県大会まで、あと二日。—笑って、きゅんとして、でも声は守る—
県大会まで、あと二日。—笑って、きゅんとして、でも声は守る—
朝、黒板のすみに大きく「あと2日」。
誰かが書いた「緊張禁止」ステッカーも貼ってある。効果はだいたい五秒。
イスが「キュッ」と鳴った瞬間、しおりが肩を震わせ、さおりが口を押えて、朱里が目を泳がせる。
光子が指を一本立てる。「はい、いまの笑いは息だけで。声、温存」
優子「目だけで笑う選手権、開催中」
1限前:のどケア戦争
優子がバッグから蜂蜜レモンのボトルを出す。
「みんな、ひと口ずつね」
——キャップが固い。
光子「貸して」ぐっとひねる——バン!
細いレモンの霧が放射。樹里の前髪が柑橘系に。
樹里「今日の私、爽やか担当か」
朱里「柑橘は勝利の匂い」
しおり「目にしみるから勝利はちょっとあとで」
そこへ、通りすがりの体育科列。最後尾、拓実。
目が合う。短い会釈。
優子、ボトルを慌てて背中に隠す。背中ごしに冷たさがじんわり。
拓実「がんばって」
優子「……がんばる」
(声が小さくて、自分だけが聞こえた。)
放課後:最後の通しと、問題発生
音楽室。
最終通しは、驚くほど静かに、まっすぐ進んだ。
最後の和音が空気に溶け、張っていた糸がほどける音がした。
先生「うん。通用する。——靴、音する子いる?」
一斉に足を動かすと、優子の靴がキュ。
全員「犯人」
優子「靴底が今日だけおしゃべり」
光子「消しゴム作戦やね」
机の下でせっせと靴底をこする。
それでもキュ。
さおりが絆創膏を差し出す。「ここに貼って」
——無音。
全員「天才」
優子「本番で剥がれませんように」
廊下:届け物は風に乗って
HRが終わる頃、窓から白い紙片がひらり。
「体育科に用具の貸出票、回して」と先生。
光子が受け取って、優子と一緒に渡り廊下へ。
グラウンドでは、体育科の練習。
拓実がスタートブロックを直していて、陽に焼けた手がきれいだった。
呼ばなくても、こちらに気づく。走ってくる。
距離が縮むにつれて、心拍はなぜか上がる。さっき落としたはずなのに。
「これ、貸出票」
「サンキュ。……靴、直った?」
「バレてる」
「廊下まで聞こえてた。キュって」
優子「言わない」
拓実は笑って、ポケットから小さな袋を出した。
白いガーゼのミニハンカチ。端に、細い糸で小さく「おちつけ」。
「うちのコーチが試合前にくれるやつの、余り。手の中に何かあると、緊張が逃げ場見つけるらしい」
「……もらって、いい?」
「もちろん。返すのは県大会のあとで」
指先が触れて、ほんの一秒、世界が夏休みみたいに長くなる。
光子が空気を読んで、あえて遠くを見た。風向きの話でもしている声。
夕方:ひとつ覚えた呼吸
帰り道、音楽棟の脇。拓実に会ったらさりげなく聞こうと思っていたことを、結局聞けなかった。
「スタート前、肩に力が入らない方法ってある?」
言えば良かった。
言えないまま、口の中で転がす。
代わりに、光子が言う。
「肩で吸わない、肋骨で吸う。——それでも上がる時あるけど、人の顔を見ると戻る」
「誰の顔?」
光子「ここで、名前を言わせるの、趣味悪い」
優子「悪くない」
笑いが混じると、緊張が部屋の外に出ていった。
翌朝:バス停の前で
県大会まで、あと一日。
早朝の校門は、誰の足音も響く。
優子が登校すると、バス停のベンチに拓実。
汗をふきながら、水筒を置いた音がやけに静かに響く。
「おはよう。これ、スポドリ。冷たすぎないやつ」
「ありがとう。——今日も練習?」
「うん。君らは最後の合わせ?」
「うん」
会話は短いのに、沈黙が気まずくない。
バスが来る気配。
拓実が立ち上がって、もう一度だけこちらを見る。
「明日、見に行けないけど、終わったら結果教えて」
「健闘報告、しっかり送る」
バスのドアが開く。一歩乗りかけて、拓実が振り返った。
「——声、好きだよ」
扉が閉まって、バスは出る。
置いていかれた心拍が、やっと走り出す。
光子が背後からそっと肩を叩く。
「翻訳:全力で歌え」
