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オープンキャンパス。サンライズに揺られて

オープンキャンパスへ(のびのび版)


西鉄福岡(天神)のホームに立つと、朝の空気がすっと肺に入った。

四人で同じ車両に乗り込み、窓の外が街から緑へ変わるのを眺める。太宰府に着けば、手を清め、好きな言葉を好きなだけ絵馬に書く。縛りなし。思いついた分だけ書いて、少し消して、また書く。そんな自由さが今はちょうどいい。


参道をゆっくり歩き回って、天神へ戻る。地下鉄で博多へ。新幹線では通路を行き来する販売ワゴンにちょっと手を振り、他愛ない話で笑う。

新山口から在来線へ。列車は速度を落として、里の匂いのする景色の中へ入っていく。湯田温泉で下りて、湯の表面を指でなでるみたいに、そっと湯に浸かった。


湯気の合間に、ぽつりと出る本音。

「翼、大学始まってからバタバタで、会う時間が合わん」

「拓実も似た感じ。連絡は来るっちゃけどね」


優馬が湯から顔を上げる。

「急いで詰めんでも大丈夫。会えん時間があるから、次に会ったときの言葉が自然に出てくる。好きはそんな簡単に減らん」


うなずいて、湯から上がる。髪を拭きながら、美鈴が笑う。

「今は“のびのび”で行こ。気が向いたら一言送ればよか」


昼過ぎの「スーパーおき」に乗ると、車窓が山に寄り添い、トンネルを抜けた先で突然ひらける海。白い波が横に走って、窓に光が踊る。

「いまの切り替わり、転調みたい」

「父ちゃん、すぐ音楽にする」

「職業病やけん」

そんなやりとりが車内の小さなBGMになった。


出雲市。冷たい空気が頬をきゅっと締める。駅前をぶらり、気の向くままに店をのぞき、温かいものを少しだけ。宿に荷を置いたら、明日の準備は必要最低限。声を出してみて、指揮の合図を確認して、あとは深く息を吐く。


