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第7章第2話


「しばらくお世話になります。よろしくお願いします」

クリスがそう言うと、サラは苦笑した。

「堅苦しい挨拶はいらないよ。こんな商売してるんだからね」

クリスは改めてサラの横顔を見た。

派手な服装と艶やかな笑みの奥に、どこか静かな陰りがあった。

「食事は大したものじゃないけど……」

「いえ、泊めていただけるだけでありがたいです」

そう言うと、サラは一瞬黙り、やがて真剣な表情になった。

「その代わり、お願いがあるんだ」

「お願い……ですか?」

クリスは首をかしげた。自分のような旅人に何を頼むのだろう。

「――あんたの神に、お願いしてほしいんだ」

「ヤハ……のことですか?」

サラは小さくうなずいた。

「そう、ヤハって言うんだろ? あたいもいろんな神を拝んできたけど、良いことなんて

ひとつもなかった」

そう言うと、彼女はそっと隣の老女と少年に目を向けた。

「夫はね、この子がまだ一歳のときに死んじまってさ。病気だった。

もともとはあの姑と一緒に小さな宿をやってたんだけど……帝国の連中が泊まりに来て

は腹いっぱい食べて、金も払わないで帰るんだよ」

サラの声は震えていた。

「それでも“飯を出せ”“泊めろ”って言われてね……。あの人はまじめな人で、逆らえなか

った。

子どもが生まれて少しして……心労で倒れたんだ」

クリスの胸の奥に、怒りが込み上げた。

拳を握りしめ、今にも外へ飛び出そうとした瞬間、サラがその腕をつかんだ。

「死にたいのか!」

その一言に、クリスは立ち止まった。

「まだ話は終わってないよ」

サラは深く息を吐き、静かに言った。

「あんたの神にお願いしてほしいんだ。私たち家族を……救ってくれって」

「救う……?」

「そう。夫がね、死ぬ前に言ってたんだ。“ヤハって神がいる。きっと助けてくれる神だ”

って。どこで聞いたのか分からないけどね」

クリスは戸惑った。

「でも、ご主人は亡くなったんじゃ……」

サラは首を振った。

「それでもいいんだよ。信仰って、そういうもんだろ?

