表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
124/218

アウトローの道を行く二人。

夕暮れの商店街。人の流れが途切れたバス停のベンチで、健太がうつろな目のまま、ビニール袋を口元に押し当てていた。指は少し震え、呼吸は浅い。


光子:「……健太だよね? こんなとこで何しとると?」

優子:「顔、真っ青やん。大丈夫な?」


健太はびくっと肩を揺らし、視線だけを二人に向ける。袋をさらに強く押し当てようとした瞬間、光子が一歩踏み出す。


光子:「それ、危ないけん。外すよ?」

優子:「ごめん、ちょっと貸して!」――バリッ。優子は袋の口をつまんで破り、空気が抜けるように広げてから、手早く遠くのゴミ箱へ放った。


健太:「返せよ…!」

光子:「返さん。命に関わるけん。」


ふらつく健太の肩を、光子が支え、優子は上着を脱いで背中にかける。風の冷たさが頬を刺した。


優子:「吸う空気、深く。ここ、外の空気いっぱいあるけん、ゆっくり吸って、吐いて。」

光子:「いま救急車、呼ぶけん。文句はあとでいくらでも聞く。」


優子はすでにスマホを耳に当てていた。

優子:「もしもし、119ですか。十代の男の子、意識はあるけど呼吸が浅くて、顔色が悪いです。場所は○○商店街のバス停前――はい、はい、目印は青い看板の――はい、動かしすぎんで見守ります。」


通話を終えると、優子はしゃがみ込み、健太と目線を合わせた。

優子:「怒っとるんじゃない。心配しとるだけ。ほんとやけん。」

光子:「健太、手、貸して。冷えとる。」


健太はしばらく黙っていたが、やがておずおずと手を差し出した。指先は冷たく湿っている。光子が握り、優子が反対の手を包む。


光子:「今日、何があったか、いまは聞かん。まずは助かろ。」

健太:「……俺なんか、どうでもよくねえ?」

優子:「どうでもよくなか。めちゃくちゃ関係ある。うちらの大事な同級生たい。」


遠くからサイレンの音。二人は小さく息をつく。

通りがかったコンビニの店長が心配そうに近づく。

店長:「救急、呼んだ?」

光子:「はい。すみません、ブランケットあります?」

店長は店から薄い毛布を持ってきて、三人で健太の肩を包む。


救急隊が到着。隊員が素早く状態を確認する。

隊員:「意識清明、呼吸浅め。念のため搬送します。」

健太:「……親、には……」

光子:「私ら、一緒に行く。連絡も一緒にする。逃げんでよか。」


ストレッチャーが用意される。翔太は一瞬、視線を彷徨わせたのち、観念したように小さくうなずいた。

優子:「大丈夫。ここからやり直せるっちゃ。うちら、最後までついとるけん。」

光子:「泣きながらでも前に進めば、それで十分たい。」


救急車の扉が閉まる直前、翔太がかすれ声で言う。

健太:「……ありがとな。」

光子・優子:「行っておいで。待っとるけん。」


サイレンが遠ざかる。破れたビニール袋の切れ端が足元で転がり、街灯に透けた。

光子はそれを拾い上げ、ぎゅっと握りつぶす。

光子:「もう二度と、これに頼らせん。」

優子:「明日、先生と保護者にも一緒に話そう。逃げ道じゃなくて、助け道をつくるっちゃ。」


二人は肩を並べて歩き出す。胸の奥で、怖さと安堵が交互に波打つ。それでも――

夕風の中、約束だけは揺るがなかった。




保護された健太と向き合う美香


健太は保護施設の面談室に座り、下を向いたまま。

光子と優子が必死に泣きながら訴えたあと、美香が静かに椅子に座り込む。


美香:「……健太くん、私ね、小さい頃……生きる意味が分からんくて、何回も“消えたい”って思ったことがあったと」


健太が顔を上げる。驚いたような、信じられないような目。


美香:「親から愛されんで、苦しくて、心も体もボロボロで……。でも、それでも、生き続けたらね、不思議と“光”に出会えたと。仲間に会えて、音楽に会えて、笑って泣ける時間に会えた」