「知ってる」
前日最終:笑いは薄め、きゅんは増量
最後の練習。
「笑い薄め」と言いながら、イスがまたキュと鳴って全員で肩を揺らす。
でも、声を出した瞬間、笑いはちゃんと引っ込んだ。
音は迷わず前へ。
先生の「よし」がいつもより早い。
片付け中、さおりが囁く。
「終わったら、連絡するんでしょ」
優子「する。『おちつけ』返しに行く理由もできたし」
しおり「それ、理由いらないやつ」
光子がポケットを叩く。「絆創膏、予備も持った?」
「持った。靴がしゃべり出したら貼る」
「心がしゃべり出したら?」
「——歌う」
解散前:それぞれの「あと二日」
玄関前で円になって、手を軽く重ねた。
奇声もコールもなし。代わりに、ひとつずつ。
さおり「明日、ちゃんと寝る」
しおり「明日、甘いものは控える(たぶん)」
朱里「明日、録音の電池を忘れない」
樹里「明日、前髪にレモンを浴びない」
光子「明日、笑顔は目だけで」
優子「——明日、届く声で」
手を離した瞬間、夕方の風がすっと通り抜けた。
緊張と、期待と、やや強めのラベンダーの香り。
ポケットの中で、小さなハンカチが軽くなった気がした。
県大会まで、あと二日。
笑いは薄めて、きゅんはほどよく増やして、
声はぜんぶ、明日に残す。
くっさ〜の二重奏
帰宅。
玄関に靴、ランドセルならぬ楽譜バッグ。まっすぐ洗面所へ。
洗濯カゴに部活一式をざばぁ。
光子、インナーをつまんで——ちょい匂い。
光子「……くっさー」
優子「みっちゃん何してんの。匂うなって言いながら、はい、私も確認だけ——」
優子「……くっさーー」
二重奏。しかも揃ってフォルテ。
光子「今日、通しで本番より汗ったね」
優子「汗の説得力、100点。洗濯機くん、強力モードで頼む」
電源ピッ。
光子「コースは“消臭+念押し”」
優子「柔軟剤、どれにする?ラベンダ——」
(言いながら、もらったラベンダーのハンカチが頭に浮かぶ)
優子「……ミルクせっけんで」
光子「はい、安全圏」
ポンとキャップを入れて、二人同時にスタートボタン。
洗濯機「ピロリン」→ゴウンゴウン。
光子「“くっさー”は今日で流す」
優子「“どきどき”は明日に残す」
洗濯槽のうずを見てると、息もゆっくり回っていく。
県大会まで、あと二日。
家の中は静かで、洗濯機だけがいいテンポを刻んでいた。
玄関のチャイム。
洗濯機がゴウンゴウン鳴るリビングに、元気な声が重なる。
「おじゃましまーす!」(美香)
「おねえしゃん!」(春介&春海)
靴を脱ぐより早く、春介が一直線に突進——ぴと。
抱きついた勢いのまま、片目をつむって誘惑ウィンク→投げキッスまでフルコース。
優子「ちょ、サービス濃い!」
光子「本番前に心拍上げに来たな?」
優子がニヤリと身をかがめる。
「そんなに誘惑されたら——ファーストキス、もらうぞ〜」
春介「きゃーー!」
ソファの背もたれを盾にして、バタバタ逃走。
クッションで顔だけ出し、「ここは安全地帯!」と宣言。たぶん安全じゃない。
春海は腕組みして状況を見回し、監督ボイス。
「本番前、キス、きんし。かわりに、ほっぺ、エア」
優子、空中にちいさく「ちゅっ」。
春介、耳まで真っ赤。「それも…ちょっと…!」とさらに奥へコソコソ。
光子は笑いながら、逃げ道にクッション足場を置いてやる。優しい罠。
美香が紙袋を差し出す。
「差し入れ〜。のど飴と、ちっちゃい羊羹。あと、これ」
出てきたのは折り紙の星とハート。
真ん中に幼字で「がんばれ」と書かれてる。線はちょっとヨレてるけど、まっすぐだ。
光子「……これ、舞台袖に持ってく」
優子「ポケットに入れたら、たぶん落ち着くスイッチなるやつ」
春介がクッションの陰から、そーっと顔だけ出す。
「おねえしゃん、きょはエアでよか?」
優子「もちろん。じゃあ代わりに——握手」
小さな手と手。ぎゅっと、でもすぐ離す。
春海は洗濯機の前に移動して、回転をのぞきこむ。
「これ、音、いい。どどどど」
光子「今日のテンポメーカー、洗濯機だった説」
