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佐伯小雪、ソフィーア・ペトレンコとの出会い

朝の拍にのる


朝七時過ぎ、サンライズは東京駅に静かに滑り込んだ。

夜通し走ってきた車体が息を吐くみたいに止まり、ホームのざわめきが一気に押し寄せる。博多駅も大概大きいが、何度来てもこの駅の規模の圧には軽くのけぞる。


洗顔とトイレを済ませ、構内のカフェへ。窓の外には長い編成が次々と出入りし、店内は出勤前の人の海。四人がようやく席に落ち着いたところで、光子がスマホを掲げた。


「美香おねーちゃん、つなぐよ」

呼び出し音のあと、画面いっぱいに春介と春海のドアップ。

春介・春海「おねぇしゃんたち、いまどこ〜?」

光子「うわ、近い近い! 今ね、東京駅やん」

春海「ちょうきょうえき?」

優子「ちがうちがう、“とうきょうえき”たい」

春介「とーきょー!」


「おかあしゃーん、みーちゅおねえしゃんからー!」

画面がぐるんと回って、美香の笑顔。背後からアキラの「おはよー」の声。


美香「着いたねぇ。人多かったろ? 朝ごはん食べれよる?」

光子「いまカフェ。パンとコーヒー確保」

優子「このあとキャンパス向かうけん、落ち着いたら連絡する」


横から春介・春海が割り込む。

春介「ぎゅーは?」

優子「帰ってきてからフルコース!」

春海「ウィンク ぽいっ」——画面越しの投げキッスに、隣のテーブルのOLさんが思わず笑った。


アキラ「今日の“はじめの一歩”はゆっくりでいいけん。無理すんな」

美香「終わったら、何食べたかも報告してね」

優馬「了解。東京ばな奈は拓実くん用に買っとくばい」

優子(小声で)「やめて、顔あつくなるけん」

光子「翼には“勝ってこい”ってもう送った」


窓の外で、また一本、長い通勤電車が光を引いて走り抜ける。

光子「編成、ながっ。ほんと“人の一日”を運びようね」

優子「この朝のリズム、曲に入れたい」


美香「ほんなら行ってらっしゃい。がんばって、楽しんで」

春介・春海「がんばれー!(ダブルウィンク)」


通話が切れると、テーブルにふっと余白が戻る。

紙コップの縁から立つ湯気、スーツの群れ、動き続けるホーム。

四人は立ち上がり、鞄のストラップを握り直した。


「行こっか」

「行こ。朝の拍に、うちらのテンポで」


東京駅の大きな息づかいに合わせて、扉の向こうの一日へ歩き出した。




優子がスマホ越しにいたずら笑いを浮かべた。

「春海〜、お姉ちゃんたちが乗った電車の車掌さん、めっちゃかっこよかったとよ〜」


画面の向こうで春海の目がまん丸。

「はりゅみも、しゃんらいじゅ、のりたーい! しゃしょーしゃん、するー!」

すかさず春介も参戦。

「ぼくもー! ぴっ、ぴっってするー!きっぷ、ちょーだい!」


光子が吹き出しながら、やさしく頷く。

「よかよか。こんど“にこ切符”作って、みんなで電車の小さか旅、行こーや」

優子も指で改札のまね。

「にこ切符、カチャン! つぎはぎゅー駅に停車しまーす」


「ぎゅーえきー!」と双春は画面に鼻をくっつける勢い。

向こうから美香の笑い声。

「あんたたち、画面に顔近すぎ〜。でも約束ね、春がもうちょいあったこうなったら行こ」


優馬の声も背後から。

