
なぜ平和を願う人が、真っ先に死ななければならないのですか。」
声が自然と漏れていた。
すると背後から声がした。
「おまえの信仰って、そんなものなの?」
振り向くとサラが立っていた。
「ヤハは“助ける神”だから信じるの?
違うよ。あの星々を創った神なんだよ。
すべての良いものを造られた方なんだ。
一つの悲しみで全部を疑うなら、それは信仰じゃない。
夫が言ってた。ヤハの考えは、私たちの考えよりずっと高いって。」
静寂。
風が、オリシアの海から吹いてきた。
クリスはしばらく空を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。ヤハを信じるよ。」
その夜、エリサの夢に天使が現れた。
白い光の中で、やさしい声が囁いた。