優子「うちらのインナーがくっさって二重奏したの、もう流れた頃」
美香が笑いながら耳打ち。
「そういえば、優子、匂いはミルクせっけん派で行ったんやね?」
優子「う、うん。今日は…ミルクな気分で」
(ポケットの中の小さなハンカチが、ふわっと思い出される。匂いは言わない)
春介が突然、リビング中央でポーズ。
「応援ダンスやります!」
春海「さん、はい」
二人「フレー!フレー!おねえしゃん!ぐー!(親指)」
光子「振付が最短で可愛い」
優子「音程は完璧やった」
一通り暴れ終わった春介は、またぴとで優子の膝に吸着。
「おねえしゃん、きんちょう、しない?」
優子「ちょっとはするよ。でも——」
光子と目が合う。
「——楽しみが勝ってる」
春海がうなずいて、監督らしく結論。
「じゃあ、ばんめしまでにちからもち食べる」
美香「羊羹があるよ。監督の指示、速いな」
洗濯機が「ピロリン」と鳴って止まる。
空気が一瞬、すっと軽くなる。
優子が立ち上がって、春介の額を人差し指で「ぴ」。
「本番終わったら、ぎゅーは解禁ね」
春介「やくそく!」
春海「かんとく印、押しとく」
(折り紙の星の端っこに、ちいさく◯)
玄関まで見送り。
春介と春海は靴を片方ずつ逆に履いて、慌てて揃え直し、もう一回手を振る。
美香が笑って、最後に肩で「がんばって」を送る。
ドアが閉まると、部屋に洗いたての匂いと、折り紙の手ざわりだけが残る。
光子が星を机に置き、優子はハンカチと一緒に筆箱のいちばん手前へ。
「……さ、譜読み、もう一回だけ」
「うん。笑いもドキドキもしまってから、ね」
静かなテンポで、夜が続く。
本番まで、あと一日。
応援の余韻だけ、胸の中でちょっと跳ねていた。
春海ギャン泣き
リビング。
積み木タワーの横で、春介(2)が突然スイッチ入る。
春介「はるみ〜、ちゅー!」
(ターゲットロック→ほっぺにぷにゅ)
0.5秒静止。
0.6秒目——
春海「……っ……ぎゃあああああーーー!!」
(サイレン級ギャン泣き、両手ぶんぶん)
美香「はい出た!緊急ちゅー被害対策本部!」
光子「タオル!うちわ!羊羹は違う!」
優子「被害者、呼吸確認!“すー”“はー”!」
春介、状況を理解してオロオロ。
春介「はるみ、ないちゃったぁぁ……ぼく、ちゅー容疑……」
光子「自白早すぎ!」
春海、涙の中で指で×印。
春海「きょかなし、ちゅーだめ!」
優子「監督の許可制やったか…!」
春海、泣きながら反撃(半分だけ)を決行。
近くのやわらかハンマー(スポンジ)を持ち上げ——
春海「はんげき!」
ぽふっ(120%やさしい)
春介「ぽふられた〜!(なぜか嬉しそう)」
春海、さらに鼻チョン追加(やさしさ200%)。
春海「ばつ!(でも優しさ)」
美香「はい、判決:ほっぺエアちゅーで和解」
優子「物理ちゅーは停止、エアのみ稼働」
春介「……エア……?」
光子「空に向かって“ちゅっ”して、手のひらでキャッチして渡すのよ」
春介・春海、見つめ合い——
春介「ちゅっ(空) →(手でパタン)→ はるみにぽん」
春海(涙ふきふき受領)「……うけとった」
場、ほわー。
と、和解ムードになった瞬間——
春介、サービス精神が暴走して連続エア10連。
春介「ちゅっちゅっちゅっちゅっ——無限!」
春海「おおすぎ!(両手でストップ)」
優子「スパム送信すな!」
光子がちゅー信号機(赤=だめ/青=OKの手作り紙)を掲げる。
光子「今は赤。青になったらほっぺタッチね」
春海「はい、あおだけ」
春介「りょうかい!」
最後になかなおり式。
二人、指先で「ちょん」。
春介「ともだち」
春海「と、も、だ、ち」
全員「(かわいさで崩れる)」
美香「よし、被害者にごほうびゼリー、加害者改め“反省ちゃん”には一口だけ」
春介「はんせい……おいしい」
優子「反省の意味、強化しような」
洗濯機がタイミング良く「ピロリン」。
光子「本日の事件、円満閉廷」
春海「つぎ、ちゅー、あおのときね」
春介「あかのときは、ちょん!」
二人の“交通ルール”が、今日もひとつ増えた。