細かい時計は持ち歩かない。

今日は道草を拾って歩いた。祈りも、湯気も、海のひかりものせて。

まっすぐだけじゃつまんない——寄り道が、二人の背中をちゃんと前へ押してくれる。




出雲の風、四つの願い


砂利を踏む音がさらさらと続いて、四人は拝殿の前で足をそろえた。

深く礼をし、二礼四拍手一礼。手を合わせる時間は、それぞれの長さで。


祈り終えて、松並木の木陰へ。潮の匂いがうっすら混じる風が、コートの裾をめくった。


光子「ねぇ、お父さんとお母さん、どんなお願いしたと?」

優子「気になる〜。言える範囲で、ね」


優馬「よかよ。じゃあ半分だけ公開な」

指を折って数えながら、にやり。

•優馬の願い

「旅の安全、娘たちの合格と健康、笑いが絶えん家。それから——必要な“間”がちゃんと手に入るように。詰め込みすぎたら響かんけん」


美鈴「私はね——家族円満、舞台でののびのび、よく眠れる毎日。あとはご縁がやさしく続くようにって。恋も仕事も、**“ご縁の質”**がいちばんやけん」


光子「“間”と“ご縁”。お父さんとお母さんらしい」

優子「うちら、ちょっと胸の内が軽くなるやつ、効いたかも」


優馬「そいで、あんたたちは?」

光子「…私は音で人を前に進められる自分でいたいって。合格ももちろん、でも再演される作品を残せますように、って」

優子「私は場を整えられる指揮者と先生になれますように。あと——大事な人たちとのご縁が、焦らず続きますように」


美鈴が笑ってうなずく。

美鈴「上等。**“焦らず続く”**は、ここでお願いするのにぴったりやね」

優馬「願いは置いてきた。帰り道は、のびのび行こか」


四人で並んで歩き出す。

松の影がゆっくり伸びていくのを眺めながら、誰も時計を見なかった。

願いは神前に、背中は家族に。——それで、十分だった。





サンライズが来た


出雲市駅のホームに、あかりの帯がゆっくり伸びてきた。

二つの白い目が近づいて、長い影を連れて止まる。側面の行き先表示に、くっきり**「東京」**。


「……すごいね」

光子が息をのみ、優子がうなずく。

「ここは島根なのに、いきなり東京って出るだけで、日本ぜんぶが一本の線でつながっとる感じがする」


優馬が笑う。

「線路は文で、駅は句読点。今日は長い一文にのるとよ」

美鈴はマフラーを直して、「緊張は置いて、景色だけ持ち込もうね」


改札印の音、薄い紙の匂い。B寝台ツインの扉がするりと開く。

通路のカーペット、やわらかな木の壁、ふたつ並んだベッド。

向かいのツインには優馬と美鈴、こちらは光子と優子。

ドア越しに小さく手を振る。「おやすみ前に、にこ検札ね」と指先を合わせてぱちん。


ベルが鳴って、ホームがゆっくり後ろへ歩き出す。

窓はすぐ鏡になり、四人の顔が夜の中に浮かぶ。

「島根の夜と、わたしたちの顔が同じ窓に入っとる」優子。

「明日の朝は、違う匂いの風を吸うんやろね」光子。


カーテンを少しだけ残して閉める。暗い中で声は自然に小さくなる。

「東京って、遠いと思っとったのにね」

「遠いまんまでもいいし、近くてもいい。歩幅は自分で決められるけん」


ベッドに横になって、母音をひとつずつだけ転がす。

「あ——」「え——」

声の芯が夜に馴染む。

向かいの部屋から、優馬の低い笑い声と、美鈴の「おやすみ」が微かに届いた。


がたん、ごとん。

列車は日本を横書きに読み進める。

行き先表示はただの文字なのに、胸のなかではちゃんと物語になっていく。


「ねぇ」光子が囁く。「“東京”って出てても、わたしたちはわたしたちやね」

「うん。寄り道も、不安も、ぜんぶ連結。今は、眠る駅」


二人で小さく手を重ねる。

サンライズは静かに揺れて、願いも少しだけ揺れた。

——遠くと近くが、同じ窓におさまっていく。





サンライズの小さな晩餐


個室に荷を置いてひと息。テーブルを倒して、出雲市で買ったお弁当を広げる。

光子はしじみ飯の幕の内、優子は出雲そば弁当。紙コップに注いだほうじ茶がふうっと湯気を立てる。通路側の棚には、ペットボトルのミルクティーと水も待機。


「いただきます」

窓の外でホームがゆっくり後ろに流れ、やがて夜の街が途切れて、暗い田畑が続く。線路の継ぎ目がことん、ことんと一定のリズムを刻む。


「しじみ、やさしい味」

「そば、つるっといける。箸が止まらん」

二人は交互に一口ずつ交換しながら、笑う。


食後は小さな羊羹と、半分こしたバターサンド。包み紙の音がしゃりと鳴って、それもまた旅のBGMになる。甘みが喉を過ぎるころ、窓には二人の顔がうっすら映り、遠くの踏切の明かりが点になって流れていく。


