第7章第1話
その夜、アルベルトがルキウスと酒場メントスで言葉を交わしていた頃。
クリスは、コリントスの宿屋の小さな部屋でアルベルトの帰りを待っていた。
窓の外では、夜風が石畳を撫でていた。
遠くから、酒場のざわめきと人々の笑い声が聞こえてくる。
クリスは暖炉の火を見つめながら、そっと目を閉じた。
──アルベルトさん、遅いな。
そのまま、いつしか眠りに落ちていた。
……どれほどの時が経っただろうか。
あたりは白い光に包まれていた。
空も大地もなく、ただ穏やかな輝きが広がっている。
その中に、一つの声が響いた。
> 「クリス、恐れることはありません。」
懐かしい、あの声だった。
夢の中で、何度も導かれてきた声。
> 「これから帝都アウリシアを避け、東の国境の町デルベに行きなさい。
> そこで、最初にあなたに声をかけてくれた人のところに行くのです。」
クリスは目を見開いた。
光の中で、白い衣をまとった影がゆっくりと背を向ける。
それは、あの宇宙で見た老人と同じ後ろ姿のように見えた。
> 「行きなさい……」
柔らかな声が遠ざかる。
光は次第に薄れ、現実の闇が戻ってきた。
クリスははっと目を覚ました。
部屋の灯は消え、窓の外はまだ夜の名残をとどめている。
暖炉の火は小さくなり、灰の奥でほのかに赤く灯っていた。
夢の余韻が、まだ胸の中に残っていた。
「帝都を……避けろ?」
その言葉の意味を考える間もなく、
なぜか胸の奥で「今すぐに出なければならない」という思いが強くなっていった。
小さな鞄に、残っていたパンと水を詰め、
机の上に短い手紙を残した。
> 『アルベルトさん。お世話になりました。
> ヤハの導きにより、東の国境へ向かいます。
> パンと水をいただきました。ありがとうございました。』
夜明け前の冷たい風が、宿の扉を押した。
クリスは外へ出て、まだ眠る街を静かに歩き出した。
遠く、東の空がわずかに青みを帯び始めていた。
新しい旅の始まりを告げるように――。
旅の途上、クリスは立ち寄る町ごとに人々へヤハの名を伝えていた。
とはいえ、この頃の彼にはまだ神の深い目的が分かってはいなかった。
ただ、夢で授かったその名の響きを信じ、胸の内から湧き上がるままに語るだけだった。
「ヤハという方が、すべてを導いてくださるのです。」
多くの者はその言葉を聞いて笑った。
「知らぬ神など、もうたくさんだ」「聖職者でもない若者の話を信じられるか」と、肩を
すくめて去る者もいた。
それでも時折、真剣なまなざしで耳を傾ける人々がいた。
そして不思議なことに、そうした人々は決まって、見ず知らずの旅人である彼に食事と寝
床を与えた。
「神さまが、あなたを送ってくださったのかもしれないね。」
そう言って、粗末なパンとスープを差し出してくれる老夫婦もいた。
夜になると、薄い灯の下でその温もりを思い返しながら、クリスは心の底でつぶやいた。
──不思議だな。僕は一度も飢えたことがない。
エルダの村を出て、すでに幾度も季節が過ぎていた。
コリントスで半年以上の間、牢に閉じ込められていたが、それすらも思えば“泊まる場所”
であった。
藁の上で過ごした日々、冷たい石壁の中で交わした囚人たちの言葉。
あの苦しみの中で、彼は人の心を知り、信仰を伝える力を身につけていた。
「試練に遭うとき、それはあなたを成長させるとき。」
──あの言葉は本当だったんだ。
このとき、クリスはまだ知らなかった。
彼が釈放されたのは偶然ではなかった。
ルキウスがプタニア地方を平定した後、戦場に送られてきた手紙でドメニコ船長から「ク
リスが投獄されている」と聞き、すぐに帰還命令を無視してコリントスに戻り、自らその釈
放を命じていたのだ。
ルキウスの力によって牢の扉は開かれた。
だが、クリスの心を解き放ったのは、もっと大きな力だった。
神は、彼を“導く者”として鍛えるため、あえて牢を通らせたのだろう。
旅の空は広く、彼の心は静かだった。
デルベの方角から吹く風が、ヤハの名を運んでいるように感じた。
──神よ、僕はただ、あなたの名を伝えます。
たとえ誰も信じてくれなくても。
その声は夜明けの空に溶けていき、
朝焼けが、再び彼の旅の始まりを告げた。
デルベの町に着いたとき、陽はすでに西の山に沈みかけていた。
国境の町らしく、見慣れぬ言葉の看板が並び、行き交う人々の服装も雑多だった。
クリスは夢で聞いた言葉を思い出していた。
──「最初に声をかけてくれた人のところに行きなさい」
胸の奥がざわついた。
港町コリントスとは違う、どこか荒れた空気が漂っている。
路地の隅では物乞いがうずくまり、広場では兵士が通行人を睨みつけていた。
(ここは……危険な町だ)
そう思いながらも、導きの言葉に従い歩を進めた。
すると──。
「お兄さん、泊まっていきなよ、ねえ……」
甲高い声に振り向くと、真紅の衣をまとった女がいた。
肩まで露出した派手な服に、艶やかな黒髪。
その瞳には妖しい光が宿っていた。
「うちに来なよ。旅の疲れ、きっと癒してあげられるよ。」
(えっ……まさか、これが?)