健太:「……でも俺は、もう壊れちまってる」


美香は首を横に振り、まっすぐ見つめる。


美香:「壊れたもんは、直せばよか。ボロボロに傷ついた自分を、また抱きしめ直せばよか。大事なのは、“生き続けること”やけん」


健太の目から、静かに涙が流れる。


美香:「薬は、健太くんを救わん。むしろ全部奪っていく。でもね、生き続ければ、必ず取り戻せる。仲間も、家族も、笑顔も。……私がそうやったから、言える」


しばらく沈黙のあと、健太が震える声でつぶやく。


健太:「……ほんとに……俺にも……まだ間に合うのかな」


美香は微笑み、涙を浮かべながら答える。


美香:「間に合うよ。間に合わせよう、一緒に。あんたは、まだ生きとる。だから」





夜の公園へたどり着くまで(前章)


 最初の違和感は、夕暮れの商店街だった。

 信号待ちの向こう側で、翔太が誰かと並んで歩いていた。肩幅の広い二人の男に挟まれるようにして。笑っているはずの横顔は、どこか力が入っていて、目だけが笑っていなかった。


「……いまの、翔太やない?」

「うん。でも、あの人ら——なんか空気が違う」


 青になっても、光子と優子は渡れなかった。振り返った翔太は、二人に気づくやいなや、わざとらしいほど大きく手を振った。次の瞬間、隣の男の肩が、軽く翔太の背を押す。そのまま三人は曲がり角の影に消えた。



 その日から、既読が付くのに返信は来ない。

 やっと繋がった通話の向こうで、翔太の声は極端に短い。


《今バイト。あとで》

 背後で誰かが言う。「時間、守れよ」「新人はまず信用からだ」。

 通話はそこで切れた。


「バイトっちゃバイトやろけど……“信用”って言い方、なんか引っかかる」

「うちも。仕事っぽく聞こえんのよね」



 数日後。

 公園脇のコンビニで、レジを終えた翔太が出口へ向かう。首元で金のネックレスが光った。前は付けてなかったはずの、派手で重そうなやつ。外にいた二人組が、ガラス越しに顎で合図する。片方の男の袖口から、黒いインクがちらりと覗いた。


「……目、合ったばってん、スルーされた」

「ね、香水もキツかし、タバコの匂いもしとる。前は吸わんやったよね……」


 翔太は二人組と短く言葉を交わし、見られたくないものを隠すみたいに、上着の内ポケットを押さえた。白い封筒の角が、ほんの一瞬だけのぞく。



 夜。

 グループのメッセージに、ぽつりと翔太から位置情報が落ちた——わけではない。

 代わりに、共通の友人が送った写真に、偶然翔太が写り込んでいた。線路沿いの裏通り、シャッターの降りた古い倉庫の前。時計は22:18。場所は、川沿いの大きな公園の近く。


