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生と死

「・・・」

 田中は電動バリカンを手に取る。十年ほど前にアマゾンで税込み千八百円程で買ったものだ。誰に見られるわけもない、床屋にも行かず伸ばし放題だった髪に、そのバリカンを当てる。


 スルスルと落ちていく髪。そこから見えてくる今まで見ることのなかった白い頭皮。


「・・・」

 目の前に映る丸坊主の頭。



 本当の悪は正義の面をしている。



「俺は狂ってなんかいない。そんなのは全部嘘っぱちだ」

 田中は鏡の中に映る自分の姿を見る。真っ白な丸坊主の頭。生まれ変わった自分がそこにいた。

「俺は狂ってなんかいない」

 鏡の中の田中も呟いていた――。



 すべての者は暴力におびえ

 すべての者は死をおそれる。

 己が身をひきくらべて 殺してはならぬ。

 殺さしめてはならぬ。

 すべての者は暴力におびえる。

 すべての生きものにとって生命は愛しい。

 己が身にひきくらべて

 殺してはならぬ。

 殺さしめてはならぬ。

          

                  ダンマパダ

    


「今日はどうしたのかな。え~と」

 金子はカルテを見る。

「あれっ、この前来たばかりだね。え~と」

 田中は、いきなり背から下ろしたリュックから鉈を取り出した。

 一瞬、突然のことに訳が分からずアホ面になった後、あれほど自信と威厳に満ちた尊大な態度の金子の顔色が一瞬で変わった。金子正孝。京都大学医学部卒。経歴、日赤病院など、立派な肩書きうんたらかんたら――。

「きゃ~」

 後ろの別室から診察室に入って来た年配の看護婦が、田中の持つ鉈に気づき叫び声をあげる。

 しかし、そんなことには微塵もかまわず、田中は何の迷いも躊躇もなく、それが本能ででもあるかのように、金子のその脳天に鉈を振り下ろした。

 目の前の現実。この体。金子。空気が透明な液体になったみたいにすべてが重いスローモーションのように流れていく。

「うぐぅぐぐがぁ」

 今まで聞いたことのない人間の声を発しながら、金子の頭はパクリと割れ、中心点を打ち損じたスイカ割りのスイカのように、赤い熟した実をその傷口からジュクジュクと、血と共に溢れさせながら覗かせた。金子は、目を剥き出し、舌をだらりと口の横からたらし、本来の人間の動きにはない動きでピクピクと魚が踊るように痙攣していた。

 その姿に田中は堪らない爽快感を感じる。今までに感じたことのないすべての絶望の重苦しい曇天が晴れたような堪らなく高揚した気分。達成感。解放――。すべてからの解放――。

 熱い、熱い、今までにない熱い興奮が全身を鼓動していた。吐く息すべてに、熱い何かがあった。

「はあ、はあ、はあ――」

 自分の呼吸が聞こえた。はっきりと聞こえた。

 それは生きていた。生きているということだった。俺は生きていた。今、この時、俺は生きていた。

「・・・」

 彼は自分の手を見た。


 僕は生きていた。この時、僕は生きていた。ぬらぬらと手に溢れる血。生温かい血。温かい確かな感触。その存在。現実感。

 血、血、血――。

 生きている世界――。

「ここは生きている世界」



 ―――

 


「・・・」

 今日もまた生きていない世界に目が覚める。


 そこはただ――、生きていない世界――



 ――通知――

 止め・広瀬 新聞・種類毎日



 今日も僕は新聞を配る。


 そこは生きていないものの世界。



 人は友と交われば遊戯と楽しみに耽り

 子を持てば愛さずにはいられない

 厭いつつ愛しきものを離れ

 犀の角のように孤独に生きよ

 

     小部経典 スッタニパータ 一ー三



 夜明け。眠っていた文明が今日も動き出す。



《ガザでの死者は六万七千人を超え・・、しかし、実際の死者はさらに多いとの見方が有力で、専門家は・・》



 そして、世界は何も変わらない。世界は今日も狂ったままだ。



《神戸線は、人身事故の影響により・・、復旧は今のところまだ・・》



 今日も人が死んで行く。まったく下らない理由で――。


 それはそのうち僕になる。


 世界はそれでいいのか?


 でも、世界はそうでしかない。


 結局、そうでしかない。



 災難にあう時節には、災難にあうがよく候。死ぬる時節には死ぬるがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候


                     良寛



《ガザでの戦闘で、イスラエルが停戦に合意。しかし、この合意が守られるかはまだ・・》



 尊師が亡くなられたとき アヌルッダ尊者はこの詩を詠じた

「心の安住せるかくのごとき人には既に呼吸がなかった。欲を離れ安らいに達して亡くなられたのである。ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。あたかも燈火の消え失せるように心が解脱したのである」


             大パリニッバーナ経(涅槃経)


 


 今日、私は山をよじ登った

 わが完璧なる庵の地の高みに。

 頂から見上げると

 雲のない空が見えた。

 それは無限の絶対空間のようだった。

 私は中間も終わりもなく

 およそどんな風景の切れ端も映らぬ 

 自由を知った。

 

 目をまっすぐ前に向け

 私はこの世の太陽を見た。

 ヴェールをかぶらぬその光は

 私に瞑想を思い起させた。

 あらゆる概念の瞑想から自由になった

 光まばゆい空について

 私は非二元的な体験をした。

 

 私は頭を南に向け

 いくつもの虹の織りなす模様を見た。

 その眺めは私に思い起こさせた

 すべての現象は

 明らかであり、かつむなしいことを。

 私は非二元的な体験をした。

 無と永遠の概念から

 完全に自由になった自然の光の体験。


 太陽の中心に闇がないように

 隠者には

 宇宙と存在者は完璧だ。

 だから彼は満たされる

 黄金の島にひとつの小石もないように

 隠者には、すべての音が祈りだ。

 だから彼は満たされる。

 澄んだ空に飛ぶ鳥が

 なんの跡も残さぬように

 隠者には、想念は絶対の自然だ。

 だから彼は満たされる。


          あるチベットの隠者による精神的完成の詩



                             おわり

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