「車掌さんの練習もせなね。『ご乗車ありがとうございます〜』って」

春介・春海、同時に胸を張る。

「ごじょーしゃ、ありがとーございまちゅ〜!」


優子が小声で囁く。

「決まりやね。次の“家族の寄り道”、目的地は——“電車ごっこ、本物編”」

光子が親指を立てる。

「まっすぐだけじゃつまらんけん、駅をひとつずつ楽しんで行こ」


画面の双春は最後にお約束。

「うぃんく、ぽいっ!」

カメラに飛んできた投げキッスに、カフェの席で二人は声をひそめて笑った。






門をくぐって、懐かしさに寄り道


朝の地下鉄を乗り継いでキャンパスをくぐる。掲示板のガラス、芝の匂い、音楽棟の影。

「美香おねーちゃんが通っとった頃と、変わらんねぇ」

「うん。同じ風、しとる」


「ちょっと寄ってみよっか。バイトしよったコンビニ」

四人は門を出て角を曲がる。自動ドアのピンポーンが、記憶の引き金をやさしく引いた。


レジの向こうから、見覚えのある店長さんが顔を上げる。

「おはようございます」と双子。

「……あれ? ひょっとして、美香ちゃんの双子の妹さん?」

「はい。小倉光子と、小倉優子です。ずいぶんご無沙汰いたしております」


店長さんの目尻がふっと下がる。

「いやぁ、懐かしいねぇ。美香さん、今では有名なミュージシャンやもんね。楽団の演奏も頑張ってるって、時々LINEで近況くれるよ。お子さんも生まれて、何よりだ」


後ろから美鈴が会釈する。

「おはようございます。その節は娘が大変お世話になりました。今日はね、妹二人のオープンキャンパスで立ち寄りました。来年、音大に合格いたしましたら、またお世話になると思いますが、よろしくお願いします」

優馬も頭を下げる。「そのときは父母の分までコーヒー買いに来ますけん」


店内の空気が、少しだけ春っぽくやわらぐ。

「じゃあ、受験生セットやね」店長さんが笑って、水・のど飴・ミニ羊羹と、お気に入りのカレーパンをおすすめ棚から示す。

「このカレーパン、仕上げが軽いけん、発声前でも重たくならんとよ」

「さすが、プロの差配」と優子が目を丸くする。

光子はおにぎりを二つと、のど飴をかごに入れた。「お守りに一粒、ね」


会計のピッという音が、柔らかいリズムで重なる。袋を受け取りながら、店長さんがひとこと。

「音はね、焦らんかったら勝手に鳴る。ここで働いとったあの子が教えてくれたと」

「……はい」双子は同時にうなずいた。


店を出ると、街路樹の影が少し伸びている。

「寄り道、してよかったね」

「うん。おねーちゃんの“現役の匂い”が、ちょっと残っとった」


袋の取っ手を握り直し、四人はふたたびキャンパスへ向かう。

風は音楽棟の方角から、少しだけ高い音で吹いてきた。

——まっすぐだけじゃ、つまらない。懐かしさの角をひとつ曲がって、今日の門をもう一度くぐる。




門がひらく日


コンビニの自動ドアが閉まる前、光子と優子はもう一度振り返って頭を下げた。

「篠崎 隆司店長、ありがとうございました。受験、がんばります」

「はいはい、気張りすぎんでよか。終わったらまた寄りんしゃい」と篠崎は笑って手を振る。


校門までの道は、さっきより少しだけ明るい。音楽棟の前にはネームタグを首から下げたスタッフ、案内旗、そして各所からこぼれる準備の気配——リードを削る音、弦をこする微かな擦過、金管のバルブオイルの匂い。