「——行こっか」

「うん。けど、無茶はせん。まずは見守る。危なかったら大人呼ぶ」


 二人は互いの現在地共有をオンにし、美香にも「散歩しよる」とだけ連絡を入れた。返信はすぐに来た。《位置、見える。明るい道だけ通って。何かあったら電話》。



 裏通りは、昼間より細く見えた。

 角を曲がるごとに、低い声がどこかで途切れ途切れに飛ぶ。


「……今夜で“顔”作っとけ」「入ったからには、逃げ道は——」

 残りは風にちぎれて聞こえない。


 倉庫のシャッター脇に、人影が三つ。翔太が、端に立っている。誰かが封筒を指先で弾き、「重さは嘘をつかない」と笑った。翔太は頷いたが、喉仏が大きく上下した。


「——あれは、よくない」

「うん。近づきすぎたらあかん。ここから目を離さんで、引くときは引く」


 やがて三人は解散した。二人の男は車に乗って去り、翔太はひとり、川沿いの公園へ向かう。歩幅は一定のようで、どこかふらついていた。


「ついて行く?」

「行く。けど、距離は保つ。街灯の下だけ通ろ」


 川べりの風は冷たかった。公園の入り口で、翔太はズボンのポケットを探り、箱から一本、煙草を抜いた。火がつく。白い煙が、橋の灯りに溶ける。


 その瞬間、光子の胸に“確信”が落ちた。

 前と同じ笑い方で笑えていない。目元の疲れと、ポケットを庇う仕草。誰かに教え込まれた合図、重すぎる沈黙。——翔太は、よくないものに絡め取られつつある。


「優子」

「……わかっとる。いま、引いたら、もっと遠くへ行ってしまう」


 二人は互いにうなずいた。まずは、逃げ道を塞がない距離まで近づく。美香へ短く送る。《公園に着いた。川沿い。翔太一人。話す。》

 既読がつき、すぐ返る。《向かう。五分》。

 その返信を見届けてから、光子と優子は灯りの輪へ歩み出た。


 ——そして、ここからが、あの夜の会話だ。


翔太は金のネックレスを下げ、夜の公園で煙草をふかしていた。

どこか虚ろな目をして、無理に強がって笑っている。




夜の公園、青年・翔太との対話(改稿+つづき)


 街灯の光が芝生に円を落としていた。秋風がベンチの背をくぐり抜けるたび、金のネックレスが微かに鳴る。翔太は暗がりの端で煙草をふかし、白い煙だけがやけに軽く空へほどけていった。目は笑っているようで、どこにも焦点を結んでいない。


