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第6章

「ルキウス! ルキウスじゃないか!」


声が石畳の道に響いた。振り返ったルキウスの視線の先には、かつての友──アルベルトが


立っていた。


ルキウスは短く息をつき、何も言わずに踵を返した。


「ルキウス! なぜ無視するんだ!」


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その声にも振り返らない。ブーツの音だけが通りに響いた。


「なあ、ルキウス!」


その一言に、ルキウスの足がピタリと止まる。


「無視したのはどっちだ?」と、低い声が返った。


「私たちが船から降りる姿が見えたはずだ。……随分と偉くなったな。」


アルベルトの皮肉にも、ルキウスは視線を前に向けたままだった。


「おまえに用はない。」


「確かに、気づいていた。だが──」


「牛が暴走してきて、それどころではなかったんだな。」


アルベルトの言葉に、ルキウスはわずかに口角を上げた。


「ま、もう君とは関係ない。」


「……あの時は息子のセバスチャンが牛の群れに巻き込まれそうになっていたんだ。それ


を、ひとりの少年が助けてくれてな。」


ルキウスの眉がわずかに動く。


「少年?」


「クリスという若者だ。」


「今、クリスと言ったか?」


「そうだ。セバスチャンを助けてくれた恩人だ。」


ルキウスは思わず笑った。


「ははは……。おまえもあのクリスに助けられたのか。あいつは不思議な男だな。クリスに


会いに来たんだろう?さっき釈放されたぞ。たぶん、まだ広場にいる。」


「そうか!ありがとう。」


「今夜、メントスという酒場にいる。……じゃあな。」


ルキウスはそう言って背を向けた。


その背中を見送りながら、アルベルトはしばらく立ち尽くしていた。かつて共に笑い、共に


苦労した仲。


しかし、その間にはもう、深い溝ができていた。


アルベルトは急ぎ足で広場へ向かった。


するとクリスは広場の水場のところに腰を下ろしていた。


二人の目が合い、次の瞬間──抱き合っていた。


「おまえが投獄されたと聞いてな。慌てて駆けつけたんだ。」


「海を……渡って?」


「ああ、そうだ。」


「ありがとうございます。……本当に。」


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アルベルトは笑い、クリスの肩を軽く叩いた。


「元気そうでよかった。ドメニコが“あいつは大丈夫だ”って言ってたが、本当だったな。」


「ご心配をおかけして……。」


「いや、いいんだ。それより、どうして釈放されたんだ?」


「分からないんです。でも、誰かが……。」


アルベルトは深く息をついた。


「まあいい。今夜、泊まるところはあるか?」


「いえ、まだ。」


「じゃあ、俺の部屋に来い。ここの宿だ。」


「ありがとうございます。」


クリスはその背中を見つめながら、心の中で呟いた。


──アルベルトさん、変わったな。


アルベルトは夜も更けたころ酒場「メントス」を訪れた。ここを訪れるのは初めてだった。


コリントスには何度も来ていたが、こうした場所はいつも避けてきた。


海の言葉で“風”を意味するというこの酒場には、乱暴な船乗りたちがたむろしていた。


荒れた海のように粗っぽい笑い声と罵声、酒の匂いと潮の香りが入り混じっている。


――こういう場所は、昔から嫌いだ。


アルベルトは心の中でつぶやいた。


だが、彼らの気持ちも分からなくはない。


船に乗ったら、生きて帰ってこられる保証などどこにもない。


だからこそ、酒でも飲んで馬鹿騒ぎでもしていなければ、心が持たないのだろう。


「……ふふ、昔より、少しは物分かりが良くなったかな」


アルベルトは小さくつぶやき、酒場を見渡した。


そのとき、一番奥の席に座る男の姿が目に入った。


――ルキウス。


足音に気づいたルキウスが、顔を向けずに言った。


「まさか、来るとは思わなかったよ。アルベルト……こういう場所は嫌いじゃなかった


か?」


「……ああ、今でも嫌いさ。」


「おまえ、変わったな。」


ルキウスはグラスを傾けながら言った。


「えっ?」


「さっき、おまえにクリスの居場所を教えたとき、俺に礼を言ったよな。」


「……そうだったかな。」


「昔のおまえは、人に礼など言う男じゃなかったはずだ。アルベルト。」


「ふふっ。おまえは何も変わらないなあ。相変わらず、まだ“百人隊の隊長”とはな。ドメ


ニコが言ってたぞ。おまえの噂は聞いている。とっくに将軍、いや、一大隊の指揮官になっ


ていてもおかしくないってな。」


「俺は、あの百人だから力を発揮できる。」


「少数精鋭ってやつか。……相変わらず、かっこつけやがって。」


ルキウスは小さく笑った。


「今はアウレリア帝国も、東のザファリア帝国と手を組んでいるから、西のプタン地域と


北のノベルサの地域だけで済んでいる。だが――ザファリアが本気になれば、ただではすま


ない。」


「ルキウス、そんな話をするために俺を呼んだわけじゃないだろ?」


しばしの沈黙の後、ルキウスが低く口を開いた。


「おまえに二つ聞きたいことがある。一つは、なぜドメニコの船に俺たちを乗せてくれた


のか。もう一つは……なぜ、おまえは変わったのか。」


「ふふっ、そんなに俺は変わったか?」


アルベルトはゆっくりとグラスを置き、真っ直ぐにルキウスを見た。


「どちらも――あのクリスが関係している。」


「ん?」


「ドメニコのあの船は、いろんな意味で“絶対に安全”だと思ったからだ。」


ドン!