受付で名簿にチェックを入れると、色分けされたリストバンドが手首に巻かれた。

「声楽・光子さんはこちらの赤、指揮・優子さんはこちらの青です。最初は全体ガイダンスへどうぞ」


ホールに入ると、座席は期待で少し前のめりだ。壇上に教員が並び、学生アンサンブルが短いファンファーレを鳴らす。拍手。

学長が一礼して口を開く。

「ここは“音”だけでなく“場”をつくる人を育てます。今日はたくさん試して、たくさん質問してください」


視線を交わして、光子が小声で言う。

「質問は5つ、深掘り2つ——やね」

「ばっちり。まず“特待の評価軸”、先に聞く」と優子。


ガイダンス後の回廊は、行き先の矢印でカラフルに染まっていた。

声楽体験室では、伴奏ピアノの前に講師が立つ。

「光子さん、母音を一つずつ、まっすぐに。拍は吸う前から始めるつもりで」

「はい。あ—え—い—お—う」

「うん、“え”の輪郭がきれい。前に出しすぎず、奥を明るく——それで十分」


指揮体験室では、優子が鉛筆をバトンのように持つ。

講師は微笑む。

「導入10秒、どう聞かせるか見せてください。合図は短く、意味は長く」

優子は深く息をとり、二拍子の入口を柔らかく切った。

「よか。合図の“間”が見える。打点はあと指先ひとつ分下——それで音が受け取りやすくなるよ」


合間のロビーに、卒業生紹介のボード。そこには小倉 美香の在学当時の写真もあった。

「変わらん笑顔やね」

「ね。現役の匂い、まだ残っとる」


昼前のブリーフィングでは、奨学金と特待の説明が淡々と続く。

優子が手を挙げた。

「選考で重視される“再演性”の判断基準は?」

担当者は資料をめくり、穏やかに答える。

「技術の安定に加え、“同じ場で再び聞きたい”と感じさせる設計。導入の確実さと終止の説得力は評価の要です」


ノートに短く線が引かれ、光子がうなずく。

「導入と終止——今朝決めた軸、合っとる」

優子も親指を立てた。

「焦らん、詰め込まん。今日は“場の質”を見て回ろ」


窓の外で、街路樹が風にゆれる。

ここからが一日の本番。

四人はそれぞれの教室へ向かって歩き出した。

まっすぐだけじゃつまらない。けれど今だけは、門の内側を、まっすぐ堪能するために。





すれ違いが、ご縁になる朝


ロビーの指示矢印が色でにぎわう。休憩時間、光子と優子は近くの参加者に声をかけた。


「どこから来たの?」

「私たちは福岡の博多から」


名札を直していた女子高生が振り向く。頬が雪の色を少し残している。


「札幌から来ました。

佐伯さえき 小雪こゆきです」

「小雪ちゃん。遠くからよう来たね」

「はい。雪国だけど、今日は手、あったかいんです。緊張してるのに、へんですよね」

三人で笑う。小雪は声楽志望だという。「高音がちょっと怖くて」と打ち明けると、光子が頷いた。

「怖さは“手すり”にして良かとよ。一回で届かんかったら、二回で届けばいい」

小雪の肩から、すこし力が抜けた。


近くに、金髪で青い瞳の、背のすらりとした女性が立っていた。名札にはアルファベット。優子が気軽に声をかける。


「Hi! Are you here for vocal studies too?」

女性は明るく微笑む。

「Yes. I’m from Ukraine. My name is Sofia—

Sofiia Petrenkoソフィーア・ペトレンコ. I’m 20.」


「Welcome! どうして日本に?」と光子。

ソフィーアは少し息を整えて、ゆっくり英語で続けた。

「I came to study voice, to bring some smiles back to my country.

My parents told me, “If music is your way to help, go.”

So… I came.」


言葉は静かなのに、芯があった。

優子が英語で返す。

「That’s beautiful. Music can hold people.