「移動しながら食べるだけで、なんか特別やね」

「うん。走行音がBGMって贅沢」


向かいの個室からは、優馬と美鈴の笑い声が小さく漏れて、すぐ静かになる。

光子は箸袋をきれいに折り、優子はお手拭きを畳んで、空き容器を一つにまとめた。


「明日のこと、今は考えんでよか」

「うん。今は、この夜の揺れだけ覚えとこ」


カーテンを少しだけ残して閉める。夜の黒に鉄のリズムが溶けて、甘い余韻がじんわり残る。

小さな晩餐は終わり。心はゆるみ、列車は静かに東へ。





山の音、夜の色


列車は米子に滑り込み、短い停車ののち、闇の中へ踏み入った。

ここからは中国山地のど真ん中。窓の向こうは谷とトンネルの繰り返し。


カーブにさしかかるたび、きぃ……と車輪が線路を擦る音。

つづいてことん・ことんの継ぎ目、遠くでポォ—と短い警笛。

その全部が、一つの曲みたいに夜へ溶ける。


「このきぃって音、嫌いやない」

「わかる。曲がってる最中にしか聴けん音やもんね」


窓は半分だけカーテンを残して、山の黒と自分たちの顔を重ねる。

時々、谷を渡る鉄橋で足元の響きが変わり、トンネルに入ると音がぐっと近くなる。

警笛がまた一つ遠くへほどけて、寝台列車の旅情が胸のほうへ流れ込んだ。


「こうやって山を横断してるの、音だけでもわかるね」

「うん。明日は“音の人”として、この耳で歩こう」


毛布を肩まで引き上げる。

揺れは細かく、呼吸はゆっくり。

がたん、ことん。擦過音きしみ、警笛、そして静けさ。

夜はつづき、列車は曲がりながら、確かに前へ。





夜の揺れに身体が馴染んだころ、優子が小さくささやいた。

「ねぇ、みっちゃん、この夜行で感じたこと、帰ったら曲にしようか」

「いいねぇ。滅多に経験できんことやけんね」


二人は枕元の明かりをほんの少しだけ灯して、スマホのメモを開く。窓の外は鏡みたいに暗く、そこに自分たちの顔がうっすら重なる。列車は曲がるたびにきぃ…と鳴き、遠くでポォーと短い警笛。走行音が一定にことん・ことんを刻む。


「タイトル、仮でいいけん並べてみよ」

「《夜行ノクターン》、《線路の文法》、《サンライズ小景》…どれも捨てがたい」

「曲の景色は三つくらいでよかろ? 発車と窓、山の曲線、夜食とささやき、最後にちょっとだけ夜明け」

「うん。“きぃ”は弦かクラで細く、“ポォー”は金管で遠く、“ことん・ことん”は打楽器で細かく。でも難しくし過ぎん」

「トンネルは音出さん時間をちゃんと置く。間を音楽にするんよね」


優子が笑う。

「まずはピアノ連弾版から作ろう。吹部版は、そのあとに書き直す」

「連弾やったら、**右手が“窓の光”**で、**左手が“線路の繰り返し”**にできる」

「それ、好き」


念のため、ボイスメモを数秒だけ。きぃ/ことん/ポォー——音の形だけ拾って、すぐ止める。

「父ちゃんにも聴かせよ。『職業病』でうまく混ぜてくれるけん」

「母ちゃんには**“夜行の羊羹”**の場面、褒めてもらお」


二人は画面を閉じ、カーテンを指二本ぶんだけ残した。暗がりに、次の音の予感がにじむ。

「タイトル、最終候補は**《夜行ノクターン—サンライズに向けて》**にしとく?」

「決め打ちはせんどこ。帰り道の景色が、もう一個くれるかもしれんけん」


がたん。ことん。

夜の文法が、楽譜の余白に静かに書き込まれていく。

二人は小さく手を重ね、目を閉じた。

——この揺れが消えないうちに、音にしよう。





 親の声


通路越しに小さく「おやすみ」を交わしたあと、優馬と美鈴は明かりを落として話す。

「もう、あと一年で卒業やね。…子どもの成長って、本当に早い」美鈴。

「美香のときも思ったけど、あっという間やったな」優馬は穏やかに続ける。「進学して、たぶんタレントの仕事もしながら暮らして、やがて結婚して子どもが生まれたら、きっと自分たちの生活で忙しくなる」

少しの静けさ。

「よかよ。巣立ったら、俺らは俺らで、のんびり暮らそう。寄り道多めで」

「そうね」美鈴は笑う。「まっすぐだけじゃ、つまんないもんね」





明け方へ


カーテンの隙間が、夜の黒から灰色に薄まりはじめる。

「“東京”って表示が出とっても、わたしたちはわたしたちやね」

「うん。寄り道も、不安も、ぜんぶ連結。今は、眠る駅」

二人は指先を重ね、目を閉じた。

——祈りも湯気も海のひかりも、ぜんぶ連れていく。

まっすぐだけじゃつまんない。寄り道が、明日を整えてくれる。






寝台の明かりが落ち、車輪のリズムだけがやさしく揺れる。


美鈴「もう、みっちゃんとゆうちゃんも、あと一年で高校卒業やねぇ。あと何回、親子で旅できるっちゃろね…」

優馬「ほんとやな。美香のときも思うたばってん、子どもの成長は早かよなぁ」

優馬「進学して、たぶん仕事もしよーやろうし、やがて結婚して子が生まれたら、自分らの暮らしで忙しゅうなるっちゃろ」

美鈴「それでよかとよ。あの子らの時間は、あの子らのもんやけん」

優馬「じゃあ、巣立ったら――俺らは俺らで、のんびり暮らそーや」

美鈴「賛成。寄り道多めでいこ」

優馬「まっすぐだけじゃ、つまらんけんね」




寝台の明かりを落とすと、車輪の拍が部屋の奥に小さく灯るみたいに続いた。ことん・ことん。耳の奥で整って、心臓の鼓動とゆっくり重なる。


上段のカーテンを指二本ぶんだけ開けると、黒い山肌が窓を流れ、遠い谷からポォーと短い笛。曲がるたび、鉄の細い悲鳴が**きぃ……**と滲み、夜の輪郭だけが濃くなった。