いつも助けてくれるから信じるんじゃない。

夫は言ってたんだ。“きっと素晴らしい世の中が来る。それまで頑張るんだ”って。

あんたを見てると……あの人を思い出すんだよ。ヤハの名を語る人間に、また出会えるな

んて思ってなかった」

クリスは静かにうつむいた。

“素晴らしい世の中”――それはいったい何なのだろう。

自分が信じている“ヤハ”とは、どんな存在なのか。

「……夢を見たんだ」

サラがぽつりと言った。

「夢?」

「そうさ。真っ白な服を着たヤハの使いが出てきてね。

“明日、外に出たとき最初に通る若い男に声をかけなさい”って言うんだ。

半信半疑だったけど……あんたが“ヤハ”って言ったもんだから、とっさに家に引きずり込

んじゃったのさ」

サラは少し照れたように笑った。

「……へへ、変な話だろ?」

クリスは静かに首を横に振った。

「いいえ。とても、意味のあることだと思います」

その夜、クリスはひとりで祈った。

サラと少年、そして老いた母のために。

ヤハがもし聞いてくださるなら、この小さな家に光を――。

サラの家に滞在している間も、クリスはほとんど外に出なかった。

裏庭の畑を耕し、井戸の水を汲み、薪を割り、料理を教わる──そんな素朴な日々だった。

畑には、いつのまにか多くの実りがあった。

豆、麦、野菜……それらは陽に照らされて輝き、まるで祝福そのもののように風に揺れてい

た。

いつしか、サラは遊女の仕事をやめた。

畑で採れたものを売り、夜には小さな灯の下で刺繍を縫った。

その細やかな刺繍は評判を呼び、町の人々が買い求めに来るほどになった。

暮らしは少しずつ、しかし確実に豊かになっていった。

ある日、サラは夕暮れの光を浴びながら言った。

「クリスが来てくれたから、私は変われたんだよ。

遊女なんて、本当はしたくなかった。でも、生きていくには仕方なかった。

それでも、いつもどこかで後ろめたさを感じていた。

だから、祈ったんだ──“助けてください”ってね。

そしたら……夢を見たんだ。こんな日が来るなんて、信じられないよ。」

その声には、過去を悔いるよりも、今を喜ぶ響きがあった。

クリスは静かに微笑んだ。

「サラさんの心からの祈りが、聞かれたんですよ。……ヤハに。」

サラの瞳に、涙が溜まった。

頬を伝う雫は、かつて絶望の中で流した涙とは違っていた。

それは、乾いた地に雨が降るような──新しい命の涙だった。

「嬉しいよ、クリス。ありがとう……」

クリスはそっと首を振った。

「それは、僕にじゃありません。ヤハに言ってください。」

サラは小さく笑い、涙を拭った。

窓の外では、柔らかな風が畑を撫でていた。

その風の向こうに、どこかで鈴のような音がした気がした。

それは、誰かの祈りに応えるように、静かに響いていた。

それからしばらく経ったある日、外のざわめきにサラが気付いた。

「帝国だ! みんな聞きなさい!」

慌てて窓を開けると、通りの向こうに青地に蠍の紋章が描かれた旗がはためいていた。

「……ザファリア帝国の旗だ!」

「ザファリア?」

クリスは思わず声を上げた。

「えっ……なぜ東のザファリア帝国が来るんですか? ここはアウレリア帝国の町では?」

隊を率いていた将校らしき男が高らかに告げた。

「先般のアウレリア帝国との同盟調印式により、この町は今年のいちじくの実がなる頃か

ら、我らザファリア帝国の領土となる! 細かいことは追って沙汰を出す!」

通りのあちこちから、どよめきが広がった。

「なんだって?」「また税が変わるのか?」「掟もか?」

人々のざわめきの中、クリスはサラに尋ねた。

「どういうことなんですか?」

サラは苦笑いを浮かべた。

「聞いての通りさ。

二つの帝国は同盟の証として、国境の六つの町を数年ごとに入れ替えるんだ。

三つずつね。戦争を防ぐための“平和の取り決め”だとか言ってるけど、町の人間にとっちゃ

たまったもんじゃないよ。

掟も税も、支配者が変われば何もかも変わる。

……でも、昔みたいに戦争で焼き尽くされるよりはマシってわけさ。」

「そんな仕組みを……誰が考えたんですか?」

「噂じゃ、アウレリアの百人隊の隊長が提案したらしいよ。

ザファリアの皇帝妃アリエルがその話を聞いて、すごく喜んだそうだ。

彼女は平和主義者でね。

あたしもどっちかって言えば……ザファリア帝国のほうが好きさ。」

そのとき、クリスはふと胸の奥にざらりとした不安を覚えた。

──あの夢の言葉が、いま再び彼の心に響いていた。

「……時が来たら、ためらわずに町を出るのだ。」

風が、青い蠍の旗を大きくはためかせていた。

その音が、まるで警鐘のように響いていた。

「――あっ、思い出した!」

サラが突然叫んだ。

薪を割っていたクリスは手を止め、驚いたように振り向いた。

「どうしたんですか?」

「……あの夢の続きよ。」サラの声は震えていた。

「夢の……続き?」

「ええ。ずっと思い出せなかったの。でも今はっきり思い出したの。『青い蠍が来たら、

それが印だ』って……。」

クリスの表情がこわばった。

「青い蠍……それって、まさか……今この町を出ろっていう合図なんじゃ?」

サラはしばらく俯いていたが、やがて顔を上げ、小さく頷いた。

「そうだね、クリス。せっかく畑も育って、刺繍もようやく売れるようになったのに……。

でも、信じなきゃね。あの夢を。」

「うん!」

クリスは大きくうなずいた。その瞳には、決意の光が宿っていた。

サラの家族は慌ただしく身支度を始めた。子供たちは怯えたように母の裾にしがみつき、

年老いた母親は黙って祈りを捧げていた。

その間にも、クリスの胸にはあの“声”が確かに響いていた。

――急ぎなさい。ためらうな。町を出るのです。

しかし、そのときだった。外から地鳴りのような騒音が聞こえてきた。

「何の音?」

サラが窓を開けて外をのぞくと、町の通りには青と赤の旗がひしめいていた。

「ダメ……! 戦だ!」

青の蠍――ザファリア帝国の軍勢。

赤の鷲――アウレリア帝国の兵。

二つの旗が入り乱れ、剣戟の音と悲鳴が町を覆っていた。

「裏口から逃げよう!」

クリスの声にサラが頷いた。

家族を急いで裏庭へ導き、荷車に年老いた母と子供を乗せ、クリスはその縄を握って走り

出した。

火矢が飛び交い、屋根が崩れ落ちる音が響く。

焦げた木の匂い、兵士たちの叫び。

それらを背に、彼らは無我夢中で丘の方へと駆け抜けた。

やがて町を離れたとき、遠くで炎の柱が夜空を焦がしているのが見えた。

「……ふぅ、間一髪だったね。」

サラが息を切らしながらつぶやく。

「夢の使いの言葉を信じていなかったら、今ごろは……。」

クリスはしばらく黙って燃え上がる町を見つめていた。

そして、穏やかに言った。

「ものはなくなっても……生きていれば、またやり直せます。」

サラはその言葉に静かにうなずき、涙をぬぐった。

冷たい風が丘の上を吹き抜け、彼らの頬を撫でた。

その風は、まるで新しい旅の始まりを告げているようだった。



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