We’re twins from Fukuoka. If you need anything, just tell us.」

ソフィーアは胸に手を当てて、短くお辞儀した。

「Thank you. Today, I just want to sing without fear.」


小雪が小さな声で言う。

「私も、怖さとうまく付き合えるようになりたいです」

光子はうなずき、指で空中に小さな四角を描いた。

「導入の10秒、ここを**“静かな場所”にしよ。

入る前に息をひとつ置いて**、同じ景色を見てから歌う」

優子も笑う。

「合図は短く、意味は長く——ね」


そのときチャイムが鳴って、次のプログラムの矢印が揺れた。

「じゃあ、また後で」

「うん。Good luck! Удачі!(ウダー チ)」と優子が言うと、ソフィーアの目がふっと笑った。


札幌、福岡、ウクライナ。

違う朝が、同じロビーで肩を並べる。

——すれ違いは、ちゃんとご縁になる。

三つの歩幅が、それぞれの教室へほどけていった。




ソフィーアのこと


中庭のベンチ。風が譜面の角を少しだけめくった頃、ソフィーアが言葉を選ぶように話しはじめた。


「わたし、日本にいる知り合いを頼って来ました。戦火から避難して。

父はウクライナ軍で祖国を守っています。戦死は免れたけれど、足に銃弾を受けて、今はリハビリ中です。……生きているだけで、十分です」


声は静かで、芯があった。光子と優子は、ただうなずいた。


「Music can carry home. 音楽は“家”を運べると思うんです」

「うん。音で、離れている人に空気を渡せるけんね」優子が言う。


ふとソフィーアが、先ほどよりずっと滑らかな日本語で続けた。

「——それと、言いそびれていました。わたし、日本語、けっこう話せます。来日してからしばらく経ったので。大学の聴講と、合唱団の手伝いをしているうちに、気づいたら」


「あ、ほんとだ。さっきより自然……」光子が目を丸くする。

「ごめんなさい。初対面は英語のほうが安全かなって思って」

「わかる。大丈夫、ここは“安全な場所”やけん」


ソフィーアは少し笑って、胸に手を当てた。

「父に、恐れないで歌うって約束したんです。今日の体験も、その練習の一つ」


優子が頷く。

「最初の10秒、静かな部屋をつくろ。息を合わせるだけで、怖さは手すりになるけん」

光子も続ける。

「終わりの一歩まで見えたら、途中で揺れても帰って来られるよ。もしよかったら、終わったあと一緒に発声せん?」


「お願いします」

ソフィーアの発音はもう、ほとんど日本の学生たちと変わらなかった。


その日の最後、廊下の端で三人はハミングを重ねた。

ソフィーアが小さく故郷の旋律を置く。光子が母音で支え、優子が息の間を整える。

見えない“家”が、ほんの一瞬、音の中に立ち上がった気がした。


——帰国できる日まで、ここで歌い続ける。

ソフィーアはそう言って、まっすぐに笑った。





うにゃでリセット


廊下のベンチ。チャイムまであと少し。

ソフィーアが指先を握りしめたまま、小さくつぶやく。


「緊張して……うまくできるか、どうか……」


光子が目を合わせ、優子がポケットからスマホを出す。

「じゃあ——うちらのギャグコント動画、見る?」

「“うにゃシリーズ”、15秒ずつ。笑うと、喉がゆるむけん」


ミニ動画①「うにゃ検札」


(駅の改札コント)

優子(車掌)「にこ切符、お願いします」

光子(乗客)「うにゃ……(口をゆるめて差し出す)」

優子「確認、うにゃ良好! 次はぎゅー駅です」

二人「あじゃたらぱ〜」


ソフィーア、吹き出す。「それ、かわいい!」


ミニ動画②「うにゃマイクテスト」


光子「うにゃ—あ—え—い—お—う(口角ゆるふわ)」

優子「“うにゃ”で顎が下がる=母音が通る、の巻」


ソフィーアの肩から力が抜ける。「本当に首が軽くなった気がする」


ミニ動画③「うにゃ腹式」


優子「鼻からスッ——“うにゃ”でフー(4吸って6吐く)」

光子「最後に“あじゃぱ”で笑顔に着地」


スマホを閉じると、三人の間にやわらかい空気が残った。

光子が囁く。「やってみよ。“うにゃ→あじゃぱ→だらぱ”で喉ゆるめ→母音」


三人で小声のルーティン:

1.うにゃ(あごだらん・舌べったり・肩すとん)

2.あじゃぱ(口角だけ“にこ”/上歯だけ見えるくらい)

3.だらぱ(息を前へ:4吸って6吐く)

4.母音一往復:あ—え—い—お—う(うを長め)