「優ちゃん、もう寝た?」

「うん? まだ起きとーよ」


スマホの小さな地図が、闇のなかでひそやかに光る。

「今どのへんなんかねぇ?」

「根雨、出た。新見の方に向かいよる」


駅を一つ通過するたび、ホームの明かりが斜めに差して、ベンチや時刻表が一瞬だけ浮かんでは、すぐ闇の底へ沈む。まるで、夜が短い手紙を何通も投げ入れてくるようだ。読む間もなく、次の文が遠ざかる。


「電車の音ば聞きながら寝るっち、不思議やね」

「寝とる間に、ぜんぜん別の街に進むっちゃ。……なんか、夢の続きみたいやね」


毛布の縁を顎に寄せると、揺れが体の端々から撫でていく。思考はほどけ、ことばは粒になって沈む。列車は曲がりながら、それでも確かに前へ。


「明日、朝早かけん、もう寝よっか」

「うん。おやすみ、みっちゃん」

「おやすみ、優ちゃん」


カーテンをそっと閉じる。残った隙間に、最後の灯りが小さく滲み、すぐ消えた。

ことん・ことん。

同じ拍に寄り添って、二人の呼吸が静かにそろう。夜行の文はまだ続いている。けれど今はもう、読む役目を眠りに渡してよかった。





 夜を抜けて、海が目を覚ます


目が覚めたのは、丹那トンネルの気配がほどける少し前だった。

闇がわずかに薄まって、窓の黒に灰が混じる。長い息を吐くみたいにトンネルを抜けると、列車は熱海駅のホームへ静かに滑り込む。まだ早朝、温泉の街も眠りの毛布を肩まで引き寄せたまま、音だけをうっすら受けとめている。


「みっちゃん、起きとる?」

「ふぁぁ……起きた。今、熱海やろ?」


光子は大きく伸びをして、毛布の縁を整えた。

「熱海かぁ。ここも温泉で有名やもんね」


発車の合図は、声を潜めたベルひとつ。サンライズはホームの灯りを身から外すように動き出し、まだ夜が空ききらん上澄みの時間を、そっと切り分けていく。カーテンを指二本分だけ開けると、車窓の左後ろに、墨で描いたみたいな富士の稜線が遠く浮いていた。


「あ……見えるね」

「ほんとや。でっかいね……」


右手へ目を移すと、相模灘がうす橙の光をまといはじめている。

波はまだ寝返りの途中で、光はその背にそっと触れるだけ。

ふたりは言葉を飲み込んで、しばらく見入った。


「きれいやねぇ」

「息、止まるかと思った」


走行音は、さっきまでの子守歌から、目覚めの拍子へと静かに形を変える。

窓に映る自分たちの輪郭はやわらぎ、遠い灯りと重なって、知らない街の朝に少しずつ溶けていく。


「もう少しだけ、このまま見とこ」

「うん。今日のはじまり、ちゃんと目で受けときたい」


サンライズは海沿いをすべる。

夜は背中へ、光は前方へ。

ふたりのまぶたにも、ゆっくりと朝がひらいていった。





小田原を過ぎると、窓の景色は山の陰影から屋根の海へ変わった。瓦とベランダが折り重なり、朝の洗濯物が薄い風に小さく揺れる。細い川に沿って電柱が並び、通勤電車が何本もすれ違っていく。踏切の赤が点り、トラックの白い箱が角を曲がる。