「結局な、“力”がないと食ってけねえんだよ。真面目に働いたって、バカみたいじゃん」


 舌で笑う声は、少し掠れていた。


「……翔太。そんな組織におったら、いつかほんとに命まで取られるよ」


 光子が言う。声はやわらかく、けれど退路を塞がない強さがあった。


「はっ、俺の命なんか安いんだよ。どうなったってかまわねえ」


 言葉は突き放していたが、手がわずかに震えた。火の先が揺れ、灰が夜露に落ちてじゅっと音を立てる。


 そして、抑えきれずに優子が叫んだ。


「かまわんわけなか! あんたがおらんくなったら、泣く人が必ずおるっちゃ! 私らも、翔太がこんな道進むの、見とられん!」


「……なんでお前ら、そんな必死に泣いてんだよ」


「私らはみんなで笑って生きたいんよ! 翔太もやけん! あんたが闇に飲まれてくなんて、絶対いやや!」


 光子の言葉に、翔太の肩が一度だけ大きく揺れた。煙草が指から抜け落ち、地面で転がる。


 そこへ、美香が一歩、灯りの輪に入る。夜気の冷たさを吸いこんだ声が、静かに響いた。


「翔太くん……“力”ってね、人を殴る強さや、金で縛ることやなかと。ほんとの力は、逃げ出したい時に踏ん張る力。人に優しくできる力。信じてくれる人を裏切らん力やと」


「……でも、俺はもう汚れちまった」


「なら、一緒に洗えばいい。過去は消せんけど、未来は変えられるけん。……私も、傷だらけの過去がある。でも、だからこそ“やり直せる”って言えると」


 言葉が終わる前に、ぽたり、と翔太の頬から何かが落ちた。長い間せき止めていた水が、ようやくひび割れから溢れたみたいに、涙が止まらなくなる。


「……俺……やり直していいのかな……」


 次の瞬間、光子と優子が左右からその肩を抱いた。肩口が震えるたび、二人の手のひらは強く、しかし痛くない力で返事をする。


「いいとよ! 翔太、やり直そ!」


 翔太はベンチの足もとに膝をついた。嗚咽は夜の静けさを破ったが、誰もそれを咎めなかった。むしろ、その音が「生きたい」と告げているように思えた。


 やがて、泣き声が呼吸に戻る。顔を上げた翔太は、ポケットからネックレスを外して見つめた。掌にのせると、金の鎖は思ったより冷たく、重かった。


「これ……捨てるわけにはいかねえ。けど、もう“俺の印”にはしない」


 彼はゆっくりとネックレスを握り込み、上着の内ポケットにしまい直した。決別は大げさな仕草より、むしろ静かな所作の中に宿る。


「まずは今夜、携帯の番号、変える。明日、働けるとこ探す。……でも、怖い。正直、めちゃくちゃ怖ぇ」


 正直さは、夜の空気よりも澄んでいた。


「怖かとが普通たい。怖かけん、ちゃんと準備すると」


 美香は自販機に向かい、温かい缶ココアを三つ買って戻る。プルタブが開く音が、ささやかな儀式の合図になった。湯気に包まれて、手のひらが少しずつ温まっていく。


「計画、三つ決めようか」


 美香が指を三本立てる。光子と優子も、真似して指を立てた。


「一つ。今夜は安全な場所に帰る。途中で誰から連絡が来ても、出らんでよか。私らが送ってく」


「うん……頼む」


「二つ。明日、抜ける意思を“言葉”で残す。電話やと揺らぐけん、メッセージで短く。『もうやめます。関わりません』——以上、言い訳なし。証拠にもなるけん」


「……わかった」


「三つ。明日の午後、大人の助けに繋がる。うちらの知り合いで、事情聴取や身の安全の段取りに強い人がおる。会って、次の手順を決めよ」


 光子が缶を掲げる。


「四つめ——これは私らからの“勝手なお節介”やけど……働くとこ、最初の一週間はうちが紹介するけん。イベントの設営や片付けばってん、真面目にやってくれたら、次も紹介できる」


「ほんまは三つって言いよったのに、増えとるやん……」


 翔太の口元に、泣き笑いがこぼれた。


「いや、サービス問題やけん」


 優子も缶をちょいと掲げて、ふっと笑う。笑いは夜気の硬さをほぐす。大げさではないけれど、確かな緩みだった。


 公園の外れで、新聞配達の自転車が通り過ぎていく。夜はゆっくり裏返りはじめ、東の方角がわずかに薄くなった。


「……送ってくれ」


 四人はベンチを離れた。落ちた煙草の火は、光子が足先で確かめてから、水道の蛇口で完全に消した。小さなことを丁寧に片づけるのは、やり直しの最初の練習みたいなものだ。


 公園を出る道すがら、翔太のスマホが震えた。画面には、見覚えのある短い名前。彼は立ち止まり、深呼吸を一つ。通知音を切り、電源を落とす。


「——切った」


「ようやった。次は、つけんでよか」


 歩幅が、少しだけ揃う。横断歩道の手前で信号が青になるのを待ちながら、四人は缶の底を合わせた。ちいさな音が、ちいさな誓いの音になった。


 角を曲がると、コンビニの明かりが見える。そこまで送ったらタクシーを拾おう、と美香が提案する。店先のガラスに映る自分たちは、赤い目をしているのに、不思議と顔つきは前を向いていた。


「なあ」


 コンビニの光の下で、翔太がぽつりと言う。


「明日、もし俺が怖くなって、逃げたくなったら——」


「そん時は電話して。怖かって言えばよか。逃げたくなるのは、生きとる証拠たい」


 優子の返事に、翔太は小さく頷いた。


 タクシーのドアが開き、冷たいビニールの座面が夜を切り分ける。乗り込む前、翔太は振り返って、ぎこちなく手を振った。


「……ありがとう」


「礼はいらん。明日また会お」


「うん、会おう」


 タクシーが走り出す。リアウィンドウの向こうで、三人が小さくなる。やがて見えなくなっても、胸の内側には確かな重みが残った。さっきまで“重荷”だったものとは違う——これは、約束の重みだ。


 夜がほどけ、朝がほどける。その境目を走る車内で、翔太は内ポケットのネックレスに触れた。指先に伝わる冷たさは、もう“昔の印”ではない。返すべき場所へ返す時が来たら、きちんと返そう。そう心の中で決める。


 やり直しは派手な号砲では始まらない。最初の一歩は、静かで、たいてい震えている。それでも——震えた足でも進める道が、たしかにある。


 東の空が、ほんのわずかに明るんだ。新しい一日が、ゆっくりとこちらへ向かっている。





健太(面会謝絶の病室)


 面会謝絶の札が、ドアの小窓で白く光っていた。

 点滴の滴下音が、雨粒みたいに一定の間隔で耳に刺さる。汗が冷えて、布団が背中に張り付く。体の奥から、骨がざわつくような疼きが波になって寄せては返し、呼吸は浅く短い。時計を見るたび、秒針が遅くなる気がして、目を閉じてもまぶたの裏がざわざわして眠りが遠い。