ソフィーアが試す。

「うにゃ……あ——」

響きが一段、前へ出た。自分で驚いて笑う。

「今の“あ”、怖くなかった」


優子が親指を立てる。

「合図は短く、意味は長く。入るときは**“うにゃ一発→息合わせ”**で」

光子も小さくガッツポーズ。

「大丈夫。笑って入れば、声は勝手に前に来る」


チャイム。扉の向こうで伴奏の和音が「どうぞ」と手を差し出す。

ソフィーアは胸に手を当てて、深く一度だけ息を合わせた。

「うにゃ」——小さく合図。

三人の笑いの余韻を連れて、ステージへ歩き出す。


うにゃはおまじないじゃない。

体の鍵を“笑い”で回す、小さな技術。

それで十分、最初の10秒を越えられる。





光子がトートから畳んだTシャツを取り出して、ぱんっと広げた。

胸に丸っこい文字——「うにゃだらぱ〜」。袖口には小さな桃の★マーク、背中には筆文字で**「寄り道上等」**。生成り地に濃いめのネイビーが映える。


優子「これ、うちらの“ギャグT”。バンドはファイブピーチ★って言って、音楽もしよるし、バラエティ出たり、地元・福岡でコントショーもやりよると」

光子「公式ファンクラブで販売もしとる。着ると緊張が3割減(※個人の感想)」


小雪「かわいい…! 背中の**“寄り道上等”**が優勝です」

Sofiia「I love the peach star. ‘Unya-darapa’… it already relaxes my jaw.」


優子「“うにゃ”って言いながら着替えたら、顎が下がって喉がゆるむけん、本番前のおまじないにもなるばい」

光子「今日は予備を持ってきとるけん——小雪ちゃんとソフィーアにプレゼント」

小雪「えっ、いいんですか!? 大切にします」

Sofiia「Thank you. I’ll wear it when I practice… and maybe on stage.」


二人がそっと胸の文字をなぞる。

小雪「“うにゃだらぱ〜”…口に出すと、たしかに肩の力が抜ける」

Sofiia「Unya… darapa…(ふふ)笑うと声が前に出る、ほんとうですね」


優子「やろ? ロビーで**“うにゃ集合写真”**撮ってから、次のセッション行こ」

光子「にこ切符ポーズで——はい、あじゃたらぱ〜!」


シャッターが切れる。

Tシャツの柔らかい布と、笑い声の余韻が、朝の緊張を薄くほどいた。





四人はロビーの端で列を整え、矢印の先へ歩き出した。

胸の「うにゃだらぱ〜」がそろって小さく揺れる。小雪とソフィーアも、その文字を指で一度なぞってから顔を上げた。


背後で、優馬と美鈴が声をかける。

優馬「がんばりぃよ。無理せんテンポでな」

美鈴「最初の10秒は“静かな部屋”やけん、息をひとつ合わせて」

優馬「合図は短く、意味は長く——覚えとるね」

美鈴「喉かわいたら、これ」と小さな水と喉飴を手渡す。


光子と優子は振り返って、親指を立てた。

「行ってきます」

小雪も「行ってきます」と頭を下げ、ソフィーアは胸に手を当てて「行ってきます」と日本語で言った。


四人で指先を合わせる。ぱちん。

足音が廊下にそろい、ドアの向こうで和音が「どうぞ」とひらく。

——朝の拍に、自分たちのテンポで。




廊下を歩きながら、優子がそっと声を落とした。

「ソフィーア、ご両親は今は日本におると?」


ソフィーアは一拍だけ息を整え、穏やかに首を振った。

「いいえ。父はドミトロ・ペトレンコ、母はオレーナ・ペトレンコ。今はウクライナのリヴィウにいます。

父は足の傷で通院しながら、地域の避難所の手伝いを。母は市立図書館で子どもたちに本を読んでいます。

祖国の復興を信じて、ふたりとも帰国しました。 私はここで学びを続けて、歌で支えるつもりです。」


光子がうなずく。

「毎週、顔見て話せるようにしよ。リハが終わったらビデオ通話ね。うちらも“うにゃ”写真送るけん」

優子も微笑む。

「怖さは手すりに。今日は最初の10秒を一緒に整えよう」


ソフィーアは胸に手を当て、静かに微笑んだ。

「ありがとう。遠くても、つながっているって思える」


ちょうど扉の向こうで和音が鳴り、次のセッションが始まる合図がした。

三人は目を合わせ、軽くうなずいて、前へ進んだ。




廊下を歩きながら、光子が首をかしげた。

「小春ちゃんは何か音楽しとる?」


小雪がふっと笑って、指で名札をとんとん。

「小春じゃなくて“小雪”です。えっと——高校では合唱でソプラノⅡ、放課後はピアノで基礎をちょこちょこ。冬は雪まつりの市民合唱にも出ました。家では簡単なギターでコードを鳴らして、耳(聴音)の練習も兼ねてます」