洗濯機が「ピロリン」と鳴いて、部屋の音がすうっと薄くなった。
湯気の代わりに、洗いたての匂い。テーブルの上には、春介と春海が置いていった折り紙の星とハート——真ん中に拙い字で「がんばれ」。
「ねえ、明後日本番やろ?」と美香。ソファの背にもたれて、目だけで笑う。「今、どんな仕上がり?」
光子はペットボトルのキャップをきゅっと戻して、少し考えるふりをしてから言った。
「体感、九割二分」
「残り七厘は、当日のアドレナリンで塗る予定」と優子。言いながら、自分の靴底の絆創膏を指でなぞる。「足音対策、今日は剥がれなかった」
「具体いいね」美香がうなずく。「喉は?」
「手の中にこれがあると落ち着く」
優子は筆箱のいちばん手前から、白いミニハンカチを出した。端っこに、小さく“おちつけ”。
「緊張したら握る。声は前へ、笑いは目だけで、息は静かに」
「ちょっとだけ聴かせては?」
美香の声に、光子と優子は目で合図する。三秒だけ。
「……ラ」
薄い膜みたいな音が部屋に張って、空気が一度だけ震えた。音はすぐに消えたのに、残響だけが胸の真ん中に小さく居座る。
キッチンから顔を出した春海が、さっきまで持ち歩いていた“ちゅー信号機”の赤を掲げる。
「きょうは、あか」
「はい了解。拍手はエアで」と優子。ぱちぱちを空中でやって見せる。
春介はといえば、ソファのすみで両手をぶんぶん振る応援ダンス。
「フレー!フレー!」
春海がすかさず指でT字。「さんじゅっびょうだけ」
「短距離走やん」と光子が笑う。
美香はテーブルに紙袋を置いた。のど飴、羊羹、そして小さなジッパー袋に絆創膏がどっさり。
「補給物資。靴がしゃべり出したら貼り替え。頭がしゃべり出したら、深呼吸。笑いは——」
「前借り禁止」光子が続ける。「明後日まで貯金」
「でも少しだけなら使ってもいい?」と優子。
返事の代わりに、春介がソファから飛び降り、優子の膝へぴと。春海が横から覗き込んで、真顔で×印。
「ほんものちゅー、きんし」
「はい、監督」と優子。
春介は“エアちゅー”を空に一発、両手でキャッチして、そっと優子の手のひらに置いた。
「……受け取りました」手の中が、ちょっとだけ温かい。
「本番の立ち位置、もう一回見せて」と美香。
リビングのラグが即席のステージになる。
入口から三歩、回れ右、二歩——光子も優子も、猫みたいに静かだ。
「お、足音ゼロやね」
「もしも“キュッ”って鳴ったら?」
「貼り替え一秒。予備十枚」優子が親指を立てる。
春海は頷いて、「よし」。監督の判子は口頭で押されるらしい。
「心は?」美香が最後に訊いた。
光子は折り紙の星をひっくり返して、角をなでる。
「楽しみ六、緊張四」
「さっきまで五:五やったけど」と優子。「この星見たら、六:四になった」
「なら、晩ごはんで糖分五、塩分五。風呂で笑って、早寝」と美香。
春海がすぐに復唱する。「とうぶんご、ごえんぶんご」
春介は「ごはん!」だけ理解して、ぴょんと跳ねた。
洗濯機のフタを光子が開ける。水気の抜けたインナーがひんやりと手に乗った。
「……くっさーは、もう流れたね」
「うん。どきどきは残しとく」優子が笑う。ハンカチをまた筆箱にしまい、ファスナーを静かに閉めた。
玄関で春介と春海を見送ると、ドアの向こうの足音がぱたぱた遠ざかっていく。
静けさが戻る。時計の針と、台所の冷蔵庫だけが小さく鳴っている。
光子は星をケースに入れ、優子は“おちつけ”をジャケットの内ポケットへ。
「譜面、もう一回なぞる?」
「ううん、今日はここまで。声は、明日に残す」
カーテンの隙間から、夕方が薄くのぞく。
明後日、この部屋に帰ってくるとき、どんな顔をしているだろう。
想像しただけで喉が乾いて、でも、少しだけ甘い。羊羹のせいだと決めつけて、二人で半分こにした。
美香が食器の音を立てずに立ち上がり、「お風呂、入れてくるね」と言った。
湯気の気配がドアの向こうで立ち上がる。
笑いは小さくたためた。きゅんは胸ポケットにしまった。
あとは、寝るだけ。明後日、ぜんぶほどくために。