 ノック。

 看護師がそっと入ってきた。落ち着いた声と、手首の脈を測る指先の温度。


「健太さん、体温は少し下がりました。水分は、こまめにね。……それと、これ」


 薄い茶封筒。宛名の字は、見覚えのある丸いクセ。


「お友だちから。香り付きじゃないから、大丈夫。無理せず、読めるときに」


 彼女はナースコールの位置を確かめ、軽く会釈して出ていく。扉が閉まる音は小さいのに、そのあとの静けさはやっぱり大きかった。


 封を切る。便箋が二枚。端っこに、小さな落書き——笑った顔の“C・Vキャンバス・ボランチ※”……じゃなくて、単なるほっぺくるんのニコちゃんだ。力が抜けて、少しだけ肩のこわばりがほぐれる。



手紙


健太へ(光子)

いま、ひとりで闘いよるやろ? でもね、ひとりやないけん。

うちらは病室におれんばってん、ここから「よし、いま一呼吸いけた!」って数えよる。

10秒耐えたら、勝ち。もう10秒いけたら、連勝。

いまは“でかい明日”は見んでよか。ちいさな勝ちを積み重ねよ。

痛かったら「痛い」って言うてよか。ナースコール押してよか。強がらんでよか。

ぜったい、抜けられる。健太の体は、生き戻りよる最中やけん。

(退院できたら、いちばん前の爆笑席、取っとくけん。両隣、うちらでがっちり固める!)


健太へ(優子)

まずは、水ちびちび飲んで、目の前の1分いっしょに数えよ。いち、に、さん……

きつくなったら、想像してみて。夕方の河原の風。あったろ? あの匂い。

うちら、あの風の中でまた他愛ない話するっちゃん。「今日の空、なんかラーメンの湯気みたいやね」とか言うやつ。

健太の“いま”は、ちゃんと未来につながっとる。切れてない。

面会できんでごめん。けど、心は毎日ガン見しよるけん、覚悟しとき。

やり直しは、恥ずかしくない。むしろカッコよか。

(退院祝いの乾杯は、ホットココアでやるけん! やけど注意!)



 文字は、ところどころ跳ねていて、勢いのままに書かれている。行間の呼吸が、耳の奥でほんとうに聞こえる気がした。便箋からは何の香りもしないのに、河原の風の匂いだけが、はっきり鼻の奥に蘇る。


 胸の奥で、つかんでいた拳がほどけた。勝ち負けで言えば、まだ負けている感じがする。吐き気も、震えも、焦りも残っている。それでも——孤独だけが、少し薄くなった。


 健太は点滴スタンドの根元に手紙を立てかけた。

「そこだと滑っちゃうよ」と、さっきの看護師が戻ってきて、ベッド脇の掲示板に押しピンで留めてくれる。


「いい言葉、もらったね」


「……はい」


 声は掠れていたが、ちゃんと自分の声だった。

 時計の秒針がまた動き出す。いち、に、さん——優子の字が脳内で数えるのに合わせ、健太もゆっくり口の中で数える。


 十まで行けた。

 次は、もう十。


 汗がまた滲む。手はまだ震える。だけど、その震えの向こう側に、ほんの小さな「連勝」の音がした気がした。


 健太はナースコールの位置を確かめ、枕を浅く整え直す。

 やり直しは派手に始まらない。最初の一歩は、静かで、たいてい震えている。

 それでも——震えたままでも、一歩は一歩だ。


 掲示板の手紙が、空調の風にふわりと揺れた。

 「退院祝い、ホットココア」。その行を見て、口元がほんの少しだけ上がる。


 いち、に、さん。

 次の十秒が、また始まった。




面会謝絶の病室(看護師の声)