優子が目を細める。

「ソプラノⅡ、芯が作れるポジションやね。高音怖いって言いよったけど、下から支える呼吸はもう身体に入っとるはず」


ソフィーアがうなずく。

「ギターの分数コード、発声の**“明るい場所”**探すのに役立つよ。わたしもやる」


小雪は肩の力を抜いて、照れくさそうに笑った。

「なんか、できる気してきました」


光子が親指を立てる。

「十分“音楽やってる人”の体になっとる。あとは最初の10秒、一緒に整えよっか」





光子「両親は札幌?」

小雪「うん、札幌だよ。今も実家暮らし。学校には地下鉄で通ってるの。今日は朝、駅まで父と母が見送ってくれた」





光子「そうかぁ。札幌といえばコンサドーレ、それに味噌ラーメン! 食べ物おいしいよねぇ」

優子「スープカレーも捨てがたか〜」

小雪「わかる。…ねぇソフィーア、ウクライナでおいしい食べ物って何があるの?」


ソフィーア「たくさんあるよ。たとえば——」

「ボルシチ(Borshch):ビーツの赤いスープ。サワークリームをのせて、にんにくパンのパンプーシュカと一緒に」

「ヴァレーニキ(Varenyky):小さな水餃子みたいなもの。じゃがいもやチーズ、季節だとさくらんぼを入れて甘くもするの」

「フルーブツィ(Holubtsi):キャベツロール。お米と挽き肉を巻いて、トマトソースでことこと」

「デルーニ(Deruny):じゃがいもパンケーキ。外カリッ、中ほくっ」

「シールニキ(Syrnyky):カッテージチーズのパンケーキ。朝ごはんに蜂蜜やジャムで」

「デザートならキエフケーキ、飲みものはウズヴァール(ドライフルーツのコンポート)とか」


小雪「名前だけでおいしそう…! デルーニ、絶対好きなやつ」

光子「ボルシチとパンプーシュカ、音の響きまでおいしいね」

優子「帰ったら“世界のまかないデー”やろ。うにゃだらぱ〜T着て、みんなで作る会」

ソフィーア「うれしい。わたし、家のレシピで作るよ。日本の味も教えてね」

小雪「札幌なら、ラーメンとザンギ担当する!」

光子「決まり。食の合奏、今度はキッチンでやろっか」




ロビーの窓から差す光を見ながら、光子がぽつり。


光子「ウクライナって聞くと、小麦畑が浮かぶなぁ。収穫の季節、テレビで見たことある。金色に輝く麦の穂と、頭上の青い空。」

優子「国旗もそうやもんね。青と黄——空と麦。」


ソフィーアはゆっくりうなずいた。

ソフィーア「うん。青は空や川、黄は小麦の大地って、よく言うよ。子どものころ、夏になると麦が波みたいに揺れて……風が通るたび、世界がサラサラって息をするの。今は、その景色を胸に置いて歌う勇気にしてる。」


小雪「その“サラサラ”の音、聞いてみたいな。」


光子が目を細める。

光子「じゃあ、帰ったら小品つくろっか。『麦と空のあいだ』。」

優子「一番は青のロングトーン、二番で金色の分散和音入れて——最後に風の休符。」


ソフィーアは笑って、胸に手を当てた。

ソフィーア「いいタイトル。あいだがあるから、両方がきれいに見えるんだね。」


廊下の向こうでチャイムが鳴る。

青と金のイメージをポケットにしまい、三人は同じ歩幅で次の教室へ向かった。


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