クリスの心に疑問と戸惑いが入り混じる。
夢での言葉がよぎった。──“最初に声をかけた人のところに行け”。
だが、この女は……。
「遠慮することないって。お兄さんなら特別料金にしとくよ。」
笑う女の声が、雑踏に紛れて響く。
周囲の人々は誰も気に留めず、足早に通り過ぎていった。
その光景が、なぜかとても悲しく見えた。
クリスは祈るように呟いた。
「ヤハ……教えてください。僕はどうすれば……
「えっ? 今……なんて言った?」
女の表情が一瞬で変わった。
目の奥の艶やかさが消え、恐れの色が宿る。
「ヤハと……」と答えかけた瞬間、女は素早く彼の腕をつかんだ。
「シーッ! その名前を口にしちゃダメだ!」
「えっ?」
「いいから、奥へ来な! 早く、隠れな!」
訳が分からぬまま、クリスは引きずられるようにして店の奥へ入った。
狭い階段を下りると、薄暗い部屋に通された。
蝋燭の灯が小さく揺れている。
「そこに座って。声を出すんじゃないよ……」
その直後、激しいノック音が響いた。
ドン! ドン! ドン!
「おい! 開けろ!」
怒鳴り声。女は顔をしかめて大声を張り上げた。
「何ですか? そんなに叩くと扉が壊れちまうよ!」
扉の向こうから、鉄の鎧のきしむ音がした。
「ヤハとかいう名を語る者が、この辺に来なかったか?」
女は一瞬だけクリスを見やり、口元を歪めて笑った。
「いいや、来ないね。それより……あんたたち、遊んでく?」
兵士たちは互いに顔を見合わせ、鼻で笑った。
「こんなところに神を語る馬鹿がいるもんか。……行くぞ。」
重い足音が遠ざかり、静寂が戻った。
女は深いため息をつき、髪をかき上げながら呟いた。
「まったく、命知らずだね……あんた、どこから来たんだい。」
「北の村です。僕は──」
「いい、名乗るんじゃない。……“あの名”を知ってるなら、それで分かる。」
女は蝋燭の火を見つめながら続けた。
「この町じゃ、ヤハの名を口にしただけで牢行きさ。
……下手をすりゃ、首が飛ぶ。」
その言葉に、クリスの背筋が凍った。
けれども、女の声はどこか震えていた。
「けどね……昔、あたしもその名を聞いたことがあるのさ。
あんたみたいな目をした人からね。」
そう言って、女は蝋燭の炎を見つめた。
長いまつ毛の影が頬に落ち、わずかに光る涙が見えた。
クリスはそっと手を合わせた。
「……ありがとう。助けてくれて。」
女は苦笑した。
「助けたんじゃないよ。あんたの神が、あたしにそうさせたんだろうさ。」
外では風が強く吹き、遠くで鐘の音が鳴った。
デルベの夜が、ゆっくりと深まっていった。
サラはしばらく泊まっていきなと言い、クリスをさらに奥の部屋へと案内した。
そこには、年老いた女性と小さな男の子がいた。