 点滴の滴下音と、心拍のピッ…ピッ…が、夜の静けさを等間隔に区切っていた。

 健太はまぶたの裏で数字を数える。いち、に、さん…… 手紙の行間が、うっすら背中を押してくる。


 コン、コン。

 扉が開いて、あの看護師が顔をのぞかせた。さっき手紙を留めてくれた人だ。


「健太さん、ちょっとだけ様子見にきたよ。水分は取れとるね。……それと」


 彼女はベッド脇の丸椅子に腰かけ、声を落とした。


「なんか辛いこととか、悲しいこととかあったんじゃない? 誰にも言わんけん、吐き出してみたら? 話すことで、楽になることもあるけん。」


 言い切ってから、急かさない沈黙を置く。

 健太は天井の角を見つめ、喉がからんだ音を一度だけ鳴らして、それから少しずつ言葉をほどいた。


「……最初は、断れんやっただけです。『一本だけで落ち着く』って言われて。

 寝られん夜が続いて、次の日、笑うのに力が要って……気づいたら、“ないと不安”になってて。

 母ちゃんに、バレたくなかった。情けなくて。誰にも“助けて”って言えんかったです」


 看護師はうなずく。「うん、うん」とだけ、等間隔に。目をそらさない。


「恥ずかしかことやないよ。健太さんが弱いんやなくて、今は体も心も疲れとるだけ。脳みそが“非常ベル”鳴らしよる最中たい。

 非常ベルが鳴っとる時は、『助けて』って言うのが正解。ここは、言っていい場所よ」


 健太は、枕元の手紙に目をやる。

 ちいさな勝ちを積み重ねよ。文字が、胸の内側でまだ光っている。


「……怖いです。抜けても、また欲しくなること考えたら。怖い」


「怖いって言えたの、今日いちばんの勝ちやね」

 看護師はにっこりしてから、手のひらをグーにして見せた。「こうやって、ぎゅーって握って、すーって開く。手だけでもええけん、いま一緒にやってみよ。十秒」


 二人で、音もなく**いち、に、さん……**と数える。

 握る→開く、握る→開く。波が来て、去っていくのを、数で渡っていく。


「……十、いけた」

「連勝やね。わたし、今夜は“勝ち数係”になるけん。負けそうになったら、すぐ呼んで」


 彼女はナースコールを指差し、もう一つ、胸ポケットから小さなメモ帳を出した。表紙にマジックで、さらさらと書く。


吐き出しノート

・怖かったこと

・助かったこと(ちいさくてOK)

・明日の一個だけやること


「言葉に出すのがしんどい時は、ここに書こ。箇条書きでよか。わたし以外、読まんけん」


 健太はうなずき、震える指でボールペンを受け取る。しばらく迷って、ゆっくりと書き始めた。


・怖かったこと:夜になると、また欲しくなること

・助かったこと:手紙。十秒いけた。看護師さんが「勝ち」って言ってくれた

・明日やること:朝、深呼吸三回/水を一口ずつ/母ちゃんに「治るまで会わん」でなく「治すためにがんばる」って書く


 書き終えると、呼吸が少し深くなる。

 看護師がそっと親指を立てた。


「ばっちり。……あ、そうそう。手紙に“退院祝いホットココア”って書いとったね」

「はい」

「病院のはちょっと薄いけん、味の濃いやつは退院まで取っとこ。そのかわり、今夜は白湯で乾杯しよ。十秒勝ちの記念」


 紙コップが二つ、かすかに触れて小さな音が鳴る。

 健太は、口の中でまたゆっくりと数える。いち、に、さん……


「健太さん、わたし、もう一時間おきに覗きに来るけん。合間もナースコール押してよかよ。押した回数=勝ち数ってことにしよ」


「……はい。押します。押します、ちゃんと」


 言いながら、胸のどこかで固まっていた輪っかが、少しだけゆるんだ。

 看護師が立ち上がる。扉に手をかけて、もう一度だけこちらを見る。


「ここは“非常ベル”鳴らしていい場所。鳴らし方、もう覚えたね」


 扉が閉まる。

 健太は「吐き出しノート」を枕元に置き、掲示板の手紙を見上げる。ペン先がまだ指に残す温度と、白湯のぬるい温度。

 どちらも、生き戻るほうへ傾く温度だ。


 いち、に、さん。

 次の十秒が、また始まる。




面会謝絶の病室(波の名前は“禁断”)