家と家のすきまに、学校の校庭、神社の石段、コンビニの看板。東京の近郊という景色が、切れ目なく連なりはじめた。


「もう、東京の匂いがしとるね」

「うん。空気がせわしなってきた気がする」


走行音はことん・ことんから、密なリズムへと少しずつ早口になる。線路の脇に、朝の自転車が増えていく。窓に映る自分たちの輪郭も、人混みの気配に少しだけ細くなる。


「今日の“はじまりの合図”、覚えとる?」

「ばっちり。深呼吸して、一歩目はゆっくり」


向かいの個室から、軽くノックの音。

「そろそろ支度しよか」と美鈴の声、続いて優馬の「無理せんテンポでな」。

二人は毛布をたたみ、髪を結び直し、スカーフの端を指で整える。

窓の外には、連なる屋根、走る人、点滅する信号。街の拍が、もうこちらの胸の内側まで届いている。


「行こっか」

「行こ。寄り道もしながら」


サンライズは、屋根の海を切り分けるように進む。

夜から朝へ、静けさからざわめきへ。

列車の速度に急かされず、二人は自分たちの歩幅で、これから始まる一日を受けとめる準備をした。





編成の長さ、朝の拍


小田原を過ぎ、屋根の海の向こうから、さらに長い列車が何本も現れてはすれ違っていく。編成が途切れない。六時台だというのに、どの窓にも人の影がびっしり揺れている。


「すごいね……この長さが生活の本数なんだ」

「電車って、ほんとに“人の一日”を運んどるんやね」


二人はしばし無言で、連なる車体を見送った。耳の奥で、朝の街が細かい八分音符みたいに刻まれていく。

「この感じ、曲に入れたい。長編成=ロングトーン、すれ違い=対向のシンコペ」

「うん、帰ったらスケッチしよ」


指先がスマホへ降りる。車内灯よりも小さな光で、朝の連絡を打つ。


—光子→翼:

「起きた? 今日はテニスの試合やろ。支度早よせんと遅刻するぞ〜。Wake up!」


—優子→拓実:

「今、もうすぐ横浜着くっちゃ。お土産、楽しみに待っとってねぇ」


数秒ののち、ブルッと震える。


—翼→光子:

「起きたぜ〜。今日の試合、勝ってくるぜ」


—拓実→優子:

「お土産? 俺は優ちゃんが無事に帰ってきてくれたら、それだけでいい」


画面を見た瞬間、優子の耳まで赤くなる。

「な、何、朝から恥ずかしいこと言いよーと……拓実のバカ」

すぐにもう一通。


—拓実→優子:

「……やっぱ東京ばな奈食べたい〜」


「はいはい、甘え上手め」

優子はふふっと笑って、スタンプをひとつ返す。光子も「翼、がんばれ」の短いエールと、テニスボールの絵文字を添えた。


窓の外では、通勤電車がまた一本、滑るように通り過ぎた。長い編成が朝の空気を切り分け、誰かの一日の始点を運んでいく。

二人はスマホを伏せ、視線を前に戻す。音大の門まで、もうすこし。

——長く連なる朝の拍に、自分たちの一歩目を重ねながら。






通路に出て、隣のツインの扉をこんこん。

「父ちゃん母ちゃん、起きとる? 早よ支度せんと、あと30分で東京着くよ」

「起きとる起きとる」と優馬。

「みっちゃんと優ちゃんは、準備できとーと?」

「うん、もう降りる準備はできとーよ」


ドアが開いて、湯気みたいな朝の空気が入れ替わる。美鈴がスカーフの端を指で整えながら微笑む。

「歯みがきだけ行っといで。通路、混む前がよか」

「りょーかい」


洗面所の鏡には、うっすら寝癖と、少しだけ背筋の伸びた自分たち。水の音、紙コップのからん、外からすう—と滑るレールの響き。戻ると、窓の外にビルの稜線が増え、線路は幾筋にも分かれて合流していく。


「横浜、過ぎたね」

「うん。ホームの人の数が、ぜんぜん違う」

遠くに車両基地、入換のランプが点滅し、複々線を通勤電車が矢のように抜けていく。長い編成が朝の拍を細かく刻むのを、四人はしばらく黙って眺めた。


「最終確認。無理せんテンポで行く。質問は5つ、深掘りは2つ」と優馬。

「まずは深呼吸。声は明るくやわらかく」と美鈴。

「了解。行ってきますの顔で降りる」光子。

「寄り道OK、焦りNG」優子が親指を立てる。


到着放送が流れ、ブレーキの音がやさしく低くなる。カーテンを開けきると、複雑に絡むポイントが銀の網みたいに光っていた。やがてホームの縁が並走し、サンライズは東京駅へ静かに滑り込む。


ドアが開く。朝の匂いが一気に押し寄せ、言葉が少しだけ高くなる。

「ほんなら、行こっか」

「行こ。今日の一歩目、ゆっくりでよか」


長い編成の端から端までを背にして、四人は人の流れへ歩き出す。

夜の子守歌は終わって、今度は朝の拍子に合わせて。

寄り道も、緊張も、ぜんぶ連結したまま——扉の向こうの一日へ。


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