ホールの朝は、譜面の紙と緊張の匂いがまざっとった。
舞台袖の黒い幕の向こうで、後輩たちの肩がちょいちょい上下しよる。
「先輩、来てくれたっちゃ!?」
「うちら、みなさんに届くように、心ばぎゅーっと込めて吹くけん!」
優子が笑ってうなずく。
「よか意気込みやね。肩いれんで、息は前にスーッと流すだけでよかとよ」
光子も目線を合わせて。
「速なりそうやったら、一回だけニカッて笑うて入ったら落ち着くけん。間は怖がらんでよか。黙っとる時も音楽やけんね」
トランペットの子が小声。
「先輩、緊張、どうしたらよかですか?」
光子「客席に“昔の自分”が一人おるって思うと、音がやさしゅうなるばい」
優子「うちら中学ん時、落研やったけんね。“間”の取り方は任せんしゃい」
ステージマネージャーが手で合図する。
「博多南中、準備お願いします」
「行ってくるけん!」
「いってらっしゃい。楽しんでこんね」
「音ば、ホールのいちばん後ろまで飛ばしてきんしゃい!」
二人は袖を離れて客席へ戻る。司会の声、Aの音、拍手。
博多南の列が光の中へほどけて並んだ。
最初の一音。
優子がささやく。「まっすぐ飛んどるばい」
光子もうなずく。「テンポ、よか」
中盤、トランペットが一瞬迷いかけて、踏んばる。
光子「持ちこたえたねぇ、えらか」
優子「届いとう。ちゃんと」
最後の和音が高い天井に溶けて、拍手が広がる。
二人は音を立てんハイタッチ。
光子「後輩、やるね」
優子「明日はうちらの番やけん。気負わんで、よか音ば出そ」
客席の空気が、少しだけ軽うなった。
舞台袖の匂いも、昔の自分も、ちゃんとここにおる気がした。
ホールの照明がすこし落ちて、場内アナウンス。ざわつきがピタッと止まった。
各校の代表が壇上へ。黒い上履きが横一列に並んで、息までそろっとる。
司会「それでは、審査結果を発表いたします——」
プログラムを握る手に汗。
光子「…手ぇ、すべる」
優子「落としたら不吉とか考えんどこ」
最初の学校、銀。次、銅。
名前が呼ばれるたび、歓声と拍手。
博多南の番が近づくほど、心臓がやかましい。
司会「博多南中学校。演奏曲目——エルガー作曲『威風堂々』」
(間)
「——金賞・ゴールド!」
「うわぁぁああ!」
客席が割れる。歓声と拍手が一気に押し寄せて、ホールが揺れた気がした。
優子、思わず立ち上がりかけて、光子に袖つままれる。
光子「座れ座れ、まだ続く」
優子「体が勝手に祝うんよ!」
壇上の代表の子が、泣き笑いで深くおじぎ。
袖の仲間たちも、肩を抱き合って小さく跳ねよる。
司会「つづきまして——九州大会出場校の発表です」
空気が、さらに細うなる。
アナウンスの声が、ひと校ずつ名前を置いていく。
光子の心臓が呼吸とずれて、妙に静かになった。
司会「——博多南中学校」
一拍ののち、ドッと拍手。
優子「行った…!行ったばい!」
光子「やったねぇ…!」
二人、音を立てん小さなハイタッチ。目だけで泣き笑い。
舞台袖へ走る。
後輩たちがわぁっと集まってきた。
「先輩!行けました!」
「九州、行ってきますけん!」
優子「よくやった、ほんとによくやった!」
光子「威風堂々、胸ん真ん中に届いとったよ」
トランペットの子が鼻を赤くして言う。
「先輩の“間は怖がらんでよか”ってやつ、思い出したです。止まらんで良かった」
優子「止まらんで、置いたっちゃろ?ようやった」
顧問の先生が目尻をぬぐいながら笑う。
「先輩方、来てくれてありがとう。…ほんと、子らはよう頑張った」
光子「先生も、お疲れさまです」
優子「九州でも、まんまの音で行きんしゃい」
写真を一枚。
金色のプレートが、ステージの光をもらってほんの少しきらり。
拍手の余韻がまだ客席に残っとう。
帰り際、優子がそっとつぶやく。
「明日はうちらの番やね」
光子「うん。背中、押してもらった」
二人でホールを振り返って、深呼吸。
博多南の「威風堂々」は、まだ耳の奥でやさしく鳴りよった。
——明日、ここで自分たちの音を置く。気負わんで、まっすぐ。