 ——来た。

 午前3時すぎ。空調の風が変わる気配とほぼ同時に、体の奥でスイッチが入る。

 汗が一気に噴き出して、寒気が背骨を走る。胃がきゅっと結ばれて、指先がこわばる。膝の裏から太腿へ、電気の棘みたいな疼きが上がってくる。頭の中で「一本だけ」の声が、昔の友だちみたいな顔で近づいてくる。


 健太は、枕元の「吐き出しノート」を開いた。震える手で、太い字を書く。


・波が来た(3:07)。名まえ:禁断

・すること:十秒、握って、開く/白湯一口/ナースコールOK


 ボールペンを置く。

 いち、に、さん……

 掌をぎゅっと握る。開く。握る。開く。

 喉の奥が引きつって、呼吸が荒れる。秒針の音がやけに大きい。額の汗が目に落ち、滲んだ視界の中で掲示板の手紙だけがはっきり見えた。


 ——もう、あの二人の涙は見たくない。


 病室の白に、あの夜の公園が重なる。

 いつもは人を爆笑の渦に巻き込む二人が、こらえきれずに泣いていた。

 光子の震える声、優子のまっすぐな叫び。あの涙は、誰かを責めるためじゃなく、自分を信じて待つための涙だった。


 「非常ベル」を押す。ピンポンが一回。

 扉が開いて、看護師が入ってくる。息を合わせるみたいに、彼女も手を握って、開いた。


「来たね、波。名前つけられたの、えらい。——十秒、いこう」


 二人で数える。いち、に、さん……

 渇きが口の中で増幅する。看護師が白湯を一口渡す。のどに落ちるぬるさが、荒れていた場所を静かに撫でる。


「……七、はち、きゅう、じゅう」


「連勝。」

 看護師が小さく笑って、ベッド脇のメモに「✔︎」を一つ足した。


 すぐ次の波が来る。

 今度は「立ち上がって暴れたい衝動」が足を叩く。健太はベッドの柵を握り、肩と首の力を抜く。脳裏に、光子と優子の漫才の一節が勝手に再生されはじめる——“黒カビvsピンクカビの口ゲンカ”。病室で笑うわけにはいかないのに、口の端が少しだけ上がった。


 ——あいつらの笑いは、守りたい。

 ——もう二度と、あの涙を見せたくない。


 看護師が、低い声でテンポを刻む。

「**三呼吸だけ未来のこと考えよ。**退院の日、ホットココアの湯気。片方は猫舌でフーフー言うて、もう片方は熱いまま飲んで『あっつ!』ってなる映像。……三呼吸、終わったら、目の前の十秒に戻る」


 映像が浮かぶ。湯気が立ちのぼるココア、笑ってツッコむ声。

 いち、に、さん……

 握る→開く。呼吸→数える。

 波は弱くならない。けれど、渡る方法が増えた。


 医師の指示で頓服が一つ追加される。飲み込む。五分が、永遠みたいに長い。

 その間も、健太はノートに書く。


・怖かったこと:足がうずいて、立ち上がりたくなる

・助かったこと:白湯/数える声/あの涙を思い出せた

・次の十秒の理由:笑いを守る


 時計は3:29。

 看護師が「勝ち数」を指差す。小さな✔︎が並び、線でつながれて一本の道みたいになってきた。


「健太さん、いまのあなたの強さは“がまん強さ”やなくて、助けを呼べる強さやけんね」


 うなずく。喉が痛い。でも、うなずける。

 次の波。押す。来る。押す。来る。

 ✔︎が増える。連勝の音が、ほんの小さく胸の奥で鳴る。


 ——もう、あの二人の涙は見たくない。

 それが、今夜の旗になった。折れそうになるたび、旗を見上げる。


 窓の外、東がわずかに薄くなる頃、汗はまだ出ているのに、呼吸だけが少し整っていた。看護師がタオルを替え、肩を叩く。


「夜のいちばんきつい坂、越えたね。……次は“朝の十秒”や」


 健太は、手紙に視線を移す。光子の「ちいさな勝ち」、優子の「いち、に、さん」。

 掲示板の紙が、空調の風でふわりと揺れる。


 いち、に、さん。

 連勝の線は、まだ短い。けれどたしかに続いている。

 そして、その先にある笑い声を思い浮かべると、今度は自分の目が、少しだけ熱くなった。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