ルキウスが机を叩いた。


「全然安全じゃなかったぞ! 死にかけたんだからな!」


興奮気味に叫ぶルキウスに、アルベルトは肩をすくめた。


「しかし、ちゃんとコリントスには着いたじゃないか。」


「……まあな。」


「おまえが皇帝大評議会に間に合わせたいと言っていたと、ドメニコから聞いた。保険も


かかっていたし――ちょっと、お釣りが来たんじゃないか?」


ルキウスは何も言えず、ただ苦笑いを浮かべた。


「クリスだよ。」


「クリス?」


「俺はクリスを信じていた。あの時期の海は危険だって、おまえも知っているだろう。


それでも行くと言った。なら、それなりの理由があると思ったんだ。」


「えらく、クリスを信頼しているな。」


「いや、クリスの――“神”をだ。」


その言葉に、ルキウスの眉がわずかに動いた。


「……そして、もし俺が変わったとすれば、クリスが変えてくれた。


あいつは俺に、昔の自分を思い出させてくれた。」


ルキウスは黙って聞いていたが、やがて穏やかに口を開いた。


「そうか。だから今、子どもたちの施設や学校に寄付をしたり、やもめの家庭を豪邸に集


めて食事を振る舞っているのか。」


「なんでそれを?」


「俺を誰だと思ってる。」


「百人隊の隊長――ルキウスだろ?」


「違う! ルキウス“様”だ!」


二人は声を上げて笑った。


時間が過ぎるのも忘れて、昔話に花を咲かせた。


そうして 2 人が外に出ると空はうっすらと白み始めていた。


港の灯りが一つ、また一つと消えていく。長い夜が終わり、冷たい風が二人の頬を撫でた。


「……もう、朝か。」


アルベルトがつぶやいた。


ルキウスは小さく頷き、夜明けの空を見上げた。


「新しい季節だな。三月も終わりだ。」


「そうだな。もうすぐ四月、また帝都が騒がしくなる。」


「皇帝大評議会か。」


二人は言葉を交わしながらも、どこか遠くを見ていた。


やがてルキウスは馬を繋いでいた柵の方へ歩き出す。


「じゃあな、アルベルト。」


「気をつけろよ、ルキウス。」


わずかな沈黙のあと、ルキウスは振り返らずに言った。


「神の導きがあるさ。」


その背中を見送りながら、アルベルトはゆっくり息を吐いた。


港の方角からは、海鳥の声が聞こえはじめていた。


彼はコリントスの宿屋へ戻った。


部屋の扉を開けると、机の上に一通の置き手紙があった。


> 『アルベルトさん


> お世話になりました。


> 旅に出ます。


> パンと水をいただきました。ありがとうございました。


> ─ クリス』


アルベルトはその紙をしばらく見つめ、微笑んだ。


「……やはり行ったか。」


窓の外では、朝日が港の水面を黄金に染めていた。


そのころ、ルキウスもまた馬に跨り、帝都アウリシアへ向かっていた。


冷たい風が外套を揺らす。


彼の瞳には、これから始まるものへの静かな決意が宿っていた。


そして、アルベルトもまた海を渡り、故郷オスティアへ帰っていった。


──それから一週間後。


アウレリア帝国・帝都アウリシアにて、皇帝大評議会が開かれた。


紫と金の布が天井から垂れ下がり、会堂は朝の光を受けて銀色の輪郭を浮かび上がらせて


いた。列席する者たちの胸元には、昨年を戦い抜いた勲章と役職章がきらりと光る。儀典長


の合図で、会場内の囁き声はぴたりと止み、長い時が静かに始まった。


儀典長が金の杖を高く掲げると、深い太鼓が一打ち鳴り、続いて号笛が低く響いた。王座の


高みに、セラフィオン・ヴァレンチノ皇帝の紫色の外套がゆっくりと姿を現す。誰もがその


足取りに目を奪われ、会場は一瞬、敬虔な呼吸を合わせたかのように静まった。


帝は玉座の前に立ち、儀典長の口上を受けずとも周囲を見渡す。やがて、いつもの柔らかさ


と官吏を励ます声で、まずこの一年の労苦を労った。


「諸君、まずはこの一年の労をねぎらおう。西のプタニア、北のノベルサにおいて、帝国の


旗を掲げ、安寧を取り戻したのは諸士の日々の努力にほかならぬ。われらの勝利は、そなた


ら一人一人の犠牲と献身の賜物である。」


会場の随所で拍手が沸き、小さなざわめきはやがて収まる。帝の声はそこで自然とひとつの


人物へと向けられた。


「特に…西のプタニアと北のノベルサを平定するにあたり、その働きは見過ごせまい。ルキ


ウス・アントニウス、前へ。」


その名が呼ばれた瞬間、会場の空気が変わった。ざわめきが一つ、波紋のように広がる。ル


キウスは静かに立ち上がり、玉座下の長い階段の前にひざまずく。鎧の金具がかすかに鳴っ


たが、その表情はまるで固い岩を抱えたように落ち着いていた。


皇帝は穏やかに続ける。


「ルキウスよ、そなたの働きはまことに目を見張るものがあった。百の命を一も欠くことな


く導き、敵を降伏せしめた。その手腕は、我が国の誇りである。よって――」


一瞬の間を置いて、皇帝は言葉を先に進めた。


「我はそなたを将軍、いやその上の職に推挙したい。そなたはどう思うか。」


場内から期待の声が上がり、やがてどよめきが膨らんだ。だがルキウスは静かに頭を垂れ、


低く答える。


「この上なきお言葉、恐悦至極にございます。されど、僭越ながら私見を申します。


東のザファリア帝国の動向が不穏にございます。将軍職を今与えられることが、同盟の均衡を崩し、


相手を刺激する懸念がございます。名誉を欲して国を危うくするのは本意にあらず、もしよ


ろしければ、時を待っていただきたいと存じます。」


皇帝はルキウスの言葉をじっと聴き、まなざしに考えの色を浮かべた。やがてゆっくりと頷


き、深い声で応じた。


「確かにそなたの言は一理ある。そなたの忠義と慎重さを我は讃える。然れど、もし東が動


き出した時には、そなたが必ず我が手に命を捧げてこの帝国を守るのだと、ここに誓え。」


ルキウスは顔を上げ、目に宿る光を強めて答えた。


「はっ!」

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